sincekeさん 「地方分権について」 2005,9,30,

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拝啓 曽我逸郎様

 ご無沙汰しております。尊公『月を指す指』HPにて以前、妹尾義郎等を内容とするメールをさしあげましたsincekeです。いかがお過ごしでしょうか。

 最近、HPの更新が少なくなられたようですが、曽我さんは、現在、中川村の村政方面にご尽力の最中のことと思います。私も、生活に若干の変化があり、5,6ヶ月前に集中的に仏教に関する本を読んでいた頃と比べ、生活のリズムも変わりました。

 すこし政治の話をおたずねします。先般、衆議院総選挙が行われ、自民党が圧勝しましたが、曽我さんは国政に関してはどのような考えをお持ちですか。小生は、基本的に郵政民営化に賛成であり、小泉自民党に投票しましたが、選挙の際に、政治のことについてまだわからない、よく知らない自分を痛感しました。

 国会と内閣の関係、自民党や民主党の政策の違い、といった教科書的なことから知識を少しずつ集めています。最近、山崎拓や鳩山由紀夫の『憲法改正』試案も読みました。今の政治は、自民党であれ民主党であれ、「地方分権」や「小さな政府」、「官から民へ」という大きな方向は変わらないようです。私も大体こっちの方向でいいのだと思っています。しかし、こんな大雑把なスローガンだけでは地域の実情、現場の雰囲気というのはわからない、ということも推測できます。曽我さんは村長の職務に就いておられるわけですが、地域によっては社会主義的な考え方が妥当する場面だってあるのだろうと思っているのです。

 日本共産党のHPによると、曽我さんも共産党の支持を受けて当選したと書いてありました。 このあたりが私にはまだ、よく整理できていないのです。国の政治を考える時と、地域の政治を考える時に、それぞれどのような考え方で近づいていくべきか、ということです。

 たとえば、国政レベルでは、公共事業、計画経済、医療費無料化、といった言葉は私にとってとりあえず「負」のイメージがあります。しかし、地域によってはそうではないかもしれません。以前、ちくまプリマ−新書の『奇跡を起こした村のはなし』 という本の書評(米原万里)を、新聞で読んでから、このあたりのことが気になっています。

 『資本もなく企業誘致もあり得ない辺鄙(へんぴ)な村を「高度成長という魔物」から守り過疎を食い止め村の自立を確保するために左派嫌いの伊藤が採ったのは、国や県からの地域振興助成金を最大限引き出し村営の事業を次々と立ち上げて都会へ流れていく労働力を吸収し、地元で生産される原料や景観を商品化していく、という社会主義的政策だった。(米原万里書評)』

  この本はまだ読んでいませんが、曽我さんはもうお読みになられましたか。

 質問はもうひとつあります。

 曽我さんは村長になられてからさまざまな人と出会われ、「人間とは自動的反応 automatic reaction である」ということを改めて感じた、と書かれています。(2005/7/19の日付で)

「100%ではないにせよ、そのほとんど(98%位?)は automatic reaction に違いない。それを巧妙に利用しているのが、例えば手品であり、広告であり、さらには政治的なプロパガンダだ」

「我々は、互いに自動的反応を投げかけあって、仲良くなったり、憎しみあったりしている。その自動的反応を導いているのは、執着によるパターンだ」

 最初読んだ時に、これは村長になられてからの、色々な人との、形式的な「あいさつ」のことをおっしゃっているのかな? と思いました。もう一度読み直すとそういった意味ではないような気もしますが。

 私は最近、社会的なマナーとか、あいさつといった「自動的反応」は人間が生きていくためには大事なものだ、と思うようになりました。「こういうときにはこういう風に笑う」といった少ししらじらしい動作だって、「自動的反応」としてちゃあんと「世間」には埋め込まれています。それに対して自分を馴化していくことは大事です。だってそうしないと、その場の「空気」が悪くなります。他にも、人間が仕事をするときには種種の「自動的反応」が必要になってきます。ルーティンとか条件反射と呼ばれているもので、これらは曽我さんのいわれる「自動的反応」に含まれているのでしょうか。

 以上、気になること二つをお聞きしました。

 いずれも閑事です。最近、仏教関係の本を読むことは少なくなりましたが、このまま曽我さんとのかぼそい「縁」がプッツリと切れてしまうのもどうかと思い、お便り差し上げました。

