和バアさん 自然崇拝について(続き) 2004,7,12,
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曽我さんへ
>和バアさんのメールは、いつも新しい着眼点を与えてくださるので、ありがたく思います。
にドキッとしております。(また何か変なこといったかなあ)
自然崇拝について、仏教と切り離して・・・・・と思っていたのですが、この際です。とことんいきましょう。
あれから、「大乗仏教の根本思想」最後まで読み通しました。というか、実は師匠の目が悪いためカセットテープに吹き込んでいました。あれだけの本を読みこなす自信などなく、気になる本は、自分の勉強もかねて師匠にテープで聞いていただいています。師匠に聞いていただくのでなければきっと途中でいやになります。
で、親鸞のおっしゃる他力、これは縁起のことですね。空なる存在のわれわれがここに起きている現象は相依性からなる縁起によっているので、自力なるものはありえない。存在(現象)そのものからして他力である。
「山川草木悉皆仏性」この仏性とは梵とか次元を超越した大きなものなどではなく、それこそビッグバン的自然界に対するものととらえています。
私たち人間の傲慢さに対する謙虚さとでも言いますか、私は、私は、と自己主張している私に対して、「ちょっと待てや〜、あんた一人で生きてると思うてるかも知れんけど、どこで誰に世話になってるかわかれへんで。世の中の何もかもがみーんな寄り添うてんねんで。それこそ地球誕生の瞬間からいろんなことが絡み合って今のこの世界があるんやで。それこそ生きていくためには、空気もいるし水もいるし食うもんもいる。空気かて勝手にこの世にあるんちゃうわなァ。ほら、そこの樹木が人間が吐き出した二酸化炭素ちゅうのんを取り込んで今度は人間に必要な酸素っちゅうのんに変えてくれてるらしい。まあ、樹木は二酸化炭素が必要らしいからお互い様いうことやはなあ。だいたいがこんな具合で世の中回ってるらしい。みんなが訳解らんうちにお互い様ちゅうことやなァ。偉そうにしてんともうちょい控えたりいや」(大阪弁でまとめてみました)
という感じで、山川草木(悉皆)を同じ価値観で見ているのだとおもいます。
大きな大きなものに生かされているのは、上のようなことだと思います。あくまでも、「一人の力で生きてるんじゃないよ、みんなで支えあっているんだよ、」ということのひとつの方便であって、私にはガツンと来ました。
そして、これらは全て縁起に返って行く言葉だと私は理解しています。
他力の教えは、何もかもが縁起により起きているのであるから、自力でどうこうするとかいうようなはからいはするな。とのことですが、このへんはまだ模索段階です。(ここでいうはからいは損得ではないですねえ。自分の言葉ですがちょっと支離滅裂としてきたかな?)
師匠はやはり「人に迷惑をかけない・・・・」ことが前提となるらしく、やっぱり(人に迷惑はかけないという)はからいはあるよなと思っています。それとも、先の山川草木悉皆仏性を自ら感ずることによる気づきによって知らない間に私なるものが変わってくるのかなあ?念仏をすると自然に世の中のことが円滑に回るようになる。というようなこともおっしゃいます。ただ、その辺のはからいとはからいでないものの違いが私には分かりません。縁起から起きている(他力)私という現象ができる自力とはいったい何なのか。
こうして自分で文章を起こしてみて、同じ言葉でもいろいろな意味があってそれを相手に的確に伝えることの難しさ、そしてまた、相手の言葉を間違いなく受け取る難しさをひしひしとかんじます。
話は変わりますが
あるHPで見つけた文章です。
<曽我>この部分、無我の体験の記述が引用されていますが、勝手に掲載してはまずいかもしれないので割愛し、最後の一文だけ要約しておきます。上記はあるホームページに載っていた体験談です。
『「私のように見えるもの」は、実体を持つことはなく、さらさらと過ぎ去ってゆくのでしょう。』
私はまずこのことを体験したいと思っています。
この方のようにさらさらと体験したいと思っています。
これで我執が無くなるとも思えませんが、世界は少し変わってみえるのではと思います。
またこの体験から恐怖のような負の感情も見られません。ただ淡々と「何だ、私っていなかったのか」と納得されている様子が見えます。どうやら無我とはそこら辺に転がっていることのようです。
