Libraさん 日蓮の思想と釈尊の教え 2006,7,7,

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 ずいぶん前に曽我さんにお世話になったことがある Libra です。

 本日、ひさしぶりに「月を差す指はどれか?」を拝見いたしました。

 そして、「翌桧さん 大乗の空と釈尊の教え、日蓮 2005,11,12,」(意見交換)の中で、曽我さんが、「日蓮の思想については、きちんと勉強したことがなく、表面的な印象に過ぎませんが、釈尊の教えとはずいぶん違っているように感じます。」とご発言されていることを知り、たいへん興味をもちました。

 曽我さんのことですから、もし日蓮の思想について理解されていないのであれば、単に「無知」を表明されたことだろうおもいます。しかし、そうはなさらずに、上のようにおっしゃられたということは、たとえ「表面的な印象に過ぎ」ないとしても、それなりの理由がおありなのだろうとおもいました。

 わたしは、曽我さんとはちがって、日蓮の思想の中心的な部分を支持しています[*]。また、曽我さんの仏教理解とわたしの仏教理解はかなり近いともおもっています。

 そんなわたしにとって、曽我さんが「日蓮の思想」を「釈尊の教えとはずいぶん違っている」とお感じになられる理由というのは、わたしがそこから学べるチャンスがとても大きいものであると感じます。

 お忙しいとはおもいますが、簡単でよいので、上記理由をご教示頂ければさいわいです。

  [*] 法華経について
    http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html
    http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html (07,8,28, URLの記載を変更。以下も同じ)

                         2006.07.07  Libra

 

曽我から Libraさんへ  2006,7,17,

拝啓

 返事遅くなりました。

 Googleで検索していてLibraさんのサイトが上がってきた時など、時々サイトを拝見しております。あまり更新しておられないのかと思っておりましたが、他のところでご活躍なさっているのですね。

 さて、メールを頂いて、武道ものによく登場するシーンを思い出しました。おっちょこちょいの武道家が悪乗りして大きな口を叩き、他流派に聞きとがめられ、手合わせを求められて、慌てふためく。私もそんな心境です。「はぐらかさずにちゃんと答えろよ」と、Libraさんに真正面から正眼の構えで見据えられたような気がします。しかし、正直にお答えしても、言い訳のような内容になりそうです。

 では、その言い訳を・・・

 日蓮の思想について私の知っていることは、高校の倫社の教科書の記述に断片的な雑誌の記事の読みかじりを加えた程度です。ですので、日蓮の思想の「中心的な部分」どころか枝葉の一部しかしらず、一部の枝葉から抱いた印象でしかありません。

  1. 「南無妙法蓮華経の題目を唱えよ」と教えたこと。これは、釈尊の三学や八正道とは異なる実践です。
  2. 法華経そのものが、釈尊からずいぶん時代を経て成立したものであり、無常ではない久遠の仏を説いている点。
  3. 法華経信仰をすれば、国家の災いが避けられると説き、時の権力者に積極的にアプローチしたことも、釈尊ならなさらなかったと思います。
 おそらくLibraさんは、「なんだ、そんな初歩的なレベルでの印象だったのか」とがっかりされたことでしょう。すみません。これが正直なところです。

 それから、釈尊との違いということではなく、昔、法華経を読んで感じたことは、人を熱くさせるというか、行動へと駆り立てる強烈な力が法華経にはあると思います。戦前・戦中のアジア侵略を支えた思想的背景に法華経・日蓮主義(の逸脱型?)がある一方で、妹尾義郎のような左の活動家も生み出しています。左右を問わず、社会に積極的にコミットし、「理想」を目指して現実を変革していこうとするのは、法華経、日蓮思想の特徴だと思います。このことは、降りかかることをすべて無批判に受け入れようとする浄土系の思想(しかし、そうすると一向一揆はどう位置づけるべきか・・・?)とは好対照です。いうならば、法華経・日蓮思想はNo! I reject it!の立場で、浄土系はYes, I accept everything.の立場でしょうか。

 しかし、一方で、日蓮思想に対する自分の印象は表面的で「中心的な部分」を知っていないのではないか、という感じもありました。ひとつは宮沢賢治です。賢治は、無常=無我=縁起が見えていたに違いないと感じます。「春と修羅」序では、自分をはっきりと現象だと書いていますし、

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 先日出張の途中立ち寄った小岩井農場でもらったパンフレットには、こんな一節がありました。
 すみやかなすみやかな万法流転のなかに
 小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
 いかにも確かに継起するといふことが
 どんなに新鮮な奇蹟だらう
 「継起する」という普通ではない言い方に、丘や森や野原が持続的に存在しているのではなく、瞬間瞬間に立ち上がっていると感じていたことが分かります。また童話でふんだんに使われるユニークな擬態語も、自分の目に映るダイナミックな変化を、なんとか生き生きと表現したい、伝えたいという気持ちの現れだったろうと想像します。

