鈴木親洋さん 山口県の母子殺害事件ほか 2006,6,29,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はじめまして(^^)
曽我さんのHPには、「仏教 欲」と検索したらたどりつきました。
申し訳ありませんが、年齢は不詳とさせていただきます。

私は最近、仏教に興味を持ち出しました。
きっかけは、”博打”です。何のことやら分からないと思いますが…(笑)。
私の人生の師と仰ぐ方に(博打の師でもあります)、「博打は”欲”があっては勝てない」と口を酸っぱく言われています。
私は、”博打で勝つこと”を第一条件に日頃の生活からも、なるべく”欲”を出さないように気を付けて生きています。

この”欲”というものに気を付けて生活をしていますと、色々と考えさせられ気付かされます。
自分自身を見つめるようになり、人間というのはどのようなものかと考えるようになりました。
そして、今まで生きてきて全く興味の無かった”仏教”というものに興味を持ち出しました。

曽我さんのHP内を大まかに読ませて頂きました。
詳しい仏教の話しになってくると、難しい漢字も多く頭が痛くなってきますが、がんばってます。(笑)

前フリが長くなってしまいましてすいません。
何故メールを書いたかと言いますと、
曽我さんは、仏教にかなり精通されているということは分かったのですが、曽我さん自身の考え方がイマイチ見えてきませんので、それを伺いたくてメールさせていただきました。

私の読み方が足りないせいか、曽我さんのさまざまな意見を伺っていますと仏教の考え方が”そのまま”物事の答えであると言われているように感じました。

議題としては、
最近の事件より「山口県の母子殺害事件」について考え方を聞かせて頂けましたら、ありがたく思います。「死刑」でも結構ですが…。

前記で”欲”についてえらそうに語っていた私ですが、
この質問は、”仏教に詳しい村長さん”である曽我さんという人間に興味があり、人間性を知りたいという私の”欲”であり、
仏教の欲という考え方からは、反している”私欲”ですが宜しければお聞かせください。

長々とくだらないことを書いていますので、ここまで読んで下さっているか心配ですが…、
私の考えですが、仏教の詳しいところは分かりませんが、時代によって考え方が異なってくると考えてます。
例えば、”欲”について考えますと昔の貧しい時代に比べて、現代のモノが溢れる豊かな時代の人間にとっては、当然欲が深くなると思います。
寺のお坊さんでも同じですが、日本のように税金を払わなくてよくては、精進しずらい環境と思います。
モラルという言葉が合っているか自信がありませんが、求められるモラルの高さが時代によって変化すると考えています。
(そうは言いましても、譲れないものも多々あると思いますが…。)
説明が下手くそですいません、「何が言いたいか」と言いますと、「時代によって仏教の考え方を変化させる必要があるのでは?」と感じています。
「それは何があるんだ?」と言われますと無責任にもうまく説明できません。すいません…。

もう一つ質問をさせてください。
私は神様というものは、自分自身の中にいる”もう1人の自分”と考えていますが、仏教でもそういう教えなのでしょうか?

まだ色々と人間として考えることがありますが、曽我さんにその気がありましたら聞いてください。

鈴木 親洋

 

