特別企画  森 正夫の田舎暮らし抄

第6話 新しい出会いの中で

 人と人の出会いほど不思議で面白いことは無い。私たちは幼児期から老年期に至るまで幾重にも人間関係を織りなし生きてきた。それはドラマチックだ。例えば、少年の頃、この友とは生涯の友人として生きていくことを確信していても、各々の人生の分かれ道以後、二度と交わることなく離れてしまう場合がある。一方、あまり好感が持てなかった人でも職場で長く関係をつないでいるうちに高齢期に至ってもなんとなく同じような関係が続いている場合もある。そして、引越しや職場異動で全く新らしい環境や人間関係になったとしても、人はどうにかそこに馴染みとけ込んで新しい関係を作っていくものである。

 私がこの地に移り住んだ直後の様子は第3話「御牧原台地に住んで」の中で多少触れた。ここでは10余年の暮らしの中で特に親しみを感じ、お世話になった方々の幾人かについて触れてみたい。私の田舎暮らしの多くの部分が、その時々これらの方々に支えられてきた。以下の人物名は全て仮名で登場して頂いている。


  山川 よし江さん

 かくしゃくとして元気な80代の女性。この方は私にとっては畑の先生。移住当初、何も解らず悪戦苦闘している私を遠くで眺め、心配でたまらなかったようだ。道で出会って挨拶を交わしているうちに畑の様子を見に来てくれるようになった。タネのまき方や苗の植え方など基本の多くをこの方に教わった。いつのことだったか、枝豆が芽を出した頃のこと。朝早くドアをたたく音で目が覚めた。妻が私はカゼ気味でまだ床の中に居ると話しても「起こしてこい」という声が聞こえた。枝豆の種を植えた間隔が狭すぎるので間引けという指示。解りましたと答えても動かない。私が身支度をするのを待っている。彼女にとって多少のカゼくらいで畑を休むなんて言語道断なのだ。結果は細かな指示の下、一緒に枝豆畑を間引いて歩いた。おかげで、素晴らしく美味な塩ゆでを一緒に食べることができた。その後も毎日のように私の畑の点検を怠らない。今があるのはよし江さんのおかげである。

 よし江さんの口癖は「百姓はいつまでたっても勉強だ〜。お天気ひとつとったって〜同じってこたあないんだ〜ね」。肝に銘ずべき言葉だ。母を亡くした直後の私はどうしてもこの方が母と重なって親しみが増した。

 10年近いお付き合いの末、93才で亡くなられた。


  坂本 年造さん

 坂本さんとの出会いは滑稽だ。路地を入った地元の食堂で、一升ビンの焼酎をドンとテーブルに置いて昼間から一杯やっていた。ちょっぴり「変なおじさん」に見えた。私がトイレに行っている間に妻に話しかけたようだ。出てくるとき妻の笑い声が聞こえた。私も加わり話がすすむうちに、仕事についていないなら彼の仕事を手伝えという。仕事が入ったら連絡するので電話番号を教えろ・・・・と。ちょっと迷ったが仕方なくメモを渡した。

 坂本さん、お付き合いが始まってみると、見かけによらずとても真面目で誠実な方。地域のよろず屋を生業としている。仕事がどんどん廻されてくる。国道や田畑の草刈、しいたけの原木切り出しなど。わらび獲り、タニシ獲りにも連れていって頂いた。一時期、彼の人足の一人に加えられた格好である。そのうち、私の腰の持病が再発して日雇仕事は出来なくなったが、お付き合いはずうっと続いてきた。特に薪にする木材の調達ができたのは彼によるところが大きい。また坂本さんと知り合ったことは、居住する小さな集落しか知らなかった当時の私の人間関係や地域の事情に関する知識を大きく広げてくれた。彼が松代の親戚から毎年頂く長芋のおすそ分けの味は今も忘れられない。

 坂本さんは、奥様が病気で入院されている間に急死されているのを、訪ねていった近所の方が発見した。正確なお年は聞かなかったが70代後半だったと思う。


  山上 健太郎さん

 山上さんとは近くの温泉で知り合った。この方は20年程前に芸術家の奥様のために建てたアトリエ兼別荘で暮らしていた。有名な大手住宅メーカーの社長を退陣した後、自分が起こした会社を経営していた。インターネット等の電子機器を駆使して、御牧原に住みながら社長業をこなす現役バリバリ。長い間のアメリカ暮らしで思考回路の半分は英語になっていたようだ。

 この方とはお互い惹かれるものがあるようで「正夫君、正夫君」と言って何かと可愛がってくれた。たぶん、これまでの人生が2人にとって全く正反対だったからかも知れない。私からみる彼は、マックスウェーバー著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に出てくるピューリタンのようだ。自ら質素倹約を心がけ、ひたすら仕事にはげんでいる。この違いが逆に2人を急接近させた。彼は私が話す福祉や医療に関する社会科学的視点に関心を示し、また、文学、哲学、宗教などを熱心に聞き、特に死にどう立ち向かうかに大きな関心を示した。朝方近くまで話し合ったこともある。田舎暮らしとは直接関係なかったが、彼との会話はお互いを刺激し合うことができた。

 お付き合いは7年余りに及んだが、奥様をガンで亡くされた後、ご本人も体調を崩され、娘さんと同居するためこの地を去った。

 彼が亡くなる3日前に直接彼から電話がかかってきた。ちょうど私が留守にしていたため妻が話を聞いた。妻の報告からいつもと違う様子を感じ、近々彼を訪ねようと話していた矢先、娘さんからの通知を受けた。享年78歳であった。今年の正月も妻と2人で誰も住まなくなったアトリエの庭で、彼と奥様の好物であった鹿児島の芋焼酎で献杯した。


