安部さんより 欲について 2003,5,28,

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曽我逸郎 様

お久しぶりです。

曽我さんからご紹介いただいた、初期仏教の思想(三枝充悳 著)、まだ途中までしか読んでいません。まったくの怠慢です。引用文が延々と長くて、すぐにめげてしまいます。何とか最後まで読みきる努力だけは続けてみようと思っているのですが・・・

あと、中村 元 訳の「ブッダのことば」と「ブッダ最後の旅」も購入しました。これも暇を見て読んでみようと思っているのですが・・・

仏教を学ぶ根気と根性が不足しているようです。

最近、「苦しみ」の原因は「欲」だと思えるようになってきました。

でも、「快楽」の原因も同じように「欲」だということは忘れがちです。

私はどうしても、「欲」に対して否定的にはなれない人間のようです。

一個の生命体である以上、「欲」があるのは当然のことだし、「欲」がある以上、「苦」と「楽」が生じるのは必然的なのだ、と開き直るしかないのでは? などと考えたりしています。

生物としての「欲」、人間としての高度に複雑化した「欲」。

「欲」について、何か考えることがありましたら、曽我さんのご意見をお聞かせいただければ幸いです。

草々

2003.5.28

安部


安部さんへの返事 2003,6,14,

拝啓

 メール拝受。お返事遅くなり、申し訳ございません。

 「初期仏教の思想」は、こんな事を言うと著者には申し訳ありませんが、上巻は別にしても、頭からきっちりと読みこんでいくというタイプの本ではないという気がします。最初は さあっと読み流しておいて、なにか問題にぶつかった時に、それについて初期経典ではどんな記述があるのか、その時の問題意識で関連部分を確かめる。しっかりと一回読んで読了!ではなくて、何度も開いてみるといった、辞書のような読み方を私はしています。

 で、欲と苦と快楽について問題にしておられますので、中巻の「第三章 苦」を読んでみました。

 たくさん並んでいる経文を総括して言うと、安部さんのおっしゃるとおり、苦の原因は欲・執着・渇愛だと書かれています。
 しかし、安部さんと少し違う点は、快楽は苦と並列に対立するものではなく、快楽もまた苦の内、あるいは、快楽も苦の原因とされている点です。

 安部さんは、苦も快楽も欲から生まれる、と書いておられます。一つの原因から、どのようにしてふたつが生まれるのでしょうか?
 かなえられない欲望は、幻滅、失望や嫉妬という苦を生みます。それらがまた原因になってさらに苦を広げます。かなえられつつある欲望は、その時だけ、興奮と「快楽」を感じさせます。かなえられた欲望は、すぐさま退屈にかわってしまいます。退屈とは、生の無意味さに直面する事です。
 では、その時だけの「快楽」は、本当に快楽なのでしょうか? 例えば、バブルの頃のジュリアナはどうだったのでしょう。(残念ながら、私はテレビで見ただけで行ったことがありませんが、、。) 出家前の釈尊が、宴の後深夜一人目を覚まして、しどけなく眠っている娘達をご覧になったことを思い出します。(小論集<釈尊成道の過程>参照)
 快楽は、ホンの短い間しか持続できません。私達は、欲求不満と退屈と一瞬の快楽の間を行きつ戻りつしているだけなのです。それが私達の日常です。その総体を、釈尊は「苦」とおっしゃいました。苦は、快楽によってごまかしとおすことはできない。その方法は、かえって欲を増し、安らぎを遠ざけ、苦を増やす。欲望・執着を吹き消した平安によってのみ、苦はなくすことができる。そう、釈尊は教えて下さっていると考えます。

 もうひとつ思ったことは、私達は、非常に苦しんでいる時でさえ苦を自覚しない事があることです。例えば、腹を立てている時、争っている時。外から見れば、それがどんなに悲惨なひどい状況であるか明白でも、本人の気持ちは相手に向かっていて自分の苦に気がつかない。お互いに相手を苦しめる事ばかり考えて、自分が苦しんでいる事に気づかない。相手を苦しめることができた時の一瞬の「快楽」ばかり求めて、いつまでも傷つけ合う。世界のさまざまな紛争もしかり、職場や学校や家庭内の確執においても、計算のできない我執は、いつまでも相手と自分を苦しめつづけるのです。

