遊子さん 「親鸞の信。救いはこの世で起こる。」 2006,10,2,

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小論集を読みました。私も浄土真宗が全て飲み込めている者ではありませんが、長い間親鸞聖人に出あわせて頂き、私は仏教の真髄を極められた方であり、人間と言うもの私というものをこれほどまで教えてくださった方は無いと思っています。曽我様は親鸞聖人に少し関心を持たれ、色々書物を読まれたのですね。親鸞という方は、阿弥陀仏、浄土を妙好人のように信じていたのだろうかという下りがありました。曽我様がおっしゃる信じるとは、私という主体が思い込むような信じ方、例えば私は神を信じます。霊魂を信じます。というように、感覚的実体、存在として信じる信じ方、普通一般に世間で宗教を論じる場合で言われたものと思います。阿弥陀仏も浄土も、この世に存在するような感覚的存在として、死後に出あえるようなものとして、説かれたものではありません。
信心をまことのこころとよむ故は凡夫の迷信にあらず、まさに仏心なり。信心するというように、こちらが信じるのが世間で言う信心ですが、浄土真宗では、ご信心を頂くと言います。阿弥陀仏という智慧と慈悲の心を凡夫の身である私が頂くことによって、仏になるためのどのような修行もできない者が唯一仏になれると領解(りょうげ)しています。信心を頂くと言うことが難中の難これに過ぎたるはなしと阿弥陀経にあります。妙好人は、もとは村きっての悪たれだったり、親不孝、女房泣かせだったりします。
彼らが、真実に目覚めたとき生き方が180度転換します。我執のかたまりの自分が見えてくると同時に広大無辺の阿弥陀仏の世界に摂取されたことをあらわします。
浄土真宗で言う正定聚とは、現生正定聚をいいます。等覚といい、仏と等しい悟りを得られたことを言います。浄土往生して後に修行して仏に成るのではありません。往生の二重構造を掲げているのが浄土真宗です。つまり、即得往生これは、信心いただいた時で、いのち終わるとき完全な往生としての滅度往生。前者を不体失往生、後者を体失往生という言い方を本願寺第3代覚如上人はされています。
救いとは、この世で起こらなければならないのです。平安時代の旧仏教の厭離穢土欣求浄土思想のように、あの世の救いのみを求めたことに対し、親鸞は仏教の本来の意義は、悟りという原点に還ったといえると思います。この世は厭な苦しい世界だから、死んでいいところへ生まれたい。そんな逃げの宗教ではないと言うことを示された。「本願力にあひぬればむなしくすぐる人ぞなき、功徳の宝海みちみちて、煩悩の濁水へだてなし」親鸞聖人は、このような和讃を500首以上遺されています。教義を論述された教行信証とは少し趣を変えた、信心の喜び、仏徳讃嘆、七高僧讃嘆を平易な言葉に著されました。凡夫の自覚は、阿弥陀仏の智慧と慈悲に摂取されたことであり、仏の視座をいただいて生きる道の始まりでもあります。往相回向と還相回向が浄土真宗の要でもあります。大乗仏教の菩薩道は、仏になることが究極の目的ではなく、他を利するはたらきをもって成就するものであろうと思います。他力とは、本願力のことで、自我に埋没している私に真の目覚めを促す真理からのはたらきと受けとめます。
正信偈(行巻)に本願力回向の功徳の大宝海に帰入すれば、必ずこの世において、浄土の菩薩方の仲間に入るであろう。と天親菩薩は説かれたと言う一文があります。
無量寿経の十八願の唯除五逆誹謗正法のところは、抑止門といわれ、そういう者は除くといいながらも、どうかしないでくれという願いのこもったところです。そういう者は到底仏に仕上げることはできないのだと。しかし、そういう者だからこそ仏にせねばおかないという悲痛な思いが慈悲の「悲」といわれる心でしょう。他宗教の人、仏とも法とも思わぬ人、我執の固まりの人を排除するのではなく、全て受け容れられる広い世界としての浄土であり続けるために無常に対して常住であり、阿弥陀仏は無量寿(かぎりないいのち)たるゆえんがあるわけです。
親鸞聖人は、ご自身を五逆の身、極悪最下の凡夫、下品下生(げぼんげしょう)これは、観経の九品(くぼん)九生の最下位のことです。仏の智慧と慈悲に照らされた世界に生きられた証しでしょう。
仏に出あえた喜びの世界も同時に成立しているわけですから、卑下慢ではありません。自己嫌悪でもありません。教行信証の序に喜びの心情が著されています。
とりとめなく書きました。私の真宗理解の域ですから、お叱りを受ける箇所やまちがいもあるやもしれません。自由に書けることを強みに書いています。
間違いに気づいたら、訂正します。
お忙しい中、ご返事を頂き有難う御座いました。


