T-kotouさん 仏教は思考でも思考の方法論でもなく「行い」の教え 2004,7,11,

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皆さん
深みにはまっていないでしょうか?
仏教とは思考することでも思考の方法論でもなく、「行い」の教えではないのでしょうか?


T-kotouさんへの返事 思考と「行い」の両方が必要 2004,7,12,

前略

 T-kotou さんは、どのような「行い」をどのようになさるおつもりですか?
 座禅? 念仏? お題目? 千日回峰? 護摩を焚く? 滝に打たれる? ヴィパッサナー? 日々の善行? ポワ?
 「仏教的」とされる「行い」の中から、どれかを選ばれるのでしょうか? なんらかの判断基準で? それともすべてをなさいますか?

 「仏教とは思考することでも思考の方法論でもなく」というのは、既に判断だと思いますが、その根拠は?

 「なんでもいいからともかく行え」では仏教になりません。釈尊の説かれた正しい行いでなければ。

 私は、釈尊の教えは、大変合理的なものだったと思います。しかし、2500年の時を経て、次第におかしな要素が混ざり込み、外面は意味ありげで、中身は仏教とは言い難いものに変わってしまっていると思います。釈尊の教えと混ざりものとを注意深く分離し、釈尊の教えはこうであったであろうという仮説を立て、それに基づいて「行い」を決める。「行い」によってさらに仮説を検証する。そのような試行錯誤を重ねて、一歩一歩釈尊の教えににじり寄って行けるものと考えます。

 思考だけでもダメだし、行いだけでもダメ。思考のない行いは、危険でさえあります。両方が必要だと思います。

                                  草々
T-kotou 様
      2004、7、12、                    曽我逸郎

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