A・Hさん 縁起=決定論?(続き) 2004,7,21,

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曽我様こんにちは。
先程、意見交換の所また少し見させて頂きまして、気になった事がありましたので、追加させて頂きます…

私は、T-kotouさんのメールは、行動が全てという事を仰りたかったのではなくて、私のような、頭の中だけで何でも解決してしまおうという感じの人間に対する、戒めだったのではないかと感じたんです。
私は、なかなか行動ができない人間ですので、そういう傾向が強いと言われても否めないですし、それは確かに、尤もな事だと思うんです。
もしそうだとしたら、申し訳ないと思いまして、この事について、私なりの解釈を述べさせていただきました。
間違ってましたら、お二方に申し訳無いのですけど…

それでは、失礼致します。


再度 A・Hさんから  2004,7,21,

曽我様、こんにちは。
返事遅くなってしまいました…

試験期間中で、なかなか落ちついて考えられる余裕がありませんので、簡略みたいな感じになってしまいます。
クオリア、ホムンクルスのお話、期待してます。

カオス現象や非線型現象等は、決定論を否定するものではないんです。
量子論の不確定性原理と、カオス現象というのは、全く別物なんです。
カオス現象というのは、大雑把には、最初の状態が少しでも異なると、少し後の状態が、全く違ってしまうような現象なんです。
ですので、最初の状態が寸分違わず同じならば、後の状態も全く同じになるんです。

とある瞬間の世界の全てが解ると、過去未来も計算できるというのは確か、人間には不可能だという事に過ぎないと思います。
量子論の話に関しては、未だ謎が多い所だと思うのですが、そうでなく、通常の力学や自然の範囲でも、それを計算しようとすると、宇宙中の材料と宇宙の寿命をもってしても計算できなくなるくらいに莫大な計算量となってしまうらしいんです。
ですが、非線型現象は、いくら複雑でも、決定している事には変わりはないんです。
三体問題と呼ばれる、重力で互いに引き合う三つの天体の挙動に関する問題(大抵は、二つの天体が止まっていて、残りの一つの天体が、その二つの天体の重力に引かれて運動するって感じに簡略化されるみたいです)も、天体の運動はカオスになるのですが、決定論から逃れられるような余地は全く無いです。
昔は、完全に解ける線形現象が好まれ、近似しか出せない非線型現象は嫌われていたのですが、最近はその重要性が注目されて、色々研究されているという感じだったと思います。

すいません、決定論と縁起の相違と、努力と縁起の両立については、未だ理解に至りませんでした…
休みに入って落ちつきましたら、また考えてみようと思います。
決定論的ではないという事は、縁起の考えと言うのは、現在の世界の状態から、次の一瞬が、唯一つ決定しているというわけでも無いという事なのでしょうか…
でも、一概に縁起という考え方で努力という行為を解剖しようとせず、努力に関しては、例え事実がどうであっても、出きるか出来ないかは自分に掛かっているって意識した方が良いという事なのでしょうか?

関係無い話になってしまうのですけど、神秘的な事柄を認める宗派というのは、単に、私のような普通の人間にでも入り込み易いように、そういう事を説いているという場合もあるのでしょうか?
目的地にまでの道が複雑に入り組んでいる場合、ただ目的地へ向かって真直ぐ歩いていては、崖や壁がありますので、時には目的地とは別の方向にあるいて行かないと、目的地には辿りつけないですし…

それでは、失礼致します。


ようやく曽我から  思考、決定論、主観など 2004,7,31,

拝啓

 返事遅くなり申し訳ありません。試験の首尾は如何だったでしょうか?

 では、早速。

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 まず、「思考と行い」については、「よく考えて正しく行動しようとするべきだ」という、至極あたりまえのことだと思います。

 でも、世の中の「仏教」には、「考えてはいけない、考えないことが仏教だ」というようなことを、訳知り顔で言う人がおられるように感じています。こういう方は、自分は分かっているという態度で、「考えなければ、分かる。しかし、言葉では説明できん。自分で分からなければならん。」とおっしゃる。でも本当に何か分かっておられるのでしょうか? ただ自己肯定の気分で昂揚しておられるだけのように思います。
 こういう考えの背後には、自覚されてはいないのでしょうが、梵我一如型の考えがあって、「あれこれ考えることが本来の自分をスポイルする。はからわずにありのままでいれば、本来の自分が自由に働き出す」と考えているのだと思います。「善き本来の自分がある」という考えは、仏教つまり無我=縁起ではありません。
 T-kotouさんが、このようなお考えなのかどうかは分かりませんが、思考を否定する「仏教」がまだまだ多いように感じるので、思考"も"ないがしろにしてはいけないと強調したいと思い、あのようなお返事を書きました。

