岡崎 司さんより 自己の形成 2003,4,11,

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曽我様
せっかくお返事いただいたのにほったらかしで申し訳ありませんでした。

先日メールをお送りしてから,「自己」というものに
いろいろと思い巡らしていたことをまとめて書いてみました。

要約すれば
1)「自己」を機能として「システムの自己」と「思惟する自己」に分ける。
2)「システムとして自己」は,システムの属性として生成する。
3)自己同一性は「システムとして自己」が担う。
4)どちらの「自己」の機能も基本的に環境のコード化(分別)である。
5)「思惟する自己」は言語(恣意的なコード)の発生とほぼ同時に発生したとする。
となります。

とりあえずいろいろな考え方をつまみ食いしたような趣旨です。
残念ながら、オートポイエーシスの理解にはいたらずじまいですし、
仏教思想とはあまり関係ない話となったようです。
少々長くなったのでテキストファイルとして添付します。
ひまがあれば読んでみてください。

どうも問題となるのは「観察者」のようです。

迷いと悟りについても書きたかったのですが、
迷いはあまりも切実ですし、悟りは余りにも遠すぎるということで、
もう少しゆっくり考えてみたいと思います。

桜が咲いたと思ったら、強い風で散ってしまいました。
さびしい限りですが、だからこそ次の春が待ちどうしいのかもしれません。
天候不順の折、お体にはくれぐれもお気をつけください。

岡崎 司

***********(以下、添付ファイル)

自己の形成

1. はじめに
釈尊は苦を滅するために「無常」と「無我」を説いたとされています。ここで「我」すなわち自己の存在を信じる考えを我執として苦を招く原因とし否定したわけです。
ところでこの自己とはいったいなんなのか。われわれは日常自己が存在することを疑っておりません。デカルトにいたっては存在のすべてを疑って,最後の思惟する自己まで至り,これだけは否定できないとしました。
一方,部派仏教の論師たちは,精神活動を分析し五位七十五法の法(要素)に還元し,これらの刹那刹那の集合により心が成立しているとし,「我」というものが存在しないとしています。
さて,自己とは何か。この問いに対しては,このようにさまざまなアプローチが可能であると考えます。ここでは,システム論の考え方を応用して,自己の発生について考察したいと思います。
システム論は生物のような組識体を説明するために考え出されにものです。むろん生物といえども原子や分子から成り立っていることは自明です。しかし,これらを積み重ねていっただけでは生物とならないことも自明です。要素還元型のアプローチでは生命現象を十分に説明できないというわけです。しかし,生気論のように特殊な力を導入することは,「科学的」な説明からは外れてしまいます。システム論はこのような要素還元法や生気論では説明できない生命現象を説明するための手法です。

