kunioさん 「輪廻転生と無常=無我=縁起とは無関係。両立し得る。」 2006,8,21,

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私は当年61歳になります。
妻も健在で、子供は男子と女子の各々一名で、既に自立して居ります。

秦野に工場の有ります某電機メーカー勤めておりました。
現在は大手複写機メーカーのベンチャー子会社で契約社員として勤務しております。
高校は神奈川県に有ります県立の工業高校の電気科を卒業しております。
大学は明治大学工学部電気工学科(現在は細分化されているようですが子細は存じません)を卒業しております。
大学時代に半導体に興味を持ち電子物理をテーマに選びましたが数学力の不足か消化不良であります。
ただその縁で物の見方に量子論の影響を色濃く受け付けています。

4歳のみぎり飼い猫の死に臨み、死の不可避を痛感しました。
以来、57年の長きに渡り死の概念が頭から離れた事は有りません。
高校時代には社会科学の先生から唯物的弁証法の手ほどきを受け、
その関係から般若心経に興味をもちました。
社会科学の先生から見れば逸脱も甚だしい外道に写った事でしょう。

ただ私の知り合いで当時学生運動に情熱を燃やした人達は皆善人でした。
むしろその純粋さに敬意さえ抱いていました。
その意味では仏教に携わる人の方がよほど生臭く、例え真理に通暁していても血の暖かさを感じません。
大学で量子力学を学んだ唯一の成果は、存在の実体は空だとする仏教の教えを再認識させた点です。
時間も、空間も、エネルギーもあくまで結果として現れる量で、真実の存在は複素数のように目には見えない。
自然界の巧妙な仕組みには驚くしか有りません。

M理論が最後のマイルストーンなのかどうかは浅学な私には判りませんが、
自然の構造には更に奥が有るような気がします。
其れはさて置き、一つだけお説に反論が有ります。

勿論理論的な背景が有る訳ではないのですがとても気になる違和感が付きまとうのです。

それは輪廻転生と無常=無我=縁起が理論的に両立し得ない・・・と言う結論です。

私見ですが両者は無関係ではないかと思います。
生物は細胞から出来ているから、その中に見出せない骨格や血管神経の存在は虚構で種の遺伝は有り得ない・・と言う暴論に似ています。
何か重大な点を見逃して居られませんか?

固有の自我など私も信じておりません。
我と言う感じも錯覚かも知れません。
でも、今此所に自分が居るという事実は否定出来ません。
では何処から来た? 何処に行く?
誕生前に存在した形跡はありません。 死後は消滅する事も判っております。
そうですね無から来て、今は有にあり、やがて無に帰す。

では無は如何なるモノを生み出すのか?
其れを知るものは居ません。
有る意味全てを生み出します。
生まれるという意味を変化と言っても結構です。
それは単に言葉を変えたに過ぎません。

では我は何処から生まれたのか?
原因が有ろうが有るまいが関係有りません。
今確かに此所にいるという事実は誰も曲げられないのです。
それが無であろうと無かろうと何かから生まれたのです。
何故なら原因の無い所に結果は生じないからです。

無から有は生じません。
其れでは因果律が狂い、世界が崩壊致します。
では今の有は何から生み出されたのか?

無から有が生じると言っても結局同じです。
有り得ないと言っても、結局誕生を認めざるを得ないのです。
事実を前提に事を考えれば、説明が付こうが付くまいが既存の命を認めざるを得ないのです。
もし其れを否定すると釈迦が嫌った虚無の思想に陥ります。

輪廻転生を生まれ変わりと誤解して居られませんか?
それでは見えないから複素数は実在では無いと言った数学者と同じです。
アインシュタインが不確定性原理を非局所性を示すので有り得ないと主張致しましたが、揺るぎ無い現実性が理論性を打ち破りました。

輪廻転生を否定する事は出来ないと思って居ります。
確かに厄介で取り扱いにくい対象ですが否定してはいけないし、
釈迦の教義に矛盾するとは思いません。

 

曽我から kunioさんへ 誕生から死までの間、自分は有るか? 2006,10,7,

拝啓

 メール頂戴しながら、返事が遅くて申し訳ございません。

 kunioさんと私とでは、輪廻転生について見解が異なりますが、その相違を生む根本は、kunioさんが「今此所に自分が居る。少なくとも誕生から死までの間は、有る。」と考えておられる点にあるのではないかと思います。

 私は、「誕生から死まで一貫した<私>が持続的に存在している」とは考えません。<私>とは、<そのつどそのつどの縁によってそのつどそのつど起こる反応>であると考えます。釈尊のおっしゃった無常とか縁起とかは、そういうことであると考えています。
 ですから、例えば熟睡状態や麻酔をかけられた状態のとき、<私>という反応は停止しており、kunioさんの言い方に倣えば、「<私>は無くなっている」と考えます。
 自分の日常を振り返れば、偶に高級な?思考に耽っていても、ちょっとしたことですぐむっとしたり、欲にそそられたりします。また、禅であれそのほかの瞑想であれ、実際にやってみると、ある時は静謐な定の状態でも、ほんのかすかな縁でたちまち下俗な煩悩の反応と化す、そういう<私>の一貫性のなさ、不安定さを痛感させられます。

 ただ、<私>というそのつどの反応は、詳細に観察すればそのつどそのつどの脈絡のないものでありながらも、そこには確かに、ある種、反応のパターンがあり、そのパターンも変化してはおりますが、ある程度の持続性はあります。また、色身にも、常に老いつつあり変化し続けながらも、場としての一貫性はあり、<私>という反応は、そういう色身という一貫性のある場で起こる反応であるため、<一貫した実体>として妄想されてしまうのは自然なことではあります。そもそも、何かを対象(ノエマ)として捉える時、いつも私たちは、それを<一貫して存在している実体>として捉えるという自然な習性があります。さらに、その習性を引き摺った言語も、「まず主語となるものがあって、それが何かをする」という形式になっています。例えば、「火が燃える」と言いますが、火が先にあって、それが燃えるのではありません。燃えることが火と呼ばれるのです。同様に、『我思う』は、<私>が先に存在して、それが<思う>のではなく、そのときの「思う」という反応が私なのです。

 自分を考えるとき、自分を<一貫して存在する実体>として考えてしまうのは、無理もない自然な反応です。しかし、それは粗雑な見方です。そして、「自分が存在している」という思い込みは、我執を生み、さらに自他に苦を与えることになるので、それを修正することを釈尊は教えて下さいました。それが「無我」という教えです。

 「少なくとも誕生から死までの間は、自分は有る」と考えるから、誕生の前や死の後をあれこれと考えねばならなくなります。そして、何らかの方法を考え出して辻褄を合わせねばならなくなります。その結果妄想された辻褄あわせが、輪廻転生だと思います。

 無常=無我=縁起の教えに立てば、「薪の尽きた火のように消えさる」だけです。

 またご意見お聞かせください。
                                 敬具
kunio様
        2006,10,7,                 曽我逸郎
 

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