Pat Smith さんより <いつも化システム>主客対消滅と分裂病を読んで 2002,8,31,

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<いつも化システム> 主客対消滅と分裂病を読んで感じたこと。

この次元に来られたのなら、次は(もしまだ読んでおられないなら)

養老 孟司 【ようろうたけし】氏へ進むのも面白いかもしれません。

東京大学医学部教授・東京大学総合研究資料館長。
1937年生まれ。
1962年東京大学医学部卒。
解剖学。
著書『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。
また『唯脳論』にまとめられた独自の観点からの文明史観は社会的に大きな反響を起こし、注目を集める。
著書に『ヒトの見方』『形を読む』『脳の中の課程』『唯脳論』『涼しい脳味噌』『カミとヒトの解剖学』等がある。
共著に『解剖の時間』(布施英利)。
対談に『中枢は抹消の奴隷』(島田雅彦)、『恐竜が飛んだ日』(柴谷篤弘)。
対談集『脳という劇場』がある。
2000年3月現在:東京大学名誉教授

ヒトの脳は「現実」を在りのままに受け入れることができないようです。脳はそんな処理能力をもっていません。従って経験を使って情報処理、操作:Filtering,情報を切り詰め,抽出,圧縮(現在研究中)等を行い、必要なものだけを取り込みます。もっと言うと、「脳は自分が見たいものしか見ない」ということのようです。自然はリアル(real:現実)ですが、脳はバーチャル(仮想現実)しか実体験できない。<いつも化システム>はヒトがリアル、現実を内に取り込む基本的システムと思われます。いつも化しないとやってけない。

数万年前にヒトは当時の環境=大きい自然+小さな社会に最適化されて出現したので、自然界は慣れ親しんだ得意な場所であり、故里に帰ったように、ヒトの脳はストレス(脳化=都市の論理)から解放され、くつろぎ、安らぎ、余裕を取り戻すのかもしれません。

外界からの刺激を減らして、情報量を減らし、脳を半覚醒状態にもっていき、前頭葉を抑制し、下部脳の活動(感覚)を意識化させ、信じ込んでいた脳が実は頼りにならない危ういものだと実感させる方法が座ったり、見たり、見なかったりで、強制的にインスタントに思考回路を遮断させ、感覚路を解放するのが、麻薬をやる(オームはイニシエーションと称して使ったようです)ことかもしれませんね。昔アメリカの薬理学の教授先生がLSD服用により体験したことを映像化したことがありますが、まさに色彩の爆発でした。実際には視覚以外の感覚も同時にやって来るわけですから、実際は想像もつきません。
生まれつき西洋人は脳を信じ込みやすい(客観的な左脳優位)、東洋人は左脳(思考)に疑いを持っている(主観的感覚的な右脳優位)のかもしれません。頭蓋骨の中には生物の進化の過程で獲得した複数の脳がいます。延髄、間脳、中脳、小脳、そして二つの大脳。どの脳が互いにどんなふうに関連し合って、どんな仕事をしているのかやっと解り始めてきた所のようです。自分を意識している自分が誰で、どこに住んでいるのかも解ってくるでしょう。

脳(自分)を信じ込んだら、脳に騙され、してやられますよ。
如来さんはそう言いたかったのかも知れませんね。

僕は宗教はやりません。永遠とか永遠の命なんか欲しく無いからです。仏陀さん?は学者っぽいので魅力的ですが、自分で書いて残してい無いのが困ったもんです。怠け者ですな。まあ、お偉いさんはみなさんそのようです。キリストさんもそのようです。自分にできたことは、他人にもできると思い込んでおられるのでしょう。もしくは、答えは書き残すまでも無いくらいに簡単で、既にみんな知っているからかもしれませんね。答えはあまりに「あたりまえ」すぎるのかもしれません。所詮ヒトは類人猿の進化型(遺伝子はたったの1%ちょっとしか違わない)ですから、さほど違う存在ではないはずです。
リアル(現実)をバーチャル(仮想)に変換する能力が高いけど、仮想と現実の違いにびっくりこいて現実を否定し、ますます仮想に逃げ込む。頭を尻の穴に突っ込んでるヒトの絵がありましたが、きっとあんなものがヒトの実体なのでしょう。そう、ヒトの考えなんて糞みたいなもんだと僕は笑ってしまいたいのです。そうできれば、の話ですがね。

あたりまえのことを説く如来さんのお話は痛快でした。有り難うございます。
じゃ
psmith78


Pat Smith さんへの返事  2001、9、10、

拝啓

 メール再送ありがとうございます。今度はきちんと読めました。私の日本語メールは大丈夫でしょうか?(注記:最初のメールは文字化けしていました。)

 養老孟司 はかなり前に読んだことがあるような気がします。でも、ご紹介頂いた本には心当たりがありません。軽い本だったような気がするので、新書だったか、雑誌で読んだのか、あるいは、ただ読んだと思いたいからそう思っているだけなのか? はっきりした問題意識をもって、ご紹介の内のどれかをきちんと読んでみます。

 我々はありのままを見ることができないというご指摘、同感です。
 まず私たちは、感覚器官の受容できる刺激を受容できる範囲・受容できる仕方でしか受け取ることができません。さらに、この限定された刺激のうちから思い込み(前意識的な)に適合する情報だけを選んで他は捨て去り、不足する情報を勝手に付加して整合性のある単純な形にしてから意識に上げる。書いておられるとおり、意識はバーチャルな世界に浸って生きているようです。

