無宗ださん 「ウは宇宙の有」 2005,7,17,

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こんにちは。無宗だです。

先日、
書評:『ブッダが考えたこと─これが最初の仏教だ』(その1)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto5_1.html
というページを見つけました。その中の

 主知主義に偏向した面はあるにせよ、宮元啓一氏はさすがにインド哲学を専門としているため、輪廻に関するとらえ方は的確で、
---{
 明治時代の日本では、ゴータマ・ブッダともあろう人が、輪廻という迷信を信じていたはずはないとして、最初期の仏教は輪廻説を否定したという、誤った認識が流行した。今ではこのような馬鹿げたことをいう人はほとんどいなくなったが、ときおり、いかにも学問的な体裁をとって、最初期の仏教は輪廻説をとらなかったと主張する研究者が現れる。こういう研究者の「論文」をよく読むと、右の輪廻のメカニズムとその裏返しとしての解脱のメカニズムがまったく理解されていないことがわかる。
---} 『インド哲学七つの難問』 宮元啓一著、講談社選書メチエ 114ページ
といった主張などは頷けます。
に惹かれ、『インド哲学七つの難問』を注文し読んでみました。

結果、
(1)ブッダは世界の外側に自己(アートマン、認識主体)を想定していた。
(2)ブッダは輪廻を肯定していた。
というアイデアに取りつかれてしまいました(笑)。

中央有部について
http://www.eonet.ne.jp/~indology/muula.htm
に次の記述があります。

 ブッダの思想(=初期仏教思想)‐‐‐所謂「輪廻」思想を根幹として‐‐‐は、それ以前のヴェーダ思想に大きく影響されている。特にウパニシャッドの思想家ヤージュニャヴァルキアの説とほとんど「紙一重」といってもいい(さらにジャイナ教思想も無視できないことを銘記されたし)。極端に言えば、ただ「アートマン」に関する見解の相違(それも決定的な)があっただけであり、ブッダはヤージュニャヴァルキアのかなり忠実な後継者とも見なしうる。
では、ヤージュニャヴァルキアはどのようなことを言っているのだろうか?

これに関しては、宮元啓一氏のサイト

ペンギン(宮元啓一の部屋)
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/pengin.html
にある、

論文:インドにおける自己論の構造
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html

が参考になります。
 我々はつい、パイドーンにおけるソクラテスのように、人は肉体と精神よりなり、「精神=魂」であると発想してしまいますが、インド哲学の「肉体も精神も、認識対象に過ぎず、認識主体たる自己は、世界の外側に存在する」という発想には度肝を抜かれてしまいました。

かのものは、『に非ず、に非ず』としかいいようのない自己であり、不可捉である
を読んで、

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html

 しばしば、アナートマンは「無我」ではなく「非我」と翻訳すべきであるという主張が仏教学者によってなされるときがありますが、まさにそのとおりで、人間存在を成立させている一つ一つが、これも非我であり、あれも非我である、という主張がなされているわけです。
これを思い出しました。

世界の外側に自己(アートマン、認識主体)を想定することは、仏教の「無常だから無我である」という主張と全く矛盾しません。なぜなら、無常、無我は、世界の内側のみを問題としているから。

「〔自己は〕見られることがなく見る者であり、聞かれることがなく聞く者であり、思考されることがなく思考する者であり、知られることがなく知る者である。これより別に見る者はなく、これより別に聞く者はなく、これより別に思考する者はなく、これより別に知る者はない。これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。これより別のものは苦しみに陥っている。」
(『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』三・七・二三)
そして、自己(アートマン、認識主体)は不死なのです。

釈迦は、梵天勧請において、

耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
と宣言し、
縁起の法にふれたサーリプッタとモッガラーナは、
「なんじは不死の道を得たのか」
「そうだ、わたしは不死を得た」
との会話を交わしております。
経典を読んだ際に、この「不死」が何を意味するのかが良くわからなかったのですがようやく腑に落ちました。

