tom-halさんより 禅思想の批判的研究の反批判 4  2003,1,10,

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毎毎適切な批判有難う御座います.不十分な内容の返信ですがご笑覧ください。
(A)  仏教観  正しい仏教・非仏教・反仏教
(A−1)葬式仏教・先祖崇拝・輪廻などが非仏教であり、人類を敵視したり殺人を教える教えが反仏教であり、ともに正しい仏教ではありません。
(A−2)松本説の縁起無我説のみが正しい仏教であり、他はすべて非仏教であるとの主張は(縁起と空 P158 P160)において自説の否定と同様な記述があります。
(A−3)仏教には二つの研究方法があると思います。静態的研究と動態的研究です。
     静態的研究とは仏教に関する文献の調査・研究・解釈などによつて、仏教の教義・教説の正確な解明を計るもので、現在の仏教研究の主流です。
     動態的研究とは自然科学の進化論のようなものです。進化論には突然変異・自然淘汰のような原理・原則があります。
     仏教の宗派・教説の盛衰・興亡にも恐らく何等かの原理・原則があるのではないでしょうか。研究テーマの例としては、(インドにおいて何故ヒンズー教により仏教が衰退したのか)(日本の仏教の葬式仏教化の理由)などです。
     日本の仏教の衰退を救うために仏教革命・仏教再生が是非必要と思います。(門外漢の勝手な主張)
(B)   解脱・涅槃・開悟
     興味あるテーマですが未消化です。その内によく考えて纏めてみたいと思います。ここでは思いつくまま列記します。
     (1)絶対無(無門関公案第1)不立文字(無門関公案第六)百非(無門関公案第25)
     (2)師弟相続(相承) (無門関公案第6・第33)
     (3)一切衆生悉有仏性  (禅の基調)
     (4)一切衆生悉有如来蔵  (如来蔵思想)
     (5)不覚・始覚・本覚  (如来蔵思想)
     (6)見性 (禅思想批判)
     (7)無分別知  (禅思想批判 P21−26)
     (8)基体(Locus)趙基体(SuperLocus)説 (禅思想批判P158)
     (9)釈尊の解脱・現等覚 (縁起と空 P160)
    (10)解脱と涅槃 (縁起と空 P219)
(C)   分別知と無分別知
     曽我さんの経験として現代の禅宗が分別知を否定し、公案が形骸化していることは全くそのとうりと思いますが、私にはその経験がありません。文献よる禅・禅思想によるしかありません。
     文献上で見る限り分別知について、無門は無門関を:マカエンは如来蔵思想を:二祖は最高の仏教学者:六祖(恵能)は金剛経勝義をあらわしています。いずれも当時の最高の仏教学者であり、当然分別知も最高水準にあつたと考えられます。
(C−1)  分別知から無分別知えの転移・超越
     分別知(言葉と文字の意味ある世界)から無分別知(言葉と文字を否定する世界)え、無門関風に言えば百句から百非えということになります。これを禅機と名ずけると、禅機は「天来のヒラメキ」に似て、ほんの一瞬でしよう。興味あることに(縁起と空 P219)に解脱の瞬間に覆いが取り除かれ”光”が輝くとあります。また如来蔵によれば悟りの瞬間に”光り輝く如来”を見出すとあります。
     いずれの場合にも、解脱の瞬間に”光”を見るということは、注目すべきことと思われます。
(C−2)  カマラシーラの説
     カマラシーラの説は正しい分別知=正しい個別観察=正しい思惟を究めてゆけば,遂には最高の知である無分別知に到達できるということです。無分別知=菩提という記述があります。即ち無分別知は言葉や文字で表すことの出来ない解脱の世界です。
     このことは無分別知は単に分別知の延長上に有るのではなくて、その間に特殊の転移・超越があると思われます。
     無門関公案第41 に<当時最高の仏教学者(後の二祖)が雪の日に 面壁座禅する達磨大師に、肘を断つて教えをもとめた。大師の指導により始めて開悟することが出来た。>  このことは最高の分別知でもそのままでは無分別知に到達出来ないということです。
     カマラシーラと公開論争していた中国の学者マカエンの頓悟により無分別知に到達すると云う説のほうが適切と思います。
(D)   縁起の流れ
     縁起説につきましいぇは、前述のように、若葉マークの見習運転ですので宜しく批判してください。
(D−1)   松本説の縁起無我説
     基体(Locus)超基体(SuperLocus)説の 基体は固定・無時間・不変を、超基体は連続・有時間・可変を示します。
     縁起の流れは超基体であり、無我であるから私は存在しない。物理的時間には私は存在するが、宗教的時間には私は存在しない。
     (この考えですと戦争も搾取も自由放任になりませんか。)
(D−2)  貴信
     貴信の中に  苦の克服・欲望執着を吹き消す  また別の記述ですが 般若智・禅定と云う表現があります。
     これらはいづれも、何らかの主体が行う行為ではないでしょうか。それは自我または自我(オートマン)を認めることになりませんか。
(D−3)  私の臆説  (ご笑覧ください)
     広義の縁起説=生生流転=縁起無我説と 狭義の縁起説=縁起自我説との二重構造を考える。
     広義の縁起説は前述の超基体(SuperLocus)狭義の縁起説は基体(Locus)に相当する。
     自我は生生流転の流れの中で 苦の克服・欲望執着の滅をはかる。

     丁度小さな子供が新しい玩具を貰つて、喜んだり楽しんだりしている」気分です。これも曽我さんのおかげと感謝申し上げます。


tom-halさんへの返事

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