monkeyさん 「禅の言う真面目は仏教に反しない」 2006,9,22,

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曽我逸郎様

突然のお便りお許しください。デリダと禅仏教の関係に興味を持っているものです。

唐突で失礼ですが、以下の部分にちょっと疑念を覚えましたのでお便りしております。

>ところが、最近、禅宗は無我=縁起を教える教えなのか、疑念を感じ始めています。禅宗では「本来の面目」と言います。
http://www.dia.janis.or.jp/〜soga/excha151.html

>ソリプシズムは、人間がもってうまれたものである、、、と。(milumo2さん)
http://www.dia.janis.or.jp/〜soga/excha151.html

上記は、3年ほど前のもので今はお考えがちがうかもしれませんが、「本来の真面目」も(ここでいう)「ソリプシズム」も「天上天下唯我独尊」とおなじで仏教に反しないと思いますが。

もっとも「天上天下唯我独尊」自体が唯識や如来蔵的発想から出てきたものなら話はちょっと違うでしょうが。それにしても、「仏性」が「本来の真面目」のことなら、龍樹の「真諦」と結局同じことを言っているのではないかと思っております。

>※4、思考、はからいの禁止。無念無想  「あらゆる思考、努力、はからいは、執着であるから、すべて捨て去れ。」という主張にしばしば出会う。このような考えは、執着を「客塵」(よそから来た汚れ)と考え、それとは別に「本来の自己」があって、それは「明鏡」のごとく、汚れのない透き通った純なるものだと考えている。つまり、(梵に由来する)純にして善なる「本来の自己」があると想定している。如来蔵とか仏性とか自性清浄心などと呼ばれるのがそれであり、梵我一如の「我」、すなわちアートマンである。これは釈尊の無我の教えに反する。また、正しい努力を、「さかしらなはからい」だと否定する点で、害が大きい。
 梵我一如型の思想の危険な点は、「梵」が絶対的・超越的であり言葉が届かぬものとされる点だ。言葉ではなく、なんらかの体験によって体得すべきものとされる。それに出合うことを目指して日常的でない修行を行えば、大抵の人はそれに「出会う」ことができる。人は、見たいものを見るのだから。一旦「出会え」ば、それは絶対の超越として掲げられ、けして合理的に検討されることはない。なぜなら、最初から絶対的・超越的で離言(言葉の届かぬ)存在を妄想し、憧れ、遂にそれを「如実に」実体視することに成功したのだから。
 梵我一如は、嵌まりやすく、抜け出しにくい思想だ。しかも、梵我一如は、自分、「我」を肯定してくれる。執着におもねる甘い罠である
http://www.dia.janis.or.jp/〜soga/index.html
これは、比較的最近のご意見のようですが、慧能と神秀の逸話でもわかるように、「明鏡」を否定(脱構築)する禅は実体論ではないと思います。絶対(悟り、涅槃)は言詮不能ですが、方便として言葉を使う(絶対などというものはもとよりないのだ)のは、釈迦も禅も唯識も中論もデリダの脱構築も同様ではないでしょうか。

以上を公表なさるなら匿名(monkey)でお願いいたします。

monkey

 

曽我から monkeyさんへ  2006,10,27,

拝啓

 メール頂戴しながら、返事が大変遅くなり、申し訳ありません。

 不勉強のため、monkeyさんと共通の土俵がほとんどなく、ずいぶん戸惑っております。デリダはまったく知りませんし、禅についても、禅的な場(臨済系に限る)に出入りしていたことがあるだけで、禅籍も数冊読んだのみ、しかもまだ二十代の頃の話で、どれだけ理解できていたのかはなはだ心もとないありさまです。

 そういう言い訳をした上で、頂いたメールの論点を整理してみます。

 @実体論は、仏教(釈尊の教え)ではない。
 A禅の言う「本来の真面目」も、(milumo2さんが批判的におっしゃる)唯識の「ソリプシズム」も、「天上天下唯我独尊」も、実体論ではなく、仏教に反しない。

 まず、@については、私もまったく賛成です。
 となれば、「本来の真面目」や唯識の「ソリプシズム」や「天上天下唯我独尊」が、実体論かどうか、が論点ということになります。

 頂いたメールだけでは、「本来の真面目」や「天上天下唯我独尊」や「真諦」や「仏性」という言葉で、monkeyさんがどういうことを考えておられるのか、推察し難いので、すれ違いの議論になるかもしれません。お許しください。