 おそらくバーチャルであろうとも、ナマの情報の洪水に溺れてなんの対応もできないでいるより、なんらかの対応ができた方が結果的にずっと有利なのでしょう。その対応がうまくいった時はそのバーチャル化は強化され、大過なく過ごせた場合は維持され、シリアスな状況に陥った場合は改変され、致命的ミスに至った場合は、その個体は死んでしまう。これを繰り返しながら生命は進化してきたのだと思います。

 私にとってひとつ気になる点は、このバーチャル世界を築き上げるプロセスが、モノ化・いつも化の基盤になっているように思え、さらにこのバーチャル化プロセスは、自覚的意識にとっては、とても手の届かないくらい深い「身体的レベル」でスタートするように思えることです。さまざまな錯覚の図で、同じ色だ、同じ長さだ、直線だ、真円だと合理的に確かめ納得してもなお、やはり錯覚は錯覚のままに見える。非常に早い段階から受容情報の変形は行われており、それが初期であるほど根深く強固で、自覚的意識の手におえないものではないかと危惧します。
 多分釈尊ですら、錯覚の図は錯覚のままにご覧になったことでしょう。

 仏教では真如ということを言います。それが諸法実相という意味ならあり得ない事です。すべて有情は物理的・生物的に制約された形でしか世界と触れ得ず、それぞれの仕方で世界をバーチャル化している。諸法実相は観念的幻想です。如来とは本来、「諸法実相に達した人」という意味ではなく、「無我=縁起という自分の如」を知った人という意味に違いありません。世界の如は幻想で、自分の如(無我=縁起)をこそ知るべきなのです。

 間違いを恐れず読みかけのオートポイエーシスの考えを一部分だけ切り取ってあてはめてみます。
 おそらくこうしたバーチャル化は、比較的低次の小さな構成素サイクルが機械的・盲目的に作動し続けて、情報の変容を行っていることに由来するのでしょう。その他たくさんの構成素サイクルが加わり、組み合わさり、組み替えられて、様々なハイパーサイクル(小さなサイクルが縁となって別の小さなサイクルが起こり、それが繰り返されて再び元のサイクルが引き起こされ、結果生み出される一段大きな縁起の輪)が発生し、さらにそれらが縁起によってより高次のサイクルを形成し、何段にも複雑に入り組んで積み重なった結果、自己意識や執着や自由意志や後悔のような人間的現象が創発してくるのではないか。
 もしこれがそんなに的外れでないとしたら、仏教の解脱というのは、比較的高次の(後発の)ハイパーサイクルの組み替えではないでしょうか?
 勿論こんなことを本気で主張するためには、視覚や聴覚などの感覚がどのようなプロセス、システムで受容され、伝達され、変容されていくのか、記憶の仕組み、いつも化の仕組み、シミュレーションの仕組み、などなど脳内の複雑な仕組みが解明されるのを待つ必要があります。これらの情報処理サイクルの重層的仕組みが解明され、執着がおよそどのレベルで発生するのかが分かれば、仏教的解脱がどのレベルまで溯っての変革であるのか見えてくるかもしれません。

 勿論そんな事が分かったからといって、執着を生み出すサイクルをロボトミー手術で物理的に切断すれば解脱できるなどと考えている訳ではありません。重層的に入り組み絡み合い幾重にもフィードバックのかかった脳のネットワークを外から物理的に組替えることは不可能です。ドーパミンなどの脳内物質やその他の条件によっても信号の流れ方は変化し、サイクルの構成が刻々と変わっていくそうですから。

 執着を生み出すサイクルを組替えて無我=縁起を知るには、やはり伝統的な戒定慧しかなく、その実践の先の般若智に期待する他はないと考えます。
 自覚的意識による分別知では、外の対象の無我=縁起を知り外の対象への執着を吹き消せても、自分の無我=縁起には届かず、我執をなくす事はできないだろうと思います。

 しかし、ここにも疑念があります。般若智と思いこみは区別できるのでしょうか?
 対象化のない知、あまねく知る知は、知と呼ぶに値するのでしょうか?
 脳は、外からの刺激よりもはるかに多く、脳内の重層的サイクルを駆け巡り拡散し反響する信号に満たされているようです。てんかんや統合失調症(旧名「精神分裂病」)の患者さんが感じる事があるという「真実の世界に触れた」実感や、いわゆる「宗教的体験」(=意識の指向性停止体験≒般若の瞬間?)は、おそらく生の外界に触れたのではなく、脳内信号の爆発的反響・共鳴なのかもしれません。ハイパーサイクルの組換えという結果を考えると、外に開かれる体験というより脳内の爆発的共鳴と考えた方が筋は通りやすいようにも思えますが、それがどうして般若智になり得るのか? 般若智は、病気の症状や思い込みと、どう違うのか、、、?

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 すみません。調子に乗って未消化な思い付きばかり書き連ねました。勘違いが多々あると思います。ご指摘ください。何なりとご意見頂ければ、問題点を見つける手がかりになりますので、何かお考えありましたら、是非ともチクリと刺激して頂ければ幸甚です。

 宜しくお願いいたします。
                       敬具

Pat Smith 様

2002年9月10日             曽我逸郎

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