sincekeさん 「仏教徒にとって世界は享受の対象か」 2005,7,6,

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 仏教徒にとって、世界は享受の対象なのか、ということが気になって、以下の文章をこしらえました。

 最初に、あらましをざっと書いておきます。

(私の文章の要約)

 仏教において、世界を享受するとはどういうことか。この問いに対する答えは、「縁起」や「無明」をどう理解するかにかかってくる。では、「縁起」とは何か。大きく分けて、ふたとおりの考え方がある。(ア)縁起=論理的関係とするものと、(イ)縁起=時間的因果関係とするもの。たいていの仏教学者の本では、(ア)の考え方が有力なようだが、松本史朗や曽我さんは、(イ)のほうを重視しているように思う。また、「進化」的時間も考慮に入れて、人間の習性として、ことばより前にある「カテゴリー化」があることを曽我さんは指摘している。これらを参考にしつつ、サンユッタ・ニカーヤのサミッディさんの話を紹介する。

1.世界は享受の対象か

 ある本で、ブッディスト(仏教者)で評論家の宮崎哲弥が、「仏教では世界は享受の対象ではないんです。」という発言をしていた。/宮崎哲弥・宮台真司『M2 われらの時代に』(インフォバーン 2002年)の176ページ。

 私は、この言葉がなんとなく気になっていた。しかし、「世界の享受」がここでどういう意味で使われているのか、もひとつはっきりしないところがある。漠然とした私のイメージでは、「世界の享受」という言葉は、欲望の充足、享楽、放蕩三昧、さらには、花を見て「綺麗だな」と思うこと、お風呂に入って「いい湯だな」と思うこと、「人生は素晴らしい」と感動することなど、とにかく色々な楽しみを感受すること一切がっさいをふくんでいる。

 ここでは、そのような意味で「世界の享受」という言葉を使うことにする。では、仏教においてこうした「世界の享受」は、どういうふうに捉えられているのだろうか。このことについて、私はサンユッタ・ニカーヤに参考になりそうな箇所を見つけた。しかしその前に、仏教で言う縁起や無明とは何なのかをまず考えておかなければならない。

2.縁起とは何か

 曽我さんのホームページによると、仏教でいう無明とは、「無我=縁起についての無知」だという。「縁起」にたいする無知。それでは「縁起」とは何か。

 ここで、縁起についての理解には、大きく分けて二つの流れがあるように思う。

 それは、(ア)縁起を「論理的関係」として理解する立場と、(イ)縁起を「時間的因果関係」として理解する立場だ。(ア)は十二支縁起の前項と後項の関係を「論理的関係」であるとし、また、たとえば「長い」があるから「短い」がある、すべては相対的な概念だから一切は空だ、といった説明をする。(イ)は、「時間」というファクターをいれて「因果関係」を考えるものである。

 このうち、曽我さんの考え方は、(イ)「時間的因果関係」の考え方に立つようだ。ただし(ア)を排除するわけではない。中観派のように縁起を「言葉の問題」とする(ア)の立場も、実体化の否定、という点で仏教の大事な考え方だ。しかし、そうすると話が拡がりすぎるので、とりあえず(イ)の立場で縁起を考えるとしている。

 末木文美士(すえきふみひこ)『近代日本と仏教』(トランスビュー 2004年)という本に、この二つの縁起観について説明があった。うろ覚えだが、次のようなことが書いてあった。

 昔の日本人にとって、縁起といえば因果、つまり(イ)の時間的因果関係のことだった。そういえば、「なんの因果でこんなことに」とか、「親の因果が子に報い」とか、「死んだら地獄に落ちる」、とか、「袖触れ合うも他生の縁」、とかいう言葉があった。そういうのが昔の仏教的な考え方だった。しかし、これらは「輪廻」や「死後の世界」を前提としている。前世−現世−後世(ごせ)という、「三世」にわたる因果関係なのである。
 