再び、遊子さんから  2006,10,2,

失礼します。自由と自在については、あくまでも悟りというこころの世界であると考えていただければどうでしょうか。我執と言う執着から開放された境地を言いたいのです。仏教の根本理解は乏しいのですが、肉体の生命の活動における業とか、意識、マナ識、アラヤ識も縁により常に生滅をしており、固定した不滅のアートマンは認めないということでしょうね。死後に何か物体的な霊魂が残るということも仏教では言いません。しかし、生命があり脳の働きがある中での意思のコントロールや努力する心、向上心、記憶をたどる、想像するといった心は私の意志とか主体として考えてはいけないのでしょうか。
まだ、曽我様の小論集をすべて読んでないのですが少しずつ読ませていただきます。

 遊子

 

曽我から 遊子さんへ  2006,10,7,

拝啓

 いつもいつも遅い返事で申し訳ありません。
 早速に。

 遊子さんは、

>阿弥陀仏も浄土も、この世に存在するような感覚的存在として、死後に出あえるようなものとして、説かれたものではありません。
 とおっしゃっていますが、これは、「阿弥陀仏も浄土も、方便にすぎない」という意味ではありませんよね。以下のようにもおっしゃっていますから。
>阿弥陀仏という智慧と慈悲の心を凡夫の身である私が頂く
>全て受け容れられる広い世界としての浄土であり続けるために無常に対して常住であり、阿弥陀仏は無量寿(かぎりないいのち)
 つまり、阿弥陀仏は、単なる方便ではなく、なんらかの外在的な働きとして我々に働きかけるものであり、その結果我々は浄土という状況に置かれる、そのように浄土の教えは説くのであろうと思います。

 ただ、私の抱いた感想は、親鸞の言葉は結構理屈っぽくて、妙好人の手放しの単純さとは異質なように感じられる、というものです。妙好人の言葉を読むと、弥陀の本願に摂取されたという感謝・おまかせの気持ちを強く感じ取るのですが、親鸞の場合はそこまで突き抜けていないように感じます。
 「弥陀の五劫思惟の願、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄、後序)と親鸞は言っており、それだけなら妙好人的でありますが、親鸞の場合は、そこに「よくよく案ずれば」という言葉が差し挟まれています。

 それから、もう一点、次の遊子さんのご意見は、私のにわか勉強の成果とは矛盾します。

>浄土真宗で言う正定聚とは、現生正定聚をいいます。等覚といい、仏と等しい悟りを得られたことを言います。浄土往生して後に修行して仏に成るのではありません。
 しかし、歎異抄第十五条には、こうありました。
 「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もってのほかのことに候ふ。・・・『浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にてさとりをひらくとならひ候ふぞ』とこそ、故聖人の仰せには候ひしか」
 やはり浄土真宗の教義としては、「今生(この世、穢土)においては弥陀の本願を信じて弥陀の本願に摂取されて、かの土(浄土、死後)で仏になる」と二段構えで考えているのではないでしょうか。
 遊子さんのメールに、
>正信偈(行巻)に本願力回向の功徳の大宝海に帰入すれば、必ずこの世において、浄土の菩薩方の仲間に入るであろう。と天親菩薩は説かれたと言う一文があります。
 とありますが、菩薩とは仏となる前のあり方ですから、これは浄土真宗の教義にも合致します。つまり、正定聚とは、「浄土に行って仏となることが弥陀によって約束されたあり方」ではないでしょうか? やはり、浄土真宗の教義は、「今生、この世、穢土においては、弥陀の本願に摂取され、正定聚となり、菩薩となり、その上で、死後の浄土において仏となる」という穢土と浄土の二段構えだと思います。