                      2005年9月30日 sinceke


曽我からsincekeさんへ 2005,10,5,

拝啓

 政治向きの事柄でメールを頂戴いたしました。

 たくさんの方々にお世話になったり気にかけて頂いたりしながら、近況報告さえできていない有様ですので、この機会にそれも兼ねて、お返事を差し上げます。

 国政については、あまりにも複雑な要素が多く、全体を把握して正しい判断を下すのはむずかしいと感じますが、2つの原則で考えるべきだと思っています。仏教から学んだ原則です。

 ひとつは、苦を作らないこと、苦を抜くこと。
 2番目は、執着に基づく自動的反応で大衆を誘導しないこと。なぜなら、執着に基づく自動的反応を助長させれば、必ず苦を拡大するからです。

 この原則に照らし合わせるとしても、例えば、お話の郵政民営化が苦を作らず、苦を抜くことになるのか、あるいは、その反対の結果を生むのか、多分に技術的な面があり、判断は難しいと思います。
 しかし、戦争をしないこと、武力によってではなく、道理に基づく外交、そのためには日本という国みずからが道理に則って行動する国でなければなりませんが、道理に基づく主張と行動によって国際世論を味方につけ、暴力によらずに諸外国とお付き合いをしていく道を模索するという決意は、この原則に合致します。戦争をする国になろうとすることは、この原則に反します。自衛のためとて同じこと。大抵の戦争は、「自衛のため」を標榜して行われるのですから。
 この点では、残念ながら「二大政党」ともに大きな違いはないと言わざるを得ません。

 日本共産党については、同党HPの「日本共産党が与党の自治体」一覧の中で、「支持」と記載して頂いております。

 もともとは、市町村合併問題で、村民意向調査の結果「反対」が多かったにも関わらず、平等な情報開示のないまま、合併が推し進められていくことに反対する運動があって、その発展の中で、私は村長になったのですが、その運動には、中心メンバーとして共産党系の村議の方々もおられたし、共産党とは一線を画する方々もおられました。運動の会長は長く自民党の立場で積極的な活動をしてこられた方です。
 そして、現在も、共産党系の方々からは良好な関係の下にアドバイスやご意見を頂いていますし、それに対立すると村内で目されている方々からも同様に良い関係の中でアドバイスやご意見を頂戴しています。

 国政ではどうなのか知りませんが、狭い村のこと、**党とかその他の肩書き、ラベルだけで敵・味方が分かれるというより、馬が合うとか合わないとか、虫が好くとか好かないとか、そういうことのほうが人間関係を染める要件としてずっと大きいと感じています。そして、そのような基本的な愛憎関係をベースにして、揉め事が起こるのは、思想信条の戦いというより、きちんとした手続きを踏んだ、踏んでいないということに端を発することが多いように思います。

 つまり、執着に基づく反応のパターンが出来上がっていて、そこになにかきっかけ(縁)があれば、その反応が自動的に発動するのです。

 ゾウリムシは、水温が適温域を外れてくると、ぱたぱたとランダムに泳ぎ回って(あがいて)移動し、適温域に行き着くと落ち着いて、結果的に適温域に集まるそうですが、それと同じような縁による自動的反応で、私たちは、暑ければ汗をかき、膝の下を叩かれれば足が上がり、血糖値が下がれば空腹感を覚え、馬鹿にされれば腹を立て、退屈な授業には眠くなり、お得意様に会えば揉み手をし、これが得だと刷り込まれるとそれを目指して懸命になります。

 膝蓋腱反射や汗はともかくとして、もう少し「高度」な自動的反応は、執着に導かれたものです。執着に導かれて自動的に、私たちは、むきになったり、こびへつらったり、横柄になったり、意地悪をしたりします。つまり、執着による自動的反応によって繰り返し苦を自分と人に作り与えているのが、私たち凡夫という現象のあり方です。

 経典に頻出する「いつも気をつけておれ」という釈尊の教えは、「執着によって自動的に苦を作らないように、いつも自分という反応に気をつけていなさい」ということだと思います。それは、まず端的に「戒」のことです。そして、自分という反応に、よい(=苦を作らない)癖をつけていく。自動的反応パターンを執着に導かれない、苦を作らず、苦を抜く、慈悲の反応パターンに改変していくことです。さらに同時に、「観」(自己観察)の準備練習でもあるでしょうし、やがてその結果、自分が無我なる縁起の現象であり、そのつどの反応であることに気づく事にもつながると思います。

