tom-halさんより 禅思想の批判的研究の反批判(第三信) 2002,12,28,

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貴信Re禅思想の批判的研究の反批判及び縁起の流れにつきましては今暫らく時間をください。
「縁起と空」松本史朗著大蔵出版を読んでおります。松本説の十二支縁起説のみが正しい仏教であり他はすべて非仏教であるとの主張に関連する興味ある内容が本書にありましたので是を第三信としました。少し長文に渉る引用になりますがお許しください。
P158   従つて、私は、この意味では、「無明=無我に対する無知」という定方氏の解釈を相変わらず至当なものと主張するが、しかしその後"無明は縁起(縁起説)に対する無知である”と明確に規定せざるを得ないことになつた。そこには、確かに,"無明”とは「仏陀の根本思想を知らない事」でなければならないという、宇井博士においても働いたかもしれない論理が、作用したのである。しかし、それによつて私は、一種奇妙な困難に直面することになつた。それは、”縁起”の第一支は"無明”であり、その"無明”とは"縁起”に対する無知でなければならない(さもなければ,仏教思想「縁起説」の独自性を保つことはできないから)、と考えることにおける困難である。すなわち、"縁起”の第一支が"縁起"それ自体に対する無知であるということは、奇妙なことではなかろうか。”縁起”の第一支を同じ”縁起”という語を用いてしか語れないとすれば、これは一種の循環論法とはいえないであろうか。つまり縁起説といえども、ある致命的な困難を内含しているのではなかろうか。そして、私が以上のような考察、おそらくは、どこかに誤りを含んでいるかもしれない考察から導き出した結論は、縁起説とは要するに、一個の哲学であり、信仰であり、あるいはひとつの明確な生きる態度とでも言うべきものにしかすぎないということであつた。

P160   さて、それにもかかわらず、仏弟子にとつて釈尊は完全無欠な最高の人間でなければならなかつた。実際、釈尊は当時"最高の人間”であつたかもしれない。しかし,仏弟子たちは、この確信をいかにして、つまり、どのような言葉と概念によつて表現できたであろうか。結論より言えば。”我論”に基づく解脱思想(これは当然,"渇愛の滅尽”をその本質的要請としている)によつて釈尊を粉飾する以外、つまり、「わが心解脱は不動なり。これは最後の生なり、最早、再生はなし」と釈尊に語らせる以外には、方法がなかつたのである。或いは、釈尊自身、これに類した言葉を發したことがあつたかもしれない。しかし、それは、釈尊自身の教え,"仏教""縁起説”とは、本質的に矛盾するものだつたのである。この意味で、私は、縁起説としての"仏教”とは、一個の知的な哲学であり、信条であり、信仰に他ならないという点を特に強調しておきたい。

あまりにも正直すぎるというべきか、あまりにも無配慮というべきか、或いはあまりにも手前勝手というべきか。とにかく「十二支縁起説のみが正しい仏教であり他はすべて非仏教」との主張は自ら誤りであると認めたと同様である。まして釈尊が自身の意図に反したことを認めたなどと強弁するのはもはや論外である。
曽我さんのすすめにより、いろいろと智的遊戯を楽しむことが出来ました.衷心より感謝いたします。


tom-halさんへの返事

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