遊子さんから  死刑について  2006,7,2,

最近になって、死刑判決が急増しています。7年間一貫して極刑を望まれた被害者の夫のマスコミを通しての訴えに世論が同情したということもあり、殺人事件の多発に苛立つ人たちが、死刑をどんどん執行したら、抑止になると単純に考え、その風潮はエスカレートしていると思います。広島の女児暴行殺人にも、今までは二人以上の殺人で死刑になっていたのが、今回はどうやら死刑が言い渡されそうです。父親はついに娘の実名と写真をマスコミに発表しました。殺害に到るまでの容疑者の行動まで。父親は性犯罪の抑止になると言われましたが、果たしてそうでしょうか?私は、反対です。怒りの捌け口が、そういう形になったのでしょうか。逆に興味を煽るように成らなければいいと危惧します。死刑が怖いから人を殺さないのじゃない。殺人はしてしまうものなのです。何かに駆り立てられるように。業縁もよおさばいかなるふるまいをもすべし。(親鸞)それが人間と言う哀しい生きもの。死刑に関する情報を知りたいと思い、インターネットで調べ反対者の意見を読んで、初めてその実態を知りました。国が人を殺す死刑制度を有しながら、いのちを大切にと言っているわけです。法は人を殺してはいけないとフランスの法相は死刑を廃止しました。ヨーロッパではほとんどの国が廃止しましたが、殺人が増えたというデータはないそうです。皮肉なことに、制度を有しているアメリカと日本で殺人が急増しているのです。日本では過去400年余りもの間死刑が行われなかった時代があることを知りました。仏教の影響だそうです。釈尊は、「全ての者は暴力におびえ、全ての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」と言われました。死刑を執行する刑務官は、自分が殺人をした気持ちになって、心が荒れると言います。立会い死を見届けなくてはならない医師、看護士も精神的疾患になる人が多いそうです。第三者に殺人を押し付ける死刑制度の実態を国民はもっと知るべきでしょう。スッとするのは、被害者でもなく、その家族でもなく、被害者に同情する遠い人たちです。犯人が殺されても、愛しい者は決して帰ってこないのですから。死刑を望む事は、自分がもう一人殺すことになる、そして息子との思い出が穢されると言って、死刑反対運動を始めたアメリカの女性のことも載っていました。罪を悔い真人間になる道を閉ざす死刑には反対です。冤罪の問題も深刻です。終身刑のほうが死刑よりお金がかからないことも知りました。正義が幅をきかせ悪を赦さない社会はどんどん人を冷たくします。 書かせて頂き有難うございました。 遊子
 

 

鈴木親洋さんから 再び 遊子さんのメールへの御礼  2006,7,7,

私が曽我さんにえらそうに”死刑”について意見を訊ねましたが、私は死刑反対の方の理由をあまり知りませんでした。
今回、遊子さんの意見を読んで分かりました、ありがとうございました。

大切なことは被害者の感情では?
第三者の多くは、死刑の判決が犯罪の抑止になると考えているのではなくて、単純に同情しているのだと思います。

このような犯罪が起こったときに皆さんが、自分ならどういう感情・行動をするかと考えると思います。「自分の一番大切な人を奪われた時に」。

少し話しをそらしてしまいますが、妻との話しですが(植物人間という言葉が差別発言でしたらすいません)、
もし、事故で私が植物人間になった時にどうしてほしいか、聞いたことがあります。
妻は少し考えて、「植物人間でもいいから生きていてほしい、温もりを感じることができるから」と言われました。私は植物人間より死んだ方が良いと考えていましたが、妻がそれを望むのならばそうした方が良いと考えます。妻のエゴとは全く感じてません、愛情を感じました。

私は、裁判の判決というのは事件の被害者にとってのものであると思います。しかし、犯罪というのは一つだけではありませんので、難しいのでしょう。被害者の方の事を考えてから、加害者の事と思います。

法律には全くの無知ですので何も語れませんが、私達第三者は様々な事件から”勉強をさせていただく”ことがとても重要と感じます。

ある方が人は、「死」を知ったから宗教が始まったと言われました。人間にとって「死」というのは特別な事と思います。しかし、私は「人が人を裁く(死刑)こと」は、絶対にいけないこととは思いません。

もし、人類を創造した神がいるのならば、その神は全ての人に対して平等に扱います。
そして、神は見ているだけで手は出しません。だから、平等と考えます。
ならば、間違った行動をとった人間に罰を与えることができるのは人間しかいません。

相変わらず下手くそな文章ですいません。仏教を全く知らない素人の考えですので、多くの反論を覚悟しています。

”PS 曽我さんへ”
意見の内容が、HPに相応しくなかったら教えてください。
書き込みを止めます。

 

曽我から 鈴木親洋さんへ 我らは皆凡夫=執着の反応 2006,7,11,

拝啓

 メール拝受いたしました。返事が遅くてすみません。

 >最近、仏教に興味を持ち出しました。きっかけは、"博打"です。
 仏教へと導く縁にも、いろいろなものがあるのですね(^-^)。よき縁となって発展するよう祈ります。
 >なるべく"欲"を出さないように気を付けて生きています。
 欲がでるのは自動的反応で、その対象に価値があると思うからです。本当に価値があるのか、よく観察して確かめていくと、どれも、欲を出しても詮方のない、自分の物にしておくことのできないものだと分かります。そもそも自分自身がそうなのですが、このことはなかなか納得しづらいことで、普段の私もそんなことは忘れて、ひたすら我執の反応を繰り返しております。我々は執着の反応であり、つまらないものに執着し、欲を出して、苦をつくっています。

