安部さん 過去について 2003,7,17,

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「過去について」

前略

 最近の意見交換などを見てて思うのですが、修行をしている人というのは、修行をしていない人を見下すようになっちゃうんですかねえ?確かに見下されてもしょうがない人間かもしれませんが、あまり気持ちのいいものではないですね。

 曽我さんのホームページのいいところは、私のような無信心者でも「はっ」と気付かせられる事があるというところだと思っています。まったく仏教を信じていない人でも、事実として突きつけられた事柄は、認めざるを得ない。最初から信仰を強いるのではなく、そういう一般的な、誰でも分かるところから始めた方がきっといいと思います。

 あまり修行に打ち込んで、私たち一般人の理解不能な世界(輪廻とか何とか)、宗教色の強い世界に入って行かないように・・・と願っています。(余計な心配かもしれませんが)

さて、

以前、自己同一性・一貫性について論じていた際に、曽我さんが記憶について述べていたことがありましたが、「記憶も過去の事実そのものの保存ではなく、あくまでも、そのつど・今ここにおける対応の一種だ」と言うご意見であったと記憶しております。

そのことは、私自身も事実として認めざるを得ないと思うのですが、よくよく考えてみると、「過去はどこにも実在しない」ということを認めるということは、とても「恐ろしい」事だと最近やっと気が付きました。

宇宙や人類の歴史と言われるものも、私個人の過去や生い立ちも、今現在の世界においてはどこにも実在していません。それらは、記憶や推理と言う今現在の脳の働きによって、かろうじて「過去にあった」と考えられているだけの、(しかも今後変化して行く可能性も大いにありうる)現在の「幻想」のようなものだと言われても、完璧な反論はできないでしょう。なにせ「過去は、今現在、どこにも実在していない」のだから。

家族で撮った写真もビデオも、今現在のものであり、過去そのものではありません。少なくとも、かつて実在した過去の痕跡だとは思いたいのですが、過去がどこにもない以上、それを保障するのもまた、頼りない現在の記憶でしかないわけです。

「過去がどこにも実在しない」という紛れもない事実に直面して、恐怖や不安や寂しさを感じるのは私だけでしょうか。

さらにもう少し考えてみると、現在と言うものも、一瞬後には過去になってしまうわけで、「これが現在だ」と考えても、その現在は、指の間からこぼれ落ちる細かい砂のように、実在として捉えることができない性質のものだといわざるを得ない。

過去と未来はどこにも実在しない。(これは一般人の私にも分かります)。そしてさらに、現在も実在として捉えようとすると消えてしまう。捉えようがない。いったい何を拠りどころに・・・。

特別意見を求めているわけではないのですが、曽我さんはどのように感じられるでしょうか?過去も現在も未来もどこにも実在していないとしたら・・・

草々

曽我逸郎 様

2003.7.17

安部


安部さんへの返事 2003,7,22,

拝啓

 過去と未来はどこにも実在しない。そしてさらに、現在も実在として捉えようとすると消えてしまう。捉えようがない。いったい何を拠りどころに・・・。
 おっしゃっているのは、まさに「無常」の事だと思います。そして、それは同時に「無我」のことでもあります。真暗な淵にかかったロープを一人で渡っていく。そのロープの先は、前も後ろも闇の奥に消えている、、。あるいは、その淵を落ちているのか漂っているのかも定かでない不安、、。安部さんは、無常、無我を自分のこととして、感じられたのだろうと思います。

 今、と言った瞬間に、その今はもうなくなって、別の今がやってくる、と思った瞬間に、その今も飛び去ってもうない。対象化する意識は、いつも一歩遅れてしまい、対象化できない正体不明の「私」が、今今今の瞬間瞬間勝手に次々と生まれては消えていく。

 この不安を感じ取れる人はそんなに多くはないように思います。そして、これを感じ続けることのできる人はもっと稀だと思います。

 「つくられたものは、皆壊れる? そんな事、あたりまえじゃん。言われなくたって分かってるさ。」 これが我々の普段の態度、無常=無我の理解です。私自身、安部さんの感じられたようなありのままの赤裸々な無常=無我を、人間として身につけた「自然な」ものの見方で知らぬ間に隠蔽し、それによって「健康な」日常生活を営んでいます。

 確かに無常=無我を赤裸々に感じ続けることは、危険なことです。へたをすると狂してしまいます。「健康な」日常生活は、無常=無我を見ないという暗黙の約束の上に皆で成り立たせている「仮想」社会のように感じます。我々に染み着いた「自然な」ものの見方は、それほどまでに本来のありのままのあり方、無常=無我から遠いのです。

 ただ、「過去はどこにも実在しない」としても、過去と今がまったく無関係というわけでもないと思います。過去は消え去るけれど、今に縁を残して行く。想い出は、過去の保存ではなく、今においてそのつど新たに構築されるけれど、その構築のされ方は、その瞬間までの縁によって定められる。恋人と喧嘩別れしたばかりの人は、恋人との過去の内、苦々しく解釈可能な事だけを苦々しく思い出す。そのように思い出すように縁が働いているのです。想い出に限らず、つぎつぎと生まれる「今」はすべて、既に過去として消えた「今」による縁によって生み出されると言えるでしょう。

 仏教は、縁をうまく利用して、次の私によい縁を与えるように今の私を整えて、狂気に陥ることなく、正しく理性的に無常=無我=縁起をみることができるようにする教えだと思います。それによって日常の「自然な」ものの見方、すなわち、ものや自分がずっと存在するという思い込みを正し、それによって、ものや自分に執着し、争い、傷つけ合い、苦しめ合う「健康的」日常から人を救ってくれるのだと思います。

