自然(じねん)さん タイ上座部、プッタタート比丘の教え 2006,10,29,

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曽我から 自然さんへ 「アンケートご協力御礼」 2006,10,29,

拝啓

 アンケートにご協力いただきありがとうございます。お時間など許せば、メールでもご意見お聞かせいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

 プロの方に気安くお願いしてはいけないとは思いつつ、ブッダダーサ比丘(プッタタート比丘)の言葉、英訳からの紹介をしておりますが、タイ語のオリジナルから見て訂正すべき箇所などご指摘頂ければ、大変ありがたく思います。それよりも、もし自然さんが、タイ語オリジナルからブッダダーサ比丘の教えのいくつかを翻訳、紹介していただければ、もっと嬉しいです。

 今後ともよろしくお願い申し上げます。
                          敬具
自然様
      2006,10,29,            曽我逸郎
 

自然さんから  2006,10,30,

曽我逸郎様

メールありがとうございました。
実はプッタータートの著書や法話の拙訳はいくつかあります。プッタタート以外の人のも含めて、タイ仏教の訳本は10冊以上になります。
原稿をコピーして欲しい人に配って(最近は有料で)いました。
タイ語が理解でき日本語を書くことができる身として、もっと人類の役に立つ活動があるはずだと思いながらも、修行団体にも属していないし、パソコンを駆使する能力もないので、ただいい本に出合うたび訳すことしかしていませんでした。

ですから曽我さんのサイトを見たときは嬉しかったです。

英訳を和訳していたのですか。たいへんですね。とくに仏教は英語にない語彙や表現が多いですから。直に訳しても対応する日本語がなくて苦労することがあります。でも日本は文化として仏教用語が根付いているので助かります。

私は翻訳をするにあたって心がけていることがあります。すべて自分の言葉で表現することです。ですから、辞書から借りてきたばかりで、うまく使いこなせない言葉は使いません。具体的には中学生か高校生が読める程度、を心がけています。
ブッダは一冊の書物も著わされず、直接説かれました。ですから本にする場合でもできる限り話し言葉に近いほうが読む人が理解しやすいと思います。きっとブッダも易しい簡単な言葉で説かれたのではないかと思います。

私は翻訳家といっても無名で、刊行された訳本は1冊しかありません。
賃仕事の翻訳も今はほとんどないので、職業は無職で、翻訳は趣味です。
ですからプロの方などとおっしゃらず何かあったらお気軽にお声をかけてください。有料でないとできない仕事でしたら事前にそう申し上げますから。

タイ語の翻訳家として申し上げたいことは、プッタタートの名前です。
プッダもタート確かに元はパーリー語ですが、名前の場合は語源がどうあれ、本人が名乗り、周りが呼び慣わしている音を尊重するべきだと考えます。私は****(お名前は伏せます。曽我)ですが、中国読みや韓国読みにされても困惑します。今世界は現地の発音を尊重するようになりつつあり、日本でも韓国人や中国人の名を現地読みするようになりました。
「こだわる」という考え方からすれば、どう呼んだって構わないことですが。

とりあえず今日はこの辺にしておきます。こちらこそよろしくお願いします。

自然

自然さんから再び 「気づいたことを」 2006,11,2,

曽我逸郎さま

意見や批評をということですが、私は表現が直裁で上手に言えないので、親しくない方に意見を申し上げるのはとてもためらわれるのですが、「協力」という意味でも意見を申し上げるべきだと思い、気づいたことを記します。

小論文、人間読本「ハンドブック・・・」の紹介の中で、たとえば205、206、207の辺りの、サマーティ(タイ語読みですが)とは体を石のように固くして心を鎮めることではないという件に、「唯一下線(英文では大文字)で強調された部分である」とお書きになっています。
その部分の原文を見ますと、「サマーティ」と「体を石のように固くし心を鎮めることではない」と「カママニヨー(働く準備が整っている状態という意味)」と「ヴィパッサナーの直接の障害といえる」が太い文字になっています。
しかしこうした太い文字は全文のいたるところにあります。253などは全項が太い文字になっています。ですから「唯一」ではないことです。

これについてはプッタタート本人が強調していると見るのは疑問があります。本書は「法話」ではなく書き下ろしのようですが、原稿を書くときある語句や文章を強調するだろうかという点です。師が書いた原稿を「仏教復興機構」の人たちが理解しやすくなるよう手を入れたと前書きにあるので、そのときにこうした強調がされたのではないかと思うのです。
かく言う私も初めに訳したとき、その部分に下線を引きたいように感じましたが、そう思う自分に強い自我を意識しました。
自我の薄い人、あるいは自我のない人は、強調という意識がないので、周辺のまだ自我のある人たちの仕事ではないかと。

