山崎清巳さん 般若心経を翻訳 2003,7,26,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

曽我逸郎様
曽我さんのアドバイスにしたがって、般若心経を覚えました。梵字を覚え、CDを手に入れて、3か月ほどかかりました。
理解した範囲で翻訳しました。
山崎清巳
追伸:
http://www.ab.wakwak.com/~kyamasaki/
には、般若心経を含めて、本居宣長の「うひ山ぶみ」、「北原白秋童謡集」などがあります。

般若心経 知のすべて(知とは何か) 2003年7月 山崎清巳訳
修行をしてすべてが明らかになって分かったことは、
色々な物は、あるとは言ってもないということだった。
この世で、あるという意味は、あると思えばない。ないと思えばある。
あることはないこと。ないことはあること。
感じ、考え、思い、知るといってもない。
この世には、分かることは何もない。あるとは言えない。
生死、美醜、増減、すべてない。物があるのではない。
感じも、考えも、思いも、知ることもない。
目、耳、鼻、舌、体、心もない。
見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうことも触ることも意味もない。
見えている物が世界でもないし、考えていることが世界でもない。
意識はないし意識がないこともない。
意識がなくなることも意識がないことがなくなることもない。
老いも死もない。老いや死がなくなることもない。
苦痛も原因も消滅も意味もない。知も得もない。
すべてが明らかになるように修行しよう。
心のとらわれがなくなれば、恐れるものは何もない。
とらわれを捨て、何もないことに満足できれば、
前世にも現世にも来世にも自由に行ける。
悟りとは、すべてが明らかになって心が自由になること。
本当の悟りに達する、すべてが明らかになる言葉。大きな悟りの言葉。
この上ない言葉は、すべての苦痛をしずめる。
真実には嘘はない。すべてが明らかになった心で言われた言葉である。
行こう、行こう、行こう向こうに、向こうに行き着いてしまおう。
すべてが明らかになって心が自由になれば、すべてがありがたい。


山崎清巳さんへの返事 2003,9,9

拝啓

 返事が遅くなり申し訳ありません。頂いたメールは、既にHPに掲載させて頂いております。

 般若心経の翻訳、お疲れ様でした。ご苦労された事と存じます。

 正直なところ、どのようにお感じになられたでしょうか? なるほどと理解できたでしょうか。おそらく、なんのことやらよく分からないという感想を抱かれたのではないでしょうか? だとしても、それは山崎さんのせいではなくて、般若心経の方に問題があるからだと思います。

 先のメールで、私は最近般若心経に対して批判的である、と書きました。どういうことかと言うと、般若心経には、もったいぶって人を煙に巻くようなところがあると感じるからです。空とはどういうことか、般若波羅密多とはどういう智慧か、般若心経を読んでもよく理解できないのです。というか、そもそも理解させようという意図がないように感じます。 「本当のところは言葉にできんのじゃ。じゃが、そこのところを分からにゃいかん。まぁ分からん奴には分からんじゃろうがな。」 そんな雰囲気を感じます。私のかんぐり過ぎかもしれません。単に、般若心経の本質は咒(呪文)であって、釈尊の教えを説くものではない、ということかもしれません。読み手の側が、勝手に意味を深読みして、ありがたがって奉っているようにも思います。

 前々からこんな風に感じていたのですが、今回山崎さんの翻訳を読み、改めて漢訳を読み返してみました。そうすると、般若心経は釈尊の教えをずいぶんないがしろにしているのではないかと思えてきました。色受想行識、眼耳鼻舌身意など、そして無明・老死とその滅尽(=十二支縁起説の順逆?)、これらすべてを般若心経は否定しています。確かにこれらは、おそらく釈尊のお言葉そのままではなく、部派仏教(いわゆる小乗)が後から整備した考えかもしれません。多分般若心経は、舎利子に代表させた「小乗」をコケにしているだけであって、釈尊を否定するつもりはなかったと思います。しかし、苦集滅道まで否定したのはやり過ぎではないでしょうか。

 漢訳を何度か読み返して、般若心経のキイワードは、「心無ゲー(〈四〉の下に〈圭〉)礙」ではないかと思い始めました。漢和辞典を引いてみると「ゲー(〈四〉の下に〈圭〉)」は「ひっかかる、妨げになる」の意。「礙」も「妨げる」の意。だとすると、「心無ゲー礙」は、「心に妨げがない」という意味になります。「色不異空」から「以無所得故」まで、経の前半はすべて、「心に妨げがないこと」を具体的に例をあげて説明しているのではないかと思います。

 (深い根拠も無く思いつきだけで書いています。私は漢訳しか見ておらず、しかも中国語の素養もありません。本当は「ゲー礙」と漢訳されているもとのサンスクリットにあたって考えねばなりません。「ゲー礙」のサンスクリットの単語と意味を、山崎さんのお暇な折に是非教えていただければ、と存じます。)

 「心無ゲー礙」を、山崎さんは、「心のとらわれがなくなれば」と訳しておられます。名訳だと思います。「生滅、垢浄、増減。色受想行識、眼耳鼻舌身意など、無明・老死とその滅尽(=十二支縁起説の順逆?)、苦集滅道。これらは、すべて心の妨げである、とらわれてはならない。」 般若心経は、そのように主張しているように思われます。

 これはどういうことでしょうか? 単に「小乗」の教えを否定しているだけではないように感じます。「小乗」の教えのみならず、「小乗」的な知のあり方、すなわち、分別し対象化する知を否定しているのではないでしょうか。

 般若と識について、平川彰著作集第1巻「法と縁起」(春秋社)P50〜には、概略以下のように書かれています。

◎般若

◎識

 一見して、識に対して般若が格上におかれている事が分かります。また、平川博士は、「般若は大乗の思想と考えられがちだが、阿含経でも動詞形はよく用いられており、重要な位置を占める」という趣旨も書いておられます。

 では、識を否定して、般若だけを採用することは、正しいのでしょうか? 私はそうは思いません。我々凡夫にとって、般若は能力を超えています。なにせ、「仏陀の正覚と同じ性質の智慧」「無我を実践する智」なのです。修行半ばの凡夫には不可能です。我々には、識をたよりにして般若を目指すしか方法がないと思います。そして、釈尊が残してくださった教えは、まさにその方法、自分自身を細かく腑分けして、ひとつひとつを無常であり、無我であり、縁起していると繰り返し確認して行くやり方ではなかったかと思います。

 大乗は、般若を強調するあまり、識を否定しました。とらわれを捨て、計らいを捨て、何も考えない事を目指しました。その結果、「何も考えてはいけない、考えてはいけないと考えてもいけない」といった馬鹿げた状況に陥り、一切皆苦も無我も縁起も軽んじられて、真如や法界や無心(すべて、個別の対象が分別されないあり方)が称えられるようになりました。ありのままであれば、煩悩も即菩提だといわれるようになりました。

 現代日本において、般若心経は「仏教」の入り口として、大きな貢献をしていると思います。しかし、仏教に興味を持った人が正しい方向に進むのならいいのですが、般若心経は誤った方向へ導いているように感じます。

 ご意見・ご批判、お聞かせ下さい。

                       敬具
山崎清巳様
        2003,9,9,
                  曽我逸郎

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