階空さん 「「悟る」とは何か特別な宗教体験をすることか?」 2006,10,22,

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曽我逸郎 様

今回も、どうしても合点がいかないものについて書いてみます。

「悟る」とは何か特別な宗教体験をすることだ、というようなことを聞きますが、これはいったいどういう体験の事をいうのでしょうか。
また、「悟り」とは、言葉にして言い表せるものではないともいい、悟れた人にだけ分かるものだ、とも言われています。

もしそうだとすると、「悟り」とは、何かのキッカケで偶然に、霊的に何かを感じることだ、というようにも受け取れます。
ということは、超自然的な体験(そのような体験が我々にもできるものなのだろうか?)のことをいうようであり、これは要するに何とも神秘的で、それ故に得体が知れないという事でもあります。
そのようなものは普通の人間が生活して行く上において、さして意味あるものとは言い難く、何の役にも立たないものである、とさえ思えるのです。

いずれにしても、このような掴みどころがない、曖昧なものを、釈尊が教えとして説いておられるとは思えないのですが・・・・・・・・。

曽我様は、無常=無我=縁起こそ釈尊の教えだと想定し・・・・、と述べられておられますが、私もほぼ同じようにとらえております。
この釈尊の教えが=「悟り」であると思いますし、「悟りの内容」であると思うのです。
このことはどうみても、超自然的な体験や霊的に何かを感じるという、何か特異なことをいうのではなく、ごく普通の人間が世間の在り様を見て、よく考えてみれば解ることではないだろうか、と思っています。
この考え方は間違っているのでしょうか?。

「悟り」について、曽我様はどのように考えておられるのか、お聞きかせ下されば幸いです。

2006,10,22 階空

 

自然(じねん)さんから 「悟りについて」 2006,11,9,

10月26日の階空さんのメールに、私の意見を言わせていただいてよろしいでしょうか。

「悟る」という状態は「涅槃」「解脱」などと同じで意味もほとんど同じです。しかし決して神秘的なことでも、超人的なものでも、霊的なものでもありません。

解脱というのは煩悩や欲望の世界である俗世から(心が)脱け出すこと。悟るというのは、この世のありとあらゆる物は「無常」であり「苦」であり「無我(実体がない)」であるから、これが私であり、これは私のものだと執着する価値のあるものなど何もないと悟ること。悟った状態が「涅槃」です。

執着するに値するものは何もないと悟ったあとの心には欲望も煩悩もありません。その「涅槃」と言われる状態は、心が何ものにも動揺しない、凪の時の水面のようです。静かで穏やかで、何物も心を波立たせるものはありません。俗人の心は周囲の動きの影響を受けて絶えず上下に揺れ波だっています。

俗人がこの状態を想像するには、リゾートへ行ったときのことを想像すると良いでしょう。
予約していた宿舎へ着き、夕食まで何もすることがありません。どこも行きたいところがなく、何もしたいものもありません。しなければならない仕事もありません。日常的な欲望が一時的に遮断された状態です。
何もできないと分かっているから、日常的な欲望はないのと同じです。
そんなとき心は穏やかで、無情の安らぎを感じます。過去のことも未来のことも考えず、現在の周りの自然を心行くまで味わうこと、観察することができます。そんな状態が「悟った」状態に近いと思います。

6年間苦行をしたブッダが、「悟る」ために菩提樹の木の間に座って苦の原因について考えられたとき、子供のころ父王が執り行った始耕式(田植えを始める式)を見ている時のことを思い出し、あれが本当の幸福の状態「涅槃」だと気づいたといいますから。

「悟り」にはブッダのような「大悟」と普通の「悟り」があります。少し悟っただけでも苦、あるいは背負っている荷は軽くなりますから、ブッダの教えに耳を傾けてください。

自然
 

 

曽我から 階空さんへ 覚りの宗教体験について 2006,11,9,

拝啓

 返事が遅くて申し訳ありません。

 私も以前は、何か特別な、例えば「永遠の今」などと言われるような、めくるめく至高の超日常的な宗教的体験によって修行は完成され、それ以降それまでの日常とはまったく異質な感覚、時間に入るのだろうと想像し、そういう経験をしたいと憧れておりました。「あたりまえ・・・般若経」の娘の山での体験は、まさにそういうものとして書きました。

 しかし、今では、この考えは、日常を超えたところに日常を超越したなにか価値的に高いものを想定しており、梵我一如的であり、釈尊の教えではないと考えています。

 釈尊の方法は、階空さんのおっしゃるとおり、ひたすら日常、特に、食ったり眠ったりサボったり集中したりするこの私を突き詰めて観察することです。そして、その結果見出されることは、無常=無我=縁起であり、そこになにか価値のある実体がある訳ではない、そういう<我>があると思うのは、思い込みに過ぎない、ということだと考えます。

 従って、覚りの実感は、至福の体験などではけしてなく、一所懸命守り通そうとし追いかけてきたものが幻であったと気づくという、「なぁんだ、そうだったのか、あほらしい」という、思わず笑ってしまいたくなる感覚で、天に昇るような絶頂感ではまったくなく、平静かつ解放感に満ちた、力の抜けた感覚であろうと思います。超越的体験ではないけれど、それ以降は、思い込みに追い立てられることはなくなり、リラックスして淡々とすごす。そういうことではないかと思います。

 日常を超越した至高の経験は、薬や催眠術や不眠、特殊な呼吸などによって、比較的容易に味わえるようです。そんなものが釈尊の説かれたものではありますまい。

 階空さんのお考えと同じように、私も思います。

                            敬具
階空様
       2006,11,9,              曽我逸郎
 

階空さんから  2006,11,12,

曽我逸郎 様

御丁寧なメールを頂き有り難うございます。

以前の曽我様が考えておられたのとほぼ同じようなことを私も感じておりましたものですから、今回のメールを頂いて私なりに了解することができて、今迄のモヤモヤが一気に晴れてすっきりしたものとなりました。

「悟り」とは何か特別な神秘的で超常体験をすることだというのであれば、普通の人間にはそういう体験は出来るはずもないし、また、特別な神秘的で超常体験をしなくては得られないような「悟り」など、あげると言われても、絶対にお断りする、とも思っておりました。
今回「悟り」がそういうものではない、と明確に認識することができて一歩前進でき たと思います。

早速お礼のメールをと思っております内に、HPの意見交換欄にUPされているのを知り、自然様からも御教示を頂き、「悟り」が神秘的なものでなく、超人的、霊的なものではないと、さらに明確にすることができました。
また、ブッダのような大悟と普通の悟りがあるというのも、今回初めて知ることができました。

「悟り」について、大変具体的で解り易い言葉でもって、お二人から御教示頂き有り難うございました。

また何か解せないことがありましたら質問しますので、御教示の程宜しくお願いします。

2006,11,12 階空

 

曽我から 階空さんへ 蛇足 2006,11,26,

前略

 HP掲載の準備をしていて少し気になりましたので・・・

 私の考えであれ、どなたの考えであれ、あまりすぐに納得してしまわずに、しばらく宙ぶらりんにしておいて、他の様々な考えと摺り合わせて、矛盾しないか、矛盾するならどちらが正しいのか、じっくりと吟味検証なさったほうがいいと思います。

 かえって無責任な発言かもしれませんが・・・

                    草々
階空さま
    2006,11,26,         曽我逸郎
 

 

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