2.自己の発生
さて,システムにおいて自己はどのように扱われるのか,単純な例として水の流れにできる渦を例として考えてみます。このとき,構成要素は水の分子ということになります。渦は水の流れの中に生じては消える現象ですが,ひとつの渦に注目すれば,流れの中で刻々とその構成要素が変化していきます。しかし,たとえばひとつの渦の中に花びらを落とせば,渦はそれをずっとこれ引き寄せているのですから,渦は一種の自己同一性を維持していることがわかります。また,環境からの情報(周囲の水の流れ)を構成要素へフィードバックしているわけですが,これを周りの環境をコード化(分別)し構成要素に伝えているかのようにも見えます。もちろん,渦には渦たりえようとする意思もなければ,渦というシステムを維持しようとする見えない力が働いている訳でもありません。すなわち,要素に還元すれば水の分子のランダムな運動の寄せ集めにしか過ぎなくなります。しかし外部の観察者から見れば,りっぱな「自己」を想定することができます。無論,この自己は「思惟する自己」ではありませんし,また観察者の見方によりシステム内部と環境との境界の線引きを変えることができます。渦は動的な平衡を維持するホメオスタシスシステムの一種と考えられますが,もう少し複雑なシステム−構成要素を生み出しながら動的平衡を維持する自己組織化システム−でも同様な自己が観察者から見出せます。
もちろんこれはひとつの説明ですが,生命体のようなシステムに対しては要素還元的な見方より優れた説明法だと思います。生気や霊魂などといった意味不明のものを持ち出さなくても,生命を機械論的に説明できる分,より科学的な説明であるわけです。
余談ですが,要素還元の手法は,上述したようにアビダルマでも採用されています。ここでも要素還元の常として,要素には恒常の実体を求めることとなり,法は実有である主張し,無常という要請から刹那滅という考え方が導入されたのだと考えております。私はこの刹那滅と言う考え方がどうもなじめず,無常ということを説明するのに何もそこまでと思っています。しかし,彼らは,言語により作用を分解して素過程に還元するそのことが,作用自体が持つ時間を消してしまうことに気づき,必然的に刹那滅でしかありえないとしたのでしょう。ある本で読んだ比喩ですが,映画のフィルムの切れ切れのフレームのように現象を重ね合わせて無理やり時間軸の上に並べたのかもしれません。これでは,自己同一性というものが説明できなくなってしまいます。おそらく,有部の論師たちも要素還元の結果である法(ダルマ)を積み重ねていっても心とはならないこと,さらにこのことが言語のもつ根本的な矛盾に由来するものであることをうすうす感じていたのではないかと考えております。有部の論師たちの時代にシステム論があれば,彼らはこの仕組み応用して迷いの機構を説明したのではないかと想像しています。自己組織化システムとしての人間と,そのサブシステムとしてダルマを構成要素とし種々の感情を生み出す「心」を考えれば,無常であり無我である構造が描けるのではないか。すくなくとも大乗の論師たちの批判のかなりの部分をかわせたのではないかと。
じつは私は,唯識の論師たちはこのようなイメージを抱きながら,迷いの構造を解析していったのではないかと考えています。すなわち,自己組織化システムの構成原理として阿頼耶識を立てたのではないかと。少なくとも,自己同一性を保証するものとしての阿頼耶識の機能の一部は自己組織化システムの機能と重なるのではないかと考えています。
正直申し上げて,唯識関連の解説書を読んでいても(主に竹村牧男氏の本を読んでいました)阿頼耶識については深層心理的に扱ったり,時として環境(器世間)を生み出すものとなったりで,これではすべては心が作る世界となり極端な唯心論の世界のように感じていたのですが,自己組織化システムとしてみることにより自分の頭の中では非常にすっきりとしたものになりました。まさにシステム内部の視点に立てば,システムは環境をコード化し,自己を組織化し,環境と自己を生み出していくわけです。また特に自己と環境の線引きをする必要がありません。主客未分化というのかどうか,少なくとも自己と環境の間には明瞭な境界線は引けず,外部観察者の位置から見て初めて恣意的に境界線が引けるだけです。この場合,他者(他のシステム)も環境の一部か自らの延長なのかはその時々の都合次第となるのでしょう。ここで外部観察者とはいかなるものなのかということですが,これについては後で考えたいと思います。今はとりあえず括弧でくくった存在です。
システムは,それぞれの機能(情報収集器官,伝達系,制御系,運動系)をサブシステムとして拡張,複雑化させていくことにより生命の誕生その後の進化となっていったのではないかと想像しています。
以上が,生命誕生以前からかなり高級化した(ネアンデルタール人までを考えています。)生物の自己についてです。そしてこの自己にはあたりまえのことながら迷いはありえません。この自己になぜ迷いが生じるのか。次にそれについて考えてみたいと思います。

