森田 和明 さんより 感想(空など) 2002,9,9,

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前略 驚きました。小生も、既に十数年前から仏教書や他の宗教書を数百冊以上は読んでいますが、この偽経ほど平易で簡潔に、般若心経の教えというか釈尊の教えの真髄を説明したものは初めて読みました。
 仏教は、ユダヤ教やキリスト教のように神という絶対者を信ずるわけでもなく、また、神の言葉を預かった預言者や神の子が存在したわけでもなく、さらには、世界が五千数百年ほど前に創造されたと考えるわけではないので、現代科学の常識から考えても、納得のいく合理的かつ深い人間洞察に基づく教えなのですが、ただ、インド古来の考え方の輪廻転生と極楽浄土等(方便の教えということでしょうが)は、現代人には小生も含めて納得できないと思います。
 そういう余分なものを除けば、縁起と無我、そして空が真理に目覚めた釈尊本来の教えであり、それが、自分も含めて、この世のあらゆる事物も現象も皆そうだということであり、だから、人生には明確な目的もないし、魂などは当然存在しないし、来世のことなどわからないということになります。また、この宇宙の根源も生命の起源も人類の発祥も元々わからないことだし、その元をたどればさらにその原因を追求するしかなくなるため、際限がなくなるということでしょう。
 ただ、空は縁起を理解して無我や無常をよく理解しない限り絶対に理解できません。下手に誰かに説明などすれば、ニヒリズムだと誤解されるのがオチです。物事を対立的というか相対的にあるいは二元的に見るのが習性になっている現代人には、概念として捕えにくいため確かにわかりにくい教えなのですが、よく考えれば、そのように考えること自体がまさに人間の主観が生み出す妄想であって、この世の実相は一切が空(別の言葉でもかまわない)だというのは自明のことです。
 我々は、この常に変化する無常の世界にたまたま諸条件が結びついて生を受けた存在であり、だから、自分自身を構成する条件の一つでも欠ければ、変化もしくは消滅する運命にあるため実体はもとよりなく、世間的な意味で立派に生きようが、善行(功徳を期待して)を施そうが、有名になろうが本来どうでも良いことであり、肝心なのはそれらにこだわらずに常に今を生きることだということでしょう。
 ただ、それにしても、般若心経もその教えの核心の空も、何とか頭では理解できますが、それを現実生活の中で常に自覚することは至難のようです。例えて言えば、自転車の乗り方や水泳の仕方を本を見て理解したようなものだと思うのです。こういうものは実践するしか修得することはできませんが、今の小生はこの程度の段階かなと思っています。だから、10年以上前から月2〜3回は座禅に通っているのですが、それでも、空が本当にわかったというか、実感できたというところまでは到底至リません。
 もし、今後肉体的・精神的にどんな苦難に遭っても、その状況で自分は本当に精一杯生きられるのか、死期が明らかなっても、その後淡々と生きて行けるのか、死の直前にも無理なく自然に死んで行けるのか等々、その状況にならないと自分がどう受け止めるのか全く予測できません。最もこんなことを考えること自体が妄想であり、こだわることが空を本当にわかっていない証拠なのでしょう。
 だから、これからも座禅を続けて普回向を唱えていくしかないのかもしれません。

                               草々
                        2002・9・9  兼嫌拝


森田 和明 さんへの返事

拝啓

 このような形で、ホームページ上でお返事をお返しするご無礼をお許し下さい。どうやら森田さんのアドレスが旧パソコンの中に取り残されて、開けなくなっています。こんな事もあろうかとバックアップは取ったつもりだったのですが、漏れがありました。
 願わくは、これがお目にとまって、もう一度アドレスをお知らせ下さいますよう、お願い致します。

 さて、頂いたメールは、完璧に私と同じ考えです。頭で分かっているだけとおっしゃるのはご謙遜でしょうが、私の方はまさにそのとおりの有様です。(頭でも分かっているのかどうか、、) きちんと座禅を続けておられる分だけ、私よりずっと着実に歩んでおられるに違いないと思います。
 私も早く見習わねばと、同じことを言い続けて徒に時間ばかり過ぎております。

 ニヒリズムについては、おそらく森田さんも私と同じようにお考えだと思います。私は、仏教は言葉の本来の意味でニヒリズムだと思っています。本来の意味のニヒリズムとは、すべての価値を否定する思想という意味です。仏教(無我=縁起)は、あらゆる既存の価値が幻想であることを示す教えです。自分の価値への執着が残っている人は、日常会話的なネガティブな意味のニヒリズムという非難を仏教にぶつけます。しかし、仏教は真のニヒリズムであり、ネガティブでも、無気力でも、破滅的でもありません。
 別の言い方をすれば、仏教とは、普通のニヒリズムを突きぬけて裏返すことによって、すなわち自分の無我=縁起を知って我執を吹き消す事によって達成される慈悲にあふれたニヒリズムであると思います。
(思いつき:もし執着を引きずったニヒリズムを突きぬけた先に仏教があるとしたら、仏教を学ぶものは、必ず世俗的な意味のニヒリズムの段階を通り、それを克服して行く必要があるのではないか? 出家前の釈尊も、世俗的な意味でのニヒリズムに捉えられておられたと思う。)

 今後ともご意見ご批判ご教授賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

                  敬具
森田和明様
           2002,12,4,  曽我逸郎

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