A・Hさん 無我と縁起について(2) 2004,7,10,

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曽我様、
お忙しい中、返信ありがとうございました。
バリウムは、最近は味が付いてて比較的飲み易くなったとは聞きましたけど、それでもやはり気持ち悪そうですね…

一応、列挙された小論文や会話は一通り拝読させていただきました。
やはり、自分は何か大切な所を誤っているのではないかという感じを受けました。
ただ、ちょっと急ぎ気味で読んでしまいましたので、一部だいぶ流し読みになってしまったというのと、私にとっては深くて難解な所も多々ありましたので、理解できているとは言いがたいです。
でも、新たに思った疑問もありますし、それらに関して私の考えも述べさせてください。
前回の内容と重複しまっている事もかなりあるかもしれませんが…
また、前回に引き続いて、なんだか無駄に長くなってしまって申し訳無いです。
なるべく、要点を絞って述べられるように努めていきます。

縁起に関しては、単純に決定論や運命論だとは言えない事柄であると読み取りましたけど、どうも私には、それらがどのように違うのかが理解できませんでした。
というのは、縁起によると、現在を原因として起こる一瞬先の結果は、一つであるという事になり、それが例えその都度の事であったとしても、それが繰り返されれば、どんな遠い未来でも、決定している事になるはずだと思うんですが、ここらへんの解釈も間違っているのでしょうか?
過去や未来が存在しないと言う話に関しても、もし縁起がこの世の理ならば、過去や未来について、我々が直接認知する事ができないだけであって、現在を起とする縁として、一瞬前の過去が、そして更にそれを繰り返す事によって、どんな前の過去でも、現在と平等に存在している事が言えると思うんです。
つまり、現在が存在していると言えるのならば、過去や未来も、現在と何の区別もなく存在している、現在過去未来を超越したものとして世界が存在しているだけと言えると思うんです。
そこから私は、我々が時の流れを認識するという事に、何か重大な謎が隠されていると考えています。全てが決定しているのであれば、時の流れも起こり得ず、ただ時を超越した時全体が存在しているだけで充分のはずだと思うんです。

それから、努力というのは、例えそれが、客観的見地から見れば、縁によって起した事に過ぎない現象であっても、本人からすれば、自分の力で何かを変えようとする心意気が基盤となっていると思いますので、努力と縁起はどうも相反するとしか考えられないんです。
努力をしない者は、ただ、努力をするという起に対する、縁となる事柄に運悪く接する事ができなかっただけという解釈で良いのでしょうか?
自分自身のする事の原因が、全て他の原因に基くものであるとすれば、そこで自分自身の運命を変える力を主張しようなんて事は、夢物語にしか思えないんです。
この辺についても、本当の解釈か、或いはヒントを頂けたら幸いです。

それから、例え釈尊が、死を選ぶ事について否定し、その裏に深い悟りがあったとしても、縁起や無我の話を中途半端に理解した者にとっては、それは死ねと言っているようなものであると解釈せざるを得ない所があると思いますので、その点は注意された方が良いのではないかという気が致しました。
仏教の教えでは、自分の苦、そして他人の苦を取り除く事が、大切な事になって来るのでしょうか?
私には、どんなに修行を重ね、安楽に生きられるようになったとしても、生きている以上は、執着や苦しみに悩まされるのが定めだと思えてならないんです。
苦しみの根源とは何か、私にはそれは、生そのものだと思えてならないんです。
欲に囚われず生きる境地に辿りついたものに対して、もし「俗的な煩悩に執着する事」が与えられるとしたら、その者は、それを恐れて逃げるのでしょうか、それとも受け入れて、再び煩悩から離脱して行く旅の始まりに戻ってやり直すのでしょうか…?
そこで、真の安楽を求めて死ぬ事を、どのように否定されるのかが、とても気になるのですが、どうもなかなか理解できませんでした。
全ての事に価値がない、それはつまり、生きる事は勿論、死ぬ事にも、悟る事にも価値はないように思えます。
しかし、もし欲や苦痛が取り払われるべき現象なのであれば、それらには一種の、取り払われる価値が存在するように思えてならないんです。

私がこの話に関心を持つのは、知識欲や探究欲のような、所詮「欲」という言葉で片付いてしまうようなもののように思えます。
すると、悟ろうとする事自体も、欲を縁とした、何か目的の為の行為となってしまうのでしょうか?
そう考えると、私の取り組み方は、取り組む事そのものが欲を満たそうという行いに他ならない事になりますから、自分は根本的に間違っていたと言えそうで、考えさせられるものがあります。
こういう辺り、真実を装った欲に囚われず、もっと別のアプローチで取りこむべきだという事なのでしょうか?