 さらにもう一点、

>大乗仏教の菩薩道は、仏になることが究極の目的ではなく、他を利するはたらきをもって成就するものであろうと思います。
 先日掲載した小論で触れ損ねたことで、どこで読んだのか失念しましたが、どこかで親鸞は、以下のようなことを言っていたと記憶しています。
  (06,10,28,加筆)歎異抄第四条。言葉は厳密には異なりますが、同じ趣旨を言っていると思います。ご確認ください。
 <この世で凡夫のままで人を助ける慈悲の行いに努めても、人を助けられるかどうか危うい。良かれと思ってしても、往々にして逆の結果となる。今生では慈悲の行いよりも、ひたすら念仏によって弥陀の本願に頼み、来世に浄土に救われて、仏となった上で、誰をも彼をも救うべきである。>
 浄土教の教義は、穢土と浄土の二段構えであり、この世・穢土だけで完結する構造にはなっていないと思います。

 ただ、「ひょっとすると弥陀も浄土も大いなる方便で、実は今生で妙好人になることが浄土教の本意か」とも、つい想像してしまいますが、おそらくそれは異端的な考えでしょう。
 また一方で、妙好人の問題点としては、何事も好悪を言わずに受け入れ、結果的に、例えばおびただしい苦を人々に与える戦争に対しても批判的たり得なかったという点があるのではないかと感じています。

 以上、親鸞の教えについて、にわか勉強による私の受け取りです。釈尊の教えについては、別の受け取り方をしており、私としては、親鸞より釈尊の教えに従いたいと思っています。

 親鸞が釈尊と異なるのは、「煩悩をなくすことによって仏になる」と考えている点だと思います。「末法の世の凡夫である我々には今生で煩悩をなくすことは不可能だ、だから、弥陀の本願によって浄土に摂取され、そこで煩悩を滅して仏になる他はない。」これが親鸞の考えでしょう。
 しかし、小論の繰り返しになりますが、釈尊は「まず煩悩をなくせ」とは言っておられないと思います。「無常=無我=縁起を観察して納得せよ」とおっしゃっている。それができれば仏です。おそらく、仏となっただけでは、煩悩・執着はまだ完全にはなくなっていないのかもしれません。三十数億年をかけて磨き上げられてきた生命の自己保存、種保存の反応は、自動的反応としてしっかりとパターン化しており、一朝一夕に改変されるものではないでしょう。仏となった後も、そのつどそのつど自分の反応によくよく気をつけて、少しずつ改めていくのではないかと思います。ともあれ、「まず煩悩をなくさねばならない」と考えたことは、親鸞の誤解ではないかと思います。

 最後に、自由については、遊子さんのおっしゃる「執着からの自由」ということであれば、上記のような、仏となった後の努力によって理論的には限りなく近づいていけるかもしれないと想像します。しかし、「絶対の自由」という意味であれば、それは「第一原因である」という意味であり、無我の教えに反すると考えます。

 またご意見お聞かせ頂ければ幸いです。

                       敬具
遊子様
    2006,10,7,           曽我逸郎
 

遊子さんから 現生正定聚について 2006,10,18,

曽我逸郎様

私は浄土真宗の教義を全て網羅した者ではありません。そのような者が、インターネット上で書くということに対する責任を感じます。

現生正定聚について誤解をされた感があるようなのでネットで検索しました。浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)に出ていたのがよく解ると思いましたので抜粋し引用させて頂きます。

