特別企画  森 正夫の田舎暮らし抄

第3話 御牧原(みまきはら)台地に住んで

 私の住む御牧原台地は、佐久市、小諸市、東御市に跨がっている。丁度、浅間山から千曲川を経て蓼科山へ登りはじめる平地、佐久平の北西にこんもりと立ち上がっていて大変見晴らしの良いところである。私の家からは、浅間連山や八ヶ岳が大きく見渡せ、少し歩くと晴れた日には北アルプスがほぼ全貌を現す。また、荒船山、美ヶ原、霧ヶ峰をはじめ南佐久や上田方面の山々がぐるりと見渡せる。ここに暮らして10余年、これらの景色を見ながらの散歩が私の楽しみのひとつである。 
 また、花の咲く草木が多く、特に春になると桜やレンギョウが咲きほこり、雪を覆った山々を背景にした色のコントラストが実にすばらしい。残念ながら、もともと生花用に栽培されていたこれらの花木は、需要の減少からか最近めっきり少なくなってしまった。

 
咲き初めのしだれ桜とまわりの花々 4月のなごり雪を朝日が照らす 進入路を色取る花々

 一方で、我家の庭はコツコツと植え増していった成果が出てきて、華やかな春を演出してくれるようになってきた。雪の下から福寿草が顔を出してしばらくすると、スイセンや雪柳が咲き始め、それを追うように桜やレンギョウが競い合う。寒い気候のため、4月中旬から下旬にかけてこれらの花々に加え、チューリップなどの草花や梅、すももなどの果樹が一斉に咲きほこる様子は、私が一番好きな風景である。秋には居ながらにして紅葉を楽しむこともできる。

 また、この地は野生動物が数多く生息し、遠くに鹿の鳴き声を聞き、雪の上にウサギの足跡を見つけ、タヌキやキツネに出合うこともしばしばだ。一時、雉のつがいが我家の庭に居つき、春には数羽のヒナをつれて、家のまわりを闊歩していたこともある。夜、床に就いた跡、これらの動物たちの気配が伝わってくることが多い。たぶん、私の住む集落では、人の数よりこれらの動物たちの方がはるかに多いに違いない。最近では、動物たちによる農作物の被害が多く、大きな問題になっている。人間の営みと自然界の折り合いをどこでつけていくか難しい課題である。

果樹の畑 トマトを収穫する孫 野菜の畑

 御牧原台地に人が暮らした歴史は浅い。遠い昔、平安時代では朝廷に献上する馬を飼育する牧(まき)であったという。現在の東信地区は、かつて馬の産地として有名で、いくつもの牧があった。その中でも御牧原台地は「望月の牧」として全国に名を知られる存在であったらしい。その後、武士社会が始まると牧は廃れ自然の姿に戻り、明治に入るまで人が住むことは無かった。台地を取り囲む村々の共同の狩場として長い年月を経てきた。

 明治以降、職を失った武士や周囲の村人の入植が始まり、昭和の敗戦以後その数を増していった歴史がある。私の住む集落では、最も古い家で、現在3代目の当主と4代目が同居する家族である。こうした点からも、集落形成の歴史は浅く、伝統やしきたりは比較的少なく、私のような部外者の受け入れにはかなり寛容であった。これは新しい入植地に共通するものかも知れない。一時期、私が住んだ横浜の長津田より人間関係や地域慣習はゆるやかで簡素である。

 この地に住むことになった私は、出来る限り積極的に周囲の人々と関わりを持つよう努めてきた。移住する前(購入当初)から地区の集いや労役に参加し、新年会にも出席した。その都度、横浜から車を飛ばして来たり、仕事帰りに新幹線で来て翌朝再び直接出勤することがしばしばあった。こうしたことから、比較的短期間で集落にとけ込めたのではないかと思う。移住直後には地区の班長(6世帯前後の取りまとめ調整役)を任された。また、購入した家のリフォームや畑づくりのため土日にはこちらに来ることが多かった。金曜日の夜来て、月曜の朝直接出勤したり、夏季はこちらから出勤するなど工夫した。この中で、一番驚いたのが冬期の寒さ。金曜の夜中に到着すると家の中でもマイナス10度以下、妻を車の中に待たせ、3つのストーブをつけて約1時間、ようやく0度になって家の中に入ることができた。それでも、この地に来ることが楽しく、やりたいこと、やらなければならないことが多くあり多忙を極めた。