  湯谷 正照さん

 湯谷さんは私から見ると、まるで手品師かドラえもんのような人だ。この方に必要な物を伝えると幾日かの後、それが目の前に現れる。今の私に欠かせない運搬機や薪割機から湯沸かし釜戸、行事で使う本格的な(焼きそば・お好み焼き・バーベキュー)露天鉄板セットなどなど全て彼の手作りである。棚を作れば「何かのせただろう!」と妻をしかりつけねばならない落語のような私にとっては雲の上の人だ。

 ところがこの方は雲の上などに座っていられるようなタイプではない。まだ現役で働いているが、土・日休日、場合によっては仕事が終った後までいつも何かを作っている。私の家の近くには彼の秘密基地があり、そこには手作りの山小屋を始めいくつも作業小屋があり宝の山(人によってはガラクタという)が埋まっている。どこから集めてくるかは知らないが、それらを組み合わせてなんでも作ってしまう達人だ。

 彼の口ぐせのひとつは「俺は固いもの(例えば鉄)ならなんでもくっつけることが出来るが、柔らかいもの(例えば男と女)をくっつけることは出来ない・・・笑」である。よく言うよ。若い頃はずいぶん励んだとのウワサが高いぞ・・・。

 色々あるが、彼とは年齢が近いこともあり話が合う。この地へ来て一番最初に出会った気安くなんでも話せる友人である。気は優しくて力持ち。薪の切り出しを始め力仕事を一緒にやると大いに助かる。私の3倍以上働いてくれる。

 今の私は一週間彼の顔を見ないと寂しくなり、つい電話してしまう。良き飲み友達でもある。


  薪グループ

 薪グループとして活動しているのは現在4人。県内からの移住1人をのぞき3人は県外からだ。この4人がどう繋がったかを話す紙面はない。ただ、薪仕事は危険を伴う。この危険を回避したり、きつい作業を分担するためには複数で働くことが欠かせない。各々に持ち込まれた話を個人的にこなせない場合、呼びかけあって合流する。チルホール(木を思いの方向に倒す機械)などの必要機材はお金を出し合い共有している。

 白状すると、切り出し作業については私が一番お荷物だ。腰の持病からあまり動けないし技術的にも劣る。危険を伴う作業なので、現在森林組合で働いているベテランYさんの注意を受ける回数は私が一番多い。Sさんは一番年上だが身体が大きく力もある。移住歴が長いので人脈が広く、彼を通した話も多い。Kさんは一番若い。本来家具職人のため木に関する造詣が深く、技術的にもYさんに次ぐ存在。どちらかというと私は調整役だ。新しい話が来ると先様と私たちグループの予定をまとめて作業日などを調整する。

 それぞれ長い付き合いなので人となりはお互い解っているが、基本は薪作業。親しみを感じつつもお互いあまり踏み込まず一定の距離を置いた付き合いが続いている。


  長者原の若者たち

 長者原は旧望月町の中では、御牧原同様、比較的新しい開拓地である。蓼科山や二子山が千曲川に落ちていく途中の高い標高にあり高原野菜の産地だ。しかし、ここも開拓者の子孫は街へ出たり都会へと進み後継者不足で一時は耕す者が途絶えた土地が増えた。

 そこに今、都会から若者たちが移り住んで新しい農業を始めている。彼らに共通するのは、比較的高学歴ということ。また、ITなど最先端企業で働いていたり、海外の放浪旅を経ていたりするなど、一人ひとりが個性豊かで独立心が強い。たぶん新しいタイプの日本人なのかも知れない。彼らがこの地で農業に就いたのは、皆豊かな暮らしを求めてのことだと話すのも共通している。彼らの言う豊かさは経済的なことではない。実際、農業で得られる収入など都会で働いていた時の何分の一でしかない。でも彼らは幸せだと言う。

 彼らの多くは有機無農薬の野菜をつくる。それを一般的な市場を通さずインターネット等を通じて販売する。販売先は北海道から沖縄まで広範囲だ。長者原の農業は今、新しい段階を迎えているのだろう。

 人口減少と過疎化が進む中、長者原では若い命が生まれている。たぶん、旧望月町の中では最も出生率が高いのではないか。この子たちが育ち、地域を活性化して引き継がれていくことを願ってやまない。


  温泉の湯に浸かって

 湯に浸かれば饒舌になり、初めて見る顔も幾度となく見慣れると自然と声を掛け合う。温泉通いは入浴好きにとって格好の社交場であり、さまざまな話や情報が飛び交う。安い中古の農機具が欲しいと話せば、誰かが見つけてくれる。解体業を営むMさんが大きな古民家を壊した時、大量の古材(まだ使える太い柱や梁)が出た。私はそれを頂き、ウッドデッキを作った。まだ大量に余ったため希望者に差し上げた所、作業小屋や展示小屋をつくる骨格になった。薪仲間のSさんをはじめ、現在親しくお付き合いさせて頂いている多くの方は温泉通いで知り合っている。

 佐久・小諸・東御地域は温泉の多いことが共通している。私の家から車で15分も走れば到着できる温泉施設は10指に余る。移住当初、毎日のようにこれらの温泉に出かけた。今は気に入った2ヵ所が中心である。温泉通いは私の人間関係を広げ、地域の情報を知る大きな柱である。


 これまでの話は、私がこの地で出会った多くの方々から見ればほんの一握りである。もっともっと紹介したい方々がおられるが予定紙面を超してしまった。
 私の田舎暮らしが、こうした多くの方々との出会いと交流の中で支えられてきたことをありがたく謝するものである。



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