ひばりさん 空について 2004,3,14,

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私は中卒の学歴しかないが、何とはなしに芸術系より理数系のことに関心をもっており、マスコミなどで仕入れた「素粒子」に関する記事に関心を持っていた。この「素粒子」の性質、特性などに接して、これまでよく理解できなかった「無常、縁起、相依性、空性」に当てはまりそうなので合わせてみたところ、「ああ、そうだったのか」と合点がいったものである。それを紹介する・・・

現代物理学では、去年のノーベル賞受賞者の「小柴氏」の「ニュートリノの観測」から、素粒子論がにぎやかになった。素粒子には、このニュートリノの他に、原物質と位置づけられる「クオーク」があるそうだが、これらの素粒子の観測時間は、極端に短時間しか観測できないそうだ。

それはちょうど「般若心経」の「空即是色、色即是空」の如くのようで、素粒子が捉えられたけれども、すぐ消滅してしまうのだから「あるとも、ないとも」いえないわけで、「空即是色、色即是空」そのままになる。

またこの短時間しか存在できない素粒子同士が縁起して化学反応を起こし、別の素粒子になると、存在時間が長くなる。このことは「質量を持つ」と言うことが判った」と先日マスコミで報じられた。

それが更に縁起していくと「陽子や電子、中性子」となり、これが縁起することにより様々な原子に生成それる。こうなると「空」ではなく、立派な「色」として我々の眼にも見ることが出来る。これは縁起が相依性の働きに依存していたからである。そしてここから一般に言われている「無常」が始まり、元の素粒子に返っていく。しかしそれで終わりかと言うとそうではなく、また最初から繰り返される。この新たな繰り返しで゜生まれたものは、前のものと同一となるとは限らない。

こうした過程が存在しうるには、基本素粒子が「無常、縁起、相依性、空性」を持っているからであり、かつこの四つの一つ一つの特性が、他の特性と関連性を持って共同で働かなければ成り立たない。一つでもかけると、機能し得ないのである。

またこの「無常、縁起、相依性」は、「空性」を持つ。「因」となるものが、その周囲にあるもの(一つではなく複数)と「縁」を得て結ばれるとき、「好きで結ばれる」訳でもなく「嫌いで結ばれる」訳でもなく「何となく(これ可笑しいかな)結ばれる」訳でもなく、「あるがままに」であり「我、執着」を持たない。それは「結ばれる縁あれば結ばれ、結ばれる縁なければ結ばれず」であり、「あるとも言えず、ないとも言えない」、即ち「空」である。

だからこそ変幻自在な、森羅万象なる「自然界」が存在しえる。それが「我や執着」を持つならば、こうはいかないだろう。

以上、私の「空観」を簡単に述べました。これが間違っているかもしれませんが、しかし釈尊ほどの方や後世の高僧方が真剣に「空」と取り組むからには、我々の存在する世界とは別物ではないだろうし、また「法、真理」というからにはこの世の「基本、根源」的なものに関することいであろうから、「源物質、素粒子」に当てはめざるを得ないのではないでしょうか。

このことに意見、疑問がありましたら言ってください。それに返答する形で、追加説明といたします。

ひばり


ひばりさんへの返事 2004,3,17,

拝啓

 「空について」の御意見、拝読致しました。ありがとうございます。

 これまでに頂いたメールを全体通して読み返して、御見解のおよそのところが理解できたように感じています。念の為、失礼かもしれませんが、ひばりさんの御意見をメール毎に集約してみます。(原則的にキィと思われる部分を抜き出しました。御本意に外れていれば御指摘下さい。)