主観というものに関して、私の考えを色々と述べさせてください。
私は、この世の全てを客観的に記述する事が可能ならば、そこに主観というものは存在し得ないと考えてます。
言い替えますと、主観が現象である以上、もはや主観とは言えなく、主観と言えないものに対しては、苦痛という現象も起こり得ないと思うんです。
物が全てであれば、心のように見える物があるのみで、心は存在しないと思うんです。

私の主観と言うものに関する一つの考え方として、主観の存在なんていうものは、自分以外の人間に対して、絶対存在しているとは言えないかもしれないって事があります。
自分に主観が存在しているからこそ、人は他人にも主観が存在しているのだと我々は解釈するのですが、よくよく考えてみると、その保証は見当ら無いんです。

私は主観と言うものは、自分を自分だと認識するという複雑な現象の上に現象している事ではなくて、単純に、苦痛を感じる主体のようなものです。
もしこれが無いとすれば、誰かが苦しみ悲鳴を上げてたとしても、そこにあるのは、苦しんでいるように見える物に過ぎず、実際に苦しみという現象は起こっていないはずです。
苦しみの原因とはなにか、私にはどうも、人間の物質的機能的な複雑さとか、そう言う物とは別にあるものだと思えてならないんです。
何を以って自分であると言えるのかという考えから出発して、自分の手足、筋肉、記憶、知能、考え方、感じ方、粘り強さ、短気さ、性格…それらが全て、自分とは切り離して考えられるという考え至り、どれだけそれらのような付随物を取り除いても、やはり存在している自分が居る、例え何も考えてなくても、何も具体的な活動をしてなくても。私の考える主観と言うものは、そういう所にあります。
もし私の言う主観が無いとしても、確かにそこには、主観を持っているように見える「もの」があり、まるで主観を持っているかのように、思考し、行動し、苦痛を感じているかのような反応を示すと考えられます。しかし、それが主観でないのならば、苦痛を感じているように見えるのは、周りから客観的に見た印象であり、実際にその人が存在しない以上は、誰も苦しみなんて感じてないはずなんです。

私は幼い頃から魂の存在を確信していた所があるのですが、その原因は、主観に対する認識によるものだと最近思いました。
また、昔から私は、命よりも心のほうが重要であると思っていた節があります。命よりも重要という表現は大変危険だとは思いますが、だからこそ、善を成すために、時には命をも省みないのだと思いますし、時には命を奪うよりも残酷な事があると思うんです。
そして、私の思っている主観について説明する手法として、一つの思考実験を考えています。だいぶ昔に考えた事ですけど…
今自分が居て、自分は凍結状態になって眠りについたとします。
そしてそれが解凍され、元の活動状態に戻った時、自分は目覚めるのは当然の事だと思います。
ですが、自分が凍結している間に、自分と物質的に一寸の狂いも無い自分のコピーが作られ、同じく凍結状態になっているとします。
つまり、記憶も性格も何もかも同じであると言う事です。
そして、コピーの方が解凍され、活動状態になったならば、目覚めたのは自分でしょうか、それとも自分は眠っているままなのでしょうか。
どちらにしても、目覚めた後の自分は、何事も無かったかのように周りと接し、もしそれが別人であっても、誰も別人だと気付く事はありません。本人すらも、自分は起きる前は凍結状態で眠っていた人間であり、コピーされたものであるとは気付かないんです。
客観的に見て何の違いもないはずなのに、自分にとっては明らかに違うものがある、これも、何かの執着から考えられる妄想なのでしょうか?
でも、客観的に見た世界が全てならば、このような問題は起こり得ないと思うんです。
失礼ながら、物質が全てという考えの方全般に思える事として、客観的な世界を信じる余り、それに基いた立場で自分自身の存在を否定し、自分自身の存在について無理に目を背けているだけのように思えてならないんです。客観と主観は、なかなか両立し得ないとは思うのですが、そこで一方を否定してしまうのは、結論を急ぎ過ぎのように思えてならないんです。

