林 雅也さんより はじめまして 2003,4,8,
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曽我様
はじめまして、
<一部略>
そもそもは私が中学、高校と仏教寄りの学校に学校に通っていたことから、一度HPを閲覧してみたらということからHPを拝見させていただきました。
かなり難しい内容で、自分が仏教徒であるということを公言するのが恥ずかしいぐらい、自分は何も知らないものだと痛感しました。
暇を見つけては、曼荼羅についての本など読んではいるのですが、読めば読むほど混乱していくのが現状です。
最近は仏教とヒンズー教の繋がりについて考える事があるのですが、東南アジアなどではその境目が非常に希薄で、人々もあまり気にしていない様子が見うけられます。
表層部分しか見ていないので、こうだ!と言うことが言えないのも、またはずかしのですが、もう少し勉強して、またじっくり読みたいと思います。
突然のメール、失礼しました。
林 雅也
林 雅也さんへの返事 2003,4,10,
拝啓
メール頂戴しました。ありがとうございます。うれしく拝読しました。
<一部略>
私の仏教理解は、今の日本の標準からすると偏ったものですので、是非批判的に読んで頂いて、疑念や反論をお聞かせ下さい。そういったご意見によって、新しい視点を見出すことができ、わたしの仏教理解は随分深めて頂いたと思います。とてもありがたく感じております。
で、偏った立場からの見方ですが、仏教が真に仏教であったのは、わずかに2度だけ、他ならぬ釈尊の時と、龍樹の初期中観だけだったのではないかと思います。
仏教は、無我=縁起の教えだと考えます。無我=縁起の教えは、人類が進化の過程で磨き上げてきた現象をモノとして対象化し実体視し執着するという性癖を、停止させようとするものです。しかし、その性癖は本当に根深く、当の仏教までも捩じ曲げてしまいました。
曼荼羅は、仏教の中に蔓延った反仏教の典型だと思っています。変化する縁起の世界を定常化して捉え、しかも、世界全体を上から見下ろす視点を妄想させる。我々は、縁起の世界の中で世界と共に縁起している無我なる現象です。言ってみれば、河を流れ下っていくミジンコかボウフラのように、河の全体を見ることはできない。曼荼羅は、縁起の教えに反すると思います。
ヒンズー教については何も知りませんが、先ほど申し上げた性癖に基づくインド土着の信仰ではないかと感じます。仏教が同じ性癖に侵食されて変質していった結果、密教になり、果てにヒンズー教の中に取り込まれて溶け去ってしまったと考えます。釈尊も、ヒンズー教の沢山の神々のひとりになってしまっているようです。
是非またご意見ご批判をお聞かせ下さい。
敬具
林 雅也 様
2003,4,10,
曽我逸郎