milumo2さんより 小論文に関する意見 2003,5,2,

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どうも上座部がしきりにテーマにしている12処、18界等の論議よりも、唯識のほうがとお考えのようですが、唯識的な世界理解に、一番問題があると私は日ごろ考えています。京都大学の或る教授は、唯識が仏教哲学の最高峰と、幾たびかの論文で繰り返し述べておられますが唯識は、いきつくところ、<我思う>の西欧主知主義のアポリアと同じ地平にいるのではないでしょうか?フッサールの術語も魅力的ですが、ゲレーデを並べてみたところで、佛教の本質的な理解には遠いと私は思います。確かにナーガジュルナの言うとおり、言葉は真理に到達するための手段に違いはありませんが、一面、言語神秘主義への道をひらいています。どうも、この辺のところが、これからの課題である様な気がします。


milumo2さんへの返事 2003,5,6,

拝啓

 メールを頂戴致しました。ありがとうございます。

◎ まず唯識についてですが、私は唯識に対しては食わず嫌いになってしまっております。少しは齧ってみたのですが、給食を残す一年生のように、きちんと平らげられた事がありません。(「じゃあ何を平らげたの?」という質問は、すいません、ご容赦下さい。)

 なぜ嫌いかというと、ふたつの理由があります。

 1)私達は、時間の中の無我なる縁起の現象であり、さまざまな現象と共に等しく縁起しています。私も、野良ネコも、草におりた朝露も、雲の中の水滴の一粒も、太陽も、ゴキブリの背中のてかりも、すべて現象として等価です。にもかかわらず、唯識無境の考え方では、自分の側ばかりを特別扱いして、共に縁起するさまざまな現象を(有情も)切り捨ててしまうことになりかねないと危惧します。

 2)釈尊は、無我であると教えてくださいました。しかし、唯識の考え方からは、阿頼耶識や如来蔵や円成実性や真如を実在として捉える傾向が生まれてきたと考えます。唯識本来の教えは、これらを実体化して捉えてはならないというものだったのかもしれません。しかし、さんざん実体的な説明を聞かされた後で、これは仮の説明だ、実体視して捉えてはならない、と付け加えられても、実体的なイメージはしっかりと「薫習」されてしまいます。

 もう少し詳しくは、Fukada Noriko さんとの意見交換(01,6,8, 02,9,25,)を参照下さい。
 偉そうに批判しましたが、はじめにお断りしたとおり、唯識は食わず嫌いで、まともに勉強できていません。唯識には学ぶべき点もあるだろうと思います。最近は、特に、内部の対応の仕組みについて、唯識が参考になるかもしれないと思っています。内部の対応の仕組みというのは、進化の過程や経験の蓄積を縁として形成されてきた、状況への重層的な反応パターンのことです。外からの刺激に対応して、またそれがなくても、内部の仕組みの間を様々な信号が行き交っており、そこで起こっているそのつどのさまざまな反応こそが、わたしであろうと考えています。このような「わたし」についての分析には、唯識はヒントを与えてくれそうな気がし始めています。根が怠惰かつのろまなもので、まだなんの勉強にも取りかかれておりませんが、、。

◎ ひとつ断片的な反応をお許し下さい。
 「京都大学の或る教授」って、どなたのことですか?

◎ 「フッサールの術語」とおっしゃっているのは、多分「ノエシス・ノエマ」のことだろうと存じます。告白しますと、フッサールは読んだことがありません。どこかに書きましたが、ノエシス・ノエマを初めて知ったのは、木村敏氏の本でした。谷 真一郎さんのメールでノエシス・ノエマを再認識させていただき、以来「自分で自分を考えている状況を説明する言葉」として使っています。とは言うものの、なにぶん原典を読まずに自分勝手な使い方をしていますから、おかしな用法になっているかもしれません。最近は、ノエシスという言葉にも、阿頼耶識と同様に実体視につながる危険な種が潜んでいると思い、「そのつどの対応」という言い方をしています。(今思ったのですが、「そのつどの対応」より「そのつどの反応」の方が、少しだけマシのような気がします。今後は「そのつどの反応」にします。)

