ニックネームさん 縁起観について 2006,6,24,

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お久しぶりです。ニックネームです。6月も下旬となり湿気が気になるこの頃ですね。
最近梵網経(長部第一経)を読解し、様々な外道やバラモン的な考えに対して縁起(六支縁起)をもって回答がなされていることを発見し興味を覚えました。
さて、貴HPの「自分という現象について」「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か」を(読むことが可能な範囲で)読みましたが、いくつか疑問が湧きましたのでメールをお送りいたします。以下その疑問点です。

1.縁起から決定論、偶然論両者が引き出せるのでは?
「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か」の中でまとめとして

と言われていますが、「縁起は(私の)現象である」という考えからすると決定論・偶然論両者の考えが引き出せるのではないかと思います。決定論については我論であるから本来的でないとの理由で除けられていますが、その後に長く叙述されておられる「現象の歴史」がすなわち偶然論に立った意見であるとは思えません。そもそも「現象」という言葉そのものが背後に何らかの統一的なものを想起させます。「***現象」と言う時、それが発現する決まった背景や環境を考えるのが普通です。これは縁起である現象に「off course(道を逸れるもの)」を認めるかどうかという問題になります。認めれば偶然論になり、認めなければ決定論側になってしまいます。(ただし二者択一であるなら、僕も偶然論に断たざるをえないと考えます。主体性を重視したいですから)そうすると「偶然的なものを含む縁起」というものがはたして存在するのかが議論の焦点になるわけです。
 梵網経には常住論・無因無縁論が列挙されていおり、回答される縁起説が両者を止揚した(この言葉も微妙ですね)ものであることは想像出来ますが、ここでの縁起とは受から始まる六支縁起であり、批判される様々な見解は感受されたものであって、それが老死苦の因で、それらは全てこの六十二の見解に含まれるという結びになっています。(無明は登場しません)つまりここでは老死の因果として縁起を説いているわけです。

2.「原初」についてどう考えるか?現象を経験する現在よりも価値的に良いものであると思うか?
これは原初というものが有るや無しやのことではなくて、どう感じるかという僕の疑問です。HPを読む限り、曽我さんには原初に対してある一定のイメージがあるように感じました。「原初」と「現在」とに価値的な考えがあるならばご返信ください。

3.生死についてどう考えるか?良い状態での死が理想と考えて良いのか?その考えが社会的に成り立ちうるか?
以前哲学や宗教には「いかに生きるか」「自分とはなにか」が始まりとしてあると述べましたが、依然として僕は輪廻説重視人間ですので、それをベースに自分を考えるのですが、それを基礎としない曽我さんが自己を考え、「生きる」ということを考える場合どうなるのかという人間的な興味を持ったので質問しました。人の内面にかかわることですので、回答が必要ないとお考えなら返信は結構です。
 「私は縁起という現象である」と考える時、どうもそこからは生きるための主体性が生まれてこないような気がして、「無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か」を読みましたが、依然として疑問が残りました。「慈悲は仏教によって生み出されるのではない?」という論を掲載されていることからもやはりそこは難しい問題だと感じます。しかしもしも仏教に慈悲というもの(つまり他の救済という地平)が存在しないのであれば、仏教は宗教ではないでしょう。それは単なる修道法です。大乗仏教側から部派仏教は「小乗」「灰身滅智」と批判されましたが、この点がまさにその分岐点であると言えます。(ただしそれに対する大乗側の思想も実践不可能とも言える高尚なものが多く、理想論に特化し、または現実的でない空想の世界を描写し出したことも事実としてあります)
 繰り返しになりますが、意志を現象として処理してしまう以上、そこから「生きる」という意志や種族保存の意欲は生まれてこないと考えます。宗教は「いかに生きるか」に関わりますが、「いかに死ぬか」が問題とされているからで、結果的に常住論(絶対的他者)・無因無縁論(偶然論)の間に依らざるを得なくなります。さらにその背後には輪廻を「単に超越するべきもの」として見るか、「運動するもの」としてとらえるかの違いがあると見ることができます。そうであれば縁起を有為の世界に限定するのか、無為の世界をも含めた運動として捉えるのかが考えられなければならないでしょう。
 最後に三枝充悳『縁起の思想』には大乗の縁起観について以下のようにあります。

