A・Hさん 無我と縁起について 2004,7,6,

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曽我さん、はじめまして。
理系の学生をやっている者です。
仏教の無我や縁起について関心がありましたので、検索してた所、貴サイトに辿りつきました。
そこで、日頃人間というものに関して溜まっている疑問が、何か解消されそうな気が致しまして、メールを送らせて頂いた次第です。
他の方々の御質問と、それに対する御返答は、未だほんの一部しか拝読してませんので、恐らく、過去にも同じような質問を何度も受けられたのではないかと思うのですが、どうか宜しくお願い致します。

私は、霊魂やUFOなどのオカルト地味たものを好んで信じる方なのですが、これに関しては半分ロマンのようなものです。
しかし、魂や人間の主体性のようなものについては、真実を探究しようと言う立場において、関心をもっており、肯定されなければならないもののように思ってます。
そして、無我というものは、唯物論に結びつく物であり、縁起というものは、決定論に結びつく物であり、私の考えとは対極にあるものであると捉えています。
特に唯物論に関しては、日頃は批判的な事ばかり考えたり、発言したりしてます。
しかし、普通に見られる魂否定論の多くが、単に常識や我論へ執着としか思えない場合が多いのに対して、仏教思想のこれらにおいては、もっと深遠な物を感じましたので、それについて理解を深めたいものと思い、予てより関心を抱いていました。
それから、それらの事を受け入れてられる方々が、一体どのような考えの上において、そう納得されたのかというのを知りたいという気持ちもあります。
未だ貴サイトの内容をほんの一部しか読んでいないのにも関わらず判断してしまって大変恐縮なのですが、無我と縁起について色々な考え方がある中、曽我さんは、私と同じような解釈をされているのではないかと解釈致しました。
そこで、前置きが長くなってしまいましたが、質問に入らせてください。

無我についてですが、無我というのはつまり、我が存在しないという事なのだと解釈してます。
でも、我が存在しないのに、なぜ苦しみや痛みというものが存在するのでしょうか?
他人の中には、自分の主体的なものは存在しないはずです。
なので、他人が苦痛を感じてても、確かに自分が苦痛を感じる事を連想して共感する事はできますが、直接自分が苦痛を感じる事はないはずです。
すると、自分の中にも我が存在しないのならば、自分も他人であるはずなのです。
自分が苦痛を感じた時、それを、他人の立場から見たような感覚で捉える事ができるはずです。(勿論、我が存在しない以上は、他人の立場になる事もできないのですから、この例えはおかしいのですけど…)
この考えは、主観と言うものに囚われる故に起こす錯覚なのでしょうか…?

まず、苦痛とは何かというのに、色々と疑問をもってます。
苦痛という激しい負の感覚に限らず、あらゆる感覚は、人が思う以上に奇妙なものであると思うんです。
私も、以前クオリアについて書かれた物を読んだ事があります。
なので、多分、曽我さんが読まれた意識やクオリアの話と被ってくると思うのですが、私は元々そういうのに疑問をもってましたので、残念ながら的確に説明する方法が見つからないのですが、クオリアについてはこう言うものだろうと言うイメージを持ってます。
プログラミングの経験が一応ありますので、コンピュータ上で人間を再現すると言う事に関しては、非常に関心を持っているのですが、ただ、感覚と言う物に関しては、コンピュータ上では常識的に不可能だと結論しています。
人は、痛みという情報が神経を通して脳に伝わる事によって、痛みを感じ、それを元に、通常は痛みを避ける方向の行動を取っていくんだと思うのですが、ここで、痛みを感じる部分というのが、どうも奇妙に思えるんです。
コンピュータを制御装置として動くロボットについて、サーミスタなどで熱を感じたら、熱から身を守るように行動を取るように作るのは可能だと思うのですが、実際ロボットが、「熱い」って感じているとは到底思えないです。
色と言うのも不思議で、人間は、赤青緑の光りの三原色しか認識できないですが、コンピュータ上ならば理論的に何色でも可能です。ですが、人間において、4つめの色感を再現する事は、可能かもしれませんが、想像しがたいです。
どうも上手い表現できなくて自分でも歯痒いのですが、感覚って、なにか主観に依存した奇妙な所があるように思えてならないんです。
そう考えると、他人の感じている感覚が、自分の感覚と同一のものであるかという保証と言うのは、どこにも無いものだって思えます。自分の主観を頼りにしなければ、感覚という物が一体いかなるものであるかというものを、理解する事はできないように思うんです。
我々は、主観というものを、例え幻であるにしても、確かに感じているはずなのですが、これと同様な主観を、ヤスデやアメーバー、或いは電球が感じているかどうかというのは、非常に謎だと思います。
それらに霊が宿っているかどうかというのは、それと近接した謎だと思うのですが、そう言う理屈でもって霊の存在を否定されている方々が、自己存在や感覚の無を悟っているかどうかというのは、どうも怪しい気がしてしまいます。

