fumioさんから   凡夫のひとりごと、2  2000,1,30,

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足跡を残すだけのメッセージが「意見交換」の場に掲載され少し気恥ずかしいところです。

21世紀は「心の時代」と言われています。
物質文明に多くの価値基準を求めてきた反省か?
不安の行き先が「心」に向かっているのでしょうか?

でも、「心」がわかりません。
「心」とはなんでしょうか?「心」が脳にあるという科学雑誌まであります。
でも、「心」の定義をしたものを知りません。
「般若心経」の「心」は何なのでしょうか。

ご指摘の「永遠の阿弥陀仏という存在」。
凡夫にイメージしやすい方便なのかもしれません。永遠の「無量壽」「無碍光」。
果てしない「時空」です。宇宙の根本なのかもしれません。「無我・縁起」の根本なのかもしれません。この根本に戻れるなら 縁起の道理からも決別できるのかも。
それが 南無阿弥陀仏。 それが ・・・。
鑑真上人は身をもって何を伝えようとしたのでしょうか?「教え」なら巻物でも伝わります。
空海大師は何を求め海を渡ったのでしょう?
親鸞聖人はあれほどの教学を身につけながら法然上人に何をもとめたのでしょう?
各宗派の開祖は何を求め、何をつたえたのでしょうか。
八万四千の法門があるだけ。釈尊の真理はひとつ。

末法の今。「自力」で解決できるのでしょうか。
今 どんなに道理を理解して生きても ただ後生が心配です。

南無阿弥陀仏

                                        fumio


fumioさんへの返事

                    2001、5、10、
拝啓

 返事、本当に遅くなり、申し訳ありません。

 頂いたメールを読んで、同じ仏教といっても、ものごとの感じ取り方は随分巾があり得るんだと感じました。共感よりも違いの部分を以下に書きます。その方が発展的だと思うからであって、反論とか否定というつもりではありません。どうか御了解下さい。

>「21世紀は「心の時代」と言われています。」
 21世紀が「心の時代」かどうか、私にはよく分かりません。「Xの時代」という言い回しはよく使われますが、Xには様々な言葉が代入されています。おそらくそれぞれがそれぞれの真実を捉えているのだろうと思います。

>「でも、「心」がわかりません。・・・」
 この心についての段落では、心はない、虚妄だとおっしゃっているのでしょうか? おそらく、反対に心はあるとお考えのように聞こえます。fumioさん御自身の「心」の定義をお聞かせ頂ければ、幸いです。
 私は、心は、肉体・経験・それまでの心自身に縁起する現象だと考えています。HP「小論集」の「自己とはいかなる現象であるか」でもっとつっこんで考えようとしているのですが、もう少し時間がかかりそうです。

>「この根本に戻れるなら 縁起の道理からも決別できるのかも。」
 「あたりまえ、、、」本文の「町からきた商人」への説法でも書きましたが(本文左フレームの目次「永遠を求める執着」 をクリックして下さい)、私にとっては、縁起は決別すべきものではありません。我々は、どこまでも(死ぬまで)縁起の現象です。けして縁起から決別することはできません。縁起の世界の無我なる現象でありながら、外に内に縁起しない永遠普遍の実体を妄想すること。それが執着であり、苦の根源であろうと考えています。反対に、自分が縁起の世界に縁起する現象だと正しく見切ることが執着を吹き消すことであり、解脱だと思います。
 縁起する世界の底に、縁起を超越した永遠普遍の根本を想定することは、仏教史の内部に居座る抜き難い反仏教の考え方だと思います。

>「鑑真上人は身をもって何を伝えようとしたのでしょうか?「教え」なら巻物でも伝わります。・・・・・・・各宗派の開祖は何を求め、何をつたえたのでしょうか。」
 「教え」よりも重要な「何か」があると考えておられるのは分かります。
 もし誰かに、「教え」を超える「何か」とは何か?と問われたら、多分私は、「教えを基にみずから考えること」と答えるでしょう。あるいは「戒をまもり定を保つこと」かもしれません。あるいは「慈悲」か。えらそうにいいながら、どれも全然できていない私ですが。
 fumioさんのお考えを教えてもらえればうれしいです。

>「八万四千の法門があるだけ。釈尊の真理はひとつ。」
 fumioさんが考えておられるのとは異なる意味で、私もこの言葉に同感です。私にとっての解釈は、
 「八万四千の自称「法門」がある。しかし、釈尊の真理はひとつ。仏教と称しているだけで、釈尊の教えにつながらない「法門」も多い。」
 現在、「仏教」を名乗り、「釈尊」を語る教えのなんと多いことか。それらはすべて、入り口が違うだけで釈尊の真理に正しくつながっているのでしょうか? すべて承認していいのでしょうか? なかには、いかがわしい危険な団体もあるのではないでしょうか?