仏教・インド哲学における非人情
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/hininjyo.html

 ですから、志のある人々は、輪廻的な生存に終止符を打つことによってのみ、永遠の平安、苦のない状態が得られると考えました。不死ともいわれます。今生ではいったん死にますけれども、もう生まれ変わりませんから、もはや、死ぬことはない、という意味の不死です。
こういわれても、「もう生まれ変わらない」ということは、自我(まあ、縁起によってできた仮の存在かもしれませんが)が、消滅するということですよね?
消えてなくなって、何も残らないことが「望み」だというのが、どうも納得いかなかったのです。
ソクラテスが、肉体の束縛を嫌い、純粋な思惟の可能な状態、すなわち死によって魂が肉体から離れ純粋に魂だけになることを望んだように志のある人々が、世界の外側にある自己(認識主体)と一体になることを望んだとする方が、説得力があります。
輪廻は、世界の外で自由であるべき自己を世界に縛り付ける呪いに他ならなかったのです。

さて、世界の外側、内側という場合の世界とは何なのか?
インドには『有の哲学』なるものがあるそうです。

デーヴァター(devatA)について
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/devata.html

 「有」というのは、この場合、いわゆる宇宙の原理ブラフマンに相当し、
と紹介されています。
「梵我一如」、日本では「宇宙即我」という表現もあるようです。
「有」というのは結局、宇宙の原理ブラフマンであり、世界の森羅万象であり、世間を意味し、一切を意味する哲学的概念と考えられます。

自己を有に投影することにより、有(三界)の中に人間が実体を持つことになる。
このことを十二支縁起では、「有に縁って生があると」と表現したのではないでしょうか?

ブッダは、人間が経験し観察できる事柄に関してしか説かなかったとすれば、世界の外側に自己(アートマン、認識主体)を想定することは、なんらブッダの主張と対立するものではありません。

そして、それにもかかわらず、出世間、涅槃寂静といった言葉が登場します。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto5_1.html

---{
 修行僧たちよ、このような境地がある。そこでは、地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、この世もなく、あの世もなく、月も太陽もない。
修行僧たちよ、[そこに]来るとも、行くともいえず、[そこに]いるとも、死ぬとも、[再]生するともいえない。それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、何かに支えられているのでもない。それこそが苦しみの終わりである。
---} 『ウダーナ』80ページ
世界の外側に自己(アートマン、認識主体)を想定すると、
この文章にも納得がいってしまうのです。

長々と失礼いたしました。

PS:
> (2)ブッダは輪廻を肯定していた。
に関しては、別便にしたいと存じます。


再び無宗ださんから 「解脱と三明」 2005,7,18,

こんにちは。無宗だです。

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釈迦族の滅亡 〜 テロに思う
http://kusyami.cool.ne.jp/kusyami/kao_3.html

 弟子の目連が、「ヴィドゥーダバ王が釈迦族を攻めますが、釈迦族は持ち堪えられるでしょうか?」と尋ねると、お釈迦さまは「汝は、釈迦族の宿縁を虚空に移すことができるか?」と目連に尋ねられました(「宿縁を虚空に移す」とは今までの行いを無にするということでしょう)。目連が「できません」と言うと、お釈迦さまは「今日、釈迦族の宿縁はすでに熟した。今まさに報いを受けるのだ」と話されました。
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というページがありました。
 このページを読むと、マハーナーマという人が、下女を自分の子であると偽ってパセーナディ王のもとに嫁入りさせたことが、釈迦族の滅亡の因となったことがわかります。

諸行無常・諸法無我は、永遠不変のものはないといっているだけです。
全ては夢幻といっているのではありません。現実に苦はあるのです。
そして人の死は、焚き火の火が消えたことにたとえられるのだろうか?
焚き火の火が消えるように、後には何も残らないものなのだろうか?
そんなことはありません。