あと、無我に目覚める事によって、人が苦痛から解放されるのならば、同時に喜び等も感じなくなってしまうと思うんです。
無我に目覚めるという事は、道端の石ころになる事であると解釈してますが、すると死んでる事と同じように思えるんです。
我に固執しないものが、一体なぜご飯を食べて、行きながらようとするのでしょうか?
無我こそが本当の幸福ならば、人類そのものの存在が、不幸であるという事になってしまって、人は滅んでこそ本当に救われるというように思えてならないんですが、この辺りはどうやって解釈すれば良いのでしょうか?
それから、我に固執しているからこそ、自分の苦しみから逃れ、欲望を満たす為に愚かな事をするのかもしれないのですが、その固執が、他人の痛みや苦しみなどを理解する鍵にもなると思うんです。
苦痛や喜びと言う感覚を全く知らない者に、他人を喜ばせたり、苦痛を与えないよう気遣ったりする事は、できないように思えるんです。

また、「無我に目覚める」と言う表現は、無になるべき我があるという事になってしまうので、適切ではないのでしょうか?
人間は、無我を悟る以前から、既に我を持ってない、つまり元々皆無我であり、それを本質的な意味で知っているか知ってないかの差と言う事なのでしょうか?

余談ですけど、人は死んだら無になるという考えがありますけど、それは私は明らかに変だと思ってます。
死んだら無になるなら生まれる前も無であるはずですが、ならばなぜ有になったのか、なぜ死後の無は再び有とはなり得ないのかって疑問が生まれるからというのがあります。
多分これは、人間の主観に拘ってるからこその見当違いな見解とされると思うのですが、それではどうも納得のいかないものがあるんです。
その点においては、生きている間も無であるという、無我の考えは、とても理に叶っていると思います。

縁起については、縁起があるからこそ無我と言える所があると思ってます。
全てが、原因結果の一対一の対応で流れて行く物だとすると、人間が他に与える影響と言うものも、その人間が他から与えられた影響に依存するもので、その人間の存在そのものも、他から与えられたものであり、結局、人の行動、或いは何を思うのかさえ、その原因は、他に完全に依存するものであり、人間という主体は、一切の関与もしていない、つまり、主体など存在しない、こんな感じで縁起と言う物を解釈しています。
ですが、縁起を絶対とすると、責任というものの捉え方を、どう解釈したら良いのかわからなくなってしまうんです。
とある人のせいで、とある事件が起こってしまったとすると、その責任はその人に求められると思うのですが、縁起の考え方で行くと、その人の行動そのものも、その人とは別のところに完全に依存するものであり、その人自身には、縁起の立場においては全く責任は無い事になると思うのです。なぜなら、その人は、ただただ縁起に流されただけであり、自分では何もしていないのですから。
悪い事をするのも、良い事をするのも、結局は来たるべき縁起による結果であり、何ら人間の責任とするよりどころが無く思えるんです。
つまり、善悪というものは、人間の考えの中にのみ存在するものであり、善悪を論じるという事は、それそのものが、我に執着してしまっているという事なのではないかと思うんです。
縁起というものは、人間は一切受動的な存在であるという事を説いてると解釈してます。能動的に見えるのは、幻に過ぎないという。

それから、無常という事柄は、無常と言う法則そのものが恒常な時点で、自己矛盾しているように思えてならないんです。
無常である、但し、無常自身はこの範疇から除くというのは、理論としては不完全だと思うんです。
永遠であり、空間や時間を超越したものである、縁起や無常と言うのは、仏教において、神と呼べる事柄なのではないかと思いました。
結局、この世を説明するのには、何か少なくとも1つの、無限なる事柄が無くてはならないのでしょうか?
そのような永遠をみとめる一方で、わざわざ自己存在の永遠を否定するというのも、奇妙なように思えてしまいました…
無我や縁起というものは、世の中の客観性を神格化した故に生まれて来た考えのように思えるんです。
でも、人間が物ではなく人間である為には、自分の主観にも目を向け、他人の主観の存在を信じ、人間の主体性という立場から物事を考えるべき場合もあるのではないかって思えるんです。

長文乱文な上に、批判的な発言ばかりで申し訳ないのですが、別に縁起や無我を否定しようというのではなくて、これらについて真面目に理解し、そういう立場における考え方に対して、もっと開いて行きたいと思ってます。どうか、ご無礼をお許しください。
私の解釈は、おそらく幼稚な部類で、根本的な誤りがあるようにも思いますので、どうかそれに対しても指摘してください。
私は、自分の考え方に対して、納得などはしてなくて、むしろ限界を感じています。
出まわっているどんな考え方をみても、納得の行く物が無いですので、何を信じたら良いのか混乱している所もあります。
それでは、長々と失礼致しました。


A・Hさんへの返事     2004,七夕

拝啓

 真摯な御質問を頂戴いたしました。

 無我=縁起が引き起こしそうな疑問を総ざらいして頂いたように感じます。ひとつひとつが大変重たいテーマだと思います。

 クオリアについては、今たまたま、茂木健一郎「脳内現象」NHKブックスを読んでいて、いろいろと刺激を受けているものですから、仏教(無我=縁起)の視点から、進化論もまじえて、クオリアとホムンクルスを考えてみようとしています。おもしろいものになるかどうか、暫しお時間を頂いて、完成の暁には御一読頂き、また御意見・御批判下さいますようお願い致します。