◎ ゲレーデというのは 「くどい話、おしゃべり」のことでしょうか? はじめ、誰か哲学者の名前かと思って調べましたが、どうも違うようで、何年かぶりに独和辞書(博友社 木村・相良)を引いてみたら、そのように出ていました。
 milumo2さんは、言葉に対して否定的でいらっしゃるのでしょうか? 私は、言語を否定すれば、言語神秘主義どころか、単なる悪しき神秘主義に堕する他ないのではと思います。しかし、かと言って、言葉を真理に到達するための手段と考えているわけでもありません。言葉は、間違った思いこみを正す手段だと考えます。世俗的な日常のものの見方は、現象を永続的モノと捉え、それを執着 or 嫌悪させる硬直的価値判断を伴っており、人間的には自然な、しかし苦をもたらす思いこみです。正しい言葉・論理は、それを解体してくれます。しかし、その結果得られる見方も、また間違った思い込みかもしれません。言葉・論理を先鋭化して突き詰めていく事で、間違った思いこみをひとつひとつ追い詰めていく事ができると思っています。
 しかしながら、佛教の本質的な理解には、言葉・論理だけでは届かないとも思います。なぜなら、仏教の核心は、自分の無我=縁起を知ることであり、言葉・論理では、対象化されたノエマ自己しか問えず、そのつどの反応である自分はけして捉えることができない。そのつどの反応である対象化され得ない自分の無我=縁起を知るには、指向性の停止した、対象化のない智=般若によるしかないと想像します。
 般若は、指向性・対象化がないのですから、指向性・対象化を本質とする言葉とは別のアプローチを要します。それは、行≒定によるしかないのではないかと想像します。

◎ 私は、行≒定としては、禅宗の座禅しか知りません。ところが、最近、禅宗は無我=縁起を教える教えなのか、疑念を感じ始めています。禅宗では「本来の面目」と言います。さかしらな計らいを捨て去れば、本来あるところの完璧な働きが働き出すと考えているのではないでしょうか。だとすれば、駒沢大批判仏教グループの言うとおり、禅宗は如来蔵思想であり、無我に反する教えです。無我=縁起による「反応のパターン」は、時間的あるいは原理的に「本源へ」遡ることによって達成されるのではないと考えます。無我=縁起を知ることによる、苦を生み出さず、苦を抜く「反応のパターン」は、ひとりひとりがこれから達成すべきまったく新しいあり方であろうと考えます。

 そのための行≒定はなんであるのか、それが今の私の課題です。

・・・・・・

 milumo2さんは、上座部のお立場でしょうか? 佛教の本質的な理解のためには、どうすればよいとお考えですか? ご意見お聞かせ頂ければ幸甚です。

                                 敬具
milumo2様
          2003,5,6,             曽我逸郎


milumo2さんからの返事 2003,5,6,

  私の浅い意見を、曽我様の真面目なホームページにいきなりぶつけまして、本当に申し訳ありませんでした。後から曽我様のホームページをじっくり読ませていただき、本当にはずかしく思っております。ただ、指がキイボードのうえを、いつのまにか走ってしまったのです。まさか御返信を頂けるとは、思っておりませんでした。

  ご返信にありました某京都大学の教授ですが、私の思い違いで、モト教授でした。上山春平氏のことです。氏は角川文庫ソフィアの「認識と超越」のなかで、唯識はインド大乗佛教の頂点をなすといっています。しかし氏も、唯識がソリプシズムの流れであるということはいっており、必ずしも唯識を称賛している訳ではありません。ただ、大乗佛教の頂点と表現しているところに、私は問題点を感じてしまうのです。氏は、西洋哲学が御専門ですから、構築的な唯識に共感をもたれるのかも知れません。
  曽我様は、唯識に対して食わず嫌いになった、と書かれておりますが、私ごときは、長年さっぱり理解できませんせした。とくにディグナーガやダルマパーラは、どこが佛教なのかと思っておりました。しかし最近しみじみ思うのです。ソリプズムは、人間がもってうまれたものである、、、と。ナーガジュルナを何べんよんだところで、私自身は、物事の本質やはたらき、普遍性や特殊性といった思考がどこから来るのか、じっくり考えたことはないのです。普遍性や特殊性といってあるくことが、私たちの生きるということなのです。もうすこし、曽我様のホームページをじっくり読ませてください。


もう1通 milumo2さんから 2003,5,7,

   私ごときの話に、わざわざこまやかな御返事をまた頂き恐縮しております。おまけに、ホームページに御掲載までしてくださるなんて、、、。このあいだのご返信のなかにある「世俗的な日常のものの見方は、、、」から「言葉、論理を尖鋭化して突き詰めていくことで、、、」までのくだりはよく分かります。私もついこの間まではそう思い、私なりの研鑽を積んできました。しかし私の場合は、成功しているとはとてもいえません。

   臨済録のなかに、「人惑をうけるなかれ」という喝があちこちにでてきますが、考えこんでしまいます。そうそう、禅は如来蔵思想の系統ではないか、という御話ですが、確かに正法眼蔵あたりは、そういう視点に立たないと理解不能のようなところがあります。現に曹洞宗系の先生方には、佛性云云をいう方が少なからずいらっしゃるようです。佐藤俊明先生あたりも、、、。いずれにしても、もう少し考えてみたいと思っております。

意見交換のリストへ戻る  ホームページへ戻る  前のメールへ  次のメールへ