・・・・・・
 山口県の母子殺害事件については、テレビニュースで垣間見た範囲しか詳細を知りませんので、一般化して犯罪について思うことをまとめてみます。

 これについては、鈴木さんの問いかけに応じて、遊子さんという方からもご意見を頂きました。遊子さんも言及しておられますが、親鸞の言葉に「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄第十三条)というものがあります。また、その少し前では、「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と言っています。

 また、釈尊は、無常=無我=縁起を教えてくださいました。つまり、私たちは縁に応じてそのつど立ち起こる反応なのです。善人とか、悪人とか、なんであれそのような固定的な実体があるわけではない。だから、縁によってどのような振る舞いもする。

 アメリカの片田舎のおそらくは平凡な女の子が、州兵としてイラクに派遣され、やったこともない看守を命じられて、いいぞいいぞとはやし立てられ、調子に乗って、首輪をかけられた裸のイラク人捕虜と写真に納まり、気がつけば、退屈な毎日に厭きつつカウチポテトでテレビを見ている大衆から「アメリカの恥」とののしられる。

 村にいる時は、いいおじさん、いいお兄さんだった人が、赤紙で中国へ送られ、戦場の異常な状況の中で縁のままに流されて、みんなでとんでもないことをしでかす。フィリピン戦線では、命令系統も崩れ、極限の飢餓状態で、死んだ戦友を食い、現地人を殺して食べてしまう。

 極端な例だとお思いかもしれませんが、基本的には同じことです。現代の様々な不祥事も、そもそもは、「まあ、こうでもしないとしょうがない」といった、些細な現場的辻褄あわせ、自己正当化から始まって、だんだんと拡大し、その狭い現場の常識が次第に世間の常識から乖離してしまい、ある日問題として発覚するのではないでしょうか。

 我々は常に社会のまっとうな一員で、事件を起こす奴らはもともと凶悪だった、ということではありません。普通の人(凡夫)が、縁によって犯罪を犯し、我々もまた凡夫であり、そうなる可能性があるのです。

 「いや、そうではない。最近の凶悪犯罪者を見よ。奴らは根っからの悪人だ。犯罪を犯しておきながら、いけしゃあしゃあとテレビの取材を受けたり、法廷での態度にも悔悛のかけらも見えない。」そう感じている方も多いでしょう。
 そういう意見に対しては、こう考えます。犯した犯罪自体が縁となって、その人に作用すると。犯罪を犯したという自責の念、世間から疑われている(のではないか)という恐怖、そういったものからなんとか自分を守ろうとする必死の防御反応が、なにくわぬ顔の取材応対だったり、開き直りとなって現れるのだと思います。犯罪を犯したことから生じる縁の中で、なんとか自分を守ろうとする執着の反応です。犯罪を犯したことは認めても、「こうなるには必然性があった、おれは正しい」と、正当化して自己防御せねば耐えられないのだろうと想像します。

 一方、また逆に、犯罪者が縁によって更生することもあります。
 経典にアングリマーラの話があります(マッジマニカーヤ86)。凶賊アングリマーラは、大勢の人を殺し、その指を切り取って飾りとして身につけていましたが、釈尊に出会えた縁で、出家して比丘になり、尊者アングリマーラと呼ばれます。
 現代でも更生した犯罪者はいる筈ですが、そのことがあまり報じられないのは、おそらくそんなニュースは大衆にとって刺激がなく、つまらないからでしょう。実際には、犯罪を犯した人の多くが更生し、よき人として暮らしているに違いありません。

 そのことを考えると、死刑は、改心して更生する可能性を遮断することです。ですから、私は死刑には反対です。死刑ではなく、改心の起こる良い縁に触れられるようにすることが理想だと思います。
 しかし実際は、犯罪者は良い縁に触れるどころか、よけい悪い縁に覆われているのが現実でしょう。刑務所でも悪い縁をもらい、出所しても、白い目で見られ普通の生活は難しくなる。
 このことは、自分が犯した犯罪を縁とする結果でもあります。アングリマーラも尊者となってなお、人々にものを投げつけられ怪我をさせられていて、釈尊は「業の果報を耐えて受けよ」と教えておられます。

 同経の最後にある尊者アングリマーラの感嘆の言葉の一節。
 「かつてなした悪業を
  善によって包むならば
  かれはこの世を輝かす
  雲を離れた月のごとくに」(片山一良訳『パーリ仏典中部』大蔵出版)

 書き写して、「包む」という言葉に含蓄を感じました。善によっても過去の悪業が消えてなくなる訳ではない。水に流せはしない。そうではなく、しでかした悪業を善によって正しく受け止めきちんと保持し続けることで、悪業をなした人も世を輝かすのです。

