ラプサンスーチョンさん 真説摩訶般若波羅蜜多新経(原始仏教の教え) 2006,7,20,

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 こんにちは。ラプサンスーチョンと申します。初期仏教の学びと実践をしている者です。曽我さんのホームページは前から楽しく読ませて頂いております。

 先日、曽我さんの偽経に触発されまして、真説摩訶般若波羅蜜多新経というのを作ってみました。

 大乗の般若心経に対抗して、文の形式をそのままにして、漢字だけ入れ替えただけで、オーソドックスな原始仏教の教えになるんですね。笑っていただけれるとうれしいのですが・・・。

真説摩訶般若波羅蜜多新経

観自在沙門行深奢摩他毘婆舎那時、正見五蘊皆苦、度一切苦厄。諸子等。色不異苦、苦不異色、色即是苦、苦即是色。受・想・行・識亦復如是。諸子等。是諸法苦相、不常不楽、不我不浄、不愛不著。是故苦中、離色、離受・想・行・識、離眼・耳・鼻・舌・身・意、離色・声・香・味・触・法。無仏性、乃至、無如来蔵。見無明、亦見無明尽、乃至、見老死、亦見老死尽。見苦・集・滅・道。得如実知見。以得法眼故、四双八輩、依奢摩他毘婆舎那故、滅尽煩悩、尽煩悩故、無有恐怖、遠離一切顛倒妄想、究竟涅槃。三世諸仏、依奢摩他毘婆舎那故、成阿羅漢三藐三仏陀。故知、、毘婆舎那行法、是仏陀説、是仏陀法、是無上法、是無等等法、能除一切苦、真実不虚。故説、毘婆舎那行法。
如是我聞、一切行無常不忘念不怠勤精進。善哉善哉、般若新経。

<現代語訳>

偉大なる智慧の完成の真実を説く新しいお経

 見る能力を育てた修行者がサマタ・ヴィパッサナーを深く行じているとき、人間を構成する身心の働きはすべて苦であると正しく見て、一切の苦しみを乗り越える。

 諸子よ、この肉体は苦に他ならず、苦に他ならないものとはこの肉体である。肉体はすなわち苦であり、苦とはすなわちこの肉体である。同様に、感覚も、先入概念による判断作用も、意志などの出力反応も、認識することもまた苦である。

 諸子よ、このように一切の現象は苦の姿を示しており、不変なものでなく、常に揺れ動き、とりとめもなく変化消滅しつづけている。安楽なものでもなく、これは私であるとも言えず、清らかなものでもない。ゆえに渇愛は成り立たず、取著も成り立たない。

 このように、修行者は苦の真っ只中にあると見るがゆえに、肉体への執着を離れる。同様に感覚への、概念判断への、意志反応への、認識作用への執着を離れる。見たら見たまま、聴いたら聴いたまま、嗅いだら嗅いだまま、味わったら味わったまま、触れたら触れたまま、思ったら、ただ思ったままであり、執着を離れている。

 そこでは仏性だとか、如来蔵だとかいう仏教概念さえも成り立たない。ただそこに苦に関する無知を見る。見極めた瞬間、それは消える。そして老いや死、一切の苦しみ、悲しみ、憂いを見、それらの滅尽を見る。すなわち、苦に関する真理、苦の発生に関する真理、苦の滅尽に関する真理、苦の滅尽に到る道に関する真理を見る。これが、ありのままの事実のみの世界を見ることなのだ。

 法を見る眼が生じた四双八輩の聖者たちは、このようなサマタ・ヴィパッサナーの実践によって、次々と煩悩を滅尽する。煩悩が尽きるがゆえに、だんだんとあらゆる恐怖がなくなる。一切のあべこべな妄想概念から遠く離れていき、ついには究極の理想である解脱涅槃を体験する。

 過去、現在、未来のブッダたちは、いつの世も、このようなサマタ・ヴィパッサナーの実践法を発見して阿羅漢果を得、正自覚者となるのだ。ヴィパッサナー実践を知るがゆえに、これはブッダの説である。まさしくブッダのダンマである。至高の教えであり、比類なき教えである。よく一切の苦を克服する方法であり、真実にして結果の出ない教えではない。

 ゆえに、今またここに、ヴィパッサナー実践を説こうではないか。このように私は聞いている。「一切の形成されたものは、滅び行くものである。サティを忘れず、怠らず勤め精進せよ。」サードゥ!サードゥ!サードゥ!智慧に関する新しいお経でした。

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 これは一つのパロディーなんですが、般若心経の文体が簡潔で優れているため、漢字を変えても、意味のとおった文章になるんですね。
般若心経は四諦などの原始仏教の概念を捨てよと説きますが、漢字を入れかえると、逆に大乗仏教の概念を捨てよということが言えてしまう。 どちらも智慧に基づいての論理であるところが面白い。

 しかしながら、空とか無とかでぐいぐい押して、呪文を説いちゃうほうが、一般人にはやっぱりうけるだろうなと思いました。苦苦苦ではありがたいより不吉な印象を受けてしまう(笑)。原始仏典はどちらかというと、後者なんですけどね。

 一応、これは創作経典ですが、偽経ではないんです。仏説とは言ってないし、相手も舎利弗とか阿難とかの聖弟子ではない。新経と堂々とつけてますので、偽経ではないんです。後世の仏弟子が、自分の信念を述べたことがわかるようにつくりました。ただ、オリジナル般若心経が著作権を主張されると困りますが・・・パロディーだからいいのかな・・・?

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