 「天上天下唯我独尊」については、単に釈尊を神格化する神話として私は捉えており、まじめに考えてみたことがありません。milumo2さんとのやりとりや上の言い訳に書いたとおり、禅の「本来の真面目」や唯識も、じっくりと研究したわけではありませんので、よく分析してみれば、実体論ではない事が見えてくるのかもしれません。しかし、「本来の真面目」とか唯識といった言葉を聞くと、「何か本来のものがある」、「唯、識だけがある」といった印象を受け取ってしまいがちなのではないでしょうか? 言葉は、「よく分析すれば正しいことを述べている」というだけで満足されてはならず、正しいことは勿論必要ですが、誤解を生みにくい表現であることも重要なことだと考えます。
 そういう意味で、「本来」という言葉は、縁起に縁らないなにかオリジナルなものを予感させるので、危険ではないかと感じます。唯識も、独立自存の識をイメージさせる言葉なので、同様に問題のある表現だと思います。初めは正しい言葉でも、誤解が誤解を生んで、やがてなにかとんでもない教え(例えば、「常楽我浄」とか)に変質してしまいますから。

 それから、monkeyさんのおっしゃる「絶対(悟り、涅槃)は言詮不能」というご意見にも、少し違和感を感じます。
 成道後の釈尊が説法を躊躇なさった際の記述を読むと、説くこと自体が不可能だ、と言っているようには思えません。「(説くことは可能だが)説いても、執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている世の人々には理解できない」というのが、説法躊躇の理由です。そして、梵天から「理解できるものも世の中にはいる」と懸命に説得されて、説法を決意されます。(中村元選集[決定版]第11巻「ゴータマ・ブッダT」春秋社、P444〜) ですから、説くこと自体は可能であるが、執着のこだわりに耽る凡夫にはほとんど理解できない、というのが正しい把握ではないでしょうか?
 同書P449には、こういう言葉もあります。
 「梵天よ、人々を害するであろうかと思って、わたしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ。」
 つまり、正しく教えを説いても、人々は正しく理解できず、間違って受け止めて、かえって害を受けることもあろうと、釈尊は心配されているのです。今の「仏教」の状況を見ると、そのとおりかもしれないと考え込んでしまいます。

 言説不能な何かを主張する人は、「言説不能な何か」という言葉によって、「言説不能な何か」を構想しているのだと思います。本当に言葉を超えたところには、「言説不能な何か」も存在し得ないでしょう。もし、それが存在するというなら、それは実体論ではないかと思います。

 私は、無常、無我、縁起という言葉は、あっけらかんと赤裸々に説くべきことを説明してくれている、と思います。しかし、我々という反応のパターンを根深いところで規定している「物事を采配する自分が確固として存在する」という我執のために、なかなかそれが分からない。しばしば我執に適うやり方でねじくれた受け止め方もしてしまう。しかし、納得できるときには、何かのクイズが解けたときのように疑念は嘘のように氷解し、我執の思い込みを離れた新しい視点からまったく単純に単純なままストンと腑に落ちのです。執着のパターンによる反応である凡夫にも、赤裸々に説かれた無常=無我=縁起の教えが納得できるようになるように、釈尊は、八正道や三学といった実践的なアドバイスまで残してくださいました。そのプロセスをまじめに辿っていけば、無常=無我=縁起の教えが納得できるのではないかと思います。

 「な〜んだ、そうか、そうだったのか。無常=無我=縁起、確かにそのとおり、「わたし」なんてなかったんだ。ただ、そのときそのときの条件によって、一貫性なく、ポッポ、ポッポと起こっているだけなんだ。なのに私は、それが分からず、思い込みのまま、懸命に自分を守ろうと執着の反応を繰り返してきた。なんと愚かであったことか。」
 おそらくその後も、ただちに我執の反応がすべて停止する訳ではないでしょう。我執はそれほど根深い反応パターンです。しかし、無常=無我=縁起が納得できれば、今我執の反応となっていることにリアルタイムで気づくことができ、気づくことができれば、その反応は減退すると思います。

 ただ、確かに、無常=無我=縁起を言葉によって無常=無我=縁起のまま説明しようとすると、困難を覚えるのも事実です。なぜなら、言葉は、我執や実体論的なものの見方に根ざしており、「私」なり「なにか」がまず先にあって、それがなにかをする、という形式になっているからです。このメールでも、「私は・・・と思う、考える」と既に何度書いたことでしょう。本当は、瞬間瞬間、思ったりながめたりすることが、そのつどの私なのですが・・・。無常=無我=縁起にこだわって言葉を紡ごうとすると、ひどくねじくれた文章になってしまいます。しかし、それでも、言葉の形式に当てはめ難いだけであって、言語化不能というわけではありません。確かに、無常=無我=縁起のもともとの理解困難さに加えて、ねじくれた文章の理解困難さが追い討ちをかけ、極めて伝わりにくいとは思いますが・・・。

 慧能と神秀の逸話については、真に恥ずかしながら、存じ上げませんでした。ネットでWikipedia他を検索してみて、慧能の偈として若干異なる二種類が伝えられていると知りました。