 勿論、犯罪は、犯罪を犯した本人にのみ縁となるのではありません。誰よりも被害者に大きな影響を与えます。殺人の場合、命が終わってしまうのです。
 テーラワーダの方なら、「殺された人は、そういう業をつくっていたのだ、その因果だ」とおっしゃるのかもしれません。でも、わたしはそんなふうには考えたくありません。また、そういうことが起こりうる仕組みについても、納得のいく説明にであったことはありません。
 行きずりの犯罪に巻き込まれるのも、シリアスな病気に罹ったり、たまたま事故にでくわすのと同様、残念ながら縁としか言いようがないと思います。いくら理不尽だと感じても、なぜかと理由を尋ねても、仕方がない。我々が縁起の現象である以上、そういうことが起こるのはどうしようもないことです。我々が縁起の現象であり、凡夫は執着によるパターンで反応しており、互いに縁を投げかけあっているのだから、犯罪や悪業も起こってしまう。なるべくそういうことをなくして苦を減らそうとするのが釈尊の教えですが、世の大半は、凡夫=執着の反応である以上、今すぐにそういった苦をすべてなくしてしまうことは不可能です。私たちは、さまざまな苦を縁によるものとして受け入れながら、凡夫なりに、新たな苦を自分からはできるかぎり作り出さないようにしよう、与えないようにしようと、努めるほかはないのだろうと思います。

 家族を殺された遺族の方が、犯人に極刑を望まれる気持ちは、まったく無理もない、極めて自然な感情です。私自身その立場に立たされたら、そのような気持ちになる可能性が高いと思います。
 しかし、それでもなお、その感情は、執着による反応であり、自分と世間とに苦を作るものだと思います。私たち凡夫には難しいことですが、家族を失った悲しみを丁寧に「包んで」大切に保持する、けして憎しみや攻撃の感情に転化しない、そういう努力が大切であり、それが亡くなった方の思い出を汚さないことにもなると思います。悲しみを純粋な悲しみのまま受け止めるための釈尊の教えも、無常=無我=縁起です。

 ご家族の感情は無理のないものだと思いますが、私が一番問題があると思うのは、一般の大衆の反応です。

 「あいつは人間じゃない。あんな奴は死刑にしろ。」自分をあたかも本性的に「社会のまっとうな一員」であるかのように思いなし、安全なところに立ち、その上大抵は匿名性に隠れて、反撃される心配のない安心して攻撃できる標的を非難する。彼らは、怒ることを楽しんでいるのだと感じます。被害者とその家族をだしにして、自分のストレスを解消している。思う存分叩けるスケープ・ゴートをいつも探しているのです。思いつくところでは、イラクで人質になった人たちがそうだったでしょうし、北朝鮮に対する反応にもその傾向はみられると思います。
 更新情報のページで偉そうにしばしば時事問題に触れながら、北朝鮮に関するコメントを私が避けているのは、北朝鮮は確かに馬鹿げた支配体制にありますが、現状、国内世論的には十分すぎる非難があがっており、そこに加わることは、大衆の執着による自動的な怒りの反応にわずかなりとも油を注ぐことになりかねず、それは避けたいからです。
 大衆の多くを覆って共通の自動的単純反応が起こる時、反応は相乗効果を生み出しやすく、またそれを煽ってつけ込む人も現れます。反応は縁となりさまざまな影響を及ぼし、その結果は思わぬところに思わぬ形で現れるかもしれません。例えば、北朝鮮問題で言えば、中国や韓国の対日警戒心、反感としてとか・・・。そして、それがさらに日本大衆の過剰な自動的反応を引き起こす・・・。犯罪者一個人の犯罪以上に、大衆の執着の反応のうねりがもたらしかねない巨大な苦の方が、私には心配です。

 先日、保護司の方にお話を伺う機会がありました。保護司というのは、犯罪者の社会復帰を助ける無給の、いわばボランティアですが、安心安全の社会作りに貢献するという役割も与えられています。しかし、今、安心安全な街づくりというと、「前科モノに気をつけろ、目を離すな」という方向に進みがちで、犯罪者の社会復帰との両立が難しくなっているそうです。ここ数年、違和感を感じる人を社会から排除しようとする傾向が、また強まっているような気がします。犯罪を犯した人のみならず、誰にとっても閉塞感のある社会になりつつあるように思えます。表向きは自由が叫ばれながら、身近なところでまわりの顔色をいつも伺うような窮屈な日常は、人を屈折させ、ストレスを蓄えさせ、かえって短絡的犯罪をおこりやすくしているのではないでしょうか。