 明治に入って、近代仏教学は、「輪廻」や「死後の世界」を否定して(あるいは無視して)、(ア)縁起は論理的関係である、という考え方のほうを強調してきた。これは仏教が近代化するために、迷信性を排除して、仏教の「哲学性」や「合理性」を強調する必要があったからである。

 そして松本史朗の『縁起と空』は、縁起は論理的関係である、とする現代の仏教学の常識にさからって、あえて(イ)の時間的因果関係を強調したもの、と説明されていた。私の記憶でも、『縁起と空』は、仏陀の「ことば」を重視するのと同時に、宗教的な「時間」を強調していたように思う。そこにはたしか、「十二支縁起は、危機的状況における言葉による創造だ」「縁起は、不可逆の宗教的時間だ」といった言葉があった。ただし松本史朗の縁起は、「輪廻」を排除したものである。それは仏教の無我説に反するからである。

 (ア)の縁起=論理的関係の強調は、宇井伯寿や和辻哲郎あたりから始まっているらしい。そこでちょっと無理して、和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』、瓜生津隆真(うりゅうづりゅうしん)『龍樹 空の論理と菩薩の道』(大法輪閣 2004年)、中村元『龍樹』(講談社学術文庫)、黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』(哲学書房 2004年)といった本をごりごりと読みとおすと、これらの本はすべて、「縁起とは論理的関係である」とか「すべては言葉にすぎない。だから一切は空である」ということを、しつこく説明しているような気がする。

 最近では、「語る禅僧」と言われている、曹洞宗の南直哉(みなみじきさい)も、縁起=論理的関係、無明=ことば、という考え方をしているようだ。『日常生活のなかの禅』(講談社 2001年)で南直哉はこう書いている。

 「あるものの存在が、それ以外のものとの関係においてしか成り立たないこと(縁起)―このことに対する無知を「無明」だと考えれば、無明の正体は言語のはたらきそのものであろう。言語は、関係において生成されている事態(縁起)を一定の型に固定し、あたかもそれが最初からそのもの自体で存在しているかのように思い込ませる。」

 これらはたぶん、説一切有部とか、それを否定した龍樹(ナーガルジュナ)が必死に言っていたことなのだろう。それをまた、近代仏教学があらためて強調しているだけなのだろう。梶山雄一『菩薩ということ』(人文書院 1984年)には、「ナーガルジュナがいいたかったことは、人間というものはものを見ているときにものを見ないでことばの意味を見てしまう、ということである」、という文章がある。これらは「世界の享受」という話とも関係がありそうだ。

 しかし私は、執着の根源や世界が「ことば」である、というよりも、曽我さんのいう「カテゴリー化」のほうが理解しやすいと思う。

 曽我さんは、縁起に対する人間の無知を「無明」と呼んでいる。そしてその縁起とは、とりあえずは、時間的因果関係である。ただし、それは「輪廻」の思想を含まないが、生物進化による歴史的蓄積の時間を含んでいる。したがって、曽我さんの文章には、無明とはDNAのことでもある、という発想が含まれている。

 曽我さんの、小論集2000年10月《無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か》その1:私の縁起理解、という文章と、小論集2003.2.25《無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か》という二つの文章から、いくつか引用してみる。

 『ただ、中観の「右は左によって右たり得る」といった関係性に関する問題意識は、言葉の問題として縁起とは別に考えたいと思う。いきなりそこまで問題を拡大すると、躓きの石となりかねない。さしあたって、縁起は原因から結果への時間的関係に限定しておきたい』

 『ショーペンハウエルは、「生きんとする盲目的意志」と言った。鋭い着眼だと思うが、これを全生物にあてはめて考える時、「意志」という言葉を使うと、アニミズムというか、「意識ある根源生命」を構想し実体視するような誤解を引き起こしかねない。この小論では「DNAの構造に根ざした生命の個体存続と増殖の強い傾向」と言い換えた。この表現は、文章としての魅力はまったくないが、実態により近いと思う』

