milumo2さんより 修証一等について 2003,6,2,

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   メールを拝見させて頂きました。
  おりにふれ、在家の方々と参禅されていらっしゃるそうですが、私などは若い頃に、禅寺でのほんの数日の体験しかございません。何をゴタゴタ言っているんだと怒られそうです。

   さて、前にお話した『修証一等』の件ですが、私も道元をそれほど深く読んでいるわけではありません。ただ読んでいると、道元の人間観と如来蔵が、どうしても結び付かないのです。道元はその著作のなかで「一切衆生に悉く仏性有り」というよりも、しきりに「一切衆生悉有は仏性である」と主張しているようにとれるのです。つまり、その主張から判断すると、「仏性」=「一切衆生悉有」なのです。いいかえれば、「仏性」=「私」なのです。六根清浄ならざる、そのままの私が、仏性なのです。そして、そのままの私が仏性なのですから、もう私のどこかに仏性があるという話ではなくなってしまうとも理解できるのです。そう理解すると、かえって、道元の般若経的な、大乗的な人間観が鮮明に浮かび上がってくるように思えるのです。やはり、道元の人間観と如来蔵は結び付かないのです。私の思い込みでしょうか、、、。

   思えば、「仏法は無我にて候う」をいう佛家が、「見性」「仏性」をいうのは、明らかに矛盾した話です。

   次に、そうした道元の大乗的な人間観は、そのまま『修証一等』に結びついているように私には思えるのです。無明・渇愛にふりまわされている私が、何らかの出来事を機縁に、道元の端座参禅の正門を尋ねた時 そこに『証』があり『修』があると道元はいうのです。もう少し説明的にいえば、道元の端座参禅は、只管打座であり、身心脱落の行なのです。身心脱落はいうまでもなく『証』ですから、只管打座を行じることは、即『証』を行じることになるのです。ここに『修証一等』の基本的な考えかたがあろうかと思います。「そのままの私」が、『証』を行じるのです。あらためて「仏性」をいわなくても、私の行とブッダの行ははからずも重なり合い、『証』の深まり(本証妙修)が現成するのです。「そのままの私」+『修証一等』で、いつの間にか伝統的な仏性論は意味をなさなくなってしまうのです。私の思い込みでしょうか、、、。

   しかるに、伝統的な仏性論・如来蔵は『証』か『修』か、身か心かの二元論・相対論に帰結せざるを得ないのです。『修証一等』と如来蔵は、明らかに異なる地平にあるのです。『修証一等』は、決して秋月龍眠氏らのいうような天台本覚思想の延長線上にはないのです。もし如来蔵の地平で『修証一等』を捉えると、折角の「有時の爾今」や「本証妙修」も、何やら思弁的な、それこそ「眼蔵」にある空華になってしまうのではないでしょうか、、、。私は佛家のいう「仏性」よりも、ヤージュニャヴァルキアの「アートマン」のほうが、矛盾がないという点では、よほどスッキリしていると考えています。

  以上が曽我様の失笑を恐れず述べさせて頂いた私の『修証一等』観です。いかがお感じになられたでしょうか、、、。片田舎の自称thinkerの話、これにて失礼いたします。


milumo2さんからの再信 2003,6,13,

  6月2日のメールが届いたようですね。パソコンがあまり上手でないため、秋月龍眠氏の(眠)や有時の爾今の(爾)など、正しい漢字を呼び出せず、とりあえず読みが同じ漢字をあてはめて送信いたしました。ご容赦ねがいます。

  それから、6月2日のメールに少し付け加えさせて頂きます。メールで私は、道元の一切衆生悉有仏性の解釈から、仏性=私という結論を導き出しました。だからといって、「正法眼蔵」から仏性という概念がなくなった訳ではありません。ただ伝統的な仏性論による「眼蔵」の解釈を、私なりに否定してみたのです。では、「眼蔵」の仏性は、インド哲学的な仏性とは異なる概念になったのでしょうか? ズバリ申し上げますと、同じです。

  とすると、インド哲学の馬性と同じように、仏性が内属する基体は何かという論議になるのですが、「眼蔵」の仏性が内属する基体は言うまでもなく「久遠実成の釈迦牟尼佛」なのです。この超越的一者の定立が、それはそれで深い意味を持つがゆえに、「眼蔵」の論脈を一層複雑なものにしていることは確かです。現代の私達には、読みづらいところかもしれません。

  しかし、佛家の方々には、むしろ深い宗教性として受け取られるのかもしれません。とりあえず頭の固い私は、「久遠実成の釈迦牟尼佛」をアーガマのブッダに還元し、超越的一者の定立をその時代という間主観的な地平で読む方向をとっています。以上、少し付け加えさせて頂きました。


milumo2さんへの返事

拝啓

 返事が遅く、申し訳ありません。

 どのように書こうか、ない智慧を絞りましたが、如何せん、肝心の道元に関する知識が絶無で、何も浮かびません。

 冒険主義で頂いたメールだけで反応してみます。

 まず先にお断りですが、私が参禅(頂いた公案への見解を老師に持っていくこと)していたのは、もう二十年以上前の事です。最近は、ただお寺で居士の方々と座っているだけで、参禅はしておりません。(あるいは、曹洞系と臨済系では「参禅」の意味が違うのでしょうか? その場合はすみません。)

 道元の「一切衆生ノ悉有ハ仏性ナリ」という読みは、「一切衆生は、頭のてっぺんからつま先まで、(既に)ことごとく仏性である」という意味でしょうか? だとすれば、確かに如来蔵思想そのものではなく、その延長線上の、それをさらに一歩発展させた、さらに現実肯定度の高い考え方のように思えます。
 もしそうなら、道元は、我々を確かに支配している執着や無明や怒りや妬みやその他一切の悪い傾向をどのように考えていたのでしょうか? それもまた仏性なのでしょうか? 実際に座禅をしてみると、たちまち妄想が駆けめぐり始めます。その場合でも、それは「証」なのでしょうか?

 我々一人一人は仏性であり、その基体は「久遠実成の釈迦牟尼佛」なのでしょうか? あるいは、基体は「アーガマのブッダ」であり、2500年前の歴史上の釈尊なのでしょうか? 仏性と基体の関係、我々と釈尊の関係が、よく理解できませんでした。私は、道元のみならず、日本仏教、中国仏教に関しても、ほとんど知りません。milumo2さんご自身の体験にも即して、milumo2さんという仏性とその基体である釈尊の関係を詳しくお話頂ければ、私でももう少しイメージしやすくなるのかもしれませんが、、。

 生産的な返事ができず、申し訳ありません。道元がどう考えたかだけではなく、私達はどう考えるか、どう考えるべきかを、考えて行く必要があるように感じます。

 また、ご教授頂ければ幸いです。
                             敬具
milumo2 様
          2003,6,27,        曽我逸郎

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