 長々と書きました。まとめて申し上げるなら、犯罪を犯す人も、被害者もその家族も、それ以外の一般の人も、誰もが凡夫(普通の人)であり、その人なりに蓄えられた執着のパターンによって、そのときそのときの縁に反応している。そのつどの執着の反応こそが、その人である。執着の反応は、その人自身と、周囲の人々の苦しみの原因となり、人々は苦しめ合っている。
 私たちは、無反省に執着の反応を繰り返すのではなく、自分という反応に気をつけ、冷静な対応を心がけるべきである。誰もが執着の反応なのだと大きな心で赦しあい、不完全ながらもみんなが互いによき縁となれるような社会、よき縁の輪が広がっていくような社会を目指したい。

・・・・・・・
 今回最も取り上げたかった問題は以上ですが、他のご質問にも簡単に考えを述べます。

>時代によって仏教の考え方を変化させる必要があるのでは?
 ないと思います。執着の対象にこそ多少の変化はあっても、凡夫が、自分を守り育てるべきものと思いなす執着の反応であり、その結果苦を作っていることは、いつの時代も変わりはありません。そして、それに対処する方法として、釈尊が教えてくださった無常=無我=縁起の教えも、変わらずに有効です。ただ、無常=無我=縁起を説明する方便は、その時代の常識にあわせた方が、誤解なく伝わりやすいと思います。
>私は神様というものは、自分自身の中にいる"もう1人の自分"と考えていますが、仏教でもそういう教えなのでしょうか?
 私たちは、縁によるところのそのつどの反応、そのつどの現象であって、独立自存の持続的「わたし」などありません(無我)。釈尊の教えに神様はありませんし、釈尊も、信じられないくらいすごい人でしたが、歴史上の人物です。

・・・・・・・・・・・
 舌足らずで分かりにくかったかもしれません。すみません。
 またご意見お聞かせくだされば、幸甚です。
                              敬具
鈴木親洋様
       2006,7,11,                  曽我逸郎
 

 

鈴木親洋さんから 再び   2006,7,13,

公務でお忙しい中で、私の為に時間をとっていただきまして本当にありがとうございました。仏教について素人の私にも分かりやすいように説明していただきまして、大変分かりやすくて勉強になりました。
またいつでも結構ですので、教えていただきたい事がありますのでお願いします。
曽我さんのメールより「私たちは、縁によるところのそのつどの反応、そのつどの現象であって、独立自存の持続的「わたし」などありません」(無我)という言葉をいただきましたが、
私の解釈の仕方が間違っているのかも知れませんが、この「無我」というものは、”個人の人間としての成長”を否定しているように聞こえるのですがどうでしょうか?
私は、お寺さんなどに行ってお参りする行為は、自分と見つめ合う場と解釈しています。故に年を重ねる度に、成長した自分によって、考えることが変わっていくと思います。
私は、今回いただいたメールの中で「縁」という言葉に興味を抱きました。
私が「縁」という言葉に受けた印象では、少し”他力本願的”に聞こえました。あらゆる”縁”は、何人にも影響を受けないモノであると思いますが、私の少ない人生の経験ですが(笑)、自分の努力による”縁”というモノも存在するのでは?と感じています。
ただ、謙虚に考えて、それも”縁”であると考えるのでしょうが、この何人にも影響を受けない”縁”(私の解釈の仕方が間違っていたらすいません)というモノは、少し危険な思想を含んでいるように感じます。”人に悪い妥協を与えてしまう。”間違って解釈してしまう人間もたくさんいると思います。実際に間違った宗教というのは、世の中に多々あると思います。
最後に、世の中で起こる事件などについてですが、現代は外国人の方も多数、日本にいます(私は外国人の方に特別な偏見はもってないつもりです)。しかし、犯罪が増えることは事実であり、犯罪目的で来日する人もたくさんいます。あと、戦争に行かれる方は”麻薬”を打たれるというのはご存知と思いますので、戦争中の出来事の評価は出来ません。
”明治→昭和→平成”と時代は変わり、遊人さんも書かれていたと思いますが、人と人とのつながりが薄くなってきています。私も寂しくも思いますが、今の日本人の価値観や治安の悪さなどを考えると”しょうがない”かなと思ってます。私が小さい頃は家に鍵などかけていなかったと思いますが、今はとても無理です。
私が言うところの「仏教の考えを変化させる」というのは、このようなことでして、仏教の考えに”妥協”をバランス良く加えては?と考えています。
曽我さんは、”村長”という立場からがんばっておられますが、私は選挙にも行ったことがない”イイ加減”な人間です。
そんな私がこんなことを言ったら怒るでしょうが、たぶん世の中がこれ以上良くなることはないと考えています。原因としては、”物の発達”です。ポッケトベルから始まり、ケータイ・パソコンなどです。”物の発達”は、人の”欲”を刺激します。そして、このような物が小・中学生から持つことにとても不安を感じます。人の心のπ(パイ)は、”欲”が増えれば、”思いやり”などの大切な感情が減ります。
第二次大戦などの戦争も原因の一つと思います。苦労をした親が子を甘やかし、また子が子を甘やかし、負の連鎖です。
ただ、現代の良いところと感じるところもあります。「勝ち組・負け組」私のとても嫌いな言葉ですが、「負け組」と呼ばれる方が人生の生き方を模索し始めようとしています。私もその一人ですが(笑)。
私はまだ30年しか生きてません。40になり50になり、考え方が変わっていくと思いますが、まだ私は視野の狭い考えと自覚しています。どうぞこれからも、曽我さんのお時間の許す限りで結構ですので勉強させてください。
                    鈴木 親洋