 修行については、ちゃんとした修行なら、それをしても人を見下すような事にはならない筈です。あたりまえですよね。そんなことになれば、本末転倒です。
 どなたとの意見交換を言っておられるのか想像するしかありませんが、その方もけして見下しておられるのではなく、その方にとって重大な問題に、私が自分の都合だけでぶしつけな質問をしたために、返事が安部さんには見下しているように感じられた文体になったのだと思います。
 私自身について言えば、人を見下せるほどの修行成果は上げられそうにもないので、そういうご心配はご無用、と思いましたが、どこかで勘違いをして、そうなってしまわないとも限らず(既になっているかも)、そうお感じになったときは、是非ご忠告下さるようお願い致します。

 最後に宗教色の強い勧誘をさせて下さい。せっかく仏教の勉強をしておられるのですから、安部さんも、是非あわせて修行をなさってみたらいかがでしょうか。それなりにいいものですよ。
 今は私はヴィパッサナーに興味を持っていますし、乏しい経験しかありませんが、もし今まで御経験がなくて、一人で始められるなら、やっぱり最初は数息観から入るのがいいと思います。禅宗の座り方ですし、そこからパーリ中部の Anapanasati Sutta(安般守意経)等にも遡れます。
 やり方は「あたりまえ、、初夏の集まり、座る練習」に書いたとおりで大きな間違いはないと思いますが、(「見つめる練習」と「見ない練習」は、あまりまじめに受け取らないで下さい、)一番難しいのは、姿勢を正しく保つ事だと感じます。背中をまっすぐピンとしようと力むとすぐ疲れてしまい長続きできません。足も痛くなるし、、。まっすぐするのではなく、頭のてっぺん(河童の皿のところ)をできる限り上方へ上げていく。背骨も首も上に伸ばす。そういう風にして最初の形をつくると、身体全体のバランスで支えられるような感じで、無理に筋力で支えることがなくなって、楽です。妄想は仕方がありません。妄想に入ってしまっていたと気付いた時にそのつど、いかんいかんと、息を数える事にもどる。その繰り返ししかないと思います。それでもそれなりにいいものです。自分についても新しい側面が見つかるかもしれません。
 是非お試しくださいませ。
                             敬具
安部様
      2003,7,22,          曽我逸郎


安部さんからの返事 2003,7,23,

拝啓

 ご返信ありがとうございました。

 ふとした拍子に触れた無常観だったようですが、その不安や恐怖を、他人に理解してもらえるものかどうか半信半疑で、曽我さんにメールをしました。私以上に、十分理解していただけるようで、内心ホッとしました。ありがとうございます。

 私も常に無常観に曝されている訳ではなく、何かの拍子にふと感じる程度ですが、それでもその無常観は、意識の底の黒い流れのように、機会があれば表面に流れ出してくる地中のマグマのようにも感じられます。(といっても、普段は至って平穏な生活をしておりますが)

 無我と縁起の繋がりについては、これまでの曽我さんとの対話や、ホームページの内容から、ある程度、表面的には理解できたような気がしていましたが、今回新たに無常=無我という一対が提出され、この二つが具体的にどのように繋がるのか、自分の中で整理してみなければ、と考えているところです。

 せっかく座禅の勧誘?をして頂きましたので、アドバイスを参考に、少しは自分でやってみようと思うのですが、なにぶん何事も長続きしないタイプなので、あまり気負わずに、リラックスして、気が向いたときにやってみようと思います。(真面目に修行をしている人には怒られそうですが)

個人的には、泥くさい、喜怒哀楽にまみれた、巷のヒーロータイプが結構好きで、(ダイ・ハードのブルース・ウィルスとか)あまりりっぱ過ぎる聖者や修行者は、ちょっと苦手です。ブッダもイエス・キリストも、生存していた当時は、光り輝く聖者というよりは、巷のヒーロー的な存在だったのではないかと、勝手に想像しています。

 まあとにかく、後光に包まれた仏様よりは、隣にいる友人を大切にする人間でありたい、と思うわけで、そういうスタンスを保持していれば、少なくともオウム真理教のような、独善的な集団にはならないでしょうし、周りの人間に、無用な苦しみを与えることも少ないのでは、と考えています。

 曽我さんには、今この時代の仏教の在り方を、おもいっきり自由なスタンスで、追求して行ってもらいたいと、勝手に期待しています。それが曽我さんのホームページのいいところだと思うし、仏教にはそれだけの柔軟性と普遍性があるはずですよね?私のアプローチも自由でありたいと思っています。その方が面白いですよ。きっと。

 たとえ仏教であったとしても、教条主義や神秘主義など、自分で納得のできないものを、信じる義理はないと思っています。

 いろいろと生意気なことを言ってしまいましたが、最後に、曽我様の益々のご発展と、仏教の新時代的な展開を祈念して、三三七拍子で閉めたいと思います。お手を拝借。シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャン・・・

おそまつさまでした。

敬具

曽我逸郎 様


2003.7.23

隠れブッティストより


安部さんからのメール 2003,7,23,

前略

ちょっとふざけすぎました。
反省しております。
それにシャンシャンシャンは神事だったかもしれません。
罰当たりなことを書きました。
重ねてお詫び申し上げます。
どうかお気を悪くなさいませんように。

                         草々
曽我様へ

安部


安部さんへの返事 2003,8,2,

前略

 返事遅くなり申し訳ありません。

 全然気を悪くしたりはしておりませんのですが、ただもう苦笑してしまって、どういう返事をしていいやら分かりませんでした。

 今、HP次回の更新の準備をしておりますが、頂いたメール、そのまま掲載していいですよね。宜しくご了承の程お願い申し上げます。

 では、またご意見ご感想お聞かせ下さいませ。

                            草々
安部様
    2003,8,2,                曽我逸郎

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