「自と他、原因と結果、運動と変化、同一と別異、認識の主体と客体、ことばと対象その他、どれ一つを取ってみても、そこには或る実体化があり、それは概念化されてことばに表現され、ようやく落ちつこうとする。まさにそのそれぞれをテーマに『中論』の各章(全二十七章)は踏み込んで、それらがことごとく否定された末に、たとえば自と他という二分は、自は他に依り、他は自に依って成立するのみならず、しかも自は他の否定であり、他は自の否定でありつつ、他には他の自があり、自には他の他があることの肯定を必然とし、さらに自が自であることは、他にも自があることと他の他であることとに依存しているという、自と他との相互否定と相互肯定すなわち相互排除と相互依存との交錯している実像を、そのほか上述の諸項に関しても、どこまでも鮮明にして行き、こうしたなかに、実体的思考ないし概念化による認識は跡かたもなく消滅して、一切は空であることが露わとなる。
 そればかりではなく、空であるから、すなわち、一切の各々に実体が消滅し去るところにこそ、縁起はその根底を支えつつ、縁起そのものが成立し、そのような矛盾をはらんだ相依相対の故に、実体は無化して無自性であり、空であり、同時にまた、空であり無自性であるところに自在なる縁起が築かれて、一切の成立の可能性が了解され得る。
 こうしたなかに、従来たとえば如来といい、あるいはニルヴァーナといい、隔絶された格別の地位に祭りあげられた実体としての遥か彼方にあったそれらが、如来は衆生(または世間)との、ニルヴァーナは輪廻(または世間、サンサーラ)との、上述した相依相待の縁起関係にあることを解明し、それによって、世俗のなんぴとにも実践修行の地平があまねく開かれる」
 結果として輪廻を認めるのは大乗(に多く)、認めないのは部派仏教という分け方も可能かもしれません。。さらにいえば、論拠などはなにもないですが、意志こそがDNAの現象における「off course」になりうる可能性を秘めているのかもしれません。

ご返事お待ちしております。変な文章ですみませんでした。

 

曽我から ニック ネームさんへ  2006,8,16,

拝啓

 大変申し訳ありません。頂戴したメール、重たい内容だったので、少し時間をかけて反芻しようと思い、仕事の合間にもあれこれ考えるつもりでUSBメモリにコピーしたのですが、雑務に取り紛れてしまい、そのままただ持ち歩いておりました。

 縁によるというのは、突き詰めれば、主体性すなわち自力の否定となり、広く解釈した他力(阿弥陀一人によるのではなく、あらゆる縁による他力)になるのではないかと考えています。一方、大パリニッバーナ経に残る釈尊最期の言葉「怠ることなく修行を完成なさい」(中村元訳)をはじめとして経典のいたるところに見られるとおり、釈尊は精進を繰り返し説いておられます。縁起と精進・努力は、どのようにして両立し得るのか? 今、親鸞の思想を材料にしてもう一度考えてみようと思っています。感想の羅列にしかならないかもしれませんし、ニック ネームさんのメールへの返事にもならないかもしれませんが、HPの小論集にでも掲載しますので、しばらくお時間を頂いて、またご意見・ご批判をお聞かせ頂ければ幸甚です。

 よろしくお願いします。
                              敬具
ニック ネーム様
          2006,8,16,              曽我逸郎
 

 

再び 曽我から ニック ネームさんへ  2006,9,29,

拝啓

 先のメールで触れました、無常=無我=縁起と精進との関係を親鸞を材料にして考える件、小論集のページに掲出しましたので、ご覧になっていただければ幸甚です。

 では、頂いたメールへの返事を・・・。

1、 梵網経について

 以前にも佐藤哲朗さんはじめ幾人かの方から勧められておりましたので、これを機会に、片山一良訳『パーリ仏典 長部 戒蘊篇T』(大蔵出版)を購入しました。まだちゃんと読めておりませんので、感想はいずれ改めて掲載します。

2、 >「縁起から決定論、偶然論両者が引き出せるのでは?」

 私もそう思います。
 ただし、「決定論は我論」という主張はしていないつもりです。私の考えは、「自由とか主体性といった考えは、我論(アートマンがあるという考え)に根ざしているから、釈尊の教えである無常=無我=縁起に反する」というものです。
 縁起が決定論的か、それとも偶然の介入する余地があるのか、ということについては、おそらく後者ではないかと想像しています。いずれにせよ、カオス的であることは間違いないでしょう。恵まれた幸せな家庭に育ってもグレる子もいれば、恵まれない不幸な家庭で育っても思いやりのあるたくましい子どももいます。無数の経験の微妙なニュアンスが縁となり非常に複雑に重なり合い、反応のパターンを形作っていく。反応パターンが形成される局面でも、また、そのパターンの上でそのつどの反応が立ち上がってくる局面においても、微視的に見れば、おそらくなにがしかの偶然性は紛れ込んでいるのではないかという気がします。そして、その僅かな差がカオスによって拡大し、思いがけない反応として現れる。どうしようもない悪ガキがとっさに人を助けたり、素直ないい子がふいに切れたりするように・・・。
 我々とは、執着にもとづく反応パターンによる反応ですが、反応のたびに学習が加えられ、反応パターンは、さらに強固になったり、より効率よく執着をかなえるものに改変されたりしています。古いパターンと新しいパターンとは競合し、そのせめぎあいの中で我々という反応は生起している。そのせめぎあいでも偶然性が働き、我々はついつい怠けたり、頑張ったりするのだろうと思います。
 梵網経に若干触れると、ニックネームさんの言及しておられる六支縁起に関する部分は、144節であろうかと思います。この部分は、6種の感覚器官をとおしてさまざまな縁への接触がおこり、そのつどその縁が内部の仕組みを自動的に展開していき、苦が生まれる、そういうプロセスを説明していると考えます。もしそうであるなら、私の考え方も基本的には同じです。

