milumo2さんより 小論文に関する意見 続き 2003,5,10,

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  私の浅はかな意見を掲載していただいたホームページを拝見いたしました。拝見いたしまして、仰天、絶句したことがあります。何と、挿入するべき先生の名前を間違えていたのです。挿入するべきは、増谷文雄先生ではなく、佐藤俊明先生でした。お騒がせして、申し訳ありませんでした。どうしてこんなことになったのか、説明がつきません。自身の馬鹿さ加減にウンザリしています。
 (曽我注記:メールは既に訂正して掲載しています。)

  佐藤俊明先生については、社会思想社;現代教養文庫「修証義に学ぶ」をご参考にしてください。なかなか味わいふかい内容です。また、如来蔵思想ですが、ひとこと付け加えておきます。道元の正法眼蔵は、如来蔵思想ではないと私は考えています。何故なら、正法眼蔵の根底にある道元の主張『修証一等』と如来蔵は、論理的に結び付かないのです。ただ、如来蔵的視座を仮設しないと、理解できないようなところが眼蔵には少なからずあります。多くの人に、禅は、如来蔵ではないかといわれるユエンが、ここにあると私は思います。曽我様は、どうお考えでしょうか?

  ゲレーデについて、説明させていただきます。ドイツ語辞書でお調べになったそうですが、ゲレーデ=空語は、辞書のように、批判的・挑戦的な意思のある言葉ではありません。ハイデカーが、「存在と時間」以後よくつかった術語です。ありていに申し上げれば、メルロ・ポンティーの「制度化された言語」に近いニュアンスであると、私は考えております。
「存在と時間」の「世人」にリンクする術語ではないでしょうか、、、。


milumo2さんへの返事 2003,5,6,

拝啓

 お返事遅くなり、申し訳ございません。

 佐藤俊明という方は存じ上げておりませんでした。インターネットで検索して法話集をみつけていくつか読んでみましたが、常識的というか、宗教的に突き詰めた印象は受けませんでした。どういう状況でどなたを対象にされたものか判然としませんし、どれも短いものでしたので、近々都会に出た時に本屋さんでお薦めの「修証義に学ぶ」を探してみます。

 正法眼蔵についても、浅学ゆえ読んでおりませんので、正直なところよく分かりません。松本史朗「禅思想の批判的研究」(大蔵出版)の第6章「深信因果について―道元の思想に関する私見―」では、「道元の初期の著作において、如来蔵思想は一応批判されているが、それは如来蔵思想のひとつの形であるところの「仏性修現論」の立場からである。晩年の十二巻本においては、縁起の立場からの如来蔵思想批判の傾向がかなり鮮明になってくる。(しかし、それが徹底しているわけではない。)」といった分析がされているようです。しかしながら、なにぶん元を読んだ事がありませんので、自分自身の感想はなにも申し上げる事が出来ません。
 「正法眼蔵の根底の主張『修証一等』と如来蔵は、論理的に結び付かない」というお考えについて、機会があればお聞かせ頂けたらと存じます。

 ひろく禅仏教についての漠然たる印象としては、禅仏教には、有我論の傾向が強く、厳密に言えば釈尊の無我の教えに反するところがあるのではないかと感じています。私の知っている禅仏教とは、臨済宗のとあるお寺での短く浅い体験と若干の禅籍の読書にすぎないので、心もとないのですが、ご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。

 ひとつは、前回のメールでも触れましたとおり、禅仏教は、後から身についてしまった賢しらな計らいをなくしてしまえれば、本来備わっている純然たる働きが働き出す、と考えているように思える点です。釈尊の無我=縁起の教えは、我々はすべからくどこをとっても縁によって今現象しているように現象しているということであり、言いかえれば、私達は100%「後から身についてしまったもの」だけで形作られていて、芯はありません。「本来の自分」といったなにか芯を期待する考えは、無我=縁起の教えに反すると考えます。
 もうひとつは、ひとつめと同じことかもしれませんが、過剰に自由や主体性を主張する点です。「殺祖、殺仏。なにものにもとらわれることのない自由な自己」・・・。「私」は、様々な縁を受けて今このように現象しているのに、あらゆる縁から無縁で、純粋に内因的に行動する「純粋主体自己」を主張するのは、縁起によらない自己を妄想する事ではないのかと考えます。
 無我=縁起の教えに基づくなら、正しい修行は、計らいをなくすことではなく、日々様々な縁を受けながら、その縁が自分の内部の縁の仕組みの間を反響していく、その反響の仕方を、自分も他人も苦しめないように整えていくことではないかと思います。

 禅仏教に対して批判的な事を書きましたが、実は、先日から近くの町に在家の座禅の会があることを知り、いっしょに座らせてもらっています。前々から行、定が自分には不足しているという思いがあったのですが、一人ではついつい怠けてしまってきちんと座る事も満足に出来ませんでした。きちんとした会で他の人と一緒に座ると、緊張感ももてて、なかなかいいものだと感じています。
 これまで私は、世間で「仏教」と呼ばれているものの中の問題点をあげつらい、反仏教であると全否定してきました。しかし、最近は、若干の心境の変化があり、禅仏教にせよ、唯識にせよ、おかしな点はおかしいときっちりと認識しつつ、学べる点は学んでいこうと思い始めています。今後、何を学んで、どういう考え方になるか分かりませんが、引き続きご意見・ご批判をお聞かせ頂きたく、宜しくお願い致します。

 ゲレーデは、言われてみると学生時代講義で耳にしたような気もしてきましたが、たまにしか講義に出ないなまけものだったので、あやふやです。メルロ・ポンティーの「制度化された言語」も、よく分かっておりません。多方面に勉強不足ですが、大目に見ていただいて、目に余る場合は、ご教授頂ければ助かります。
 ゲレーデを曽我が批判的・挑戦的な意味に誤解していないかと気にしておられたら、ご心配ご無用です。もしそういう不安を感じさせてしまったとしたら、私の書き方のせいですね。すみません。

 今後ともお気軽にご意見頂戴致したく、宜しくお願い申し上げます。

                                 敬具
milumo2 様
          2003,5,26,
                              曽我逸郎

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