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ある仏教徒の「死後の世界」観
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/masutani.html

わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまいと思えてならない。
劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ(与謝野晶子)
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「黄金の釘」になるのか、石ころひとつになるのかはわかりませんが、どのような生き方であれ、人が生きて死ねば、何かは残ります。
場合によっては、一国を滅ぼす因を残すことすらあるでしょう。
そして、「再生の素因」があれば、その人は来世に生まれ変わることになります。
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728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
(スッタニパータ)
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意見交換:03,12,7, 高橋哲夫さん 輪廻転生と縁起について
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha170.html
で「有無の見」を紹介されていました。
(曽我注記:下の引用は私ではなく、高橋哲夫さんのメールから)
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 浄土真宗以外の宗派では余り聞きませんが「有無の見」と言う言葉があります。この説明を浄土真宗のホームページ
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/mizutani110.html
から引かせていただきます。
◆ 有無の見
 有見とは
「万物は常住であり、不変であって、人は死んでもまた生まれ変わる」
という考え方。
 無見とは
「万物はすべて虚無であり、人は死ぬとまったく無に帰する」
という考え方。
 この二つの考え方は、正しい因果の道理に背くものとして、邪見といわれる。
---------------
有無中道の立場から、次のように、いい直す事ができるでしょう。
『再生の素因があれば、人は死んでもまた生まれ変わる。
再生の素因がなければ、生まれ変わらず解脱する。 』

さて、この視点から、解脱とは何かを考えてみましょう。

(1)過去に存在する再生の素因を滅すること。
・現在の苦、その因を明らかにし、その滅をえること。
(2)新たに再生の素因を生成しないこと。
・自分の日々の行為がどういった結果をもたらすかについて常に注意を払うこと
(3)この「再生の素因が存在しない状態」を維持すること。
・執着をはなれ、煩悩から無縁でいること。

解脱とはこういうことではないでしょうか?

こう考えると上記3点を大げさに述べたものが、釈尊の悟りの三本柱であり、三明ではないかと思えるのです。

■釈尊の悟りの三本柱
(1)御自身の過去生を如実に見られたことが、まずひとつ。
(2)次が、生きとし生けるものが業によって輪廻していく様を見られたこと。
(3)最後が、苦と煩悩の生滅だ。
(《日本テーラワーダ仏教協会 実践会に参加して》
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/theravad.html より)
<HP掲出にあたって注記>
 上記(1,2,3)は、私、曽我による三明の紹介であるが、曽我は、三明は外からの「仏教」への混ざり物であり、釈尊の教えではないと考えている。)

■三明
(1)宿住智(宿命通ともいい、自他の過去世 の在り方を知る能力)、
(2)死生智(天眼通ともいい、自他 の未来の在り方を見通す能力)、
(3)漏尽智(漏尽通ともいい、現在を知り、煩悩を取り去る能力)
(参考URL http://www.myokoji.jp/page/koshozan/188.htm)

釈迦はいう。
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人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
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これは、「人間が輪廻的存在であることを脱し、不死を得ること」を説いているとみなすことが、一番素直な解釈ではないかと思います。


曽我から無宗ださんへ 「悪、無我と非我、有無の見、転生」 2005,7,31,

拝啓

 返事が遅くて申し訳ありません。たくさんの論点でメールを頂きましたが、残念ながら、今その全体に体系的にお答えするゆとりがありません。気になったところだけ断片的に感想を書きますが、お許しください。

