フラットさんより 平穏vs喜怒哀楽の共有 2003,6,11,

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はじめまして、フラットと申します。

あたりまえのことを方便とする般若経、拝見させていただきました。

物語の形式で、とても読みやすく、理解しやすく、
内容にも感銘をうけました。
もう一度読みたくなってしまいます。

我執を離れ、自分も穏やかに生きれればいいなと思いました。
今をしっかり一生懸命生きようと思いました。

考え症の私は、高校時代のときに
食卓にて、考え込んでいたところ、
「あれ、言葉は発しても音であって、
 それを聞くのは相手であって、解釈するのも相手。
  また、その解釈の体系を形作ったのも相手の感覚。
   つまり、自分が何かを発しても、それは相手の世界であって、
    自分と同じ感覚の共有は不可能なのでは、ないか?」
ということを、感じてしまい。
「世界と自分、他者と自分は、どうしようもないくらいに独立した
  状態であって、世界はありのままに存在しているのだ」
と思ってしまいました。

物凄い孤独感であり、全てが無常であると感じました。
今でも、その孤独感はそのままにあります。

しかし、心は平穏です。
世の中は在るがままでしかない。
と考え、様々なことが以前よりも許容できるようになったのも事実です。

ただ、問題があります。
以前のような熱いことがなくなってきたということです。
穏やかではありますが、、、、。
周りの人が楽しんでいるときも、一歩引いている自分がいます。
しかし、ともに全てを忘れるような喜びを共有できないのは
相手にとっても、自分にとっても悲しいことです。

心穏やかであること、と、楽しみを全身で感情あらわに人と共有すること は両立することだと思われますか?

お話にあったように、そのときそのときの変化に目を向け
変化を受け入れ、自分も変化しているという認識に立てば、
穏やかさと、感情の起伏は両立するのでしょうか。

私の心の状態と、お話にあったような菩薩さんの心の状態とが
同じであるとは思いませんが、
菩薩さんのような心穏やかな人が、
例えば、パチンコで勝った!だのと喜んでいる友人と
その喜びを分かちあうときに冷めた目で見ないで、
その喜びの部分を心から共有することができるのだろうか、
どうすれば、いっしょに楽しみを共有できるのだろうかと、
思ったのです。

世の中は心穏やかな人ばかりではありません。
むしろ、小さな喜び悲しみに一喜一憂している人間の
集合で形成されていると思います。
つまり、我執の共有によって、我執の感覚の共有によって
喜怒哀楽の共有があり、人間関係が形成されているのでは
なかろうかと思うわけです。
その中で、あまり浮世離れしている考え方と
穏やかさでは、中々生きづらいこともあるのでは
と思うのですが、菩薩さんはどう上手くやっているのでしょう。

表面は感情豊かに、内面は穏やかにということでしょうか。

抽象的な質問ですみません。
ただ、自分の精神的な穏やかさと、
盛り上がること、とのバランスがなんだか取れないことがあり、
ご意見を伺いたいと思ったのです。

本当に、すばらしい文章でした。
また、拝見させていただき、自分の内面と向き合うとともに、
人生の瞬間瞬間をしっかりと生きようと思います。

                     2003年6月11日 フラット


フラットさんへの返事 2003,6,18,

拝啓

 メール頂戴致しました。ありがとうございます。返事が遅くなって申し訳ございません。

 共感するメールは、どうしても自分の身に引きつけて読んでしまいます。ですから、この返事は、かなり私自身を振りかえって書くことになってしまい、フラットさんにとっては、トンチンカンかも知れません。その場合はまたメールを頂ければうれしいです。ギクシャクと屁理屈をこねる方はまだしも、生の純粋な気持ちの問題に触れるには私には繊細さがまったく欠けており、ペンチでガラス細工をつかむようなおどおどした気持ちです。

 おそらく、周囲の人達が、はしゃいだり、おこったりするのが、どうしてそんなに騒がねばならないのか、不思議で、でも、そこに溶け込むために、自分も同じように騒いでいるふりをなさっているのでしょうか。そして、そのことを心苦しく感じでおられる。

 お会いした事もないのに失礼なのですが、多分フラットさんは、そういうお芝居が上手ではいらっしゃらないのでは、と想像します。
 でも、お付き合いのために盛りあがっているふりをするというのは、フラットさんだけではなく、結構たくさんの人がやっていて、それに疲れている人も多いのではないかと思います。
 例えば夜の電車で、わいわい言っているグループがいて、途中で皆降りてしまい、一人だけ残ったりすると、笑顔で手を振った後、みんなが見えなくなると、とたんにため息をついて、疲れた顔になり、窓の外をうつろに眺めていたりします。無理してるのだなぁ、と思います。
 案外、そのパチンコ好きのお友達も、フラットさんとの付き合い方が分からず、盛り上げようと無理をしているのかもしれません。まったくの想像ですが、、。