3.情報伝達系の進化
生物の情報伝達系は電気信号を伝える神経として進化の過程の中で発達してきています。この処理は初期には単なるOn/Offのフィードバックであったものがサーボ,ファジイのように徐々にフィードバック情報への変換演算を複雑化させ新しい機能を追加することにより,より正確でスムースな制御を可能としたのでしょう。(ここは電子制御システムの発展のアナロジーで,非プログラム型の固定回路による制御を考えています。反射神経のようなイメージです。)やがて神経系の先端の感覚器に近い部分が発達,複雑化し脳となってきたようです。脳は感覚器官から外界の刺激に対応したコードを処理しこれを信号として運動系に伝える働きをしています。たとえば感覚器からの情報をパターンとして記憶し,パターン認識でそれに対応する最適の運動を検索,学習し運動系に伝達するといったかなり高度な処理(プログラム型の制御からニューラルネットワークによる学習機能を持たせたものを考えています。)を行えるように発達してきたと考えられます。これらの処理を担った脳は,初期にはまだ容量が小さいため,ここでの処理システムはハードウェアに依存した低級言語,いわばアセンブリ言語でのプログラムのように低容量,高速処理を特徴としたものであったと考えられます。
また,生物の進化の過程で,システムと環境との境界には物理的な境界が生じてきます。単細胞では細胞膜であり複雑な体制の生物では表皮とか皮膚などです。これらは確かに生物学上個体と環境との境界となりますが,自己と環境との境界となるとは言いがたい場合があると思います。個々の個体が集団のサブシステムとなり,集団自体が観察者からは1つの自己として捉えられる可能性があるからです。この段階での個体間のコミュニケーションについてですが,これは個体内の神経の延長ではないかと考えています。つまりこの段階でのコードは,ハードウェアに依存したコードであるため同じ種であれば個体間での差はほとんどなく,鳴き声や蜜蜂のダンスであっても,コードの媒体が異なるだけでコードとしては個体内で伝達されるコードと共通の意味を持ち,ある個体から別の個体に伝達されたコードは伝達された個体内で伝達できるコードに変換されればすぐにハードウェアをコントロールすることになるのだと思います。ハードウェアが基本的に同じである種内ではコードは共通であり,環境に対する対応も個体間の差はほとんどなく,みな同じように対応する。蟻や蜂に限らずかなり高等な動物においても集団自体がひとつの自己として行動しているのではないかと考えている次第です。今西錦司氏が「種」を単なる分類学上の区分ではなく実体として感じたのも,棲み分けている「種」をひとつの自己として捕らえたのではないかと想像しています。

4.自己の発見
さて,いよいよ進化が進み約5万年前における言語の発生の時点です。養老猛司氏によれば人類の脳の容量がある一定量となった時,脳の中の視覚系と聴覚系の間に言語を司る部分が出来たそうです。おそらく視覚系と聴覚系からのコードを処理する部分の間に,これらのコードを高級言語に変換する機能が発生したのでしょう。ここで高級言語とはハードウェアに依存しない,恣意的なコ一ド群を考えています。おそらく一つの視覚情報なりに属するコードが多くなり,これらの属性コードと他の情報の属性コードとのコード内のパターンが一致する部分を発見し,複数の情報の中から共通する部分を抽出する機能や,まったく異なるコードを何かのきっかけで関連づける変換コードを新たに創り出すなど,抽象化,推測といった思考機能が発生し,さらにこの思考の結果を脳に記憶させ,思考途中で必要になれば検索,参照し判断するようになったのではないかと。ここで重要なことは,この高級言語はハードウェアに依存しない恣意的な記号体系であるということです。このコードは必要となれば他者とのコミュニケーションを取るための音声言語として使用されたのだと思います。ここで,言語はもはや同じ種でも共通性がなくなり,互いのコード間の整合を取る必要が生じたわけです。ここで他者の認識と自己の「発見」が起こったのではないかと考えています。恣意的コードを操る脳の一部に発生したサブシステムは,これまで折に触れ述べてきた観察者の位置に居座り,個体と環境の境界を規定し,「自己」を自身の身体の範囲と定め,「システムの自己」を発見し,めでたく「思惟する自己(=意識)」が完成されたのではないかと考えています。このサブシステムはシステムが本来持っていた自己を覆い隠し,まさに主人として身体に君臨したのではないでしょうか。むしろ,観察者なるものはこのサブシステムの考え出した都合の良い立場のようです。これについてはさらに考察が必要なようです。ただ悲しいかな,サブシステムはあくまでシステムの一部であり,システムが消滅すれば消滅すべき運命である事は言うまでもありません。意識は身体をコントロールできますが,身体の死は受け入れざるをえません。これが意識は身体の一部でありながら身体の一部たることを憎むという根源的な矛盾となり,苦の根源となっているのではないかと考えています。