 『十二支縁起を我々のそのつどのあり方において考えれば、その根本にある無明とは、「無我=縁起についての無知」であろう。一方、十二支縁起を仮に生物進化の歴史にあてはめれば、やや意訳が過ぎるかもしれないが、無明とは「DNAに根ざす個体存続と増殖の強い傾向」であると考える事も可能ではないだろうか』

 『富や地位や名声を求めるのも、もともとの駆動力は、大腸菌やゾウリムシと共有している「DNAによる存続と増殖の強い傾向」なのである。DNAの根本無明が、進化して種ごとに異なる利害となり、人間は人間の利害に拘束される。結局のところ、究極の目的はない。つまり、我々もまた、一番底の所では「DNAに根ざす根本無明」を縁として導かれているのである』

 また、「人間は言葉以前にカテゴリー化を行う進化的な習性がある」、ということに関して、次のような実例を挙げておられる。

 『たとえば、カモシカは、チータに襲われる経験を重ねて、小鳥の羽音のみならず、その匂いや、忍び寄る姿、牙をむく顔、迫る足音などを蓄積し、それらがひとつの恐怖のイメージに収斂し、チータというカテゴリーができあがる。勿論、まだ言葉化は行われていない。しかし、例えば、かすかな匂いを察知しただけで、土をける足音や荒い息づかいなどが渾然となった生々しい恐怖のイメージが喚起され、チータに対応するにふさわしいモードのスイッチが入る』

3.サンユッタ・ニカーヤ

 中村元訳、岩波文庫の『神々との対話(サンユッタ・ニカーヤT)』の28ページあたりに、サミッディという名前の若い僧侶の話がある。ある一人の神が、若くして出家したサミッディさんにむかって、まだそんなに若いのに坊主になるなんてもったいない、「青春のときをむなしく過ごすな」と修行者をそそのかすようなことを言う。

 この話を含むのは、『神々との対話』のうち、「歓喜の園」という章で、中村元の注釈によると、「ここには歓喜と関係のある教えが説かれている」そうである。

 「歓喜」。もしかすると、このサミッディさんの話も、「世界の享受」とか、「うれしい」「楽しい」という感覚と関係のあることを説いているのかもしれない、と私は思った。

「修行僧よ。あなたは若くて、初々しく、髪が黒く、すばらしい青春をそなえていて、人生の第一の時期に欲楽を享受することなしに、出家した。修行僧よ。人間的な欲望を享受しなさい。現にまのあたり経験されることを捨てて、時を要するものを追求するようなことをなさるな」−と神様は、修行僧サミッディに語りかける。

 これに対してサミッディさんは、「でもね欲望って、じつは時間がかかるんですよ。ブッダのおっしゃることは、迅速で、『時を要さない』教えなんです」といったことを言う。

「愛欲は、実に時を要するものであり、苦しみ多く、悩み多く、禍いがここに甚だしい、と尊師が説きたもうた。この理法は、現にまのあたり体験されるものであり、導くものであり、叡智ある人々が各自みずから体得すべきものである」

 「目の前の欲望よりも、仏の教えのほうがスピードが早い? 《時を要さない》というのは、一体どういうことか?」と神は疑問に思ったのだろう。サミッディさん経由で、仏陀に問い掛けることになった。「愛欲って何? 欲望って何? 享楽って何?」という質問をしたのだと思う。すると仏陀の答えたものは、一見するとよくわかんない・・・という言葉である。

 仏陀はこう答える。

「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるものを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体があると考えないならば、その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾となるもの(煩悩)は、もはやその人には存在しない」

 これはいったいどういう意味なのだろうか。煩悩や欲望や享楽なんていうのはやはり「ことばにすぎない」ということなのだろうか。しかしわたしは、ここで「ことば」というより、動物にもある「カテゴリー化」こそが、煩悩の根源であり、またわれわれの「世界」全体でもある、というふうに考えるほうがしっくりくると思う。

 「ことば」をもつ人間のみならず、「動物」にまで仏法が及ぶのか、という話はなかなか難しい問題なのかもしれないが、私が昔読んだ、手塚治虫の『ブッダ』という漫画では、動物たちも人間たちと一緒にブッダの教えを聞いていた。(証拠にはならないが)

