安部さんより 仏教は究極の運命論? 2002,12,21,

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曽我 様へ

2002・12・21

安部

<仏教は究極の運命論?>

「すべてのものごとは関係性の中にあるのだから、関係性の中で生じ、関係性の中で変化し、関係性の中で消滅する」という「あたりまえ」のこと。(曽我さんの「あたりまえ」とはだいぶ違うかもしれませんが)

 この「あたりまえ」のことは論理的な問題としては比較的受け入れやすいのですが、感情的な問題としてはなかなか受け入れ難い面があります。

 例えば、自分の子供はどうでしょう。自分の子供も「すべてのものごと」の中に含まれます。ですから当然「関係性の中で生じ、関係性の中で変化し、関係性の中で消滅します」。

自分が生きている間に、冷たく硬くなった子供の亡骸を抱き上げる。考えただけで背筋が凍り付きます。でも「すべてのものごと」の中に自分の子供も含まれるのですから可能性はあります。そのときに自分は「あたりまえ」のこととして子供の死を受け入れられるでしょうか。絶対に無理だと思います。

 つぎに自分自身についてはどうでしょうか。在る日突然「あなたは末期がんでもう数ヶ月の命です」と宣告されます。「自分自身」も「すべてのものごと」に含まれるわけですから当然可能性はあります。そのときに「あたりまえ」のこととして自分の死を受け入れられるでしょうか。甚だ自信がありません。

 「ひとごと」だと結構平気なのに、いざ「自分」とか「自分の子供」のこととなると、情けないことに全然「あたりまえ」でなくなるのです。

 この「あたりまえ」を単に言葉ではなく「自分」も含めた「すべてのものごと」に適用して受け入れることが仏教でいう「悟り」なのでしょうか。それとも

「おまえがわざわざ『適用して』受け入れようが『適用』できずに拒絶しようが、世界は『あるがままにある』のだ。」ということでしょうか。

 自分も含めた世界全体がただ「あるがままにある」という考え方は何か究極の運命論のようにも感じるのですが。

仏教は個人の意志や意図の存在を認めるのでしょうか。「ある個人が何らかの意図により世界に働きかけて世界を少しでも変化させる」ということを認めるのでしょうか。もし認めないとすれば全くの運命論にみえます。もし認めるとすればそのとき「個人の意図」はどこから生じたのでしょうか。それすらも機械的運命論(無我=縁起の法則?)で説明するのでしょうか?


 曽我さんのホームページを見ながら自問自答しているうちにこんなところにたどり着いてしまいました。反論してください。


安部さんへの返事  子供の死、自分の死、仏教は運命論ではない。2003,1,12,

拝啓

 明けましておめでとうございます。

 クリスマス前に母が怪我をして、ばたばたしております。返事が遅くなり、申し訳ありません。

 順に考えを述べます。

1)子供の死を受け入れられるか?

 私にも子供がおります。その死は、想像するだけでもつらい事です。我が子の死は、受け入れ難い。でも、悲しい事に、それは、受け入れようが拒絶しようが、起こり得ます。

 経典にキサーゴータミーという母親の物語があります。幼い息子を亡くして、彼女は、亡骸を抱きしめ釈尊に懇願します。「どうかこの子を生きかえらせてください」と。釈尊は、「分かった。生き返らせてあげよう。しかし、その為にはケシの実が必要だ。それも、今まで一度も葬式を出した事のない家から貰ってこなければならない。」とお答えになります。キサーゴータミーは、喜び勇んで町中を駆け巡りケシの実を求めますが、どの家にも「前に葬式を出した」と断られつづけ、疲れ果てた挙句、生まれたものは必ず死ぬことを悟り、釈尊の元へ出家し、修行して、ついに阿羅漢になりました。

 第一の矢(最初の苦)は受けても、第二の矢は受けないように教えるのが仏教だと思います。子供を亡くしても、のほほんと平気でおれ、と教えるのではありません。仏教を学べばまったく苦しまないで済むなどという事はありません。家族や大切な人を亡くせば、誰もが、苦しみもがきのた打ち回るでしょう。しかし、もがき苦しみながらも、きちんと仏教を考えることができれば、苦しみを怒りや恨みや妬みに変えて燃え立たせる(第二の矢)のではなく、私の言葉で言うなら「透きとおった悲しみ」として気持ちの中に収めておくことができるのではないかと思います。

 きれいごとの話だとお感じかもしれません。確かにキサーゴータミーの物語も〈できすぎ〉のようにも思えます。私も、このやりとりが、安部さんとの仮定の話、一般論だから、こういう調子で返事を書くことができます。

 実は、二年ほど前、子供を亡くされた女性からメールを頂き、その方への返事でもこの物語に触れました。(このやりとりは、ご本人の希望で意見交換のページには掲載していません。)
 実際に子供を亡くした方に向かって、いかに経典の引用とはとはいえ、訳知り顔で「生まれたものは必ず死ぬ」などとは言えませんでした。その方は、自分なりに最初の苦しみは一応乗り越えた、と書いておられましたが、もしキサーゴータミーのような母親がいて、私が釈尊のまねをしても、恨みを買い、怒らせてしまい、ますます状況をひどくするだけでしょう。釈尊の人を見る力、方便力、人格力が私にも欲しいと、そんな役にも立たない返事を送ったことを思い出します。

 仏教の教えは、私達の「自然な」感情に逆行します。仏教は道理にかなっているのに、私達の「自然」がそれを拒絶します。道理に任せて仏教を説いても、伝えることはできせん。仏教を説くには、道理に加えて、説法者の人間としての力が問われると感じます。

2)自分の死を受け入れられるか?