 ともあれ、優越感や劣等感や差別意識をくすぐって、怒りの反応や一時的快哉の反応を引き起こし、人々を操ろうとすることは、やってはならないことだと思います。
 しかし、世間的には、自動的反応の仕組みを巧みに利用して人々を操ろうとすることこそが、「政治的」なことなのかもしれません。だとすると、私の思っていることは、まったく「政治的」でないのかもしれません。一方、今の国政は、特に「政治的」だと思います。

 国のことはさておき、小さな村の視点で、地方を考えると、経済原理に基づく短期的な合理化政策は、単なる地方の切捨てにつながりかねず、それは、長期的には、都市住民にも不幸な結果をもたらすと思います。

 地方自治体の多くは、国からの交付税・補助金がなければ成り立たない構造になっていますが、そのことに一部の都市住民は、「自分たちの税金が生産性の低い地方を養うことに使われている」と腹を立てておられるかもしれません。しかし、その構造の原因は、今の社会の仕組みにおいては、お金に換算される活動が都市部に偏っているという点にあります。都市住民だけが働いて、地方の遊んでいる人たちを養っているのではありません。地方の人も頑張って働いているけれど、残念ながらそれはなかなかお金になりにくいのです。農業しかり、林業しかり。
 若い人々や働き盛りの人たちは、都会へ出て、あくせくと働き、コンサートへ行ったり、映画を見たり、外食やショッピングを楽しんでいますが、田舎では、残ったお年寄りが毎日黙々と田や畑に出て、草刈をしている。そんなことをしてもちっとも儲からないのだけれど、草だらけの畑はみっともない、雑草が生えると落ち着かないという、そういう美意識というか恥の気持ちによる日課なのです。そういったお金にならない努力によって、日本の田舎は「トトロ」のような景観を保っています。このようなお金にならない努力がなければ、たちまちあちこちにゴミが不法投棄され、それも雑草に覆われ、田舎は荒れてしまうでしょう。
 林業がいい例です。かつて植林された森は、今ではお金になるめどが失われ、間伐もされないまま、か細い樹が密生して、保水力のない薄暗い森になり、雨風や雪にたやすく倒れるようになってしまいました。
 農業も高齢化や担い手不足によって、イノシシや鹿やサルに荒らされ、畦は掘り崩され、手の入らない耕作放棄地が増えています。お金になるかどうかだけを評価基準にして、経済的生産性の低い農山村をリストラするなら、日本の国土の景観や環境は維持されないでしょう。食料の自給率ももっと下がるでしょうし、都会の飲み水の安全性にも影響がでかねません。お祭りや伝統文化の多くを伝えているのも地方です。お金に換算されない豊かな価値を地方は担っているのです。

 地方分権には大賛成ですが、その美名の下に行われようとしていることが、交付税のカットであるなら困ります。確かに、これまでの交付税・補助金の使われ方に無駄がなかったと言えば、うそになるでしょう。地方の生活を良くしない使われ方もずいぶんあったと思います。頂いた交付税を大事に使って、都市に住む方々にも喜んでもらえるような村づくりをしなくてはいけないと思っています。

 話の展開上、村の自助努力、自主財源を増やす努力については、触れませんでしたが、それも勿論必要です。
 それから、村の現状について悲観的なトーンが強かったかもしれませんが、一方でお金に換算できない村の魅力はたっぷりとあります。空気、水、野菜・果物、景色、人と人のお付き合い、、。祭りやスポーツの行事も盛んで、大勢の人が熱心に参加します。村には、雑踏やネオンはなくても、違った活気があるのです。農業もつらいだけの仕事ではなく、喜びもまた大きい。ファームサポート(援農ボランティア)でたくさんの方がリンゴの花摘みやナシの受粉作業などに来てくださいますが、ほとんどがリピーターの方々です。それは、楽しい汗がかけるからにちがいありません。