 お付き合いを維持するためなら、無理をする必要はないと思います。無理をしなくては維持できないお付き合いなら、所詮その程度のお付き合いなのだし、なくても困らないのではないですか? ない方がいいかもしれません。
 パチンコ屋に誘われて行きたくなければ、行きたくないと示せばいいと思います。「俺は、帰るわ」でも、「となりの喫茶店で本読んでるよ」でもいいでしょうし、、。勝って来れば「よかったね」、負けて来れば「バカだなぁ」か「残念だったね」で済みませんか?
 フラットさんの気持ちを伝えれば、友達も「そうか、あいつは、そういう奴なんだ」と分かってくれて、きっと付き合い方を変えてくれるでしょう。付き合ってくれなくなるなら、そういう付き合いは、元々なくてもいい付き合いだったのです。
 そのうち無理をしなくていい友人が現れるかもしれませんし、今無理をして付き合っている友人の誰かがそうなるかもしれません。そういう友人には、フラットさんの本当の考えを冗談めかしてでも口にできるかもしれませんし、その友人も、真正面からではなくても、ワンクッション入れて、柔らかく返事を返してくれるかもしれません。そういう、ある意味で距離感のある、でも波長のあう付き合いは、なかなかいいものだと思います。

 世界と自分、他者と自分について、思うことを書いてみます。

 昔、大阪で会社づとめをしていた時「ゆうた、ゆわんは、ゆうたの負け」という諺(?)を聞かされました。コミュニケーションは、伝える側が誤解の余地なく伝えねばならない、だからちゃんと伝えよ、という社員教育ですね。まあ、発注のような単純なビジネス・コミュニケーションならともかく、気持ちや考え方を伝えるとなると、確かに100%は無理かもしれません。でも、パーセンテージを上げて行く努力は可能ですし、それしか方法はないと思います。わたしの「あたりまえ、、」も、結果は別にして、少しでも伝えられるようにという思いで、偽経という形式を選びました。

 「言葉は、話者の意図したとおりには、けして解釈されない。」とのご意見、確かに厳密にはそうだと思います。でも逆に、「意図を超えて、鋭く理解されてしまった」という経験はありませんか? ふとした一言で傷つけてしまい、あわてて振りかえったら、自分の中に自分でも気づいていなかった良くない考え方・ものの見方があったのを発見した、というような。

 フラットさんは、思っていらっしゃるほど世界から独立していません。肉体的にも精神的にも、世界の縁によって作り出されてきたのです。「世界も自分も孤立している」「他人との完璧なコミュニケーションは原理上不可能である」という考えも、世界や他人とのこれまでの関わりにおいて、フラットさんの中につくりだされてきたのではないでしょうか?
 フラットさんは、おそらくご自身をサブシステムを想定しない単位体として考えておられます。でも、本当は、「私」は、一枚岩でも、一貫した一個の存在でもなく、様々なサブシステムが縁を受けつつグニョグニョと働き、それが重なり合い、それによってそのつど発現している現象だと考えます。
 世界と自分、他者と自分に加えて、「自分と自分」についても考えてご覧になれば、おもしろいのではないかなと思います。

 長々と私見を書きました。

 では、お釈迦様はどう言っておられるかというと、仲間と寄り集うな、犀の角の如く一人歩め、とおっしゃいました。喜怒哀楽を離れよ、楽しみの追求は止めよ、心穏やかに保て、とおっしゃいました。ですから、メールの後半のお悩みは、悩む事ではないと思います。岩波文庫の中村元訳の初期経典などを読んでみてください。

 喜怒哀楽に関連して、蛇足ですが、私自身は、夕日や山の緑をみて「ああ美しい」と感じてしまう事や、音楽に聞きほれる事も、釈尊はいけない事だとおっしゃっているのだろうか、という問題が最近気になっています。

 また、メールをお送り下さい。
 私の意図がいくらかでも伝えられていますように。

                           敬具
フラット様
      2003,6,18,               曽我逸郎


フラットさんからの返事 2003,6,21,

こんにちは、

以前、メールにて質問させていただいたフラットです。
自分でも、読み返してみると、議論というよりも、
体験から出た疑問なので応えずらいかな、と思ったのですが、
真に丁寧なお返事、どうもありがとうございます。
実に考えが整理されました。

お釈迦様はどう言っておられるかというと、仲間と寄り集うな、犀の角の如く一人歩め、とおっしゃいました。喜怒哀楽を離れよ、楽しみの追求は止めよ、心穏やかに保て、とおっしゃいました。
まさに御紹介頂いた、この文のところです。私の悩みというか思いの根源は。
お釈迦さんのように、「仲間と寄り集うな、犀の角の如く一人で歩む」という
前提を自分に設ければ、私が質問したような、周りとの関係に関わる
思い悩みなども一掃されます。