 長々と書きましたが、賢治をして、ものが持続的固定的に「ある」という思い込みを脱せしめ、無常=無我=縁起のままに見ることを可能にしたのは、おそらく法華経だったのでしょう。無常=無我=縁起は、まさに仏教の「中心的な部分」であり、それを法華経・日蓮思想は、私のまだ知らない所、やり方で正しく伝えているのかもしれません。
 (06,7,23加筆。但し、無常=無我=縁起を自分のこととして腑に落ちて納得していたかどうかは、分からない。菩薩として人の役に立ちたいと願いながら、思うに任せない修羅のごとき懊悩を見ると、そこまでではないような気がする。そこが賢治の魅力でもあるのだが・・・)

 そしてなにより、日蓮という道を辿ってこられたLibraさんのお考えと日蓮をぜんぜん知らない私の考えとが非常に近いということが、日蓮が釈尊の教えを正しく継承しているということの証左なのかもしれません。そう言えるためには、我々二人が、正しく釈尊の教えを理解しているという前提が必要ですが・・・

 今、縁あって浄土・他力思想を勉強してみようと思っています。また今回は、日蓮についても課題を頂戴しました。今まで怠ってきた日本の仏教について学ぶ時期がきているのかもしれません。少し時間がかかるかもしれませんが、ご紹介いただいたサイトを拝読し、思ったことをご報告いたします。

 今後ともご意見ご批判をお聞かせくださいますようお願い申し上げます。

                                敬具
Libra様
        2006,7,17,                 曽我逸郎
 

Libraさんから  2006,7,18,

 お忙しいところ、ご返事ありがとうございました。

 ご指摘いただいた3点について、わたしなりに日蓮を擁護しておきたいとおもいます。日蓮の思想についてお考えになる機会に参考にしていただければさいわいです。

1.法華経の題目を唱えることは釈迦の教えに反するか?

 「南無妙法蓮華経の題目を唱えよ」と教えることじたいは、釈迦の教えに反するものではないとわたしはおもいます。

 釈迦は次のように言い残したといわれています。

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アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、「教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ」と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、中村元訳『ブッダ最後の旅』〔岩波文庫〕、1980年、p. 155)
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 後述するように、もし法華経の中心部分が釈迦の教え(縁起説=無我説)を正しく継承しているとすれば、法華経を師とすることじたいは釈迦の教えに反しないとおもいます。法華経を読み、その理解をタイトルに集約して身に刻むように唱えるという行為もまた釈迦の教えに反しないとおもいます[*01]。

 日蓮は「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」)といっています。日蓮にとって、題目に集約されているところの法華経理解とは何か、すなわち、五字には何がつつまれているのかというと、それは「一念三千の法門」です。「一念三千の法門」というと難しく聞こえるかもしれませんが、その内容は、「空・縁起の思想」と同じです[*02]。

2.法華経の久遠仏はアートマンか?

 法華経はたしかに「釈尊からずいぶん時代を経て成立したもの」です。しかし、そのことからただちに法華経の作者の仏教理解がまちがっているということにはならないとおもいます。これは、スッタニパータの仏教理解があやしいことの裏返しです(ノンフィクションである初期経典とフィクションである大乗経典を単純に比較することじたいがナンセンスであるともいえますが)。

 もし、曽我さんがおっしゃるように、法華経が「無常ではない久遠の仏を説いている」のだとすれば、わたしも法華経をキッパリと否定します。しかし、わたしは、法華経は「無常ではない久遠の仏」などは説いていないと理解しています。

 わたしがイメージする久遠仏(永遠に説法する釈尊)は、三枝充悳先生が「形のない釈尊」と表現されている釈尊[*03]であり、増谷文雄先生が説明されているような意味での「法を見る者が見る釈尊」[*04]です。

 法華経の寿量品には「一心欲見佛。不自惜身命。時我及衆僧。倶出霊鷲山」とあります。ここからも、法華経の久遠仏はアートマンではないということを読み取ることが可能だとおもいます。

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「法華経の久遠釈尊」は“真理そのもの”ではありません。そうではなくて、“仏の言葉(教法)”の「危機的」な永遠性の表現だと思います。〔中略〕「危機的」というのは、“釈子がいようがいまいが無関係にそれ自体として存在する独立自存の実体(アートマン)ではない”ということです。釈尊を恋慕して真摯に仏説に耳を傾けるその求道心が“存続する限りにおいて”生き続けるということです。