 

曽我から 鈴木親洋さんへ  2006,7,15,

前略

 >「無我」というものは、”個人の人間としての成長”を否定しているように聞こえる
 執着の反応である我々は、縁に応じて反応をするたびに、反応のパターンが僅かに、時には大幅に改変されます。その執着・欲望がより強化されたり、欲望・執着を実現する方策が洗練され抜け目のないものになることが多いのですが、稀には「これじゃあいかん」と強い反省の反応となることもあります。
 仏教の正統的考えによれば、無我なればこそ変化が可能になります。無我なればこそ、堕落も向上も可能になる。確固たる本質実体があれば、変化はあり得ません。
 >あらゆる”縁”は、何人にも影響を受けない
 ・・・??? なぜそう考えられるのか? どういう意味でおっしゃっているのか、理解できません。

 縁によってそのつどのわたしという反応が起こる。その反応がさらにまた縁となってさまざまな影響を振りまく。縁→反応→縁の連鎖です。よい縁を振りまくよい反応となるように、自分という反応を整えていくことを、釈尊は教えられました。

 >私は外国人の方に特別な偏見はもってないつもりです
 持っておられます。鈴木さんの「偏見」を裏返して日本人に当てはめれば、たとえば「日本人旅行者は、男はみんな買春が目的のスケベ野郎、女はブランド買い漁りの成金悪趣味」ということになります。
 >戦争中の出来事の評価は出来ません
 普通の人に悪行非道をさせ、おびただしい苦を撒き散らすから、戦争はしてはならないと、正しく戦争を評価せねばなりません。

・・・・・
 もろもろご不明の点があれば、「総括:現時点の私の仏教理解」をご一読いただき、テーマごとに関連したページへのリンクもはっておりますので、そちらもお読みいただければ幸いです。

 無我なる縁起の現象に、どうして精進・努力が起こりうるのか、それについては、他力思想、すなわち「精進・努力を自力として否定しすべてをお任せする考え」を検討して、もう少し考えを深めたいと思っています。

 ご意見ありがとうございました。
                                  草々
鈴木親洋様
         2006,7,15,                    曽我逸郎
 

 

鈴木親洋さんから 再び   2006,7,15,

お忙しいところ、ありがとうございました。(^^)

私は、「縁」という言葉を勘違いしていました。
縁=運命的なモノ と勝手に解釈していました。
ということで、「あらゆる「縁」は何人にも影響を受けない」などという”あさって”なことを言ってしまいましてすいません。曽我さんのHPをよく読めば分かることなのに反省しております。

”総括:現時点の私の仏教理解” を読ませていただきました。
仏教を私なりに理解できたような気でいます。

”資本主義経済”というのは、欲によるモノと思い、”社会(共産)主義”が良いのかなぁと思うがそれも違う気がします。
理想は、”福祉”を重きにおいた資本主義が一般論でしょうが、選挙にも行かない私には言う資格もありませんが。(笑)