私の感じた感想を、理屈抜きに申し上げれば
お釈迦さんは、感覚的に強い人だな、と思いました。
(物理的に一人の状態になっても、寂しいと感じない感覚を持っているという意味で。
 哺乳類などの動物は大抵、単体になると不安を感じると思います。)
思考の状態により、その感覚を身につけたのか、
その感覚を神経を実際に鍛えることによって身につけたのか、
先天的に、そのような感覚が動物として備わっていたのか、興味深いところです。
自分としては感覚として、そういうものを身につけられるのか
動物として本当に可能なのか、考えてしまいます。

私の質問は、
具体的には、
私はパチンコが嫌いなのだが、
パチンコに行くのを喜ぶ友人と、
その喜んでいることは分かち合いたい。
との、ことでした。

自分が好きでないことに、
「いや〜、これ楽しいよ、ね、そうでしょ?」と
無邪気に嬉しそうに言ってくる人に対して
「いや、全然おもしろくないし、無駄」と
冷たく言うのも忍びなく、
そして、やはり、その人の笑顔自体は嬉しいわけで、
どうしたものだぁ、と思っていた私でしたが、
曽我さんのご指摘でスッキリしました。

ザックリ言えば、
相手の心そのものに同化することはできないし、することもない。
ということを思いました。
具体的には、曽我さんが、おっしゃっていたように、
パチンコから帰ってきて喜ぶ友人に対して、
「その人と同じ喜びを感じる」という必要はなく、
「(私はあまりパチンコを好きでないが)その人が喜ぶということを喜ぶ」という
ありのままの自分が感じた喜びで良いのかと思いました。

確かに、「その人と同じ喜びを感じたい」と願う私には、
その人と仲良くなりたい、気に入られたい、という下心があったことも否めません。

実際の話のオチとしては、やはり無理して話を合わせてもどうにもならず、
合わせれば、合わせるほど、困りました。実はその人物。
友人ではなく、会社の先輩だったので、軽くあしらうこともできないのでしたけど、、、。
でも、結果として、いつまでも、自分の好きでないことに付き合うわけにはいかず、

適度な距離に落ち着くことになりました。
最後は確かに、喫茶店や車の中で本を読んでました。

近しい距離ならばよい、というわけではなく、
曽我さんのおっしゃるように、適度な距離が最適なのだと思います。

思い返してみて、
私は、全ての人に良い顔をしたい、という気持ちがあるようです。
それは、私利のためだけでなく、もちろん、相手も自分も
気分良く付き合って行きたいという気持ちなのですが、
むしろ、気分良く付き合っていくためには、
「気に入られたい、仲良くなりたい」という依存心ではなく、
「犀の角の如く一人で歩む」というスタンスの個人どうしによる
適度な距離感が必要なのかもしれないと感じ入りました。
依存心は一方的になりがちですしね。


世界と自分、他者と自分について、のお話ですが、

確かに、自分を流れの一過程と捉えれば、私は世界の一部であり、
独立しているどころか、世界のウネリそのものであると思います。

それに理屈では納得していても、実感として何か気持ちが悪かったのは、
やはり、前述した例のとおりの、
「人を理解したい、そして、人に理解されたい」という依存心であったと
自分では考えております。
正直に申し上げまして、私の修行不足のせいもあるとは思いますが、
人と親密な交流をしているときにおいても、
ふと、寂しさのようなものを感じるときがあります。
流れの一部にしろ、私が「自己」を世界と区分して認識していることは確かです。

しかし、
「自分と自分」との、ご指摘を頂戴して、
相手と自分が同一化してしまったら、
それは、「相手と自分」ではなく「自分と自分」
つまり、一人の自分になってしまったのだから、
また、寂しさを改善するべく、外にその対象を求めることになるなぁ、
と、相手と気持ちを同化させることは解決にはならないかも、と妙に納得しました。

また、自分の中に「自分と自分」を見出すことも可能なのであると思いました。

結局は、その寂しさは何なのかは、今もってよくわかりません。
実際に感じたことは確かです。今、頭でグルグルしている「自分と自分」に対する考え方が落ち着けば、変わるかもしれません。
しかし、どちらにせよ、その寂しさを癒すものがあるとすれば、
それは同一化の中にではなく、自分と相手との適度な距離にあるのかも
と今は思います。

「流れの一部にしろ、私が「自己」として世界と区分して認識しているもの」に対する認識はまだまだ変化を見せそうです。
「仲間と寄り集うな、犀の角の如く一人で歩む」というお釈迦さんと同じような心境に実感として自分自身もなるのか、それともまだまだ、人との関係に執着を見せるのか、
自分の変化を興味深く観察したいと思います。