(仏身論メモ、 http://freett.com/Libra0000/z014.htm
         http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html)
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3.法華経の中心思想は「空・縁起の思想」

 法華経の中心思想は「空の思想」であり、法華経はそれを「もっぱら実践的関心に即して表現しようとした」[*05]ものであるとわたしは理解しています。

 「空の思想」の実践とは菩薩行であり[*06]、法華経は全編にわたって菩薩行(=「空の思想」の実践)を説いています。宮沢賢治は、法華経に説かれている菩薩行に感動し、自ら実践しようとした結果、「無常=無我=縁起が見えていた」のだと推測します。

 また、法華経は、「空の思想」についての哲学的な議論を展開するものではないとはいえ、空について直接説いている箇所がないというわけではありません[*07]。

 同じ「空」という用語を用いる場合でも、経典によって意味が異なる場合がありますが[*08]、わたしが支持する「空」は、釈迦が説いた「アートマンの存在を否認する意味での『無我説』」[*09]と同じ内容を表現する「空」です。

 法華経の方便品は、縁起説を説く『律蔵』「大品」の「最初の場面を真正面から意識して書かれた」[*10]ものであるという袴谷先生の見解をわたしは正しいとおもいます。両者を読み比べてさえみればこのことは明らかだろうとおもいます。すなわち、法華経は縁起説を「真正面から意識して書かれた」とわたしはおもいます。

 「シャーリプトラがそれを聞いただけで仏教に帰依したものとして有名」[*11]な「縁起法頌」によって法華経がしめくくられている[*12][*13]ことを考えると、法華経の作者は「十二支縁起」よりも「縁起法頌」という形で縁起説を支持していたのだとおもいます。ちなみに、方便品の対告衆はシャーリプトラです。

 以上のような理由から、法華経の中心部分は釈迦の教え(縁起説=無我説)を正しく継承しているとわたしは理解しています。

4.「時の権力者に積極的にアプローチ」したという点について

 わたしは、「そもそも『知性(intellect)』とは、物ごとを区別してそれらの『間(inter)から選びとる(lego)』ことを意味する」[*14]とおもっていますが、日蓮も、「真の知性人」[*15]の一人だとおもいます。

 「時の権力者に積極的にアプローチ」したという点は、「設い王のせめなりともはばかるべからず…ありのままに申すべし」ということを実行したという意味において、むしろ肯定的に評価したいとおもいます。

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本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん、又法門によりては設い王のせめなりともはばかるべからず何に況や其の已下の人をや、父母師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらずありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに

(「破良観等御書」、堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』、創価学会、1952年、p. 1293)
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 もっとも、日蓮は、当時の常識にしたがって、密教経典をも含めて「仏説」と理解していますし、密教と合体した日本の天台宗から出発しています。日蓮の思想に含まれている密教の残滓の部分は釈迦の教えに反するとわたしもおもいます。しかし、それは日蓮の中心思想ではないので捨てることが可能だし、捨てるべきであるというのがわたしの考えです。

 註

  [*01] 題目論メモ(Libra)
     http://freett.com/Libra0000/z019.html
     http://fallibilism.web.fc2.com/z019.html

  [*02] 一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
     http://freett.com/Libra0000/122.html
     http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

  [*03] 生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/020.html
     http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  [*04] 「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
     http://freett.com/Libra0000/085.htm
     http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

  [*05] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、1969年、p. 400。

  [*06] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
     http://page.freett.com/Libra0000/069.htm
     http://fallibilism.web.fc2.com/069.html

  [*07] 本尊論メモ(Libra)、〔05.09.24 補足1〕
     http://freett.com/Libra0000/z013.htm#hosoku050924a
     http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html#hosoku050924a

  [*08] 「空」―断固たる否定の精神(三枝充悳)
     http://freett.com/Libra0000/019.html
     http://fallibilism.web.fc2.com/019.html

  [*09] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/082.htm
     http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

  [*10] 袴谷憲昭『本覚思想批判』、大蔵出版、1989年、p. 12。

  [*11] 玉城康四郎説批判─根源℃v想は仏教にあらず(松本史朗)
     http://freett.com/Libra0000/071.htm
     http://fallibilism.web.fc2.com/071.html

  [*12] 中村瑞隆『現代語訳 法華経 下』、春秋社、1998年、p. 221。

  [*13] 松濤誠廉他訳『法華経U』、中公文庫、2002年、p. 264。

  [*14] 「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
     http://freett.com/Libra0000/003.html
     http://fallibilism.web.fc2.com/003.html

  [*15] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
     http://freett.com/Libra0000/005.html
     http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

                          2006.07.18  Libra

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