経済・科学・技術・学問などの発達は、ヒトの欲(向上心)によって得られ、私たちはそれを利用させて頂き、ときには楽をさせて頂いている。しかし、それらは人生においては価値のあることではない。

世界中の人が、”無常=無我=縁起”を理解して涅槃に生きたらどのような世界になるのかと考えると不思議な感じがしますが…。

私がこのような仏教的なことを考えている時に思うことは、「人類を創造した神が人間に”欲”という感情を与えて、どのような状態になるか、遊んでいるのでは?」と思うことがあります。

曽我さんは、”神”などという考え方はないと思いますが、私は様々な神を自分の中で作っています。博打の神、野球の神などです。
これは自制心を高める為の自分なりの方法です。

色々と、くだらない事をすいません。曽我さんのHPと出会い、たくさん勉強させていただきました。これからは最低限、他人に迷惑を掛けないに生きます。そして、慈悲の心を少しずつ増やしていけれるように心掛けます。ありがとうございました!
                       鈴木 親洋

 

遊子さんから 縁て何だろう  2006,7,18,

鈴木さんとのメール読ませてもらっています。仏教に少しずつ関心を持たれているようですね。
初め、死刑のことで、私もお邪魔させてもらったご縁で、鈴木さんのご意見には興味アリというところです。

仏教の本当の意味での「縁」って一般には、あまり理解されてないのかもしれませんね。

運命論に対決するのが縁の思想ではないかと思います。

運命は生まれた時に決まっているというようなことを言う人達がいます。哀しいことに出会ったとき、これはそうなる運命だったと思うことで、なんとなく気持ちを落ち着かせることが出来ます。

そう思わなければ、立ち直れない時、人をそう言う言葉でなぐさめたり、自分に言い聞かせたりします。

でも、本当は、運命は初めから決まっているのではなく、さまざまな縁と縁がからみあい、折り重なって、またそれが新しい縁となり、私に出あいをもたらし、私自身が歩いた軌跡であり、結果なのだと思うのですが。
あるときは喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、という感情を、自らつくり出している。それが、私というものだと思います。

果によって、はじめて、そこに到った因や縁を知ることができます。タネ(因)に水や温度(縁)が加わって芽(果)が出る。

芽が出ても、虫に喰われる縁に出あえば、実ることはないでしょうし、実ってカラスが食べて、糞を落として、・・・・・。

人生は、いつも果がどーんとやってきて、うろたえる。因や縁を作っているときにはわからないから愚かなのでしょうね。

                  遊子 (遊人もいいですね)冬ソナのユジンみたいで。

遊子さんから、再び  2006,7,18,

秋田の小1児童殺害事件にマスコミ報道が過熱しています。我が娘も殺害していたことがわかりました。
犯罪心理学者のコメント、TVキャスターや、ゲスト出演者の容疑者に対するバッシングコメントが飛び交っています。
まず、容疑者の人間性ということをとりあげ、悪の権現のような言い方をします。

もともと無自性空なるものが、縁によっては、魔性をあらわし、仏の縁にあえば仏性となりうる。
百縁百性千縁千性、縁次第で如何なるものともなる。

一切万法の実性たる無自性は、衆生の妄情に遇えば、それを全うじて迷界となり、仏の智慧に遇えば、それを全うじて悟界を展開する。迷界にあって減ぜず、悟界にあって増さず、不増不減の実性である。煩悩を全うじて菩提となり、生死を全うじて涅槃となるのは、この無自性の理によるのである。若し生死に自性があり、煩悩に自性があれば、涅槃を得、菩提を得ることは可能ではない。
阿弥陀仏が、衆生を救うのも同様であって、衆生は無自性であるから、よくこれをなしうるのである。若し衆生が、無有出縁の悪性に固定している時は、弥陀といえどもこれを救い得ないのである。
衆生の煩悩性は、無自性であるから、如来回向の行信を受領すれば、それと同一性に融化することが出来、また浄土に往生して仏性を顕彰することが出来るのである。
     (S・32年版龍谷大学 真宗要論)

どのような悪をなした人間でも、救い得るし、救われねばならない存在であるとして、仏の慈と悲(あえて分けました)と智慧がはたらく所以があるのだと思います。 この事件の容疑者が、罪を悔い本当の人間性を回復することを願うばかりです。
「執着の反応」という表現が曽我さんの文章にあったと思います。嘘をつき続けるのも、自己愛という執着であったのでしょうね。 罪人を憎むより、親の如き悲のこころを持てる人が増えるといいなと思います。

