江口聖市さん 空とは命 変化する命を愉しむ 2004,3,20,

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曽我 様

はい、おっしゃるように御書とは日蓮が釈尊の一代聖経を土台として私たちの生活に密接した釈をしたものです。彼は釈尊が説かれたとされる、方便品第二と寿量品第十六を釈尊の教えの眼目としてとらえています。私自身が惹かれた箇所が2つありますのでご紹介したいと思います。

方便品第二より、
所謂諸法は、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究境等。
これは、私はあらゆる命は、この十如是で、生命活動(変化)をするものであることを説いていると取っています。

寿量品第十六より
我仏を得てより経たところの劫数、無量百千万憶阿僧加ぎであり、常に説法教化しており、無数憶の衆生をして、仏道に入らしめてきた。衆生を度さんが為に、方便して涅槃を現じたが、実には不滅なのである。

ここで、説きたかったのは、釈尊も対告衆である私たちも、実は不滅の命なのだよということだと思っています。

そこで、曽我さんが、偽経を作ってまで、訴えようとされている空と現象が、同じものを、違った角度から表現されているように思えてきたのです。ただ、ひとつ、これは言葉の綾かもしれませんが、釈尊が説く常住は日蓮が踏み込んで説く本有常有とはニュアンスがかなり違うのです。
釈尊の成住壊空の住は変化の中での常住であり、日蓮は、命というものは、本来、元々備わって有るもので、在るとか無いとか、消滅、生成をするものでないとする立場です。人間を含めて万物の命は本有常住であることを、忘れて、永遠の生命に憧れ、あげくのはてに、執着と煩悩でせっかくの命を台無しにしているとするものです。
わたしが、最近、空に対する考えが変わったと申しましたが、これまでは、空という概念をエネルギーの場と捉えていたのです。 しかし、仏法は(あえて仏教とはいいませんが)あくまでも、人間の生活レベルに密着したもののはずだと思いますので、大胆に空とは命の事だと、想うに至ったのです。

命。。。丸くもなく、四角でもなく、赤でも青でもなく、在るものでも無いものでもなく、見えるものでもみえないものでもなく、生まれるものでもなく死ぬものでもない、たぶん、この宇宙に遍満する命が、様々な因縁により、仮和合して、現象として生起するのだと思うのです。だから、やっぱり、一瞬一瞬変化する命を、愉しめたらこれ以上観念の世界で遊ぶ必要も無いんじゃないかと思ってしまうのです。

うまく自分の思いを伝えることが出来ず申し訳ありませんが、今後とも宜しくお願いします。

江口  -拝ー


 (3月25日に頂いた「空と気功」の御意見に継続します。)

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