あと、一つ小論文に対して反論させてもらいたい事があるのですが、“霊魂があったとしたら、ゾウリムシか、どのくらいの複雑な生命体から宿るものなのかが不明になるので、霊魂なんて存在しない”というような部分について、それはそもそも、その生命体において、苦痛などの現象が起こっているかという問題に帰結するものであり、これを理由に霊魂の存在を否定する事なんてできないという事です。
私は、何かを感じる主体を持ち合わせていれば、それが、霊魂を持っていると言える原因となると思ってます。主体とは、現象である限りは見せかけの主体に過ぎず、本来の主体とは全く異なると思います。
そしてそれは確かに我々には存在するはずだと思うのですが、それがゾウリムシとか他の様々な段階の生き物に存在しているかどうかという事を確かめる術は思い当たらないです。しかしながらそれは、我々の目の前に立ちはだかっており、どう足掻いても否定はできなく、それを事実と受け入れた上で先を考えなくては、何か偏ってしまうように思えてしまうんです。つまり、ゾウリムシに霊が存在するかよりも先に、こういう主観と言う事柄辺りが論点とされるべきであると思うんです。

度々、取るに足り無さそうな発言ばかりで恐縮です。
自分が勉強不足で、なかなか質問できるような域までも至っていないと予想しながらも、送信させて頂いた事を謝らせてください。
それでは失礼致します。


A・Hさんへの返事 縁起=決定論? 2004,7,15,

前略

 お返事遅くなっており申し訳ありません。

 今、先日お話しした「クオリア、ホムンクルス」に取り組んでおり、半分くらい形になってきたかな、という状態です。うまく仕上げられたら、A・Hさんの問題提起のいくつかにも関係してくると思いますので、しばらく時間を下さい。

 そういう状況ですので、思ったことをそのつど小出しにお送りしようと思います。悪しからず御了承下さい。

 縁起と決定論について、物理的な話としては、カオスとか複雑系とか非線型とか、科学の領域でも決定論は否定されているのではありませんでしたっけ? 「自然法則がすべて解明され、ある瞬間の世界のすべてが分かれば、遠い過去も未来も計算できる」という考えは過去のものだと聞いています。私などより、理系のA・Hさんの方がずっとお詳しいでしょう。すべては縁によって起こるけれど、起こり方は決定論ではない。「ゆらぎがある」と言うのでしょうか?

 私達の行動、主体性の問題としての縁起、決定論の問題についての考えは、HPの小論で読んで頂いたとおりですし、「クオリア、ホムンクルス」でももう一度考えるつもりです。

 簡単にまとめておくと、私という反応は、DNAなどによって決められた生得的決定論的な反応と、経験から学習した後天的な反応が組み合わさっている。経験から様々な学習をすることにより、ひとつの状況(縁)に複数の反応が可能になる。さらに自分自身を対象化することで、それら複数のオプションを比較検討して選択することができるようになった。
 この最後の選択・決断は、結果的にひとつの選択しかできないのですから、理論的につきつめれば決定論だという主張も可能かもしれませんが、実質的には、「主体的選択の巾がある」としてよいと思います。我々は縁からまったく自由であることは不可能だが、縁に対する反応にある程度の巾を持つ。この巾によって、ある行為を選び、そのことによってさらに新たな経験をし、反応の巾をさらに広げることができる。このようにして我々に必要なだけの主体性は可能だと思います。
 (この文章、「我々」とか「自分」とか、「我」を前提としている!、「無我」に反する!と思わないで下さいね。そのことに気を配って書くと、非常に分かりにくい文章になるので、今回は簡略版です。)

 たとえば、仏教にまったく縁のない人は、仏教に学ぶことは不可能ですが、仏教に縁ができ、問題を抱えている人は、仏教に関心を持つかもしれません。この辺は、確かに縁による決定論的現象かもしれません。そして、本を読んだり、法話を聞きに行ったりします。これも決定論的反応だ、と言おうとすれば言えるかもしれません。しかし、さらに進んで、禅でもヴィパッサナーでもいいですが、修業的なことを始めるとなると、どうしても努力が必要です。修行が可能だと言うことは、主体的努力が可能だという証しだと思います。「主体的努力も縁起による決定論的反応だ」と極論することは、理屈の上では可能かもしれませんが、やっぱり理屈の上だけのこと。主体的努力を決定論的反応に解体しても、なにもよいことはもたらさず、自分を追い込むだけのような気がします。
 縁は外から与えられるばかりではなく、自分で自分に与える縁もあります。この縁が一番重いかもしれません。朝の座禅はつらくても、頑張って二、三日やればすぐにそれほどしんどくはなくなる。突き詰めれば主体的努力も縁による決定論的反応だとしても、その縁には自分の縁が重要な影響を及ぼしており、よい縁を自分に与える努力が可能であるのならば、その努力をすればいいのではないでしょうか? 釈尊は、何度も不放逸を説かれたのですから。

 取り急ぎ、縁起と決定論、努力について書きました。
 他のテーマはまた改めてお送りします。
                                 草々
A・H様
     2004、7、15、
                              曽我逸郎

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