HYさん 伝統仏教のありかた、特に葬儀 2004,3,19,

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HYとさせて下さい。曽我さんの生き方・感じ方に大いに共感を感じます。書き込みの方達も真摯ですばらしいと思います。全部はとても読んでいませんが、まれに見るホームページだと思っています。私の立場は禅系でいまは道元禅師の眼蔵 ダンマパダ スッタニパータに惹かれています。西洋のものではプラトンとかニーチェに感動を覚えます。
一人で読んでいるので時々語りたくなります。今後よろしくお願いします。
私は50も過ぎ、それでも入社以来30年近く今の会社です。妻子あり。自慢できることなのかどうか。
菩提寺は禅系です。住職と考えがまったく合わず、先日の本堂改修の寄付要求に応ぜずこれを機に菩提寺を離れることも視野に入れています。
墓をほかに求めることもないと思います。今の日本の伝統仏教のありかたはひどいものです。一般論として。ただし伝統教団に属する妻帯僧侶のなかにも立派なひとはいます。
曽我さんの遺書を読みましたが、共感します。じつは私もほぼおなじものを書いていました。
ただ今のいわゆる葬儀のありかた−総じて葬儀は仏弟子となる儀式を死後に行っているというーにたいする曽我さんの考えを盛り込んでいただきたかったかなと感じました。
伝統仏教の現実のありかたの問題点として@葬儀・生前受戒の問題A 妻帯と家族相続が上げられますがいかがでしょうか?
それに付け加えるならば死後のことを明確に説かないことかな?
私は自我意識の根底が免疫機能と一体であるという身心一体を最近考えています。
また輪廻に関してはDNA的見地から考察を試みています。
今後おりにふれてお便りします。よろしかったら返信いただけたら幸いです。


HYさんへの返事 2004,3,22,

拝啓

 メール頂戴しました。

 私は、日本のお寺の問題点は、あくまで一般論としてですが、仏教を教え広めようとする気持ちがほとんど感じられない点だと思います。お経をあげるのも、いつまでたっても音読のままで、内容をきちんと伝えようとする意思は希薄です。以前、ターミナルケアについてお坊さんを招いて話を聞く機会があったのですが、フランスの作家の話をして癌で亡くなった婦人の遺書を朗読されただけで、経典にも触れず、釈尊の話もなく、袈裟と丸めた頭以外は、まったく仏教的要素はありませんでした。

 なぜお寺は釈尊の教えを教え広めることに熱心でないのか、その理由を詮索して穿った見方をすれば、お寺は、釈尊の教えに矛盾する存在になってしまっているせいかもしれません。

 大パリニッバーナ経によると、釈尊は自分の葬儀に出家者がかかわることを禁止されました(岩波文庫「ブッダ最後の旅」P131)。実際に遺体を供養し火葬し遺骨を分配したのも在家の人々です(同書P165〜)。釈尊の意図は、出家者は葬儀などにかかわらずに修行に専念しておれ、ということだったようです。葬儀や先祖供養にばかり専念しているお坊さんは、まるで正反対をしていることになります。
 (私の考えでは、死後生を想定すること自体が反仏教ですが、これについては別の考えも根強いので、触れません。)

 しかし、これは、お寺ばかりが悪いのではありません。無我を知ることにも苦を滅することにも興味のない檀家が、霊供養の習俗から抜けられないまま、世間体や家の格ばかりを気にして、それに応じた対応をお寺に求めているという面もあると思います。もしも釈尊の教えに忠実なお坊さんがいて、釈尊の教えを熱心に説き、執着に基づく檀家の要請は拒絶したら、檀家によって寺から放り出されることでしょう。或る人が、乞われて田舎の親戚の寺を継ぐことになって会社を辞めたものの、檀家との付き合いに疲れ果てて、結局寺を出たそうです。よほどしっかりしているのでなければ、僧職の人は、寺にいる故にかえって釈尊の教えを説けない、そういう状況があると思います。
 (そう考えると、今の私は、しがらみなく仏教を学び、考え、発言できる、非常に恵まれた状況にいる訳で、それにふさわしい努力をしているか反省せねばなりません。)

 お坊さんも不幸ですが、一番不幸なのは、悩みや苦しみや問題を抱えている人達です。仏教に教えを求めればいいのに、お寺に仏教を聞く事ができない。だから新興宗教に走る。新興仏教もいろいろで、怪しい危ない団体が多い。そういうところと縁ができると、ますます苦を増やす結果になるのは、御存知のとおりです。

 幸い現代では、様々な経典も現代語訳されて読めるようになりました。お寺に頼らず自分で仏教を学び考えることもできます。それが効率がいいか悪いか、間違って理解する危険性がどれだけあるかは分かりません。しかし、お寺に頼れないなら、自分で学び自分で考え、自分で自分を律していく他ないと思います。

 葬儀に関しては、おっしゃるとおり死後に戒を授けて仏弟子にするという形式が多いように思います。確かに、戒を守っていないお坊さんに戒を授かっても、形式だけのことにすぎません。おまけに、自分では「戒名料は気持ちで結構です」とか言っておきながら、葬儀社には「相場は、・・十万円位です」などと言わせているのは、度が過ぎます。
 ただ、葬儀は残った人達のためという側面もありますから、その点も配慮して、お坊さんを呼ぶ人は割り切って呼べばいいのではないでしょうか。呼びたくない人は呼ばなければいい。最近は、無宗教葬というのもよく耳にしますから、都会の大きな葬儀社なら、そのノウハウも持っているだろうと思います。無難に済まそうとすると結局お坊さんを呼ぶことになるでしょうから、呼んで欲しくない人は、生前にはっきりと家族縁者に意思表示をしておく必要があります。

 私自身は、葬式は自分が主人公になれる残り少ない(多分唯一の)チャンスなので、仏教をみんなに考えてもらうきっかけになるような提案の場にできればと思っています。

 ちょっと変なことを思いついているので、聞いてください。
 昨年、東京有楽町で「人体の不思議展」というのがあって、遺体が樹脂処理されて展示されました。それを知った時、私の体も、例えば半跏思惟像のポーズで樹脂処理してもらえばどうだろうと思いました。(自分を弥勒菩薩に擬えるつもりはありません。ただ仏教的なポーズとして、です。) 内臓を見せるにはふさわしくないポーズでしょうから、骨格と筋肉の標本として、顔の筋肉も見えるようにして、頭も半分に割ってもらって脳もよく観察できるようにしてもらう。博物館かどこかに展示してもらって、「この人は、生前仏教を学んでいて、人は肉体に依存する現象であることを示すため、このような展示を希望しました。この人のホームページURLは・・・」というような説明パネルを添えてもらうのです。なかなかおもしろい考えだと思われませんか?
 ただ、有楽町にいって実際に見てみると、あまりにきれいに処理されて、凝ったポーズをとらされ、模型のようで、死を感じさせず遺体とは思えませんでした。唯一机に向かう像のまつげを見つめていた時に、あぁ、この人も生きていて悩んだり喜んだり悲しんだりしたんだ、と感じることができました。観客を死に向き合わせ、自分の身体の内部に向き合わせるためには、写真や手紙など、生前の痕跡を合わせて展示する必要があると感じました。

 変なことを書きました。
 また、御意見・御批判お聞かせください。

                                敬具
HY様
     2004、3、22、                 曽我逸郎

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