 ◆ まず、(6月19日に頂いた)1通目から、、、。悪い行い

「悪い行いを滅する」というのは、
「殺生や悪口にそれは悪い行為であるというレッテルを張ることを止める」
ということである。その行為自体が無くなってしまうわけではない。
どんな行為が悪い行為であるかの定義付けをやめれば、何が善い行為かもわからなくなるので、それを「善い行いも滅する」と表現しているに過ぎない。
 これは大きな誤解をなさっていると思います。なぜなら、悪い行為の定義づけをやめてその行為を行っても、その行いは苦を作るからです。他の人を苦しめるのみならず、自分も苦しめます。人は、自分という反応を整える努力をしなければ、執着のパターンに自動的に導かれて、絶え間なく苦を作り続けます。ところが、ほとんどの人は、苦しんでいることに気がつかない。だから釈尊は、「一切皆苦」ときちんと言葉にして教えねばならなかった。自分が苦しんでいること、自分は<苦しむ>という反応であり、そのことをごまかしながら、ごまかすことでさらに苦を深めていること。そのことを自覚しなければ、仏教はただの知的興味、言葉遊びの対象になってしまいます。
 苦を生む反応が悪い行いであり、釈尊はそれらを具体的に挙げてくださっていると考えます。
 (小論「一切皆苦は快を含む。凡夫は執着依存症」を参照ください。)

 さらに、修行実践の上から言っても、悪い行いは、どう定義づけようが、自分という反応を燃えさかる火のように乱雑で荒々しいものにします。まず戒によって、自分という反応をコントロールし、風の無いところで静かに燃えるろうそくの灯のように静謐な状態に保とうとする努力をせねばなりません。

 ◆ 2通目。無我 vs 非我

 言うまでもなく、釈尊はインドの伝統の中に生まれ、インドでなくなりました。インド思想を研究する方々が、釈尊をインド思想の流れの中にころがる石のひとつとして扱おうとなさるのは、無理からぬことだと思います。それに、弟子たちもまた、インドの伝統の中でそれを血肉化して育っており、その前提の元に釈尊の教えを学び、解釈し、口伝え、やがて「このように私は聞いた」で始まる経典として残しました。その結果、経典の中には、おびただしいインドの伝統的要素が混ざりこんでいます。それらを拾い集めつなぎ合わせれば、

ウパニシャッドの思想家ヤージュニャヴァルキアの説とほとんど「紙一重」
ブッダはヤージュニャヴァルキアのかなり忠実な後継者
というような結論に到達することはむずかしいことではないでしょう。

 インドの伝統思想については、きちんと勉強しておりませんのでラフな解釈かもしれませんが、このように理解しています。

1)生滅流転する現象を超越して、永遠不変の真の実在(梵)がある。
2)我々は、一面では生滅流転する現象ではあるが、梵を分有しており(あるいは、実は梵とひとつであり)、それこそが真の我である。従って、真我は、梵と等しく、永遠なる真実在である。

 不変にして永遠なる超越的実在を妄想し、真我を夢想するのは、その呼び名こそ変われ、洋の東西を問わず世界中にみられるありふれた発想です。

 これに対して、釈尊が説かれたことは、無常であり無我であり縁起です。無常、すなわち「永遠不変の存在などはない」。無我、すなわち「真我などない」。そして、私とは、真我などではなく、縁によってそのつど起こる時間の中の現象であり、そのことをどすんと腹に落ちて納得することで、執着の自動的反応パターンを改変することができ、苦を作り続けることを停止できる。これが釈尊の教えです。

 従って、釈尊の無常=無我=縁起の教えは、インド伝統思想をはじめとする、人類が執着に導かれて陥りがちなありふれた発想に対する、まったく正反対の教えであり、空前絶後の発見だったと考えます。

 しかしながら、我々凡夫の執着のパターンは根深く、それに従った見方から脱しきれない人がほとんどで、そういった人たちが、「仏教」を「非我の教え」=「真我と永遠不変の真実在を説く教え」(釈尊が否定された教え)に堕落させてしまいました。今、世界で「仏教」と呼ばれているもののほとんどは、そういう「反仏教」であると思います。