 近視眼的な経済効率に目を奪われるのではなく、広い視野で、都市と農村が助け合い、よい関係を築いていければ、と思います。

                                 敬具
sinceke様
        2005,10,5,                 曽我逸郎


HP掲出に当たって加筆 2005,10,6,

 中川村の9月議会で頂いた一般質問への私の答弁を転載しておきたい。けして自己宣伝ではない。今このタイミングで問いかけねばならないことだと思うからだ。

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 ただ今の教育長の答弁に付け加えさせていただきたいのですが、竹沢議員のおっしゃるとおり、戦後六十年が過ぎ、平和であることが当たり前となり、平和を大切にする気持ちが薄れていると、私も感じます。戦争の悲惨さ、むごたらしさ、みじめさが忘れられ、あたかも格好のいい勇ましいもののように語られる場合さえあります。「悪い暴力」に対する「正しい暴力」があり、「正しい暴力」で「悪い暴力」をやっつけねばならないといった理屈が語られます。私は、これこそが戦争の悲惨さを忘れた、本当の「平和ボケ」ではないのかと思います。

 教育長の答弁のとおり、今後とも、様々な機会をとらえ、様々な方法で、繰り返し平和の尊さを訴えていかねばなりません。また、先の大戦の記憶のみならず、現在地球上で繰り広げられている紛争・戦争についても関心をもっていく必要があると思っております。

 この機会に、中川村が「日本非核宣言自治体協議会」に加入したことをご報告させていただき、また昨日は温故知新とか中川村の先人の方々の功績に学ぶようにというアドバイスを頂きましたので、その意味も込めて、中川村の非核・平和都市宣言を朗読させて頂きたいと思います。

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非核・平和都市宣言に関する決議

 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。
 しかるに、今なお世界の各地で武力紛争や戦争が絶え間なく続いており、これらに用いられる兵器は、ますます強力化、高度化し、核軍備の拡大が進み、人類が平和のうちに生存する条件を根本から脅かす段階に至っている。
 わが国は、世界唯一の核被爆国として、また、平和憲法の精神からも核兵器の廃絶と軍備縮小の推進に積極的な役割を果すべきである。
 よって、本村は戦争のない明るい住みよい明日の世界を願い、ここに中川村を「非核・平和都市」とすることを宣言する。
 以上決議する。

1984年12月25日
中川村議会

以上であります。
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 以上が村議会でおこなった答弁だ。

 また、sincekeさんには妹尾義郎にも言及いただいたので、ここで『新興仏教青年同盟「宣言」』を紹介しておきたい。
 (http://www.linelabo.com/31405sengen.htm からコピペした。さらにそのページの引用元は、岩波新書 稲垣真美『仏陀を背負いて街頭へ 妹尾義郎と新興仏教青年同盟』である。)

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新興仏教青年同盟結成式(1931年4月5日、東京・帝大仏教青年会館)で発表