菩提本無樹  明鏡亦無臺 (菩提は本来樹などに無い 明鏡もまた台など無い)
佛性常清淨  何處有塵埃 (仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹  身為明鏡臺 (心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨  何處染塵埃 (明鏡は本来清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)

菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し
明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず
本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)
何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん

「菩提本と樹無し、明鏡また台無し。仏性常に清浄、何処にか塵埃有らん」(敦煌本)

「菩提本と樹無し、明鏡また台に非ず。本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」(興福寺本)

 敦煌本の「佛性常清淨」とか「明鏡本清淨」という表現には、実体論的な響きを感じますし、神秀からの飛躍の度合いもさほど感じられません。一方、興福寺本の「本来無一物」は、神秀に比べると突き抜けていますし、実体論的ではないように思われます。しかし、「本来無一物 何処惹塵埃」と続くと、「なにもしなくてそのままでよい」という全肯定の論理になってしまうのではないでしょうか? 世界のあちこちで繰り広げられている悲惨な状況に対しても、「本来無一物 何処惹塵埃」でいいのか? 我々の身の回りでも、さまざまな怒り、憎しみ、妬みが渦巻き、誰より私たち自身が、自他を苦しめる反応を繰り返しています。「本来無一物 何処惹塵埃」でいいのでしょうか?
 やはり、釈尊の「いつも気をつけておれ」という教えをよき縁として、自分という反応に気を配り、静かで落ち着いた状態に保つ努力は必要だと思います。その点では、むしろ神秀の「時時勤佛拭 莫使有塵埃」のほうが、実践面では釈尊の教えに近いのかもしれません。慧能の偈は、神秀の比喩の言葉尻を捉えて揚げ足を取ったようにも思えます。あるいは、慧能というより、神会の策略だったのかも。ともかく、漸修禅から頓悟禅となって、禅宗としては飛躍したのかもしれませんが、一面では釈尊からの距離もその分拡大したような気がします。

 勝手な想像で議論を膨らませてだらだらと書きました。頓珍漢な勘違いがありましたら、お許しの上、ご指摘下さい。

 宜しくお願いいたします。
                                  敬具
monkey様
      2006,10,27,                   曽我逸郎
 

monkeyさんから 2006,10,28,

曽我様

懇切なお返事ありがとうございます。たしか1ヶ月ほど前に差し上げたメールですので埋もれてしまい、いまのところ見つかりません。記憶をたよりに性急にお返事します。

一読、曽我さんのご趣旨はほぼ理解できたと思います。留保つきですが同感するところが多々ありました。

今回は、

>菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し
>明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず
>本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)
>何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん
を中心にコメントしたいと思います。私が考えていたのはこの偈です。たしかに「本来」にひっかかるところはありますが、中観派も言外にであれ仏法とは「本来」このようなものなのだと主張しているのではないでしょうか。俗諦に対して真諦ということでしょうか。

私は先のメールで鈴木大拙の即非論理について触れたでしょうか。曽我さんかだれか即非論理(あるいは大拙の仏教)を批判していたと思いますが、実体論(俗諦)と非実体論(真諦)の関係も即非論理(A即非A、故にA)の関係にあるのではないかと愚考します。

ついさっき上座部と大衆部の根本分裂のことをネット(グーグル)で読みましたが、この根本分裂もたぶん実体論(俗諦)と非実体論(真諦)の対立に帰着するのではないかと思います。

>「唯、識だけがある」といった印象を受け取ってしまいがちなのではないでしょうか?
そうだと思います。そこをたとえば中観派は実体論として批判するのだと思います。ただ究極的には識そのものも非実体だとなるのではないでしょうか。

唯識は説一切有部(ある種の実体論)を脱構築(デリダの用語)してできたという側面を持っているのじゃないかと思います。その意味でも唯識には実体論ととれる要素があるのじゃないかと思います。

> それから、monkeyさんのおっしゃる「絶対(悟り、涅槃)は言詮不能」というご意見にも、少し違和感を感じます。
> 成道後の釈尊が説法を躊躇なさった際の記述を読むと、説くこと自体が不可能だ、と言っているようには思えません。
そうですね。これも即非論理で説明できるのではないでしょうか。老子五千言(言うものは知らずというならなぜ老子は五千言も言ったのか)。言詮不能だが(かえってそれゆえに)言詮する、言詮可能である。大乗菩薩道、出家(空)在家(色)の関係でもあると思います。

それから、理論と実践の関係でもあるのでしょうか。執着(実体論)が苦の原因であるという理屈自体はそれほど難解ではない。ただ、実践(悟り)が難しい。この意味で言詮不能(いわく言い難い)。

今日はこれくらいで失礼します。

モンキー

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