もうひとつ「どの指が月を指しているのか」という問題ですが、それにはそれぞれの指が指している月が本物かどうかを検証すること、つまりカーラマスートラのアドバイスに従って熟慮検討し、良いと思ったらとりあえず実践してみて、本当に苦しみが減っていくようなら本気で実践し、真実が証明されたらその月を本物と見なすのが早道です。月を指す指を研究するのは時間の無駄ではないでしょうか。
検証の焦点は、実践したとき苦が少しずつ減っていき、いずれは無になるという確信が得られるかという点です。
三学を正しく実践して苦が減らない人がいたら教えてください。

人間読本の数行ごとの文章にふられた番号ですが、師が他の機会に「仏教の経典はイスラム教やキリスト教の教典と比べても膨大過ぎる。仏教も教えをひとつに纏めた、簡潔でハンディなキリスト教の聖書のような本を作るべきだ」言っておられました。ただその発言は本書刊行のずっと後でしたが、この本を著わしたときもそれを多少意識され、聖書の読みやすさ、後で取り上げる時の便宜などを考慮して番号をふられたのだと思います。

とりあえず今日はこの辺で失礼します。

自然

 

曽我から 自然さんへ  2006,11,3,

拝啓

 たくさんのご指摘、大変ありがとうございます。HPに反映させていただくとともに、頂いたメールも掲載させていただこうと思います。

 若干のコメントを。

> 自我の薄い人、あるいは自我のない人は、強調という意識がないので、周辺のまだ自我のある人たちの仕事ではないかと。
 自我というのは我執の意味かと思いますが、我執が薄くても、慈悲の気持ちから学習者の理解を助けてやるためにキィとなる箇所を強調するってこともあるのではないかな、とも思いました。しかし、これは原文に当たっておられる石井さんの方が的確に掴んでおられるでしょうね。
> 良いと思ったらとりあえず実践してみて、本当に苦しみが減っていくようなら本気で実践し、真実が証明されたらその月を本物と見なすのが早道です。月を指す指を研究するのは時間の無駄ではないでしょうか。
私が特に気にしているのは、釈尊の教えではないのに「仏教」だと詐称し、修行と体験ばかりを強調する「月」です。実践して真実が証明されなくても、「修行が足りないからだ」と一喝され、深みに引きずり込まれて抜け出せなくなる。「月」の中には、紫の光で虫を誘い殺すそういう<殺虫灯>のような危険な団体がたくさんあると思います。「とりあえずなんでも試してみれば」と気安くお勧めするわけには行きません。

 それはさておき、実は、ひとつ教えていただきたいことがあるのですが・・・。
 HPの小論《タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘》で「Handbook for Mankind」を部分訳しましたが、その【 7, 般若と識(分析知) 】において、以下のように訳しました。

>「般若によって知られる対象は、(般若に)吸収される。それ(対象)は透徹され真正面から向き合われる。心は、(対象の)吟味・調査をとおして完全にそれ(般若)に吸収され、揺るぎない状態であるので、理性的ではないが純にして心底からのそのもの(執着の対象)に対する目覚めと、それ(対象)への感情的関わりの完全な欠如(捨)が起こる。」
 この部分、コメントにも書きましたが、何が何に吸収されるのか、it が何をさすのか、自分でも判然としていません。タイ語のオリジナルではどうなっているのでしょうか? 我侭を申しますが、ご負担にならなければ教えていただければ大変助かります。

                                敬具
自然様       2006,11,3,                    曽我逸郎
 

自然さんから 2006,11,5,

曽我逸郎様

「自我」と言ったのは我執という意味ではありません。俗人が考えたり発言したり行動する主体となるもの、英語なら「 I 」そのもののことです。
厳密にいうと、英知でなく欲望や煩悩でもって「考える」「言う」「行う」という行為を起こす主体のことです。プッタタートの法話を読む限り、欲望や煩悩でもって発言された言葉や文章に出合ったことがありません。

曽我さんがおっしゃる「指」とは、この場合プッタタートのいう「腫瘍」や仏教の外皮、または包装紙のことですね。
私が引用したカーラマスートラの部分が短すぎたようで誤解の原因になるといけないので、もう少し付け加えます。