文頭で、
人間は感覚的に、お釈迦さんのように感じることができるのかと疑問を書きましたが、
「仲間と寄り集うな、犀の角の如く一人で歩む」と”意識すること”ができるのもまた、人間なのですから、可能であるやもと思ったりもしました。
ともあれ、
「仲間と寄り集うな、犀の角の如く一人で歩む」ことを希求して生きたいと個人的には思っております。寂しさは実感として今はまだ、ありますが(笑)
自分としては「同化してしまったら、既にまた一人の自分になっちゃう」というのがキーみたいです。ここから、もう少し整理してみます。

丁寧なお返事、本当にありがとうございます。
頂いたお返事の意図を捉えきれているかどうか甚だ怪しくはありますが、
自分としては、とても脳みその整理をできました。
これからも、ときどき、「あたりまえ、、」を拝見させて頂くと思いますので、
よろしく、お願いいたします。
どうも、ありがとうございました。

曽我逸郎様

                     2003年6月21日 フラット


フラットさんへの返事 2003,6,26,

拝啓

 お返事頂戴しました。
 話し手の意図以上に鋭く読んでいただいた心境で、緊張します。

 釈尊が、「犀の角の如く一人歩め」とおっしゃったのは、出家者へのお言葉だったでしょうから、上司や部下や同僚やお得意様のいる勤め人は、そのとおり従うのは、難しいこともありますね。

 釈尊は、墓場というより「遺体捨て場」とでもいうべき所で、夜も骨に囲まれてひとり修行されたそうです。そこまでのことはしなくても、もしキャンプの心得がおありなら、近くの危険のない山で一晩一人で過ごしてみられるのもいいかもしれません。高校生の頃、よく一人で山に登りましたが、明かりを消して、瀬の音や梢の音や虫の声、時にはテントを打つ雨粒の音に囲まれて眠るのは、五感が研ぎ澄まされるようでよいものでした。
 私は、フラットさんとは逆に、一人が好きで、時々人といるのがめんどくさくなる<嫌な奴>です。ずいぶんマシになったとは思いますが、今でも、たまにむすっとしたり、つっけんどんになったりして、反省しています。

 先日、テーラワーダ仏教の研修に参加したのですが、四無量心(慈悲喜捨)をしつこく教えられました。少なくとも入門の段階では、慈悲喜捨と自分を見る瞑想(ヴィパッサナー瞑想)が、指導の2本柱のようです。

 慈とは、生きとし生きるものの幸せを願う気持ち。
 悲は、生きとし生きるもの苦しみがなくなることを願う気持ち。
 喜は、人の幸せを喜ぶ気持ち。
 捨は、すべての生命を平等にみる気持ち。

 これは、私の勝手な要約ですが、殊に捨については、私自身まだ腹に落ちた理解に至っていません。慈や喜についても、例えば、フラットさんの上司の方に対して、パチンコに勝つ事を祈るのが慈で、勝った時にいっしょに喜ぶのが喜かというと、まさか釈尊がそんなことをおっしゃる筈はない。では、パチンコで一喜一憂しているのは総体的には苦の海に沈んだまま時をごまかしているだけだから、「そんなことはすぐにやめて、早く仏教に学べ」と諭すのが慈であり悲であるかというと、そんな短絡的でうまくいきっこない対応もおそらく違うでしょう。
 研修中、神社の境内で一人瞑想していたら、5〜6メートル先に、青虫を咥えた鳥が降りてきて、1、2分暴れる虫をついばんでいました。鳥に喜を感じるべきか、虫に悲を感じるべきか、あるいは、両方に捨なのか。実際には、勿論なんの手出しもできず、ただ見ていただけですが、現実の具体的状況にどう対処すべきかは、智慧のない私には、まだまだ難しい問題です。

 なんだか脈絡のない文章になっていますが、最後に「自分と自分」について。
 私が申し上げようと思ったのは、フラットさんは、このあいだまでの私同様に、自 分をひとつの点、単一の現象と捉えておられるのではないか、と感じたのです。
「私」の中には、これまでに培ってきた様々な反応のパターンが織り込まれています。時々に様々なパターンが発動し、それらが組み合わさって「そのつどの私」が現象しています。つまり、「私」という現象は、幾重にもサブシステムの現象が重層的に折り重なった末に発現してくる。どういう状況で、どういう反応パターンが発動しているのか。それも分析してごらんになると、いろいろとおもしろい発見があるのではないかと感じました。

 皆さんにメールを頂きながら、それを刺激にいつも自分の問題ばかり考えてしまい、申し訳ありません。また、メールを頂戴できれば幸いです。

                           敬具
フラット様
      2003,6,26,
                  曽我逸郎

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