 その作業と、肉体作業とかもあって(集落の人達交替で出合って通学路の拡張工事をしています。いわゆる自普請、道普請。チェーンソーで木を倒したり、ダンプカーで土を運んだりいています。)、今ちょっと多忙で、御提起頂いた問題のすべてにすぐに誠実に答える余裕がありません。まだあまり読んで頂いていないということですので、申し訳ありませんが、これまでに書いた分で御質問に関係ありそうなところを列挙してみます。当然のことながら、私の考えは試行錯誤の最中ですので、何卒批判的に読んで下さるようお願いします。御疑問にぴたりと答えることにはならないと思いますが、A・Hさんのひらめきのネタになれればうれしいです。何か発見や疑問があれば、是非また教えて下さい。

 では、ちょっと多いかもしれませんが、列挙します。

【小論集】
・人無我を説く方便の試み。無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か。その1:縁起
・人無我を説く方便の試み。無我なる縁起の「自己」とは。その2:動物進化と自己意識の発現
・無我なる縁起の現象に主体性はいかにして可能か。
・自分という現象について
・ダマシオ「無意識の脳 自己意識の脳」を読んで
・ブッダダーサ比丘関連の二編

【意見交換】
・02,12,12, から始まる、安部さんとの一連のやりとり

 書き出せばきりがないので、これくらいにしておきます。サイト内検索がだめになってしまっていますが、ほとんどのページに「曽我逸郎」という文字がありますので、普通のGoogle検索サイトで、検索したい言葉と「曽我逸郎」を入れれば、ほぼサイト内検索として使えますので、お試しください。特に「輪廻」については、私とは違う御意見もたくさん頂いていますので、おもしろいのではないかと思います。

 最後に簡単に無我についての考えを書きます。

 私は、無我とは「私がまったく影も形もない」ことではなくて、「実体的な主宰者としての『我』はない」ということだと思っています。実体としてはないけれど、現象としては現象している。上に挙げた「安部さんとのやりとり」から“ろうそくの比喩・台風の比喩”をコピーします。

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  「あたりまえ般若」で“ろうそくの比喩”を書きました。風のないところで燃えるろうそくの炎は、揺らぎもせず、じっと同じ姿で静かに燃えつづける。でも、それは、炎という実体があるわけではなくて、気化したろうが、瞬間瞬間次々と(そのつど)燃えている酸化反応(=現象)の姿です。無我なる縁起の「そのつどの」現象である炎が、外見上同じ姿で燃えつづけるという「一貫性」は、芯の太さや材質やろうの性質や部屋の酸素の量などに依存してしばらく維持されます。勿論、芯もろうそく本体も、無我なる縁起の現象ですから、常に様々な縁を受けており、なによりも燃えるという現象の縁によって、常に変化しています。
 別の比喩をあげるなら、季節はずれですが、台風もそうでしょう。台風**号と呼ばれる「一貫性」を保持しつつ、南の海からはるばるやってきますが、そこに台風自体というような実体があるわけでも、それが移動して来るわけでもありません。
 (意見交換 03,3,1, の安部さん とのやりとりの内、3,13の曽我からの返事)
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 ろうそくの炎は、連続するそのつどの酸化反応であり、熱や光を発散していますが、そこになにか実体があるわけではありません。私達も、同じように、縁によるそのつどの現象・反応です。無我とは、「実体を持たない」という意味であって、つまり「そのつどの現象・反応である」という意味だと考えています。はしゃいだり、執着したり、自分や他の現象を苦しめたり、苦しんだり、その他諸々することが、我々という反応だと思っています。つまり「私」とは、名詞でも代名詞でもなく、動詞なのです。

 私達は、現象であるにもかかわらず、自分を永遠の<存在>だと思い込み、また周りの事物も、<自分>に有利なモノ・不利なモノとして固定した価値を持って存在すると考え、執着します。執着とは、自分の所有「物」にして保持しようとすることです。そのことによって人と争い、怒り、妬み、諂い、苦しめあいます。仮に自分のモノにできたと思っても、モノも自分も、着々と刻々と変化し壊れていくのですから、執着は苦にしかなりません。それが私達凡夫の自然なあり方です。
 それに対して釈尊の教えはこうだと思います。自分も周りの事物も、縁による無我なる(実体のない)現象だと腹に落ちて納得して、それらへの執着の自動的反応を止めよ。そうすれば、執着の自動的反応に替わって、ともに縁起する有情への慈悲の自動的反応が発動する。

 無常にして無我なる縁起の現象を自分の元に留め置こうとしても不可能です。すべては、そして自分も、崩壊していく。我々にできることは、自分が現象し反応している様を如実に見て納得し、保持ではなく、自分という反応を最期まで善き反応(自分と人を苦しめない反応)であるよう世話をし続けることだと思っています。かまどの火がきれいに燃えるように、気を配って手を入れるように。

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 たくさんお願いして申し訳有りませんが、御一読頂いて、再度御批判を頂ければ幸甚です。

                                 敬具
A・H様
     2004、七夕                     曽我逸郎

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