3、 >「原初についてどう考えるか? 現象を経験する現在よりも価値的に良いものであると思うか?」

 「原初」の意味が今ひとつ掴みきれていませんが、「万物が発生してくる本源」というような意味でしょうか? もしそうなら梵(ブラフマン)ということでしょうし、であれば、かかわりあう必要のないどうでもいい概念だと思います。
 あるいは、執着の反応である凡夫(大人)に対する幼児あるいは動物のことでしょうか? 幼児や動物は、大人のように発達した執着の反応パターンを持っていないので、単純素朴ではあります。先日、村の保育園の運動会がありました。一所懸命に取り組む姿はとてもけなげで愛らしかったのですが、それでも冷静にじっくり分析すれば基本的には欲望の反応でありましょう。釈尊の教えは、幼児・動物の単純素朴な反応に戻ることではなく、精進によって無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得し、執着の反応パターンが改変されて、苦を与えず苦を抜く慈悲の反応パターンで反応するようになることだと思います。
 「価値的に良いもの」という言い方には若干抵抗がありますが、目指すべきは自他に苦を作らない反応をすることであり、それは原初や過去に実現されていたのではなく、これから先において努力・精進して、実現すべきことだと思います。

4、 >「生死についてどう考えるか?良い状態での死が理想と考えて良いのか?」

 「良い状態での死が理想か?」という問題意識がでてくる根拠がよく分かりません。
 理想は、そのつどそのつどの反応が苦を生まないものになること、だと思います。
 死については、死ぬときになったら死ぬだけではないでしょうか。

5、 >「『無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か』を読みましたが、依然として疑問が残りました。」

 すみません。当時とは考え方が変わって、というより、さらに一歩考えを進めて、現時点では、「無常=無我=縁起であれば、主体性や自由はあり得ないが、はからい・努力・精進は起こる」と考えています。
 冒頭で触れた小論集のページ「無常=無我=縁起と精進,はからい。親鸞を手掛かりに」を参照ください。

6、 >「もしも仏教に慈悲というもの(つまり他の救済という地平)が存在しないのであれば、仏教は宗教ではないでしょう。」

 「慈悲は仏教によって生み出されるのではない」と書いたのは、以下のような意味です。

 >慈悲は、もともと凡夫に備わった反応パターンである。しかし、それは執着の反応パターンと競合し、普通は執着に差し障りのない範囲でしか作動しない。釈尊の教えによって執着の反応パターンが弱まるにしたがって、その分慈悲の反応が拡大する。
 小論を再読いただければ幸甚です。

7、 >「意志を現象として処理してしまう以上、そこから「生きる」という意志や種族保存の意欲は生まれてこないと考えます。」

 「生きるという意思」や「種族保存の意欲」を大事なものと考えるのは、あまり仏教的ではないのではないか、と感じます。
 (ホームページ掲載に当たって加筆)勿論、だからといって、仏教は、死ぬことを勧めるものでもない。生きる意志や目的を否定されたら死ななければならないと思うのは、裏返された執着の短絡的発想である。

8、 輪廻について。

 ご存知のとおり、私は、生まれ変わりとか転生とか言われているものは否定しています。輪廻(サンサーラ)とは、そのつどの縁によって執着の反応が起こり、その結果にまた執着して反応が起こるという瞬間瞬間の反応の連続のことだと考えています。同様のことは、ブッダダーサ比丘も説いておられるので、小論、《タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘》もご一読いただければ幸いです。

9、 「輪廻を認めるのは大乗(に多く)、認めないのは部派仏教という分け方も可能かもしれません。」

 これはおそらく、逆ではないでしょうか? 少なくとも、日本テーラワーダ仏教協会は、肉体の死後に続く輪廻を強く主張しています。意見交換のページ、同協会の佐藤哲朗さんとの 03,6,12, の議論をご覧ください。

 断片的なコメントで失礼致しました。またご意見お聞かせください。

                                  敬具
ニックネーム様
         2006,9,29,                曽我逸郎
 

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