無 線 通 信

 電磁波の存在
 電磁波の存在とその性質は、英国の物理学者マックスウエルJames Clark Maxwell 1831−79年)によって数学的に証明されていたが(1864−5年)、実際に電磁波が存在すること、および電磁波の伝播特性が証明されたのは、1885−89年にかけてドイツの物理学者ヘルツHeinrich Rudolf Hertz 1857−94年が行った実験によってである。
 ヘルツが実験に用いた装置の概念図を第1図に示す。
(1)1次側コイルの高電源電圧をON,OFFすると、誘導コイルの2次側の両端に接続されている二つの小導体金属球の間で、2次巻線に誘起された電流によって火花が発生する(ヘルツ発信器)。

(2)この時、図のように円形状に丸めた針金に
発信器側と同じような小導体金属球をつけたものをヘルツ発信器の近くに置くと、発振器側の火花と同じように、この小金属球間にも火花が発生する(この時、円形状の針金は電磁波に対して同調の関係になっていなければならない)。

これは発振器側の火花によって発生した電磁波が、空気中を伝播し、共振現象によって近くに置かれた針金の回路に誘導電流が発生し、同じく小金属球間に火花放電を生じるのである。
ヘルツは以上の実験結果を1888年、ベルリン科学アカデミーで発表した。これが今日の無線による通信の曙となったのであるが、ヘルツ自身は電磁波が無線に利用できる可能性には思い到らなかったようである。
★電磁波の応用ー無線通信
 ヘルツの火花放電の実験結果を知った、リヴァプール大学教授のロッジ、ロシアのポポフ、イタリアのマルコーニ等がこれを通信に利用することを思いつき、それぞれ独自に装置を考案製作した。
 
コヒーラ現象の発見とコヒーラ検波器の発明
 フランスのブランリー(Edouard Branly 1844−1940)は金属粉の電導性のを研究していたが、1890年、ニッケル粉はばらばらの状態では直流を通さないが、高周波が到来すると互いに密着して直流電流を通す状態になる現象を発見、これにコヒーラ(cohere:密着する)と名づけた。
 この現象を利用してリヴァプール大学教授の
ロッジ(1851−1940)がコヒーラ検波器を考案、1894年、英国王立協会で行われたヘルツ追悼講演会で発表した。
 第2図に示すようにガラス管の中にアルミやニッケルの小片を入れておく。このガラス管の両端は通常は直流に対して高抵抗を示しているが、近くで電気火花を放電させると管の中の粉末は互いに密着して導電性となるので、これによって電波が到来したことを知ることが出来るのである。

 1907年、アメリカで鉱石検波器が発明されるまで広く使用された。
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 ☆コヒーラーについての高柳健次郎氏(1899-1990年)の著書より(「テレビ事始」P.6)
 尋常小学校3年ごろのことである。日露戦争当時の軍艦「信濃」に乗っていたと称する海軍の水兵さんが三人ぐらい組になり、無線通信のデモンストレーションをやって小学校を巡回し、私の和田小学校をも訪れた。水兵さんたちは、教室の両端にそれぞれ通信機を置き、片方の隅のアンテナから電波を出して、もう一方の隅のアンテナでそれを受けるのである。そして、その間には線はつながっていないのに一方から電信のモールス信号
--内容は、日露戦争で軍艦信濃が発信した有名な「敵艦見ゆ」であった--を送ると、もう一方がカチカチカチカチと鳴った。当時はまだ鉱石検波器すらない時代であったから、コヒーラーというものを使った実験であった。
無線通信機の考案、発明
◆オリバー・ロッジ(1851−1940
 上記のように、コヒーラ検波器を考案したが、1998年には同調回路を発明し、受信回路を組み立てた。また一旦導通状態になったコヒーラ検波器を軽くたたいて元の絶縁状態に戻す装置も考案した。
◆ポポフ(ロシア海軍水雷学校教官 1859−1905
 
ロッジの装置にアンテナをつけたりして受信回路を改良、受信性能を高め、1895年、ペテルスブルク大学で公開実験を行った。また1897年、クロンシュタット軍港に最初の無線局を設置、1899年には実際に軍艦が座礁したことを数十キロ離れた地点に知らせることが出来た。
 しかし、研究費がないことと、教官という職業がら研究に割く時間が取れなかったこと等で思うように成果をあげることが出来なかった。
◆マルコーニ(Marches Gugliemo Narconi 1874−1937)
 マルコーニは1894年、ヘルツの実験を科学雑誌で読んで、これを無線電信に使用することを思いついた。最初の実験は家の中で電線を使わずに離れたところに置いたベル(電鈴)を鳴らすことであった。
 わずか数メートルの距離であったが、次はモールス符号を送る実験を始めた。送信機は発信機の電源をモールス符号通りに直接ON.OFFして電波を発射する。苦心したのは受信機側であった。コヒーラ検波器は到来した電磁波を検知するが、一旦密着の状態になるとそのまま導通状態を保ったままなので、直流電流が流れ放しになり、その後の電磁波の到来状態を知ることが出来ない。苦心の末、電磁石がベルをたたいて電鈴を鳴らすことにヒントを得、電鈴の代わりにコヒーラ検波器をたたかせることによってこの問題を解決することが出来た(モールス符号の短音、長音の到来間隔時間に対して極めて短い時間間隔でベル用の電磁石をON,OFFさせればモールス符号は近似的に夫々連続した直流電流の断続に置き換えることが出来る)。
 コヒーラ検波器にも改良を加え、また受信機にアンテナやアースをつけて通信距離を伸ばし、1996年には3キロメートルまで距離が伸びた。

 1897年、マルコーニ無線株式会社が設立され、本格的な実用化に乗り出した。

 初期の受信機には、選択同調回路がなかったので通信相手を特定することが出来なかったが、1900年、ロッジの同調回路にヒントを得て、同調ダイアル方式の特許を申請した。

 1899年にドーヴァ海峡間(150Km),1901年にイングランド南部〜アイルランド(360Km)、同年12月には大西洋横断の3,200Km通信に成功した。

 マルコーニ無線会社は既存の有線通信事業者からは猛烈な反対を受け、陸上での通信事業には参入することが出来ず船舶を対象にして事業展開を進めた。イギリス領の各地の海岸に無線の陸上局を設置し船舶との間の交信に力を入れた。また船舶に積む無線機は利用料金をとるリース方式にし、自社で養成した通信士を無線機と共に乗船させ、船舶通信の分野で独占的に事業を進めた。

 1912年に氷山と衝突して沈没したタイタニック号にもマルコーニ社の無線機が搭載され、同社の二人の通信士が乗船していたが、偶然の行き違いから遭難情報が有効に伝わらず、多くの犠牲者を出す結果となった。これを契機に船舶通信の重要性が人々に認識されるようになったのである。 ("ラジオ受信機と真空管"へ戻る)

                                   (この項 「無線通信」)