 この「カテゴリー化」というのは、ここでは「分節化」とか「パターン化」といいかえてもいいと思う。結局それで、世界を実体化・固定化してしまう。あるいは、そのカテゴリーに執着してしまう。たとえば、男は「女」に執着しているのではなく、「女」というカテゴリーに執着してしまう。「自然」をありのままに見ようとしても、既に自分の中でパターン化されたものとしてしか「自然」を見ることはできない。したがって、つねに流動変化してやまない「世界」だとしても、「固定化」して世界を見ているので、われわれはすぐに「退屈」することにもなってしまう。人間の「享楽」と「退屈」は密接な関係がある。「世界の享受」「退屈」「煩悩」「執着」−これらは、みんな同じような理屈で説明できるのかもしれない。

 再び小論集2003.2.25《無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か》には、こう書いてあった。

 『釈尊は「一切皆苦」とおっしゃった。しかし、文明の進んだ現代で、餓える心配もなく娯楽に囲まれて生きる我々には、「一切皆苦」はなかなかピンと来ない。「一切皆退屈」とでも言った方が共感を得やすいのではないだろうか。そんな軽い言葉で釈尊を語るなとお怒りかもしれない。しかし、私は、「退屈」を結構重い意味で使っているつもりだ。パスカルを勉強した事はないが』

4.ざわめきの静まった、ノイズの少ない、透明度の高い感覚

 それではどうしたらいいのか。そんなこと私に聞かれてもよくわからない。

 しかし、最後にまとめとして、妹尾義郎さんとの『意見交換』2004.2.22.(瞑想と言葉と思考)から曽我さんの言葉を引用しておこう。

 このあたりの曽我さんの言葉を読むと、なんだか、人の寝静まった夜、地平線あたりの遠くのほうに、チラチラと街の明かりがまたたいているのを眺めているような感じがする。

  まず曽我さんの対論相手の妹尾義郎さんの言葉。

 『人は簡単に言葉による分別、概念化作用を超えられません。何故なら言葉は、生存の根源的欲求(無明)に根ざしているからです。多少の瞑想修行で得られる忘我感は、無我の理そのものではあり得ません。そこでは未だ言葉が超えられていないからです。感受および感受対象はなお言語によって捕捉され、言葉によって記憶され、言葉で想起されます。どんなに純粋感覚に近いように思えても、それは言葉なのです。そして、その言葉による分別作用は反対側で、そのときどんなに微弱になっていたとしても確実に「この私」を分節しています。』

 これに対し曽我さんはこう答える。

 『妹尾さんは、「いかに瞑想を深めようとも、言語の枠から逃れ出ることは不可能だ」とお考えです。私の感覚では、拙くも少ない経験ですが、うまくいった瞑想は、言語も思考も、少なくとも日常のレベル( or 妄想のレベル)に比べれば格段に静まっている、と感じます。観察する意識は発生し続けているのですから、それに伴う思考もあるのかもしれません。しかし、日常生活のざわめき・ふらつきとは違う、ノイズの少ない、透明度の高い感覚になります。また、この状態になる時、なっている時、そのことを意識することができます。あまりこういうことを書くと、実はこれも一種の変性意識体験に過ぎないのではないかと心配になってきますが、しばらくはこの方向で自分を実験台に検証を続けてみるつもりです』

 『私たちの問題点は、言葉よりもっともっと根深い、古い層にあると思います。確かに、言語を得て、執着は爆発的に巨大化・複雑化しました。しかし、その種となった執着の反応パターンは、言葉よりずっと前からある。ですから、言語を止めても、執着のパターンはプリミティブな形で残ると想像します。言葉を持たぬ動物も、獲物や天敵を価値づけ、対象として捉え、ふさわしい反応をしています。釈尊による脳手術は、言語よりもっと深い所にメスを入れておられる筈です』

―「仏教徒にとって世界は享受の対象か」(sinceke)−終わり

   2005.7.6. 梅雨入りしてとても蒸し暑い大阪の自宅から

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