◆ 3通目。有無の見

わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまいと思えてならない。
劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ(与謝野晶子)
 これは、「死んだ後、黄金の釘に転生する」というような意味ではないと思います。転生ではなく、「後の世によいもの(与謝野晶子の場合は、おそらく歌)」を残したい」という意味だと思います。私の場合なら、「仏教の伝統の上に釈尊の教えについて考える縁を後の世に残したい。釈尊の教えの復活という果につながればうれしい」ということでしょうか。ともかく、「この私自身が何らかの形で死後にも残る」という意味ではありますまい。

 有無の見については、龍樹が中論 巻第三 観有無品第十五に引用している相応部化迦旃延経にこうあります。(平川彰著作集第1巻「法と縁起」P368から抜粋)

 迦旃延(KaccAyana)姓の比丘が、釈尊に「正見」について質問した。
 「大徳よ、正見、正見と言われるが、正見とは何ですか。」
 「迦旃延よ、世間は多く、有る(atthi)と無い(natthi)との二(の極端)に依止している。
 迦旃延よ、正しい般若によって、如実に世間の集起(samudaya)を見る者には、世間に<無いということ>(natthitA)は存在しない。迦旃延よ、正しい般若によって、如実に世間の滅(nirodha)を見る者には、世間に<有ということ>(atthitA)は存在しない。
 (一部略)この(聖弟子は)方便と取著、心の根底となっている執着と煩悩とを受け入れず、取らず、わが我なりと執持せず。苦が生ずれば生ずと見、苦が滅すれば滅す(と見て)、疑わず、惑わず、他に依ることなくして、ここに彼に智が生ずる。迦旃延よ、このごときが正見である。
 「凡てが有る」とは、迦旃延よ、これは一つの極端である。「凡ては無い」というのも、これは第二の極端である。
 迦旃延よ、如来はこれらの二つの極端に近づかずして、中によりて法を説くのである。
 つまり、有るのでもない、無いのでもない、有無の両辺を離れた正見とは、本来、「自分を含むすべてを時間の中で縁によって生滅する現象であると理解すること」であったと考えます。
 死後に有るとか無いとかの問題として捉えるのは、無記から派生した展開にすぎないでしょう。そして、無記は、資することのない問いに対する態度です。無常=無我=縁起が自分のこととして腹に落ちて納得できれば、死後の転生などないことは明白になるが、自分のこととして納得できないうちに転生のないことを聞かされれば、転生を常識であり社会規範の基礎としていた当時の人々はかえって混乱して苦を作る。また、無常=無我=縁起を離れて、死後生だけを問題にしても、不毛な議論を生むだけで、苦の生産停止には役立たない。かえって苦を生み出す。それゆえ死後の転生については問うことを禁止されたのだと考えます。
 では、なぜ私は、無記の態度ではなく「転生はない」と言うのか? 現代の日本では、転生は必ずしも常識ではなく、そこで転生を「仏教」として説くことは、釈尊の教えを捻じ曲げ、かえって苦を作ることになると思います。にもかかわらず、転生を説く「仏教」が絶える気配がないので、釈尊の教え(無常=無我=縁起)と転生とは相容れないと明言せねばならないと考えています。

 なかなか返事が書けないかもしれませんが、またご意見頂戴できれば幸甚です。

                                  敬具
無宗だ様
         2005,7,31,                 曽我逸郎


再び 曽我から無宗ださんへ 「世界の外側に自己を想定すること」 2005,8,3,

拝啓

 いかがお過ごしでしょうか?

 先日、返信メールをお送りした後、まだ議論を尽くせていないという感覚があり、そのことを書いてみます。

 無宗ださんは、「世界の外側に自己(アートマン、認識主体)を想定すると」と何度も書いておられます。では、世界の外側と内側(?)との間には、どういう関係があると考えておられるのでしょうか?

