曽我逸郎

空についてのメモ


2010年1月30日

 空(zUnya、シューンヤ)は、元々は empty、void といった意味の形容詞であり、日本語で言えば「空ろな」「空っぽの」といった意味になる。
 zUnya は数字"0"でもある。"0"がインドで発見された事はよく知られているが、これは百とか万とかいう位(桁)のどれかが「空ろ」ということであり、"0"の発見というより位取り記数法の発明という方が適切ではないかと思う。

 紀元少し前になって、この「空ろな」というありきたりの言葉を、一部の「仏教」徒が新たな意味を込めて使い始めた。それが大乗の「空」だ。当時の部派仏教の、形骸化し、また凡夫の日常から乖離したあり方への批判を、「空」という新しい言葉にこめたのだろう。

 「空」が、「空ろな」という形容詞本来の述語としての意味で使われているうちは、問題はなかった。anAtman(無我)の妥当な言い換えであった。
 無我とはどういうことか。法印のひとつであり、「これを説かないものは仏教ではない」といわれる、釈尊の教えの核心だ。
 無我とは、我(Atman、アートマン)の否定である。Atman とは、常住し、他に寄らず独立自存する自己の本体であって、自分を思うままにコントロールする主宰者である。インド伝統の梵我一如説は、宇宙の本体である梵(ブラフマン)と自己の本体である我(アートマン)の実在を自明の前提とし、両者が等しい事を認識する事を目標にしていた。それに対して、釈尊は、アートマンの存在を否定されたのである。
 もうひとつの法印である無常は、アートマンの常住性を否定している。また、縁起は、他に寄らず独立自存するようなものはない、という発見だ。
 つまり、無常・無我・縁起は、Atmanを三つの側面から否定しており、ひとつの事を三つの視点から説明するものである。

 当初、空は、「我々に Atman はない。常住で縁起せず独立自存で思いのままに自分をコントロールする主体などない。我々は、そのつどそのつどの縁によって、そのつどそのつど起こされては滅する、一貫性のない切れ切れの反応である」という釈尊の教えを正しく言い換えた述語であった。述語である限りにおいて、空は正しい表現である。つまり、空は、表現形式として、本来常に主語を必要とする。端的には、「私は空である」(つまり、「私は、アートマンに欠ける」)という形で、自分の問題として捉えられねばならない教えだ。
 しかし、空は、間もなく空性(zUnyatA)として名詞化され、瞬く間に修行者が追求すべき対象として捉えられるようになった。
 (般若心経に頻出する空も、形容詞の空ではなく名詞化された zUnyatA である。)

 空を名詞化し対象として追求する「仏教」徒のありがちな思考展開として、以前に書いたものから転記しよう。

 @「確かにすべては無常にして無我なる縁起の現象だ。しかし、そのこと自体(=空(性)=真如)は、永遠に変わらぬ絶対の真理である。」
 A「仏教とは、空(性)=真如の教えであり、仏教徒は、空(性)=真如をこそ知るべきである。」
 <こうして、空(性)・真如は、しだいに述語的ルーツを失っていきます。感覚的には、追求すべきもの、現象を超越した実在として外に対象として立てられるようになっていきます。>
 B「すべては、空(性)=真如である。空(性)=真如を知るものは、すべてを知る。空(性)=真如を知るものは、一切知者である。」
 C「空(性)=真如は、すべてに内在する。また、世界に遍在する。世界のどこを取っても空ならざるもの、真如ならざるものはない。しかも、同時に、空(性)=真如はすべてを超越する絶対的存在である。」
 D「柳は緑、花は紅。山河大地、すべては空(性)=真如のあらわれ。すべてがそれぞれの仕方で仏法を説いている(無情説法)。」
 E「空(性)=真如は、言葉で言い表わすことができない(離言)。Aだと言ったとしても、Aでないものも空(性)=真如なのだから。世界全体だといっても間違いである。個物もまた空(性)=真如なのだから。空(性)=真如は、絶対無分節であり、頭で考える事はできない真の実在である。自らがそれとひとつになって体得する他はない。」
 F「そもそも、汝は、はじめから空(性)=真如なのだ。空(性)=真如をあらためて求める必要はない。求めてはならない。求めるから得られない。はからいをやめよ。空(性)=真如の働きを邪魔するな。ありのままでおれ。汝のありのままが空(性)=真如なのだ。悩めば良い。苦しめば良い。それが汝の真如なのだ。悩む時は悩め。苦しむ時は苦め。煩悩も菩提。執着もまた真如なのだ。」
 このようにして、名詞化され対象化された空は、梵の代役を担い始め、梵我一如を否定した釈尊の教えを捻じ曲げ、逆に梵我一如の教えに変えてしまうことになったのである。

 本来の空あるいは無我の意味するところは、主宰者の否定である。「自分に主宰者はいない」という事だ。別の言い方をすれば、「主語になり得る者はいない」という事だ。

 我々凡夫に染み付いた自然な考え方は、まず何か主語になるものがあって、それが何かをする、どうにかなる、と考える。しかし、これは正しくない。例えば、「火が燃える」と言う。しかし、火があらかじめ先にあって、それが燃えるわけではない。反対に、燃える事によって、火が生じる。風が先にあって、それが吹くのではない。吹く事によって風が生じる。述語があって、主語が想定される。反応が起こって、主宰者が構想される。

 我々は、凡夫のあり方として、そのつどのてんでにばらばらの現象をカテゴリーとして捉え、それを実体として構想する。そういう捉え方を導く仕組みをクオリアとして私は考えているのだが、クオリアによって捉えられたカテゴリーは、実体視される。我々のものの見方は、それが先にあらかじめ存在し、それが何かをする、どうにかなる、という捉え方だ。
 自分についても同じだ。そのつどそのつどの、脈絡のない反応、例えば「腹減った」とか「眠い」とか「集中して数息観しよう」とか「あ、ゴミをださなくちゃ」とか、「首が痒い」とか、そういったそのつどの反応が〈自分クオリア〉を起動し、いつも化された「わたし」が構想される。
 「わたし」が存在すると思う間違った思い込みが、執着を生じ、苦を生む。「守り育てるべき私がある」という凡夫の思い込みの間違いを正し、執着の反応を鎮め、苦の生産を止めるのが、本来の無我・空の考えであった。

 空は、正しくは述語でなければならず、表現の形式として主語を必要とする。そういう形式で主語を立てることによって、置かれた主語が、存在しない事、我に欠ける事、すなわち、そのつどそのつどの縁によって、そのつどそのつど起こされては滅する、脈絡のない切れ切れの現象・反応である事を教える教えなのである。

 ところが、空を名詞化し、対象として捉え、実体視することで、空は梵の代用となり、釈尊の教えを梵我一如の焼き直しに作り変えた。現代の「仏教」の大半はこれである。

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2010年1月30日 曽我逸郎

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