 現代は苦悩する。同胞は信愛を欲して闘争を余儀なくされ、大衆はパンを求めて弾圧を食らわされる。逃避か闘争か、今や世はあげて混沌と窮迫とに彷徨する。
 かかる現代、仏教徒は何を認識し、何を社会に寄与しつつあるか。安価な安心に陶酔しておる多数仏教徒は問題とすまい。(幻想的安心の陶酔、葬儀法要の陳腐なる式典等に満足せる多数仏教徒の愚迷は問うまでもない。)いやしくも、仏教をもって人類指導の最高原理と誇る仏教徒が、果して大衆生活と何の交渉をもちつつあるか。(教界幾多の先覚学匠らが、その得々たる教学の研究、宗制の整備、不断の伝道等々、専横なる支配階級の前に臨んで、畢竟、反動的御用宗教の役割を演ずる以外、抑々何の権威たるぞ!)彼らはいう。「宗教は超階級である。和を尊ぶ」と。だが、その実際は阿片的役割を勧めて大衆の呪詛を買い、若き仏教徒の義憤をそそる以外、何物となりつつあるであろうか。かかる現状は、純信の到底堪えうる道ではない。(止めよ、宗教は超階級的心霊の救済だとのみ叫ぶを。仏教はいまや興亡の岐路に立つ!!)しかしながら、我らはこれが矯正(革正)を既成宗団に求むべく、その因襲と堕落の余りにも深刻であることを知る。
 ここにおいてか、我らは断然、新興仏教運動を提唱せざるを得なくなったのである。(新興仏教の提唱!! しかり、新興仏教はかかる状勢下において、若き義憤の爆発せる仏教革命の先駆的運動そのものだ。)
 新興仏教は、先ず、自己反省に出発せねばならぬ。新興仏教は既に対立の意義を喪失しておる現既成宗団を否定して、仏徒は一斉に、仏陀に帰一せん事を提唱する。新興仏教は、現社会の苦悩は、主として資本主義経済組織に基因するを認めて、これが根本的革正に協力して大衆の福利を保障せんとする。ブル的仏教を革命して大衆的仏教たらしめんとする。新興仏教は思索と研究とを深めて、仏教文化の新時代的闡揚をはかり、世界和平の実を将来せんとする。(新興仏教は、先ずブル教学者によって観念的に歪曲されたる仏教精神の再吟味に出発して、仏教本来の面目たる科学性を完全に闡明せねばならぬ。即ち、必然の理に即しつつ実践によって愛と平等と自由とを体証されたる仏陀への渇仰と、その教理の自主的実践とを基調として、それの正しき社会的発展を強調し、それの大胆なる実践による人格平等の新社会建設を主眼とする。従って、現代大衆の生活苦悩の主因たる資本主義経済組織改造のごときは、科学的見解に立つも人道的に情操に省みるも、大衆必然の要求、仏徒当然の使命として、文化闘争の分野においてはもちろんのこと、進んでは政治闘争としてもこれが断行に協力せねばならぬ。)
 もしそれ、現代流行せる反宗教運動のごとき、新興仏教は少しも恐るるところではない。なぜなれば我らは人間が有限にあって無限を欣求し、闘争に立つも信愛を要求する人生であるかぎり、宗教は断じて絶滅するものではないと信ずるからである。我らの求むる宗教は天地創造の神ではない。万能の神を信ずべく現代はあまりにも矛盾だらけではないか。
 我らの信ずる仏教は、必然の理に即しつつ、実践によって愛と平等と自由とを体証されたる仏陀への渇仰である。我らは、かかる渇仰は人間生活の最深処に横たわる全きを求むる生命本然の要求であって、この要求によってこそ人類は不断に人類独自の文化形態を創造しつつあるものであるを確信する。だから、反宗教運動のごときは、それ自身の人生に対する認識不足か、もしくは神秘の殿堂にかくれた幾多の迷信への清算作用でこそあれ、反って真仏教復活のよき資糧であることを確信する。(その他、国際問題、部落問題、女性問題等々、いやしくも人格平等の仏教精神に背馳する凡ゆる社会事象に対して、新興仏教は、断乎、これが改造に邁進せんとする。而して、それらの社会的実践こそは、新興階級の発展的勢力に依拠してのみ可能であることを断然力調する。)
 青年仏教徒よ、今こそ我らの起つべき時だ。断然、因襲を捨てて一斉に仏陀に帰れ。而して、愛と平等なる仏教精神を先ず自らに体験しつつ、敢然、資本主義改造へと直進せよ。かくして、我らが理想する仏教社会建設に努力しようではないか!
 (見よ! 打ち寄する大衆的思潮を、古き伝統の動揺を。正義は何れぞ、逃避は社会的罪悪だ。起て! 青年仏教徒よ。今こそ時だ。断然起って、宗派的伝統を清算し、因襲の殻を蹴破って、一斉に仏陀の御名に於てガッチリ腕を組もうではないか。而して、これら果敢なる階級的闘争こそ、愛と平等なる仏教精神の現代的体験であり、人格完成の現代的意義であることを確信して、根かぎりの奮闘を誓うものだ。
 もしそれ、これによって蒙る迫害非難のごときは、真理の使徒が不断に蒙り来れる名誉の荊冠。もとより覚悟の前ではないか。いざ同志よ!! 新社会の建設へ!!)
 注、カッコ内はあとで加筆改訂された部分
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 以上であるが、この宣言に100%共感同意できるかはさておき、「葬儀法要の陳腐なる式典等に満足せる多数仏教徒」、「その因襲と堕落の余りにも深刻である既成宗団」、「ブル教学者」などへの批判は、今でも(当時以上に?)切っ先鋭い。また、和の思想が、階級差別を固定しようとするものであることも指弾されている。「仏教本来の面目たる科学性」も主張されている。また、資本主義の否定は、資本主義が執着を原動力とするものであり、経済効率を短期的には向上させても、長期的にはかえって人々の苦を増やすものであることを見抜いているのだろう。
 実際のところはほとんど全員が凡夫によって構成されている現実社会において、「新興仏教運動」が資本主義以上にうまく働くかどうかは疑問だし、「捨」の点でも問題があるのかもしれないと思うが、新興仏教青年同盟が残していった問題意識は引き継いでいかねばならないと思う。

 ・・・しかし、やっぱり仏教は出家の教えで、世俗社会の改造には本来取り組まないものなのだろうか?

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