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 次に、縁起と決定論、主体的努力の関係について。

 カオスや非線型は、ホンのちょっとの差が巨大な違いになって現れるということであって、決定論であることには違いがないとの御意見、了解です。「チョットの差」のところに、量子論の不確定性原理かなにかもってこないと、非決定論にはならないということでしょうか。量子論は魅力的ですが、私のような素人が半解でなにか言うのはあぶないので、深入りしない方がいいですね。
 (このメールを書き上げる直前に、岸 善生さんから「量子論は、三重の意味で、非決定論」というメールを頂きました。あわせて転送します。)

 クオリアとホムンクルスについての私見、先日ホームページに掲載しました。是非御意見お聞かせ下さい。クオリアもホムンクルスも、一般的な意味からはかなり限定した意味にしてしまったので(特に後者)、違和感を感じられるかもしれません。でも、できれば私の意味付けで一度は読んで頂いた上で、ご批判を頂ければと存じます。

 詳細は読んでいただきたいのですが、縁起、決定論、主体的努力に関する部分を要約すると、こういうことです。
 生命も縁起の現象である。進化の進んでいないうちは、決定論的に縁に反応している。ホメオスタシス、反射、条件反射など。しかし、進化が進んで、長期記憶やシミュレーションの仕組みができると、一つの縁に対して、いくつか反応のオプションを持てるようになる。夏休み、海に行くか、海外か、図書館で勉強に打ち込むか、寺にこもるか。このような選択肢を持てることが自由であり、主体性の発現だと思っています。たとえば、寺にこもったとしたら、そこでまた新しい経験をして、あらたな記憶を蓄積し、新しい反応のパターンを獲得する。そのようにして、オプションの巾、自由の巾はさらに広がる。

>努力をしない者は、ただ、努力をするという起に対する、縁となる事柄に運悪く接する事ができなかっただけという解釈で良いのでしょうか?
 人間という進化した生物は、内部にさまざまな反応の仕組みを持っています。それは、生得的なものもあり、さまざまな条件反射のパターンや記憶などの、経験によって蓄積したものもあります。縁は、私達の内部で複雑に反響し、その結果私達は何かの反応を出力したりしなかったりします。
 私達は、ビリヤードの玉のように、そのつどの縁に物理的に突き動かされているのではありません。ある程度成長した人間であれば、努力した経験は必ずあり、努力することを起こす縁は、内部に反応のパターンとして保持していると思います。ですから、電車に遅れそうだと思えば、自然に早足になる。これはすでに努力です。一方、ゾウリムシは、努力することを起こす縁の仕組みをおそらく持たないので、ただ出くわした縁に比較的単純な反応をするだけで、努力するという反応はできないと思います。
>自分自身のする事の原因が、全て他の原因に基くものであるとすれば、そこで自分自身の運命を変える力を主張しようなんて事は、夢物語にしか思えないんです。
 ビリヤードの玉であれば、その動きの原因はすべて他にあるので、ビリヤードの玉が自分で動きを変えるということはあり得ません。ですが、動物は、ゾウリムシであれ大腸菌であれ、内部に反応の仕組みをもっており、縁に対して精妙な反応をしています。
 あらゆる生命に共通のことは、生命の反応は、自分を守り育てる反応であることです。つまり、生命は、その生命自身に影響を与える反応であり、そもそものはじめから一貫して自分に縁を与え続けてきたのです。
 生命は、ホメオスタシスから始まって、様々な仕組みを作り上げてきました。その仕組みによって、自身の反応を守り育ててきました。小論の表現を使うなら、生命とは我執の反応です。生命は、苛烈な環境に置かれても、なんとか生き延びようともがきます。この反応は、決定論的なものですが、これとて努力と言えなくもありません。そして、進化の道程において、主体的努力という反応も可能になりました。それは生命本来の執着を増長することになり、苦を増やしました。仏教は、主体的努力をうまく逆用して、我執の対象である「我」はないと正しく理解し、苦の生産を止める教えだと思います。(詳細は、ホームページ小論「クオリアとホムンクルスを・・・」にて)