ブッダが説法をしようとすると、カーラマ族の人たちは既にいろんな信仰をもっているので、これ以上どう信仰したらいいのかと言ったことに対するブッダの答えが次の10項です。
1.みんなで言い伝えて来たからと言って信じてはいけない。
2.長く伝承してきたからといって信じてはいけない。
3.うわさになっているからといって信じてはいけない。
4.テキスト(本)にあるからといって信じてはいけない。
5.理論に合っているからといって信じてはいえけない。
6.哲学に合っているからといって信じてはいけない。
7.常識だといって信じてはいけない。
8.自分の考えに合っているからといって信じてはいけない。
9.信頼できそうな人の話だからといって信じてはいけない。
10.自分の師(僧)が言ったからといって信じてはいけない。
 しかし何も信じるなと言っているのではなく、初めは良く話を聞いて、それからこの10項で批判検討し、良いようなら少し実践してみて、それで苦が減少するようなら本気で実践し、本当に苦しみが無くなったら、そのとき初めて信じなさいと続きます。
ブッダは師である自分の言葉でもすぐに信じてはいけないと弟子たちに教えています。
ですから「師である自分の教えに従いなさい」という指導者は、ブッダの教えを正しく理解、実践、伝承していないことになります。

これもあまりに短い引用なので間違った理解を招くおそれがあります。
もし掲載なさるのであればもう少し詳しい説明を附加させてください。
間違って伝えること、間違って理解することは「腫瘍」を産む大きな原因のひとつですから。
初めての結集では500人の阿羅漢が全員一致で認めたことだけを成文化しました。

ランチュアンさんは法話の印刷許可を伺った時、翻訳の誤りがないか一字一句原稿の確認された後許可してくださいました。
仏教を伝える人は仏教を歪めないようお互いに慎重にいたしましょう。

プッタタ−トの本に関してお尋ねの件、喜んでお答えしたいのですが、どの部分か分かりません。
文章には数行ごとに番号がついていますが、何番でしょうか。
もし英語版に番号がふってない場合、全部で9章に分かれていますが何章めの初めか、中間か、終わりか見当を教えてください。パンヤーという語句のでてくる場所を拾い読みしているのですが、それらしい部分に探しいたらないので。

私の訳した原稿が照合に役立つならお送りします。あまりに破天荒な訳で驚かれるかもしれませんが。
いずれにしてもお尋ねの部分の原文を確認してみますから、何章めのどの辺か教えてください。

それではまた。

自然

自然さんから再び 「見つかりました」 2006,11,5,

曽我逸郎様

お尋ねの個所が分かりました。
5章めの「実践の段階、三学」の140番です。
念のため140から142までの全文を写しします。

「理解」と「明確に見る」という言葉は、仏法では同義ではありません。「理解」とは道理に従って考えたり、いろんな原因から推測するという過程をとおりますが、「明確に見る」はもっと意味が深く、自分自身経験し身に染みていることでなければなりません。あるものについて継続して注目、観察、検討評価した結果、そのものに惑わされることに心底飽き飽きすることであって、原因に基づいて考えたことではありません。だから仏教でいう智慧とは、現代の教育で行われているような、理論に基づいた知恵とは異なるのです。 (140)

仏教でいう智慧とは、何らかの方法で実際に体験し、実感として明確に見え、明確に知ったことであり、心に深く刻まれて薄れることのないものでなければなりません。智慧学にしたがって検討するには、今までの自分の人生で経験したことを素材とし、少なくとも自分の心に衝撃を与え、不確実で苦で実体のないものに対して真実興味を失わせるに十分な、重みのあることでなければなりません。 (141)

無常、苦、無我をいくら理論的に研究しても、それはただの理解にすぎません。心に衝撃をうけることもないし、俗世のことに飽き飽きすることもありません。飽き飽きするという心境は、それまで惑溺していたものへの欲望が緩むこと。すなわち「明確に見える」ということを良く理解してください。明確に見えれば必ず倦怠感が生じ、明確に見える状態に止まることはないと仏教では明言しています。明確に見えると同時に倦怠感が生じ、欲望が減少していきます。 (142)

範囲は以上で足りるでしょうか。141の初めの文に英語で(魂の経験)という言葉が挿入されていますが、拙訳では重複するので省きました。

このようなご質問でしたらいつでも喜んでお答えしますので、遠慮無くお聞きください。
当方は忙しくも暇でもない、必用な仕事がいつでもできる状態(カママニヨーですね。)にあります。
それではまた。

自然

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