 両者は、まったく超絶した無関係の間柄なのでしょうか? 世界の外側にあるアートマンと、世界の内側で日々を生きる私とは、隔絶しており無関係なのでしょうか? 「世界の内側」の私の苦は、「外」のアートマンにとってはどうでもいいヒトゴトなのでしょうか?
 だとすると、この現実世界で有情がいくら嘆き悲しみ苦しもうが、世界の外側にあるアートマンにとってはまったく関係のないことで、有情がどれほど苦しもうが、どうでもよいことなのでしょうか? 慈悲なんて絵空事?

 いや、そうではなくて、縁もゆかりも無い赤の他人の見ず知らずのアートマンではなく、それが「私の」アートマンであるなら、そこにはなんらかの関係性があるのでしょうか。であるなら、「世界の内の私」と「外の私のアートマン」と、一体どう関係するのか? 「内の私」のあり方が、「外の私のアートマン」に影響を及ぼすのか? 及ぼすとするなら、どのようにして及ぼすのか? 「外の私のアートマン」が、「内の私」に影響力を発揮するのか? もしするのなら、どのようにして?

 言葉の構想力によって世界の外側を想定することは容易いし、魅力的に響く(=執着心にかなう)かもしれません。しかし、上記のような問いを自問自答して、説得力ある回答を得られないなら、それは単なる「想定」でしかないと思います。

 「世界の外側」にアートマンを想定するなら、それが「世界の内側の私」と、どのようにしてどう関わるのか、そのことを徹底追求して説得力ある説明を見出すことが必要です。それは私(曽我)とか、誰かに対してではなく、無宗ださんご自身にとって。

 私は、釈尊が「世界の外側」を想定しておられたとは、寡聞にして聞いたことがありません。

 よろしくご検討ください。
                                敬具
無宗だ様
     2005,8,3,                     曽我逸郎


無宗ださんから 「仏教を学ぶということ」 2005,8,6,

曽我逸郎さま、ご返事、ありがとうございます。無宗だです。

さて、ご返事を拝見し、「いろいろ誤解されてしまったようで、困ったなぁ」と思いつつもどこから誤解を解いていけば良いのか考えているうちに時が過ぎてしまいました。

さて、曽我さまは次のように書かれています。

> 自分が苦しんでいること、自分は<苦しむ>という反応であり、そのことをごまかしながら、ごまかすことでさらに苦を深めていること。そのことを自覚しなければ、仏教はただの知的興味、言葉遊びの対象になってしまいます。
>  苦を生む反応が悪い行いであり、釈尊はそれらを具体的に挙げてくださっていると考えます。
しかし、私は思うのです。
「仏教がただの知的興味、言葉遊びの対象でもいいじゃないか」って。

仏教が真実の教えであるのなら、どの登山口から入ろうと同じ頂上にたどり着くのではないでしょうか?単に頭で理解していたことが、「ああ、これはこういうことだったんだ!」とお腹でわかる時がいつか来るような気がします。
余計な一言を言わせてもらえば、「仏教の教えは日々の生活で役立てなければ価値が無い」と思うのも、ひとつの執着ではないでしょうか?

さて、原始仏教において最初に気が惹かれたのが、十二支縁起でした。
2005,6,19のメールの後で、十二支縁起の私の理解に大きな影響を与えた出来事は、「有の哲学」との出会い(詳細は2005,7,17のメール参照)と、

仏 教 と は 何 か ?
http://suzuki.ypu.jp/buddhism/

の回答例のリンク先に書かれている「サンスカーラ」という概念でした。
そして、この「サンスカーラ」という概念は、私の中で<いつも化システム>とリンクしました。

現在、私は十二支縁起を次のように解釈しています。

(1)無明→行→識
(2)無明→生(受精)→老死
(3)「識」の中身を詳細に見ると(名色→六処→触→受→愛→取)となる
(4)愛および取が「生存/再生の素因」となり、「生存/再生の場」である有があることによって生がある。(愛・取、有)→生。

したがって、十二支縁起は輪廻の原因が愛・取にあることを主張し、これを滅することにより、解脱できることを示している。
釈尊自身が輪廻に関し、無記を通したとすれば、釈尊の教えの根本は四諦にこそあり、十二支縁起は釈尊の死後、教団により形式化された可能性がある。