>「末法の今。「自力」で解決できるのでしょうか。」
 私も、「あたりまえ、、」HPの「自己紹介と意図」のページに、
「釈尊の教えが得難い時代を末法というなら、まさに末法の今、云々、、」と書いています。しかし、実はこの部分、訂正しなくてはいけないと感じていました。
 というのは、釈尊の教えが得難い時代を末法と呼ぶなら、果たして今は本当に末法の時代なのでしょうか?
 ほんの数十年前まで、玄奘や中国に渡った日本仏教の祖師方など、一部の例外を除き、普通の人々はたまたまであった仏教を事実上受け身で学ぶことしかできませんでした。浄土の環境に育てば浄土を、日蓮宗なら日蓮宗を、というふうに。
 しかし、今は本屋にいくだけで、様々な仏教を見つけることができます。インターネットもあります。その気になりさえすれば、案外たやすく「仏教」を学ぶことができます。少なくとも日本の普通人にとっては、歴史上今がもっとも釈尊の教えに近づきやすい時代ではないでしょうか。
 ただし、玉石混合であることも確かです。本屋によっては、仏教書コーナーの前に立つのが憚れるほど、怪しい本があふれています。
 みずから学び、みずから考え、みずから真偽を判断する努力が肝要だと思います。たまたま出会った「仏教」を無批判に受け入れてしまうと、とんでもないことになりかねないので。

>「今 どんなに道理を理解して生きても ただ後生が心配です。」
 道理というのは、無我=縁起の教えと考えていいでしょうか? だとすれば本当にすっかり理解できれば、それはもう如来であって、薪の補給されない火のように、根幹を失ったターラ樹のように未来に生起しない性質なのですから(パーリ・ニカーヤ中部第72経、大蔵出版「パーリ仏典」より勝手な要約)、後生を心配する必要はありません。
 実のところ、私は、普通の人でも後生はない、輪廻しないと考えています。同じくパーリ・ニカーヤ中部にこういう記述を見つけました。(第68 ナラカパーナ経)
 「修行途上の弟子が亡くなった時、如来は、「彼は一来者としてXXに再生した」などと授記するが、それは人を欺くためではなく、その弟子とともに修行していた他の弟子達が、亡くなった弟子の修行ぶりを思い起こし、自分の修行を反省し、集中し、安住するようにするためである。」(かなり恣意的な要約)
 私のこの読み方が間違っていなければ、釈尊は、輪廻が常識の時代に対応して確信犯的に<嘘も方便>をされていたことになります。
 (公平を期すために書きますが、私にとって頭の痛いことに、パーリ・ニカーヤには輪廻を肯定する記述も多くあります。繰り返し登場するのは、宿住智(自分の過去生を思い出す智)・死生智(有情が業によって輪廻するさまを見る智)・漏尽智(四聖諦)の三つがセットになった記述です。この三つが悟りの内容であったという経もあります。意見交換のページ、1/24に頂いたナガイさんのメールへの返事に、関連した内容を書いていますので、まだご覧になっていなければ是非ご一読下さい。)

 「私たちは、しばらくの無我なる縁起の現象である。現象している間は、無益に自ら苦しまず、無益に他を苦しめず、現象したい。執着に衝かれて働けば、一時の快楽は得られても、その数倍の苦を生み出す。執着の対象は、外の対象も、内なる自己も、そして執着そのものも、等しく実体のない無我なる縁起の現象である。そのように正しく観察して、執着を吹き消せ。」
 これが釈尊の教えだと思っています。

 またご意見、ご批判をお聞かせ下さい。宜しくお願いいたします。
                              敬具

fumioさま
                           曽我 逸郎

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