S.I.さん 病気の友人と霊能者 2005,7,7,

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はじめましてメール致します。

不躾ながら、私事についてではありますが、御意見をいただき、今後の参考にしていきたいと思い、数日間考えましたが、やはり通信することにしました。

ホームページはまだ熟読しておりませんので、そこに解答の助けになるおはなしがのっていたかもしれません。
(輪廻転生についての項目)

わたし自身、仏教について、或いは釈尊については無知もはなはだしいのですが、自分なりに、概要などは調べたり、このところ正法眼蔵の現代文訳の本を入手して、これから、もっと深く咀嚼していかねばという決意をしている次第なのですが、最近、輪廻の問題にまっこうからぶつからざるを得ない事態に遭遇しました。

わたしの友人に、去年、大腸にポリープができ、組織検査をしたら一部悪性であったことが発覚し、すぐ除去したのですが、それ以来ずっと精神面で不安定になり、(病気に対しての怖れと自分が何故そうなったのかという疑問から)診療内科に通院したり、わたしにも相談してきて、その都度ずっと励ましてきましたが、彼女はいっこうに状態が改善しませんでした。
それで、ふたりで旅行に行った際、わたしが5年近くの彼女との交流のなかで、話すことためらっていた事を、彼女に言ってみたのです。

それは、わたしの親の知人である女性、霊能者=Mがいるという話でした。

霊能者Mさんは、母親の話だと密教、空海を宗教の軸として、身体の治療や霊視をししており、数々の超人的な力を発揮しているという話でした。
わたし個人は、そのことを闇雲に鵜呑みに出来ず、周囲の人間にそのことを話すことは控えていたのですが、友人の疲弊しきった姿をみて、それだったら、何か彼女が精神的に救われるには、神秘的な力によってしか、もうおちつけないのではなかろうか、所謂<信じるものは救われる>という大乗仏教的な現世利益、病気治癒の効果です。

世俗に流れている仏教さえ信奉していなかった彼女が、ここ数年浮上してきたスピリチュアルな事を唱える霊能者の出現、メディア、巷の流れに乗って、急速にそういうことに傾倒していったようでしたから、ここはもう、話してみて、彼女が信じれば、精神は安定、安心するのではなかろうか?という思いから、彼女に話してしまったのです。

案の定、彼女は、今では元気を取り戻しました。

霊能者Mに会いにいき、彼女の母方の父親、つまり彼女の亡き祖父が、腸閉塞で手術して、助かったが、その後抜糸の時に何かあって、命をおとしたという経緯から、その祖父が友人に自分の無念を知らせてきて、彼女を大腸癌にさせたという話だったようです。
(祖父は自分の娘である友人の母親に本当は伝えたかったが、母親が受信しないので、友人に病気という形で知らせたということらしいのです)
だから、位牌を作って、ある期間供養すれば大丈夫ということで、彼女はそれを実行しました。
その間にも、彼女が言うには、不思議な体験があったらしく、今では、霊魂の存在を信じて疑うことがないようです。

ところが、わたし自身、客観的にみれば、友人の為にと思い、霊能者のことを話したつもりでしたが、彼女が信じきっている姿や話を聞かされると、実は、彼女にとって本質的によくないことをしてしまった(霊能者のことを話したこと)のではないかという想いが湧いてくるのです。

それで、救われるとは一体どういうことなのだろう?と考えてしまいました。

わたしは、霊能者の存在を肯定も否定も出来ずにいます。
そして同様に、霊魂や輪廻転生についてもです。

人それぞれなのでしょうか?

彼女に今の自分の想いを話すことは出来ずにいます。自分の考えを押しつけたくはないし、無用に傷つけたくはないし、さりとて、縁を切るというのもいきすぎなのだろうか?と。

わたしは執着をなくすということは必要だと感じています。

彼女自身はどうなんだろうと思ったりしますが、わたしは、今後彼女にどう対処するのがよりよいと御考えになりますか・・・?

どうぞよろしくお願い致します。


曽我から S.I.さんへ  2005,7,18,

拝啓

 返事が遅くなり申し訳ございません。

 せっぱつまった危機的な状況からご友人を救われたのならば、霊能者?Mさんを紹介されたことは、良いことだったのかもしれません。ただ、ご友人は、別の”苦の拡大再生産プロセス”に陥ってしまわれて、ご自身のみならず、他の人も苦しめることになってしまわれるかもしれない、と危惧致します。

 私自身は、霊能も霊魂も信じませんので、霊能者?を紹介することはないでしょう。ではどうするのか?

 真っ正直にこう言うべきでしょうか。

 「私たちは縁起の現象であり、縁によって生まれた、今まさに刻々と死につつある現象です。頭に火がついているように、、。縁によって早晩終わる現象です。私たちが、”私という存在”として捉えているのは、自分という現象を守り育てようとする自動的反応が積み重なった上に紡ぎだされた新しい”反応”にすぎません。惜しむべきなにものもありません。自分という反応を整え、縁を正しく受け入れ、苦を作らないこと。それこそが最高の生き方です。」
 「大腸にポリープができたという。いつかそれが縁となって、あなたという現象を終わらせるかもしれません。それが縁となって、あなたという反応の場は、解消されるかもしれません。それがいつかは分からないし、それより先に別の縁によって、あなたという現象は終わるかもしれない。あなたより先に私が死ぬかもしれない。そういったことは、起こるように起こるのです。私たちにできることは、自分という反応を整えて、自分を観察し、自分が縁起の現象であることを納得して、反応が繰り返される間、苦を作り出さぬように反応を整えることです。」

 はてさて、果たしてこのような言葉が届くのでしょうか? 中には聞く耳を持つ人もいるかもしれません。しかし、ほとんどの人には、届かないでしょう。相手を観察して理解し、ふさわしい方便を見出す力が必要です。

 私には、方便の力も人格の力もありません。ご友人にお会いしたこともないので、こんな一般的な屁理屈しか思い浮かびません。仮にご友人を存じ上げていたとしても、病気の恐怖におののいておられる時に、無常=無我=縁起について考えてみてもらえるようなきっかけを提供できるのかどうか、はなはだ心もとないと自覚します。

 それにしても感じるのは、霊魂とか、それが死後にも存在し続ける、といった考えは、執着心に適う大変魅力的なものだ、ということです。霊魂や輪廻転生といった考えは、我執の反応を増強します。霊魂や輪廻転生といった考えに人はしがみつきます。そして、無常も無我も縁起も、見えなくなる。

 こういう状態の方に、無常=無我=縁起を考えてもらうのは至難の技です。今、ご友人はそういう状態でしょう。下手に力説すれば、腹を立ててしまい、友人関係まで壊れるかもしれません。執着の対象を否定することになるのですから、、。  やんわりと、さりげなく、折に触れて、時間をかけて、無常=無我=縁起を話す他はないだろうと思います。なにかのきっかけ、縁があって、いつかそれが届くことを期待しながら、、、。

 たいしたことを申し上げられず、申し訳ありません。

 今後とも、ご意見・ご批判お聞かせください。
                                敬具
S.I.様
     2005,7,18,                 曽我逸郎

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