安部さんより 小論「無我なる縁起の現象に主体性は、、」に 2003,2,25,

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曽我様

前略

小論文、ざっと一読させていただきました。
私の素朴な疑問に根気強くお付き合いいただき、感謝申し上げます。
無我と主体性について、生物の進化にそって理論を展開なさっているようですね。
一読した感想としては、色々な問題がいっぱい詰まっているような気がします。
私自身、まだまだ理解できない部分も多々あるようです。
これからゆっくり読んで、また質問するかもしれません。

今日は一点だけ
一般的な考えでは、「無我=縁起」と「主体性」は、両立しないと思われます。
一般的な意味での「主体性」とは、その人独自の、オリジナルな、他に依らない、自発的な、考えや行動のことを言うからです。
しかし、少し考えてみれば、そのような意味での「主体性」は、純粋な意味では不可能であることがわかります。
どのような個人も、肉体的、社会的、歴史的な条件付けから自由であることはできないからです。
考えてみれば「主体性」や「自由意志」と呼ばれるものは、極々限られた範囲でしか働いていないといえるでしょう。
吐く息や吸う息を「主体的」自由意志で、吐くだけにしたり、吸うだけにしたりすることはできません。
また、心臓や内臓の働きを、自分の意志で、自由にコントロールすることもできません。
生命としての根本的なところでは、「主体性」は見られず、「主体的に生きている」というよりは、「非主体的に生かされている」という方が現状に近いでしょう。ー「DNAによる存続と増殖の強い傾向」ー
「無我」を認識するということは、一般的な意味での己の「主体性」や「自由意志」を、または「DNAの根本無明」を、客観化し対象化するという意味を含んでいるのでしょうか?
それらを客観化し対象化することによって、それらから、ある意味で自由な、「もう一人の自分」を作り上げる、
その「もう一人の自分」は、縁起的世界の住人ではあるが、自覚的な住人であることによって、無自覚的な、無明に支配されている住人とは区別される、ということでしょうか?
「もう一人の自分」にとっての主体性とはどのようなものか。それが慈悲なのか。

いろいろと分からないことだらけですが、基本的に私は「無我」ということがよく分かっていないようです。
中途半端ですが今日はここまでにします。
                                 草々
2003.2.25
安部


安部さんへの返事 2003,2,28,

拝啓

 今回の小論では、よい機会を与えて頂きありがとうございました。おかげでいくつか新しい芽を見つけられたように思います。大きく育つかどうか、まだ分かりませんが。
 HPにアップした事をご報告せねばと思いつつ、やっとひとまず書き上げて、ぼおっとしているところに、早速感想を頂いてしまいました。

 まず、無我について説明します。
 無我とは、アナートマンの訳です。アートマンが「我」で、アナートマンはアートマンの否定、すなわち「無我」です。アートマンは、インドの伝統的思想で梵我一如という、その我のことです。インドでは、「本当の自分」=アートマンを想定し、それを欲望等の穢れから解放して、純粋な宇宙の根本原理=梵と一体化させることが解脱だと考えられていました。
 昔のインド人ばかりではなく、現代の我々も、自分があると考えています。無意識の内に、自分は変わることのない一貫した独立自存の存在だと考えています。自分があると思っているから、我執し、外の対象に執着し、価値や目的があると思いこんでしまうのです。
 それに対して、釈尊がおっしゃったことは、無我であり、縁起です。釈尊は、インド思想の伝統の中に生まれ、インドの伝統的な考え方を否定されたのです。(もっと大げさに言うと、釈尊は、動物の環境適応法の進化の伝統の中に生まれ、それを超克されたともいえます。小論を参照下さい。)
 我々には、アートマンなどない。しかし、我々が、まったく全然ないというのではありません。我々には、アートマンというような恒常不変の自存的実体などはない、無我である、ただし、縁起の現象として、そのつどそのつど縁を受けながら、時間の中で現象しているのです。

 小論での表現を使うなら、我々はノエシスであって、アートマンはノエシスが幻想している自己イメージ(ノエマ自己)であり実在しないということになります。

 ところが、話がややこしくなって申し訳ありませんが、昨日あたりから、ノエシスという言葉も危険だと感じ始めました。
 名詞の性(サガ)なのですが、その言葉を聞いた途端、我々はそれを対象として外に立ててしまうのです。そして、実体化してしまう。外に対象を立てて実体化するというのは、進化の過程で身につけてきた人間の性(サガ)、拙速な適応の形です。ノエシスを対象化し、実体化して考えてしまうなら、単にアートマンの言い換えにすぎなくなってしまいます。
 私がノエシスとして考えていたのは、例えば、暑い寒いと感じたり、喉が乾いたり、腹が減ったり、物が飛んできたらさっとよけたり、熱いものに触ったらぱっと手を引っ込めたり、全身が協調してバランスよく歩いたり、電車に遅れそうで急いだり、しまった今日はゴミの日だったと思いだしたり、鼻歌を唄いながら車を運転したり、興奮して議論したり、数学の証明問題に頭をかきむしったり、そうした様々な働きです。一口にノエシスといっても、様々な作用があり、それらは脳の中でも別々の部位でてんでんに起こっている別々のいろいろな作用なのです。

 「私とは、存在ではなく無我なる縁起の現象である。」私は、何度もそう主張してきました。しかし、かえって分かりにくくなるかもしれませんが、より誤解の余地のない言い方は、「私とは、縁へのそのつどの対応である」かもしれないと思いつきました。くどい言い方なら、「私とは、内部の縁のしくみによる外部からの縁へのそのつどの対応である」とも言えます。内部の縁のしくみは、先ほど例を挙げたように、様々なレベルで幾重にも重なっており、それぞれが縁によって蓄えてきたパターンで外部の縁にそのつど対応しつつ、新たな縁によって常に改変されているのです。

 この「そのつどの対応」こそが「私」であり、それ以外にはいかなる「私」もありません。おっしゃっている「もう一人の自分」とは、どういう自分を想定されているのか分かりませんが、なんであれ「そのつどの対応」がイメージしたノエマ自己であり、虚像であると思います。

 あの小論では、いくつか新しい思いつきがありました。まだまだ未消化なので、よくよく練りこんでこなれたものにしていかねば、と思っております。今後とも率直なご意見やご質問を是非お聞かせ下さい。他の方の視点からたくさんの新しい糸口・問題提起を頂いてきました。それによって、思いつきをこね、深め、大きく育てられればと思います。宜しくご協力下さい。
                               敬具
安部様
            2003,2,28,        曽我逸郎

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