 朝、少し早起きして座禅(あるいはジョギング)するのは、初めはめんどくさいですよね。起きようと思っても結局布団を出られないこともあります。でも頑張れば起きられることもある。何度か起きられれば、だんだんと起きることが容易になる。多分シナプスの可塑性のお蔭だと想像しますが、今の自分がなにかすること、しないことは、以後の自分の反応パターンに影響を残す。今の自分は、以後の自分への縁である、と言えます。こうして、自分で自分の反応パターンに善い癖を(悪い癖も)つけていくことができます。仏教の伝統的な表現なら「戒」にあたります。

 人間もつきつめれば物理的な現象ですから、世界のすべてがもしも決定論で動いているなら、人間の行動も決まったことをなぞっているだけになってしまいます。でも、実際に我々は主体的努力が可能です。長期記憶の浮上とか選択肢の選択・決断の際に、量子論の言う「波束の収縮」が起こっていて、決定論が破れているのでしょうか? それとも、主体的努力をするかしないかも、厳密に物理学的に考えると、実はあらかじめ決定論で決まっているのでしょうか?

 しかし、ともかく、実践的なこととして、我々は現に努力ができる。そして、そのことは、無我=縁起の教えと矛盾はしないと思います。私としては、それで十分と思うのですが、、。

 詳しくは、ホームページの小論を御一読下さい。仏教の方法、凡夫・仏弟子・仏のあり方についても触れましたので、御意見頂けると助かります。

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 仏教(無我=縁起)は死を薦める教えか?

 これは、そんなことはないですね。釈尊が死を薦められたといった記述は、読んだ覚えがありません。

 でも、「それではあなたは死を薦めるのか」といった詰問のメールは、確かに何度かもらったことがあります。「縁起や無我の話を中途半端に理解した者にとっては、それは死ねと言っているようなものである」とおっしゃるとおり、確かにそのように受け取られてしまうことがあり、気をつけなければいけないと思います。

 無我=縁起を聞くと、なぜ「死ななければいけないのか」と思うのでしょうか? それは、我執があって、「自分がなにかひとかどの存在である筈だ、あらねばならない」という思いがあるからだと思います。「自分には、自分にふさわしい価値があり、なすべき目的があるはず。」そういった、考えといえるほど自覚的ではない、気分・感情があって、無我=縁起は、それを逆なでするのでしょう。「無我=縁起であるなら、私の存在には意味がないではないか。存在の意味がなければ、死ななければならないではないか」 と。でも、意味のないものは存在してはならない、というのは思い込みです。自分に意味を欲しがるのは、我執です。

 少し書きすぎたでしょうか。今書いたのは、10代から30代までの私自身のことです。動物園の熊のごとく、同じところをうろうろと行ったり来たりしていました。鬱々といらいらとしながら、とぎれとぎれに仏教の勉強をして、ようやく無我=縁起を(今だ戯論のレベルとはいえ)少し分かりかけて、以前のようには自分に意味や価値を求めなくなりました。世間に認められたいとか、自己満足できるなにごとかを成し遂げたいとか、あまり思わなくなりました。今私の願うことは、軽安に過ごすことです。私には軽安さが欠けています。それは、私の無我=縁起の理解が、中途半端だからだと思います。

 無我=縁起には、もうひとつ「=」でつながるものがあります。無常です。つまり、我々は、刻々と死につつあるということ。経典では、「髪が燃えている」という表現がありました。頭がぼうぼうと燃えている。そんな差し迫った状況で死は私を滅ぼしつつある。ですから、無常=無我=縁起をちゃんと聞けば、「それでは死ねというのか」などと腹を立てている暇はないのです。受精の途端に私達は既に死に始めており、死に終える日はもうそこまで迫っているのですから。

 あ、私は矛盾したことを言っているでしょうか? 無常=無我=縁起を知れば、軽安に過ごせると言い、また、死が差し迫っていることをひしひしと感じると言いました。変でしょうか?
 おそらくこういうことです。
 無常=無我=縁起を知らないと、人は、永遠の主宰者である「我」があると妄想し、執着して、自覚なく苦を作り続ける。無常=無我=縁起を聞いてすぐは、「我」を貶めるのか!と腹を立てる。無常=無我=縁起をもう少し理解すると、死に終える日は近いと焦る。無常=無我=縁起を腹に落ちて納得すれば、死を傍らに従えて死に終えるまで軽安に過ごす。
 怒ろうが、焦ろうが、泣こうが、わめこうが、死は着々と近づいています。死を避ける術はない。いつかそのうちではなく、ここで今、死は完成されるかも知れない。であるなら、軽安に生きるに如くはないと思います。