浄土往生の因
正信偈に「成等覚証大涅槃」「必至滅土願成就」と示されています。早島鏡正先生は、その著書の中で「等覚というのは、仏さまの一歩手前の位です。親鸞の解釈では私どもが真実信心を得たそのときに来世に浄土に生まれて仏となることが決定した位つまり等覚の位それを現生不退、この世で、仏となるに決まった位から退かないという現生正定聚の位につくというのです。
信心を得た人は、この世において仏の候補者となる。それを現生正定聚または現生不退ともいいます。仏さまの一歩手前の位等覚の位につく そして命終われば大涅槃を浄土において開くことになる

一部分の抜粋ですのでよろしかったら開いてお読みいただいたらと思います。
死後に浄土に往生してのちに修行して正定聚という不退位にいたるという従来の浄土教に対し、信心決定のところが不退位であるという現生正定聚を打ち出されたのが親鸞聖人であったと理解しています。

中央仏教学院のテキスト(上田義文氏著)から引用させて頂きます

親鸞聖人の仏教では、浄土に往生することは同時に無上仏になることですから、浄土にとどまる必要がありません。無上仏になるならば、大慈大悲が窮るので、無上仏になることは、すなわち生死海へ還り入ることを意味しています。お浄土へ往くのは何のためかといえば、仏の智慧を得、大慈大悲を具えて、この世の人々を利益する(人々を無上仏にならしめる)ためです。この点に、親鸞聖人の仏教が大乗仏教である所以が最もよく現れています。この世を穢土として嫌いここから逃れて(厭離穢土)、彼の世に浄土を求める(欣求浄土)という従来の浄土教の伝統の中から出ながら、それが持っていたこの世とあの世との、あるいは生死海と涅槃海との差別という小乗的・二元論的思考を打ち破り、「生死即涅槃 煩悩即菩提」という大乗仏教の根本精神に還ったところに、親鸞聖人の仏教の独創性があります。
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高僧和讃の曇鸞讃に  「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」と詠まれています。
私流の解釈ですが、煩悩があるからこそ悟りがあり、煩悩の中にこそ悟りは生まれる。悟りが開けるという言い方は、智慧の眼が開けたことでありましょう。

曽我様が親鸞が釈尊と異なるのは「煩悩をなくすことによって仏になる」と考えている点だとありました。
親鸞聖人は「煩悩をなくせ」「煩悩をなくさねばならない」とはおっしゃっていないはずです。
曽我様は、そのような文献を目にされましたでしょうか。

前にも書きましたが、自我に執着した煩悩具足の凡夫であり生死(迷い)離れることが出来ない悪人という宗教的自覚こそ浄土真宗の真髄であると思っています。(機の深信)
それは同時に、阿弥陀仏の本願の心こそがまことであると信知することでもあります。(法の深信)

《仏となっただけでは煩悩・執着はまだ完全にはなくなっていないのかもしれません》について

仏という表現には色々な意味合いがあります。仏陀=覚者=釈尊  諸仏など

阿弥陀仏は現生の身で成れる仏ではありませんし、煩悩も執着もありません。仏と名がつく限り人間の境涯を超えた存在と解釈しなければならないでしょう。

《自由ということについて》

ある講師の話から
私たちが動いていることの大半は、自分の意思によるわけですが、私たちの意志というのは迷いの意思に他ならない。わたしたちの思いは迷いの方向にしか向かっていない。私たちが自由だと考える在り方は、対立概念を想定するとよくわかる。不自由、どういう状況になると不自由だと感じるかというと自分の思い通りにならないときに感じる。自由は自分の思い通りになるときだと認識している
しかし、よく考えてみると、自分の思い通りになることというのは、欲望という煩悩に支配されている姿に他ならない。その意味では未だに不自由な在り方である。私たちが自由と考えていることは実は錯覚にしか過ぎない。欲望に支配された姿にしか過ぎない。そうすると、煩悩・欲望の支配からほんとうに逃れていくことが自由ということになる。