 自分の死に対しても、(1)と同じ答えがあてはまるでしょう。受け入れようが、拒絶しようが、死はやってくる。違うところは、子供の死には遭わずに済む人も多いけれど、自分の死には、全員が必ず向き合わねばならないという点です。

 私は、自分を霧の中を飛ぶ矢のように思います。気がついてみれば、時間の中に放たれていた。次第に勢いを失い、ある日地面にぽとりと落ちるでしょう。あるいは突然木の枝かなにかにぶつかって、動きを止めるのかもしれない。
 生まれたものは必ず死ぬ。ということはつまり、生とは死への旅だという事です。生きているものは、死につつある。生まれるという事は、死に始めることです。まるでシュレーディンガーの猫のように、生きているものはみんな、生と死が混ざった状態にあるわけですね(この比喩は冗談)。

 人は、自分が価値ある生を永遠に生きると思っています。いや、実のところは、誰しも、自分の生が、価値あるものでも永遠でもない事をうすうす感じている。だからこそそれに怯え、自分は永遠の価値ある存在だと無理やり思い込もうとします。そうして、自分と人に無用な苦を生み出すことになります。

 先程、キサーゴータミーの名前が思い出せなくて、いろいろな本をひっくり返していたのですが、その中で「慈悲の仏道」(小川一乗、法蔵館)の目次に「癌さんありがとう」という言葉を見つけました。著者の妹さんが、40代で癌で余命三年の宣告を受けたけれど、今生きていることを喜びながら命を全うされたのだそうです。
 私の友人も癌宣告を受け、30代でなくなりました。子供たちとの時間を大切にしながら、驚くほど普段と変わりのない生活で残りの日々を過ごして逝きました。
 勿論、平静だった筈はありません。奥さんと幼い子供達を残してなぜこの俺が、という納得できない思いに怒ったに違いないと思います。夜中に一人泣いたことだってあったでしょう。でも、怒っても泣いても恨んでも、着実に死は迫ってくる。その死に一人で向き合いながら、彼は息子とキャッチボールをし、普段と同じ生活を続けたのだと思います。

 今は健康な私達は、想像した死を、想像した時だけ恐れます。ですが、確実な死に24時間向き合っていると、案外たくさんの人が、死を乗り越えていくのかもしれません。勿論それは結果論であって、激しい内面の葛藤の末ではあるのでしょうが。
 そして、忘れてならないことは、今は健康な私達も、確実に死ぬということです。無我=縁起は、死を教えるだけではありませんが、もしかしたら、自分が死につつあることをきちんと認識する事が、自分の無我=縁起を知る核心かもしれません。

3)仏教は究極の運命論か?

 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。」

 これが釈尊の最期の言葉です。(大パリニッパーナ経、岩波文庫「ブッダ最後の旅」中村元訳)
 釈尊は努力しなさいと言っておられます。努力を否定して何もかも無抵抗に受け入れよとおっしゃった事はありません。

 或る方からは、「縁起の現象は、すべて尊重されねばならない、否定すべきではない」という解釈を頂いたことがあります。
 ひょっとすると「無我=縁起」を、<自分というものはまったくない、なにも考えず、感じず、ただ石や水や風の如く、運命の力のままに抵抗することなく流されていけ>という教えだと誤解しておられるのでしょうか?

 我々は、考えたり、感じたり、悩んだり、苦しんだりしています。これは事実です。にもかかわらず、「自分というものはまったく無いのだ」と考えて、「考えたり努力したりしないようにしよう」と、いくら懸命に考えたり努力したりしても、只の自家撞着にしかなりません。

 無我(アナートマン)は、アートマンに対する否定です。私達は、考えたり、感じたり、悩んだり、苦しんだりしている。しかし、それは、アートマン(≒霊魂)といわれるような永遠不変の自立的実体があるのではなく(無我)、縁が集まって起こっている現象が縁によって考えたり、感じたり、悩んだり、苦しんだりしているのです(縁起)。