 A・Hさんのお蔭で、無我=縁起は、中途半端ではなく、しっかりと考えてもらえるように工夫しないといけないと、あらためて思いました。ありがとうございます。

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 仏教は、真の安楽を求めて死ぬ事を、どのように否定するか。

 仏教がもたらすのは、「苦を取り除くこと」というより、「苦を作らないようにすること」だと思います。
 苦には、二種類があります。第一の矢と第二の矢。
 第一の矢は、我々が縁起の現象である限り、避けられないものです。病気や怪我による苦、人との離別など。晩年の釈尊も、背中の痛みに苦しんでおられました。
 第二の矢は、人が自分と人に作り出すものです。つまり、怒りや憎しみや恨みや妬み、恐れ、卑屈、尊大、絶望・・・など。
 第一の矢よりも、第二の矢の方が、はるかに大きな苦をもたらす。世界各地の紛争も第二の矢でしょう。もっと身近ないざこざも、、。第二の矢は、「我」があると思い込んで、それを守り育てようと過剰反応すること、それは自然な我執の反応なのですが、その結果として生み出されます。そして、人と人の間で射かけ合うたびにどんどん大きくなって行きます。
 第二の矢は、人が作るものですから、自分の反応の仕方を改めることができれば、作らないようにすることができる。それが釈尊の教えだと思います。

 しかし、もし第一の矢が大変な苦しみで、しかも休む間もなく続くならどうか? 自殺は許されるのか?
 正直申し上げて、この問いは考えたことがありませんでした。確かに、病気などでそういう状況になることはあり得るでしょう、、、。
 まず、その苦が、第一の矢か第二の矢か、よく確かめねばなりません。というのは、座禅の時の足の痛みなどは、気にすればどんどん痛くなるし、別のことに集中すれば、それが自己観察であれ、妄想であれ、痛みは感じなくなります。ですから、第二の矢で気にしすぎて、余計に苦しくしているのかもしれません。
 しかしまた、亡くなる直前の釈尊は、アーナンダに、「私は疲れた、横になりたい」と何度も休む場所をつくるように頼まれました。釈尊でさえそうなのですから、「心頭滅却すれば火もまた涼し。痛みなど精神力で克服せよ」というような無責任なことは絶対に言えません。

 病気などで、第一の矢の苦しみがずっと続くとき、どうすればいいのか・・・?
 ・・・今の私には、答えられません。すみません。回答は留保させてください。

 これに関連して、医療のことも思いました。どこまでの医療が、正しい、あるいは容認される範囲なのか。どこからが過剰な生への執着なのか? 脳死臓器移植はやりすぎだと思うのですが、では、どこまでならいいのか? この問いにもまだ答えることがかないません。

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 主観について

 A・Hさんのお考えをどこまで理解できているか分かりませんが、多分、A・Hさんは、主観がまずあって、それが感じたり、いろいろと取り計らったりしている、とお考えなのではないかと想像しています。

 仏教から私が学んだことは、反対です。笑ったり、むっとしたり、手を伸ばしたり、振り返ったり、そういう瞬間瞬間の反応が私だと思っています。そのつどそのつどの私は、ひとつの身体という場所で起こっているという点では一貫性がありますが、その他の点では、まったく一貫性はない。落ち込んでいたり、元気一杯だったり。宗教的であったり、下劣であったり。憎しみの固まりだったり、やさしさにあふれていたり。縁によって、てんでんばらばらな反応をしています。(全体的に見れば、その人毎に反応パターンの特徴的傾向があり、それがその人らしい個性といわれるものです。)そうした様々な反応のひとつとして、自分を対象化するという反応があります。この反応は、しょっちゅうではありませんが、時々起こります。その時に対象として捉えられる「自己イメージ」が、A・Hさんの言っておられる「主観」ではないでしょうか?
 つまり、「主観」は、采配する<主体>ではなく、<対象>としてイメージされた自分ではないかと思うのです。小論「クオリアとホムンクルスを・・・」の言葉で言うなら、A・Hさんの「主観」は、自伝的自己、ノエマ自己にあたり、それをイメージとして紡ぎ出すのは、中核意識、ノエシス、そのつどの反応ではないかと思います。前にお送りしたメールの表現をもう一度使うと、本当の主体の「私」とは、名詞でも代名詞でもなく、動詞なのです。