とりとめのないことを書きました。失礼があればお許しください。    遊子

 

曽我から 遊子さんへ  2006,10,25,

前略

 メールありがとうございます。

 やっとかめ通信からの引用、拝読しました。正直なところ、ここで言われていることは、私の親鸞理解と同じではないかと感じました。
 すなわち、「<浄土で仏にする>という約束をこの世において弥陀から頂く。<浄土で仏になる>ことは、この世で決定される。ただし、仏になるのは、浄土においてである。」

 遊子さんは、浄土で仏になることよりも、この世で信をもらい弥陀に摂取され正定聚になることの方を重視されているように思います。確かに、そういうニュアンスは、遊子さんだけではなく、これまでに私がいくつか断片的に触れたことのある真宗の他の方々の言葉にも感じました。それ故に、私は、「ひょっとすると<浄土で仏になる>というのは、実は、優れた方便であり、真意は<現世で正定聚になる>ことを導き出すのが目的ではないのか」と勘ぐってしまうのです。正定聚の典型的・理想的なあり方は妙好人でしょうから、浄土真宗とは、妙好人となるための教えか、と思ってしまうのです。

 >曽我様が親鸞が釈尊と異なるのは「煩悩をなくすことによって仏になる」と考えている点だとありました。
 >親鸞聖人は「煩悩をなくせ」「煩悩をなくさねばならない」とはおっしゃっていないはずです。
 >曽我様は、そのような文献を目にされましたでしょうか。
 このことについては、少し舌足らずだったようです。私の解釈する親鸞の考えをもう少し丁寧に書くと、こういうことです。
 1)修行して煩悩をなくすことによって仏となるのが本来の仏教であろう。
 2)しかし、末法の世の凡夫である自分には、修行して煩悩をなくすことなど不可能である。ならば、どうすれば救われるのか?
 3)凡夫のまま弥陀の慈悲に摂取されて、浄土に往生し、そこで仏にして頂く、そう信じるしかない。それだけが、自力で煩悩をなくせなくとも仏になれる唯一の可能性だ。

 1)が「縦に段階を踏んでいく本来のあり方」であるのに対して、3)は横超です。

 ただし、私自身の考えは、前のメールで触れたように、1)は親鸞の誤解であって、釈尊本来の教えはそうではないと思います。釈尊の教えは、「自分をよく観察して、無常=無我=縁起であることを腑に落ちて納得せよ。それができたら仏である。仏となって、無常=無我=縁起の知恵でそのつどの自分という反応を観察し続ければ、煩悩、執着の反応は衰えていき、代わって慈悲の反応が縁起してくる」というものだったと考えています。つまり、煩悩をなくすことで仏になるのではなく、仏になることによって煩悩がなくなっていくのです。
 凡夫のまま煩悩をなくすことは不可能でも、無常=無我=縁起であることを腑に落ちて納得することは、現代の凡夫でもまったく不可能ではないと思っています。

 >阿弥陀仏は現生の身で成れる仏ではありませんし
 「現生の身ではなれない」ということは、ひょっとすると「往生した後、浄土に行くと、阿弥陀仏になれる」という言外の意味なのでしょうか? 私の理解では、阿弥陀仏は、凡夫からは隔絶した絶対的な仏とされていると思っています。もし、凡夫も浄土で阿弥陀仏になると考えられているなら、阿弥陀仏(絶対者)と凡夫とは、隔絶ではなく、ひとつになる回路が用意されていることになり、もしそうだとすると、私としては、梵我一如的な響きを感じざるを得ません。
 >仏と名がつく限り人間の境涯を超えた存在と解釈しなければならない
 「煩悩を絶した存在が仏である」と考えると、「仏とは人間の境涯を超えた存在と解釈しなければならない」となりますが、「無常=無我=縁起に気づいた人間が仏である」と考えるなら、仏は人間の部分集合、仏⊂人間ということになります。
 >私たちの意志というのは迷いの意思に他ならない。
 >自分の思い通りになることというのは、欲望という煩悩に支配されている姿に他ならない。
 >私たちが自由と考えていることは実は錯覚にしか過ぎない。欲望に支配された姿にしか過ぎない。
 私もまさにそのとおりだと思います。ああしよう、こうしようと思うのも、そうしようとするのも、縁によって起こされた反応です。
 ただし、私たちは、縁から自由な、縁を超えた境涯になることはあり得ません。生きている限り、仏になったとしても、凡夫同様に縁による反応です。ただ、仏は、自分が縁による反応だと知っており、縁のままに自動的に反応して自他に苦を与えがちだと知っており、そうなってしまう理由(=守り育てるべき自分があるとついつい妄想して我執してしまうから)も知っているが故に、苦を生む執着の自動的反応に直ちに気づくことができ、その結果、執着の反応もすぐに霧消してしまうのです。仏もまた、縁による自動的反応ですが、その反応パターンは、執着によるパターンではなく、慈悲によるパターンとなっている、そのように考えています。