雑木林の紅葉 中庭のドウダンツツジ 前庭の紅葉

 中でも、草刈りと薪づくりは始めての挑戦。中でも春から夏にかけての草刈りの大変さは言語を絶した。約1,300余坪の土地、放っておけば数週間で腰丈程の草が生える。刈払機など触ったこともない。ましてやチェーンソーなど映画で見たくらいである。恐ろしい機械という印象くらいしかなかった。まず、これらの取り扱いを学ばねばならない。早速シルバー人材センターにお願いし、先生を派遣してもらった。機具を買うことから、取り扱い、そして実施訓練まで指導していただいたが、にわか仕立ての身、一朝一夕に出来る訳はない。先生が易々と刈り払っていく草の横で身体中汗まみれになって悪戦苦闘しても、追いつくどころか足腰の痛みでへたりこむ始末であった。

 畑も同じ。一見、ゆるやかな斜面で畑に良さそうな200坪程の土地は、いざ耕してみると隣地の竹藪から伸びて来た竹根でクワもスキも歯が立たない。また、元々あった木の根(これは事前に伐採した樹木)が残っており、私の所有する手押しの耕運機では問題外であった。結果、これも人を頼むことになり重機を使って約1m近く掘り起こし、竹と木の根を全て取り除き、ようやく畑らしきものが出来上がった次第である。

 このように全てに渡り悪戦苦闘する私を、近所の方々は心配でたまらなかったようだ。しばらくすると、ポツリポツリと訪れてくれるようになり、畑づくりや種のまき方、苗の植付などいろいろ教えて頂くことになった。

雪をかぶった浅間山
(庭から見る)
庭の雪景色
後方に母屋
冬の蓼科山
(庭から見る)

 そうこうしているうちに幾人か親しく話せる方々を得た。それらの方々から聞く昔の話。この台地の開拓に当たった苦労話や生活の様子などは、都会暮らしの私には想像だに出来るものではなかった。この台地に水道が引かれたのは、わずか50年程前のことだと言う。水については台地であるが故の苦労があった。水源が無いのである。井戸を掘っても水が出ず、天水だけが頼りの生活だ。この地にため池が多いのはそれ故であった。ため池の水は田畑に使われ、飲み水にもなった。ある年の大渇水時に県の保健所から視察に来た職員が、池の水を飲んでいることを初めて知って、健康被害を案じてやっと水道が引かれることになったと言う。集落の道も今では8m幅程の舗装道路が国道から直接上って来ているが、私がこの地に来る数年前までは、車2台がすれ違うことも難しいものだったようだ。私の畑の先生となった80代初め(当時)の女性が嫁に来た当時は、国道から荷車がやっと1台通れる山道をその荷車に乗って嫁いで来たと言う。私の同年代の壮年期の方々が少年の頃は、電車など論外で、バスに乗ることも稀だったと聞いた。

 また、入植2代目のお年寄りからは、田畑をつくる開墾の話を聞いた。今では大型重機を使えば木の根など簡単に掘り起こせる。先程ふれた私の畑づくりなど全ての作業は重機と作業者一人でたった2日で終わってしまった。1本の木の根を全て手作業で行なったとしたら、どれくらいの時間と労力がかかったろうか。大木となれば何日も要したろう。こうした苦労の上に今の暮らしがあることを肝に銘じておかなくてはなるまい。
 
 本文の最始にふれた、美しい景色やきれいな草木、私の住む1,300余坪の土地もこうした努力の積み重ねで形づくられたものである。この地を購入するために要した費用は、サラリーマンだった私としては、決して安価なものではない。しかし、この地をつくるのに費やされた先人の苦労とは比べようもない。私の田舎暮らしがこのような基盤の上に成り立っていることを決して忘れてはならないだろう。



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