曽我逸郎

《ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』 釈尊の教えと右脳・左脳》


2013年6月30日
曽我逸郎

 随分長いあいだ新しい記事を書けずにいた。今回もじっくりとまとめるゆとりはないが、自分の備忘を兼ねて簡単にメモっておきたい。

 ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』竹内薫訳 新潮文庫を読んだ。(原題 "My Stroke of Insight" Jill Bolte Taylor. Ph. D.)

 twitterで彼女のTEDでの講演が紹介されていて、興味を持った。神経解剖学者として活躍していたが、37歳の時、左脳で脳卒中が起こり、右脳が左脳の支配を逃れると、「ニルヴァーナ」の安らぎに浸った、というのだ。和訳の著書もあると知り、注文した。

 読んでみると、特に後半が面白い。釈尊の言葉に置き換えて解釈できる文章がいくつもでてくる。以前、Damasio や Benjamin Libetなど脳神経学者の研究に関して、小論にこんなことを書いた。…脳科学は、釈尊の教えを2500年遅れて後追いしていて、釈尊の教えを考える方便として使うことができる、しかし、研究対象のこととして捉え、自分のこととしていないために、苦の滅の役にはたてていない、と…。ところが、ジルは、自分が脳卒中になり、まさに自分のこととして事件を経験している。奇跡的に一命を取り留め、左脳の機能を取り戻すリハビリに邁進しながらも、右脳がもたらす「ニルヴァーナ」を失いたくないと思い、左脳のネガティブな作用を極力抑えよう(必要な時には左脳を黙らせよう)と努めた。その過程で見出したことを述べているが、何度も釈尊の教えに引き当てながら読んだ。

 脳卒中は、右脳より左脳で起こることが多いそうだが、彼女の場合もそうだった。聞き、読み、話し、書くふたつの言語中枢(ウェルニッケ野、ブローカ野)と、からだの境界や時間、空間について分掌する方向定位連合野が機能を停止した。その結果、一時的に右脳が左脳の支配から解放された。その時の感覚は、以下のようなものだったという。
 自分の身体の境界がなくなり、流体のように周囲に溶けあっている。個物も同様で対象になるものはなくなり、世界の全体が連続したエネルギーの流れとして感じられる。自分もエネルギーとしてその中に織り込まれている。至福の一体感。過去も未来もなく今だけがある。静かで平和で解放された安らぎ、思いやりの気持ち。

 瞑想や宗教的修行を研ぎ澄ませた際の、宗教的体験、あるいは変性意識体験と同じ状況ではないかと思う。そうだとすると、宗教的修行者は、左脳の一時的機能停止を目指している、と解釈できるのだろうか。左脳にだけ麻酔を施せば、宗教体験を経験できるのだろうか。
 Jillはこの状態を「ニルヴァーナ」と形容している。しかし、このあり方を意図的に目指すのは、釈尊の教えではなく、私の批判する梵我一如的な方向に陥ってしまう危険があると思う。釈尊は、没我の境地の至福を目指したのではなく、苦をつくらなくなる道を教えた。
 (ただ、Jillが、左脳の支配を解かれた右脳からは攻撃性や否定的な感情は生まれず、世界中のすべてに共感し思いやりを感じる、と書いている点には注目した。慈悲についての私の考え、つまり、慈悲は仏教的修行によって生みだされるのではなく、もともと備わっているが、執着に抑えられている、執着が弱まれば慈悲は本来の働きを回復する、という考えに一致しそうだ。)

 興味をもったのは、手術の後のリハビリによって左脳が徐々に回復してくる過程で、Jillが気づいた左脳の様々な働きだ。
 右脳は、上に書いたとおり、世界の今の流れを全体的一体的に共感を持って肯定的に感じている。
 それに対して、左脳は、右脳が捉える全体の中に、輪郭線を引いて個物を対象として切り出し、分類し、組織化し、過去・現在・未来という変化進展を分析する。自分自身も、全体の流れから切り離された独立の固体である個人として捉える。「わたしの存在の永遠なる真髄」とは、おそらくアートマンのことであり、それを生み出すのは、左脳の仕事なのだ。彼女自身、「わたしというものが自分の想像の産物にすぎなかったなんて!」と言っている。無我を自分のこととして納得しているのだと思う。
 切り出され対象とされた「主題」には、大脳辺縁系のプログラムで感情と生理の回路が繋がっていて、自動的に様々な感情が沸き起こり、肉体には生理的反応が現れる。私の言葉で言い換えれば、条件反射を引き起こすクオリアの働きということになろう。執着の反応だ。Jillによると、この反応は脳から血流中に化学物質が放出されることで起こるが、90秒後には化学物質は消えて、反応は終わる。90秒以上ネガティブな感情が続く場合は、左脳が繰り返しそうさせているのであり、その場合は、左脳を利用し言語によって左脳に言いつけ言い聞かせることで、止めさせることができるという。言語を使って左脳で左脳を説得する、というのはおもしろい。
 また、左脳は、情報を間引いて簡素化し軽くする一方で、辻褄を合わせるために足りない情報を勝手に補うこともする。Jillは左脳がのべつ行っているこの働きを「物語作家」と呼んでいる。大切な私の真髄(我=アートマン)を守るため、「物語作家」は常に警戒し、猜疑心を抱き、邪推する。なにかうまくいかないことがあると、他人や外部の環境のせいにする。心配し、恐れ、怒り、攻撃する。まさに我執が苦をつくるプロセスだ。

 左脳が常に奮戦している日常の中で、くつろぎ安らぎ思いやりを取り戻す術も、Jillは説明している。90秒間の情動に身を任せたた後、それがネガティブなものであれば、言葉にして口にだし、必要なら身振り手振りも加えて、左脳にきつく言い聞かせるのだと言う。「躾」ともいい「心の庭を育てる」とも表現している。「一日に何千回も」「辛抱強く、しっかりと、どの回路が頭の中で働いているかに目を光らせていなくてはいけない」と書いている。これはまさに、釈尊の教えである三学(戒・定・慧)の「戒」であり、経典に頻出する「いつも(自分という反応のあり様に)気をつけておれ」という釈尊の言葉と同じだ。

 さまざまなそのつどの五感に意識を向け、感覚だけでなくそれを受ける自分の想い(喜びとか辟易とか…)も合わせて意識せよ、とも言っている。これは私がヴィパッサナ瞑想で受けた指導と重なる。五蘊(色・受・想・行・識)の受と想の観察にあたるだろう。

 読み返してみると、かなり偏った読みになったかもしれない。しかし、こういう読み方も可能だと思う。Jill本人がどう思うか分からないが、現代版の『尼僧の告白(テーリーガーター)』の一編と捉えることができるとすら感じた。

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2013年6月30日 曽我逸郎

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