 またお気づきの点ございましたら、ご意見お聞かせください。ありがとうございました。

                                 草々
遊子様
     2006,10,25,                  曽我逸郎
 

遊子さんから、曽我へ  2006,10,27,

曽我様

お忙しい中、ご返事をありがとうございます。

私の浄土真宗理解が未熟なのに加え、稚拙な文章で多くの誤解を招いているように思われます。
本願寺勧学諸師が目にされたら、お叱りを受けるでしょう。

以前曽我様と、和バアさんとのやりとりに梵我一如のことがありましたね。そこで、和バアさんが、「周りの何もかもをアミダ仏と捉え、自分は生きているのではなく、大きなものに生かされて・・・・」というのを読みました。
大自然や周りの何もかも=阿弥陀仏とは違うと思います。

阿弥陀仏について、本願寺の真宗聖典の補註(要語解説)から抜粋したものです。

(前略) 親鸞聖人は、曇鸞大師の教えによって法性・方便の二種法身として阿弥陀仏を説明されている。法性法身とは、さとりそのものである法性真如を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定をこえ、私どもの認識を超えたものである。これについて『唯信鈔文意』には、「いろもなし、かたちもましまさず。しかればこころもおよばれず、ことばもたえたり」とある。そして方便法身とは、「この一如(法性法身)よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘と名のりたまひて」といわれる。 すなわち、万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、自他を分別し執着して煩悩をおこし苦悩しているものをよびさまし、真如の世界にかえらしめようとして、絶対的な法性法身がかたちを示し、阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。『論註』(下)には、「正直を方といひ、己を外にするを便といふ」といい、真如にかなって、己を捨てて一切衆生をさわりなく救う大悲の智慧の徳をもつ如来ということである。(後略)
私は、曽我様のHPを偶然拝見し、仏教に関心をもたれ、しかもかなり深く精通しておられることに畏敬の念を持ちました。私もあることに問いをもち、真宗の中に答えを見出したものです。

曽我様のHPに書かせていただくことで、満足感?のようなものに浸っていたように思います。

しかし、教義について曽我様に切り込まれた時、間違ったことを書くかもしれないという責任を感じるようになりました。
浄土真宗は、親鸞聖人の著述である教行信証(顕浄土真実教行証文類)に全てが納まっています。「教行信証の宗教構造」という解説書が本願寺勧学 梯 実円 著により法蔵館より出版されています。曽我様なればきっと読みこなされるありましょう。

また、歎異抄を今、武蔵野大学教授 山崎龍明氏の解説でNHK教育TV「心の時代」にて第4日曜日に放送しています。とてもわかりやすく、これまでにない新しい発見をさせてもらうので楽しみにしています。

私ごとき浅学の者は、曽我様の質問に答えるべきではないと思います。間違えば、親鸞聖人に申し訳ないと同時に曽我様に対しても申し訳ないと思います。

このたびのご質問に全てお答えするのは出来ないことをお詫びします。
          遊子

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