またまた話は変わって
A・Hさんのお便り、とても興味深く読みました。私が疑問に思っていて言葉にできない事をたくさん質問しておられます。今、曽我さんのほうがとてもお忙しいとのことですが、お二人のやり取りとても楽しみにしています。
暑い折、お体も大切に、
和バア
和バアさんへの返事 2004,7,13,
前略
短いコメントで恐縮です。
ふと思ったのですが、「生きていること」、「万物に生かされていること」をありがたいと思う感覚は、釈尊にあったのでしょうか? 早い時期に成立したとされる仏教経典を読む限りでは、そのような印象はあまりありません。
勿論、感謝は悪いことだとか、感謝を否定するとか、そういうことを申しているわけではまったくありません。
ただ、生かされていることをありがたいと思うことは、釈尊の教えにおいては、重要な位置を占めてはいなかったように感じます。
草々
和バア様
2004、7、13、
曽我逸郎
和バアさんへの返事 2004,7,14,
前略
また短いコメントです。
はからいには、二種類あると思います。執着に導かれたはからい、すなわち得を得ようとして人と自分に苦を与えるはからいと、釈尊の教えてくださった正しいはからい、無常=無我=縁起を納得させ執着を滅し苦を創らせず慈悲の自動的反応へと導く正しい努力と。
ふたつを見分け、正しいはからいに努めなければなりません。
現代の日本の「仏教」には、両方のはからいをイッショクタにして、正しい仏教を求めることさえ、「はからいだ、執着だ」として否定するような考えが散見されます。こういう考えは、一切のはからいを停止せよ、と主張します。では、ボーっとしていればいいのか? あるいは自然な執着のままに放縦であればいいのか?
もし「はからいを停止するためには修行せねばならない」というなら、そんな回りくどい言い方は止めて、「悪しきはからい、執着のはからいは止めて、善きはからい、釈尊の説かれたことに努め励めよ」と言ったほうが分かりやすく、誤解を生まないと思います。
草々
和バア様
2004、7、14、
曽我逸郎
和バアさんから 2004,7,15,
和バアです。
ふと思ったのですが、「生きていること」、「万物に生かされていること」をありがたいと思う感覚は、釈尊にあったのでしょうか? 早い時期に成立したとされる仏教経典を読む限りでは、そのような印象はあまりありません。ですから、「釈尊の仏教」を考えるときはこれらを切り離した方がいいのかなと感じました。
はからいには、二種類あると思います。執着に導かれたはからい、すなわち得を得ようとして人と自分に苦を与えるはからいと、釈尊の教えてくださった正しいはからい、無常=無我=縁起を納得させ執着を滅し苦を創らせず慈悲の自動的反応へと導く正しい努力と。そうですね。はからいを判断することも必要ですね。いろいろな経や教えの本質というか、伝えようとしていること、を正確に受け止めるだけの力量(言葉が見つかりません)を、持つことが必要ですね。
ふたつを見分け、正しいはからいに努めなければなりません。
現代の日本の「仏教」には、両方のはからいをイッショクタにして、正しい仏教を求めることさえ、「はからいだ、執着だ」として否定するような考えが散見されます。こういう考えは、一切のはからいを停止せよ、と主張します。では、ボーっとしていればいいのか? あるいは自然な執着のままに放縦であればいいのか?
もし「はからいを停止するためには修行せねばならない」というなら、そんな回りくどい言い方は止めて、「悪しきはからい、執着のはからいは止めて、善きはからい、釈尊の説かれたことに努め励めよ」と言ったほうが分かりやすく、誤解を生まないと思います。
師匠から、釈尊に取り付かれている、と言われてしまいました。
梅雨もあけ本格的な夏到来となりました。畑仕事大変ですががんばってください。
大収穫を祈っています。
【 2004、11、24、加筆 】
>>師匠から、釈尊に取り付かれている、と言われてしまいました。
釈尊は、キツネツキではないから、取り付いたりはなさらないだろう。
しかし、もし本当に釈尊が取り付いて下さるなら、願ってもないことだ。釈尊と自問自答できるなら、どれほどすばらしいか、、、。
「釈尊に取り付かれている」…この言葉は、釈尊を否定的に捉えている。日本の「仏教」が釈尊の教えではないことの証しだと思う。