階空さん 「佐々井秀嶺師に感銘」 2006,9,20,
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曽我 逸郎 様
初めまして。
ネットサーフィンをしていて曽我さんのホームページに出くわしました。
ホームページにあるものを全部読ませてもらった訳ではありませんが、その思索の深さと内容の凄さに驚くと共に、どう表現したらいいのかうまく言えませんが、とにかく物凄く刺激を受けております。
その中の[小論集]にある{「破天」を読んで、佐々井秀嶺師のこと}というところを見つけて、佐々井秀嶺、あれっ!どこかで聞いたような気がするなぁー、と思ったのです。
約2年ほど前になるでしょうか、書店で特にこれといった理由もなしに「ブッダとそのダンマ」という本を手にし購入しました。そこでアンベードカルという人を始めて知ったのですが、その中で確か佐々井秀嶺というお坊さんのことが書かれていたのを思いだしました。
インドに帰化した日本人僧、佐々井秀嶺という方はどんな人なのか、興味あるなぁーとは思っていましたが、知る方法がありませんでした。
今回曽我さんが佐々井秀嶺師のことについて書かれているのを見つけて、何か懐かしいというか、知る人ぞ知るというか、そういった不思議なものを感じました。
「破天」という本はなかなか見つけにくいとのことでしたので半分諦めていましたが、図書館で閲覧希望としてカードを出しておきましたところ、何と1週間の後に「在る」との連絡があり、早速借り出しに行き、今半分程を読んだところです。
それにしても凄い日本人僧がおられるのですね。
とにかく書かれいる内容に圧倒されてしまいます。が、今の私には、俄に信じ難いことが書かれているようにも思えます。
これって、全部実話なんですね?
全部読み終わったら感想を書いてみようと思いますが、もしよかったらメールを送っても良いでしょうか。
何か変な内容になりましたが、今後ともよろしくお願いします。
階空
再び、階空さんから 2006,9,27,
曽我 逸郎様
2回めのメールです。
「破天」読みました。佐々井秀嶺師、ただただ凄い方がおられるものだ、としかいいようがありません。
日本人のお坊さんで、今迄このようことを聞いた事がありません。(私が知らないだけかもしれませんが)
今迄縁もなく、仏教とはどういうものか、と深く考えた事もない私にとって、当初は佐々井秀嶺師の行動は、常軌を逸しているとしか思えませんだした。
しかし、読み進んで行く内に見えてきたものは、師の戦う仏教といいますか、行動する仏教といいますか、その仏教者としての姿勢に大いに共感を覚えずにいられません。
曽我様は佐々井秀嶺師にお会いになったのですか?。
たいていの日本人は、よく理解しないままに、何となしに自分は仏教徒であると思っている(思わされてきた?)というのが現状ではないでしょうか。かくいう私もそうです。
今回「破天」を読み、佐々井秀嶺師を知り、アンベードカルを知ったというのも何かの縁、これから仏教について勉強して行きたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
2006,09,27 階空
曽我から 階空さんへ 2006,10,7,
拝啓
2通もメールを頂きながら、返事が遅くなり申し訳ありません。
「破天」は、とある方に薦められたものの、本屋にも近隣の図書館にもなく、あきらめていたところ、村の真言宗のご住職が「インドに行って仏教への改宗の手伝いをしてくる」とおっしゃるので、ええっと思い尋ねてみると、佐々井秀嶺師の手伝いだとのこと。驚いて「実はこうこう」とお話しすると、「ではインドからもらってきてあげよう」と言って下さって、朱色の僧衣のはぎれに包んだのを頂戴しました。大勢の方が読まれたらしく、結構手垢で汚れていました。今は、中川村の図書館に置いてあります。
このご住職は、伊佐榮豊さんとおっしゃり、「破天」にも何度かお名前がでてきます。
そんなご縁はあったのですが、佐々井師にお会いしたわけではありません。それどころか、実はインドにも私は行ったことがないのです。
いつか伊佐ご住職に同行させて頂き、ナグプールに行ってみたいのですが、当分叶えられそうもありません。
「破天」の佐々井師は、型破りでスケールの大きな人物です。「仏教」もなんでもありというか、清濁併せ呑むというか、こだわりがないようです。人々の真ん中に飛び込んで、大変な行動力を発揮しておられる。私とはぜんぜん違うタイプだと思われますので、実際に会ってみたら、心酔するのか、拒絶するのか、逃走するのか、我ながら楽しみです。
仏教の勉強のご成果、また教えてください。
敬具
階空様
2006,10,7, 曽我逸郎
再び、階空さんから 2006,10,18,
曽我逸郎 様
先日は御丁寧なメールを頂き有り難うございます。
今の私が思っていることは、「釈尊の悟り」が一般人の我々にとって簡単に理解しえない内容なのか、そんなにも難解なものなのだろうか?。という疑問です。
(私には、釈尊がそんな難題をお説きになったとは思えないのですが・・・・・・・。)
「釈尊の悟り」とはどういうものであったのか。自分のできる範囲でその消息を尋ねてみようと思っています。勿論サンスクリット語やパーリ語の経典が読めて、その内容が理解できる程の知識や学問がある訳ではありません。漢訳仏典にしても同様です。それを承知の上で、現代語で書かれているそれぞれの解説や研究資料、見解、語録等々から、自分なりに少しでも解る事ができたらいいなあーと思っています。
曽我様の言われる、釈尊の教え(無常=無我=縁起)を読ませていただき、今迄よく解らないままに、知らず知らずの内に思っていた(思わされてきた?)仏教に対するイメージが、ずいぶんとすっきりし、筋道たてて考えられるようにもなりました。
今後ともよろしく御教示の程お願いします。
2006,10,18 階空