  1. ・「自己犠牲」が伴う必要がある
  2. ・「自我を捨て、無我になる」
    ・「自分以外のもの、普遍的世界」に目を向ける
  3. ・(釈迦の受け売りではダメ)「貴方は貴方」であって欲しい
  4. ・我々凡人は、凡人に適した釈尊の教えにすがり、修行して「真如」の世界にたどり着くことが大切
    ・我々は独自性ある修行によって「法」にたどり着く必要があります
  5. ・すべて「流れに身を任せる」ことで、「己を立てて流れに逆らう」事ではない
  6. ・「ありのまにま流されて行く」とは、進化した人間が持つようになった「五欲」を「無我」にし、基本生命体のみの人間として時間に流されていくことを意味している。
    ・水の流れに従うことが「努め励め、怠るな」という事。
    ・「流れ」は釈尊が敷いた流れ、その流れを自我を張らずに逆らわずに受け入れ、釈尊の懐に飛び込もう
  7. ・「ありのままに、流れに従う」と述べたのは、このうちの「体が欲するままに」という意味で、「我欲が欲するままに」と言うことではありません。
    ・「大宇宙の法則、律動、呼吸、鼓動」に呼応するとか従うより他はない
    ・「心身一体化する」と言うことが「悟りだ」
  8. ・基本素粒子が「無常、縁起、相依性、空性」を持っている
    ・「我や執着」を持つならば、こうはいかない

 最後の8番目のメールの、基本素粒子が「無常、縁起、相依性、空性」だから、宇宙のすべては無常、縁起、相依性、空性であるという御意見は、まったく同感です。釈尊は、まさか量子論まで予見しておられたのではないでしょうが、無常=無我=縁起はそこまで届いていたわけです。量子論は、釈尊の教えを証明する方便になっていると思います。
 「大宇宙の法則、律動、呼吸、鼓動」に従うより他はない、という御意見にも賛成です。

 ただ、その「従い方」には、少し疑問を感じます。ひばりさんの御主張はこうだと思います。

 『人間の進化した欲望(自我)は宇宙の法則(普遍的世界)に逆らうものだ。進化した欲望を停止して(自我を捨て、無我になる・自己犠牲)、体が欲するままに身を任せるべきである。』

 これは、プリミティブな動物に戻れ、ということでしょうか? 天敵に脅え、腹が減ったら獲物を襲い、満腹になったら眠り、発情期には発情し、勝てそうな相手は威嚇する。(つい先日までネコが発情期だったようで、しょっちゅう雄叫びを上げながら、喧嘩をしていました。)これが「悟りだ」とは思えません。

 また、進化した欲を捨て、体が欲するままに身を任せるその具体的方法、すなわち「独自性ある修行」とは、どういうものを考えておられるのでしょうか? 流れに身を任せることに努め励むにはどうすればいいのか? 進化した欲望を捨てようと努力するにしても、進化した人間だからこそできることではないでしょうか?

 如来蔵思想を典型として、非常にしばしば見られる考え方に、このようなものがあります。
 「人間の本質は自然に根ざす<良きもの>で、それを人間的欲望・執着が汚している。人間的欲望・執着を無くせば、本来の<良きもの>に立ち返ることができる。」
 このような考え方は、「自分がある」、それも「本来清浄なる自分がある」、と考えるもので、かえって我執を育てます。
 また、この考えからは、実効性のある修行が生まれないと思います。「あるがままでおれ、はからいをするな」、「あるがままでいようとか、はからいをやめようとか考えるのもはからいだ、なにも考えるな」、「なにも考えずにいようと考えてもダメだ」、「無念無想でおれ」・・・・空回りにしかならないと思います。

 人間も含めてあらゆる生命は、細菌であっても、自分を守り拡大しようとしています。それが生命です。生命は、進化の過程で、自分を守り拡大する術を高度化してきました。その結果、人間は、「一貫性ある主宰者であり守り育てるべき自分が、実体としてある」と妄想し、それを守り育てることに執着するようになりました。ひばりさんの仰る「進化した欲」のことだと思います。しかし、それをただ否定して、体の欲に従ったとしても、(犬・猫・カエルに戻れたとしても、)それは救済にならない。また、無念無想に留まり続けることも(植物人間にでもならない限り)不可能です。