 ふと今気づいたのですが、そう考えると、日本語は、このことをよく反映していると思います。
 「音楽を聴く」「ご飯を食べる」「楽しく過ごす」「あいつは嫌いだ」・・・「私」といった主語がほとんど登場することなく、しゃべったり考えたりしています。ノエシスの動詞的性質がよく現れているように感じます。

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 私のコピーは私か?

 「私」とは、そのつどそのつどの反応で、つどが違えば、別の反応だ、と述べました。つまり、持続的実体的な「私」はもとよりない(無我)、ということです。コピーなどとらなくても、もうすでに、今の「私」はさっきの「私」とは別の現象です。仏教ではそう考えると思います。
 普段私達は、そのつどの別々の現象をまとめて「自分」、「私」と呼び、「自分」とか「私」とかのカテゴリーでとらえているのです。喩えるなら、嵐の夜、雷が何度も落ちます。一回一回の雷は、それぞれ個別の現象であるのに、それを一貫した「雷」がずっとあると思ってしまうようなものです。「私が存在する」という見方は、そのような過ちだと思います。
 しつこいようですが、もう一度比喩を。
 雷発生装置があって、雷を起こしています。装置が身体で、雷は、そのつどの「私」という反応です。寸分違わぬ第2号装置を作って、雷を起こさせました。
問い:2号装置で起こした雷と、1号装置の雷は、同一であるか?
答え:どの装置で作ろうと、どの雷もすべて個別のそのつどの雷である。
 (生命の場合、機械と違うのは、反応が起こるたびに、反応発生装置(身体、特に脳の神経細胞の繋がり)にもなにがしかの変化が起こることです。それによって、以後の反応が強化されたり、変化したりします。)

 もっとも、個人的には、未だ無常=無我=縁起を腑に落ちて納得できていないので、「コピーができたからお前は殺す」と言われれば、「両方殺さないで下さい」と懇願するでしょうけれど。

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 ゾウリムシの霊魂について。

 “霊魂があったとしたら、ゾウリムシか、どのくらいの複雑な生命体から宿るものなのかが不明になるので、霊魂なんて存在しない”と私の考えを要約して頂きましたが、私の意図は厳密にはこうでした。
 「霊魂があるというなら、進化のどのレベル以上からなのか、示して欲しい。」(おそらくは示せないだろうし、示せたとしても矛盾を生じるだろう。)
 これに対しては、三つの立場が可能だと思います。
 (1) 生命は、どれほど単純なものでも、すべて霊魂を持つ。
 (2) あるレベル以上の生命は霊魂を持つが、それ未満は霊魂を持たない。
 (3) 感じることや、主体性などは、進化の結果順次可能になってきた能力、反応であり、そのような反応は、霊魂なしに起こる。
 私の考えは(3)で、その詳細は、小論「クオリアとホムンクルスを・・・」に書きました。

 対して、A・Hさんは、「なにかを感じることのできるものは、感じる主体を持っており、それは霊魂である。」という回答を示してくださったのだと思います。

 (1)のお立場か、(2)か、分かりませんが、「感じること」というのは、難しい問題ですね。A・Hさんも書いておられたとおり、相手が人間であれ、なんであれ、他者が感じているのかどうか確かめることはできませんし。一方、逆に、温度を「感じる」サーモスタットにも霊魂(意識だったかも)がある、と主張する学者もおられるとなにかの本で読みました。

 いずれにせよ、A・Hさんは、「主体、霊魂がまずあってこそ感じることができる」とお考えだと思いますし、私は、「霊魂、主体、アートマン、我などなしに、そのつどの反応として<感じること>が起こる」と考えています。霊魂、主体、アートマン、我などは、進化の最後の段階になって、それまでに獲得した様々な反応の仕組みが組み合わさった結果生み出された妄想だと思います。私の考えが不可能かどうか、「クオリアとホムンクルスを・・・」で、今一度検討して頂けると嬉しいです。

                                敬具
A・H様
     2004、7、31、                     曽我逸郎

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