輪廻に関し、釈尊はどのように説いていたのでしょうか?
原始仏教で輪廻をどう扱うかに関しては、
> まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
> 現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
この観点から考えてみるべき問題でしょう。

出家した釈尊が求めたものは、やはり「最高の生き方」だったのではないでしょうか?
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/syoaku.htm
> 諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教
> しょあくまくさ  しゅぜんぶぎょう  じじょうごい  ぜしょぶっきょう
>
> 諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。
> そして、自ずからその意(こころ)を浄めていくこと。これが諸佛の教えである。
そして素朴な常識として、この思いはあったと考えます。

「最高の生き方」=「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意」とした場合に、何を悪と考え、何を善と考えるか?
ここで、苦をもたらすものが悪だと考えたのかな。
しかし、更に考えを詰めていくと、「一切皆苦」に気付いてしまった。
輪廻の真偽が不明なら、死ねば苦はなくなるという結論には飛びつけない。
だがしかし、ここで、「諸行無常、諸法無我」に思い当たり、苦を現世において滅する道を発見する。
苦を生成する身口意の業は『悪』であり、苦を滅する身口意の業は『善』である。
そして、自己の全ての苦を滅することにより、「涅槃寂静」の境地に達した。

この世で悪業の限りを尽くしても、報いはないという考えを外道とみなしたが、これを否定する根拠を得ていない可能性もあるのではなかろうか?
だがしかし、「この世で悪業の限りを尽くすこと」は、苦を生成するする行為であるので悪であることは明確なので不可とした。

これ以上のことは、実際に解脱し、『「涅槃寂静」の境地』に達しなければわからないのかもしれない。

それでは。


再び 無宗ださんから 「常住不変のアートマンの意味」 2005,8,6,

曽我逸郎様
お忙しい中、返信ありがとうございました。無宗だです。

>  無宗ださんは、「世界の外側に自己(アートマン、認識主体)を想定すると」と何度も書いておられます。では、世界の外側と内側(?)との間には、どういう関係があると考えておられるのでしょうか?
さて、大変もっともな質問なのですが、どう答えればいいものやら。
私自身の考えもまだはっきりとまとまっていないというのが正直なところです。
>  言葉の構想力によって世界の外側を想定することは容易いし、魅力的に響く(=執着心にかなう)かもしれません。
ただ、私に関して言えば、常住不変のアートマンはちっとも魅力的ではありません。

人生は、己の成長と、変化があるから楽しいのだと思います。
同じことの繰り返しの日々に魅力は感じません。

それにもかかわらず、「世界の外側に自己(アートマン、認識主体)」というアイデアは非常に魅力的です。これは、幾何学における面積0の点と同様に、この世には存在しないが、理論の究極として存在を仮定せざるを得ないものではないかという気がしたのです。
ですから、認識主体は『「世界の内側」の私の苦』とっては何の意味も無いと考えます。
世界の外にある自己というのは、 『幾何学の証明における補助線のようなもの』かもれません。
『それがあると非常に理解が容易になるが、あってもなくても結果は変わらないもの』 という位置付けです。

なぜ、そう思うかというと、人間と同様な、 自動機械(ロボット、アンドロイド)を、 いつか作成可能だと思っているから。
つまり、世界の外にある自己になど何も考慮しなくとも 人間と同等な存在を創り出すことができると信じているから。

世界の外にある自己になどに依存しなくと人間は人間として振舞うだろうと思うから。

輪廻転生が呪いというのならば、常住不変のアートマンと言うのはそれ以上の呪いに思えてしまいます。それなら、解脱よりも天界往生がいいなと思ってしまう、あくまでも俗物な私です。

とりとめなく、書き散らしてしまいましたが、現在、私が常住不変のアートマンに対して感じているのはこんなことです。

それでは。

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