テレビでは、犯人への憎悪を掻き立てるほど視聴率が上がるでしょうしね。逆に弁護したら下がるでしょう。
犯人以外は(親を除いて)総じて正義の代弁人。

「私は今まで決して悪い事はしていません。悪い心も起こしていません。だから人を裁けるのです。」
そういうあなたが、人が死ぬことを願っています。「死刑にせよ」と。

話は変わりますが、他力が自由や主体性を否定するという曽我さんのご意見は、頷けない気がします。
私の理解不足でしょうか。他力は、阿弥陀仏の本願力です。本願力は、智慧と慈悲。衆生にはたらいて、信心(真実の心)となったときには、何ものにも捉われない真の自由。欲、怒り、愚痴、からの解放が得られ、真の自立がもたらされるのだと理解しています。現生正定聚という利益が恵まれるとあります。

自灯明・法灯明の精神と他力回向は何ら矛盾しないものと考えます。

思いつくままに。
                         遊子
 

 

曽我から 遊子さんへ 無我=縁起と主体性・自由は両立し得ない。 2006,7,25,

前略

 簡単にポイントだけ。お許しください。

 >運命論に対決するのが縁の思想ではないかと思います。
 縁起は、運命論のみならず、「アートマンが主体性を持って自由に振る舞う」という考えとも対立します。
 >他力が自由や主体性を否定するという曽我さんのご意見は、頷けない気がします。
 >何ものにも捉われない真の自由。欲、怒り、愚痴、からの解放が得られ、真の自立がもたらされる
 このことは、もう少しいろいろの勉強をしてからまとめ直すつもりですが、その準備を兼ねて現時点のラフなスケッチを。

 生命とは、生き続けよう、拡大しようとする自動的反応であり、そういう自己駆動力、自己加速性をもともと持っている。従って、生物は、自動的必然的にもがき足掻く。凡夫がさかしらに努力し自力のはからいをするのも、高度化したもがき足掻き反応であり、自然で自動的必然的な反応である。(従って、他力にこだわり、自力を否定しようとするのも、更に一段高度化した自力のはからいであり、自動的必然的もがき足掻き反応のバリエーションのひとつである。)
 我々はどこまでも縁起の現象であり、そのことを突き詰めて考えれば、どこにも主体性や自由が関与する余地はない。我々は、自分の意志によって、自分のスイッチを入れたり切ったり切り替えたりすることはできない。欲望執着も、自力のはからいも、発心も精進も、何か(弥陀の本願とか)におまかせする気持ちも、すべては縁による。

 ただし、もがき足掻き反応そのものは自動的必然的であるけれども、その結果どのようなもがき足掻き反応が発現してくるかについては、決定論的ではなく、偶然性が関与している。(おそらくは、量子論的不確定性がどこかで関わっている筈。)

 生命の、生き続けよう、拡大しようという自動的反応は、長い進化の歴史の中で、記憶やシミュレーションの仕組みを発達させ、縁を受けながら、「さらに得な」生き方を自動的必然的に模索するようになった。それは一面で執着の深刻化ともなったが、世俗的損得を超えて「さらに得な」(=宗教的な)生き方の探求(発心)として現れることもあった。
 釈尊における懐疑、出家、苦行、自己観察、無常=無我=縁起の発見も、そうした縁による必然的・自動的反応に偶然性が混ざり、それらが次々に縁起した結果である。そして、釈尊が縁によって教えを説かれて以来、その教えもまた縁として我々に作用するようになった。もともと備わっていた「さらに得」を模索してもがき足掻く反応と釈尊の教えとが縁により連結して、我々にも精進が可能となる。戒定慧の三学、八正道等の教えが縁となり、精進の反応が、苦を作る執着の反応を静止する反応や、自分という反応を整える反応、教えを学び検討する反応、静謐さにおいて集中して自己観察する反応として発現する。勿論、我々という場所には、釈尊の教えのほかにも、間違った教えや執着の反応を起動する縁や、様々な縁が押し寄せている。それら縁のせめぎあいの結果として、私たちのそのつどの反応が決まってくる。

 自由や主体性は、無常=無我=縁起と矛盾する、しかし、執着・努力・発心・精進などを含むもがき足掻き反応や偶然性・非決定論は、無常=無我=縁起と両立し得る、と考えます。

 中途半端な書き方で申し訳ありません。暫し時間をください。

                              草々
遊子様
     2006,7,25,                    曽我逸郎
 

 

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