 地上に生命が生まれて以来、生命は、自己維持を図り、増殖に努めてきました。生命に本源的な自己維持と増殖の欲望が、根本の無明なのかもしれません。生命は淘汰にさらされながら、競い合い、せめぎあい、少しでも有利な自己維持と増殖のために進化をしてきました。自分にとって有利なもの(餌など)と不利なもの(天敵など)をいち早く発見し、自己にとっての価値を判定し、いち早く対応するようになっていきます。感覚器官が発達し、運動能力も向上します。はじめは、ちろちろと動く一定範囲の大きさのものに飛びついて口に入れるというような、反射的反応だったものが、喜びや恐怖と言った感情が生まれて、状況対応速度を加速させました。さらには、記憶とそれに加えて自己を対象とする感覚が発達し、持続的で実体的な自己意識が生まれました。
 自己意識によって、自己を対象化し、判定し、対応の仕方を改善していくことが可能になりました。こうして人間は文明を築き上げ、他の動物を圧倒する力も得ました。しかしながら、根本のところで無明に導かれている点は、太古から変わりません。人間的意識は、最も進化した無明です。また、それまでの<そのつどのシンプルな欲望>を、<構造化された持続的欲望=執着>に高度化させました。構想された外の対象と内の対象(自己)を実体視し、真に問い直すことなくその価値を盲信し、執着し、争い、傷つけあい、得られなければ苦しみ、得られれば退屈し、徒に苦を高度化し肥大化させてきました。
 しかし、ここに一人のスーパースターが登場しました。釈尊です。釈尊は、無明を高度化するシステムであった自己意識、すなわち自己を対象化し判定し改善するシステムを逆手にとって利用し、自己を観察し、苦の原因を追求しました。その結果、苦の原因が執着である事、執着は無我と縁起を知る事で吹き消される事を見出されました。無我なる現象が縁起によって生まれ、更にまた縁起によって無我なる縁起の現象を生み出しているこの世界において、他ならぬ自分も無我なる縁起の現象である。そのことを知って、価値の構想・実体視を解消し、執着という苦の原因を滅し、共に縁起する有情への慈悲を発動せしめられました。

 釈尊の教えに従い、無我=縁起を知って執着を吹き消すためには、努力が必要です。有情の苦を軽減するためにも、努力が必要です。あたりまえ般若本文の「晩秋の集まり」の終わりに書いたように、正しい努力を続ける事によって世界は変えられると考えます。仏教は、運命論ではなく、人と自分から無用な苦を抜くための教えです。

***

 以上、変なアプローチになってしまいましたが、私見を述べました。
 小論集のページの「人無我を説く方便の試み。その2:動物進化と自己意識の発現」、また「友人の通夜の帰りに」にも目を通していただければ幸いです。

                            敬具
安部様

             2003,1,12,        曽我 逸郎


安部さんからの返事 縁起的世界観がなぜ運命論にならないのか?2003,1,13,

曽我 様

拝啓

お忙しいところ丁寧なご返信ありがとうございます。

お母上がケガをされたとのこと、どうぞお大事にしてください。

さて、「仏教は運命論ではない」とのお答え、釈尊の言葉や行動を見れば疑いの余地はないのかもしれません。

しかし私には縁起的世界観がどうして運命論にならないのか理解できないのです。

縁起的世界観を自分自身に当てはめた場合、「いったい俺の自由はどこにあるの?」と感じてしまいます。

私だけではなく仏教をよく知らない人たちはみなそう感じるのではないでしょうか。

「これは私の意志で行った」といっても私の意志もさまざまな縁によって生じたことは間違いないでしょう。

しかしそう考えるとあまりにも空しくなります。どうしようもない無力感を感じてしまいます。

縁起的世界観(おそらく間違いのない事実の認識)がどうして救いになるのか。どうして運命論にならないのか。今のところわかりません。

もうすこし曽我さんのホームページとかを見て考えてみます。

素人の疑問にお付き合い頂くのは恐縮ですが、なんとか自分なりに理解したいと思っているものですから。申し訳ありません。

それではまた。

                            敬具

2003.1.13  安部


安部さんへの返事  2003,1,14,

前略

 「縁起的世界観がどうして運命論にならないのか」という問題提起を頂戴致しました。

 無我なる縁起の現象である私が、どのようにして発心したり、努力したりできるのか、という疑問だと思います。
 確かにこの問題については、私自身、舌足らずで誤解されやすい説明しか出来ていないと思います。というより、正確に言うなら、私自身まだぼんやりとした方向性程度しか見えていないのかもしれません。

 安部さんへのメールとしてではなく、近々小論集のテーマとして取り組んで見たいと思います。形に出来たらご報告致しますので、しばらくお時間を下さい。

                               草々
安部 様
              2003,1,14,     曽我逸郎


再び安部さんから  2003,1,22

曽我 様

前略

「なぜ縁起的世界観が運命論にならないのか」について

先日メールを出してから私もいろいろと自分なりに考えておりましたが、(曽我さんはすでに気が付かれていたのかも知れませんが)私の考え方の根底にある主客二分的思考方法(私があって世界があって的な)に問題があるのかなと思い始めています。縁起的世界の中に「私」というものが投げ込まれていると考えるとどうしても運命論になってしまう。
しかし私と世界が本来二つのものではなく、区別できない、と考えれば別の意味になってくるのではないか、と。

(後略)

                            草々
2003.1.22
                  安部

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