 ここから少し別の話になりますが、「初期仏教の思想 第三章」を読んで、私自身の問題も見つけてしまいました。先日上座部の実践会に参加して、気になりはじめた問題です。(小論集のページ、参照)
 強引な対比ですが、大乗は、自然(世界)を肯定し世界に自分を開こうとする。対して部派仏教では、ひたすら自己において起こっている反応の観察・分析に専心し、外に関心を向けることは修行の妨げと考える、そういう図式を思いつきました。
 ところが、今回「初期仏教の思想 第三章」を読んでみると、何かを見ること、聞くことなどがそのまま苦の原因であると読める経文もあります。「修行の妨げ」などという消極的な意味ではなく、もっと積極的に「苦を生み出す」というのです。
 対象を捉えてもそれに惹かれなければよい、と甘く解釈できるものもありますが、すべての苦は識(対象として何かを捉える事)に縁って起こるとするものもあります。だとすれば、新聞が届いた、猫が鳴いた、と思っただけで苦を作ることになるのでしょうか?
 私は、悪い状態だったとき、流れる雲を見上げたり、梢を揺らす風の音を聞いたり、川に遊ぶ鳥を眺めたり、そういうふうに外に気持ちを向けることで随分救われたと感じています。しかし、あれも、一時の快楽にすぎず、実はかえって苦をつくっていたのでしょうか? 音楽に耳を傾ける事も、いけないことなのでしょうか? もしそうだとすれば、初期仏教を真剣に学ぼうとするなら、私にとってずいぶん大切なものを諦めねばならないことになってしまいます。

 自問自答に脱線してしまいました。

 またご意見お聞かせ下さい。
                              敬具
安部様
      2003,6,14,
                           曽我逸郎


安部さんからの返事 2003,6,15,

拝啓

いつもながらの丁寧なお返事、誠にありがとうございます。

欲と苦と快楽について、なかなか理解及ばず、今回の曽我さんの説明で、少しは分かってきたような気がします。

仏教でいう「苦」と、一般的な意味での「苦しみ」は、意味するところや範囲が違うと言うことですね。(重なる部分もあるけれど)

私も含めた一般人の感じ方は

「人生楽ありゃ苦もあるさ」の世界だと思います。

まず欲があり、その欲が満たされない状態が苦であり、満たされつつある状態が快楽で、満たされ終わった状態が楽である。しかしその楽もたいして長続きするわけではなく、また新たな欲が生じて、苦―快楽―楽を繰り返す。苦と楽の間の振り子運動。できれば苦を最小限にして楽を最大限にしたい。「人生楽だらけ」だったら一番いい。しかし、ビールは喉が渇いたときに飲むからおいしい。苦があるから楽がある。苦が大きければ楽も大きいはずだ。だから、苦を避けて、楽ばかり求めていると、結局は求めていた楽も手に入らなくなる。だから苦労を厭わず、その先に見えてくるであろう楽を目指して生きていこう。

このような、日常的な意味での苦と楽の間の運動の総体を仏教では「苦」と呼んでいるわけですね。そして、そのような意味での「苦」の原因は、欲であり、執着であり、渇愛だと。

「一切皆苦」と言われると、「そんなことはない。人間生きてりゃ楽しいこともある」などと考えてしまいますが、そこで言われている「苦」は、日常的な意味での苦(楽の反対語としての苦)とは意味が違うと言うことでしょう。ことばは難しいですね。

私自身のことを考えると、「一切皆苦」の認識からは程遠く、「人生楽ありゃ苦もあるさ」の世界に生きているようです。〜奈酒なし〜

いつもくだらない質問にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。

テーラワーダ仏教の瞑想会に参加されたとの事、修行が順調に進まれますように。

敬具

2003/06/15

曽我逸郎 様

安部

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