 では、進化した欲に対処する方法はあるのか? あります。釈尊を真似ること、釈尊に習うことです。
 進化した欲を「無我」にするのではなく、自分がそもそも無我であったと気づくこと。縁起によるところの無常にして無我なるそのつどの現象であったと気づくこと。自分を苦しめ人を苦しめて守り育てる「自分」などなかったと気づくこと。それによって我執の反応を改変して、苦を生み出さなくなる。無我に気づくためには、自分というそのつど反応をよく観察し、検分する。理論的説明だけではなく、戒定慧をはじめ、さまざまな具体的な方法を、釈尊は残してくださったと思っています。

 仏教は、進化の道を後戻りすることではなく、妄想・執着のない、苦を生み出さない、有情の苦を抜く、さらに高次のあり方へと人を導くものだと思います。

 釈尊の教えは、学び、研究し、検討し、真似てみる価値があります。

 また御意見御批判、お聞かせください。
                                敬具
ひばり様
      2004、3、17、                   曽我逸郎


ひばりさんから 2004,3,19,

 「これまでのご意見の全体に」を、拝見しました。
そして疑問と言うか異論と言うか、そうしたご意見に接して懐かしく思います。何故かというと、一昔前の自分みたいですから。そしてこれ以上続けていくと、曽我さんを「洗脳する、マインドコントロール」するみたいになりますから、悟りの世界行きの列車に、曽我さんの個性に適した駅で乗るチャンスを妨げるものになるかもしれませんから。
とはいっても、そのチャンスに恵まれるようにお手題したい気もありますので、少々述べることにします。

◎  この前私は、曽我さんは「言葉遊び、文字遊びが過ぎる」と申し上げたように、今回もちと過ぎますね。曽我さんは仏教に詳しいようですから、釈尊の「毒矢の喩」もご存知でしょう。
毒矢を射られた人が「毒は何の毒か、矢は何で出来ているか、射たのは誰か、それが判らない限り矢は抜かない」と、そんな屁理屈言っている間に死んでしまう。無常迅速ですから。
これと同じように、曽我さんは『人間の進化した欲望(自我)』と「自我」を偏見的に、考えなくても良いことを見ていられます。
と言うのは、「六道輪廻」をご存知と思いますが、我々の精神(心)は、六道界のいずれかにいつも存在しており、そこは「深浅、大小」の何処かであって進化したものではなく、またそこに止まることなく移動しておりますから、「進化」のように「老化、劣化」するのみではありません。それだけでなく、たとえば「畜生界」にもいるし「餓鬼界」にもいるといったふうに「二股」も「三つ股」もと複数に渡ることもあります。
何れにせよ「自我」とか「無我」とかその他曽我さんの自論で示した色々なことなども、それらは「悟りの世界」に悟入して初めて解ることであって、まだ行きもしないのに解るはずがないではありませんか。また、とやこう言ったところで仕方がないことでしょう。そんなことをしている暇があったら、修行をしたほうがいいでしょう。
こうしたことは、何も曽我さんだけではなく、「浄土真宗」の祖「親鸞聖人」は「歎異抄」の中で、
    よしあしのもじをもしらぬひとはみな
           まことのこころなりけるを
    よしあしのもじしりがほは
           おおぞらごとのかたちなり
と言うように述べています。
「よしあしのもじ」を「知る、知らない」とは、「学問」とかを知るか知らないということで、「学問や知識」を振りかざすか振りかざさないかと言うことでしょう。今日「一億総評論家」などと言われていますように、「学問や知識」を振りかざすのは考え物でありましょう。人を批評しても「自分は言い」という人が多いですね。
我々はとかく「目的と手段」を取り違えがちです。釈尊が悟られた世界を、我々も見ようとするなら、釈尊の言葉にとらわれず、釈尊の歩まれた道(修行)を通してひたすら歩むことが、今一番為すべきことではないでしょうか。
今回はこれで・・・・。次回は「修行」について述べます。

     ひばり

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