岡崎 司さんへの返事 2003,4,24,

拝啓

 返事が遅くなり申し訳ありません。文系の私にはよくわからない用語もあって、難しい部分がありました。

 刺激を受けたところにだけ反応します。すみません。

【1】唯識について

 私は、唯識については食わず嫌いに陥っています。その理由はふたつあります。
 a) 阿頼耶識という考えには、アートマンに替わって自我の実体視に発展する危険があるから。
 b) 自分も世界の様々な事物も、すべて無我なる縁起の現象として等価であるのに、唯識は、外境を否定して、自分の側だけを格別なものと考えるから。

 a)については、確かにその危険性はあると考えます。しかし、岡崎さんがおっしゃっているように、阿頼耶識を実体としてではなく、サブシステムとして(私の言葉で言うなら対応の仕組みのひとつとして)、捉えるならば、唯識から沢山の事が学べるように思えてきました。そして、実体としてではなく、自己というシステムの一部として、働きの仕組みとして考えるというのが、阿頼耶識という考えの本意なのかもしれません。
 実体視の危険性を十分に認識しながら、唯識を学ぶというのが、おそらく正しい態度なのでしょう。

 b)については、「入力も出力もない」「内部も外部もない」というオートポイエーシスの考え方から唯識無境に新しい角度で光を当てるというのは、確かにやってみる価値のある試みだと思います。
 ただ、私にとっては「入力も出力もない」「内部も外部もない」は、難解なオートポイエーシスの中でも、一番ピンとこない部分なので、もっとオートポイエーシスを勉強した上で、再度唯識を読む必要があります。今後の課題です。岡崎さんから教えていただければと思います。

【2】自己について

 岡崎さんが「自己の発見」と書いておられるのには、若干違和感を感じます。自己はもともとあったものを後から発見するのではなく、もともとはなかった働きが、ある時点で発現(創発)してくるのだと考えます。仏教的な評価を明確に打ち出せば、「自己を妄想し始める」という言い方になります。
 進化のある時点で「自己妄想サブシステム」が形成される。それは、岡崎さんのおっしゃる「観察者サブシステム」と同じ働きであるのかもしれません。

 私は、私とはタマネギのようであると思います。様々なサブシステムが幾重にも重なり合い、相互に縁起しあって私という現象は発現している。サブシステムを一枚一枚剥いでいっても、自己(アートマン)という核はない。皮(サブシステム)だけでできているタマネギ。その中に「自己妄想サブシステム」があるのかもしれません。「自己妄想サブシステム」は、怪しい宗教の神官の如く、「永遠不滅の自己」という偶像を掲げ、時に応じて、「我らが神(自己)が貶められた。ゆるせない。戦いだ!」と他のサブシステム達を煽り立てるのです。
 「永遠不滅の自己」は、妄想された張りぼてに過ぎず、なんの働きももたないのですが、サブシステム達が、さながら狂信者集団の如く、勝手に張りぼてを担いで騒ぎ立てているのではないかと感じます。

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 実証性に欠けるイメージばかりの内容で申し訳ありません。こんなことではなかなか発展的なやり取りにはならないとお感じでしょうが、今後もお付き合いいただければ幸甚です。

                    敬具
岡崎 司 様
      2003,4,24,
                   曽我逸郎

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