時事的なコメント

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バグダードバーニング 一女性によるバグダットのリアルタイム日常報告

「更新情報」に書いた中から、時事的政治的なコメントを抜き出しました。
現実社会の苦を減らすためには、恐れずに発言することが必要だと考えています。

2007年10月21日1079759
 『Legacy of Ashes;History of the CIA』という本に、安倍前首相の祖父、岸元首相が、CIAのエージェントで多額の資金を提供されていたことが書かれているそうだ。週刊文春などが記事にしている。しかし、その後ほとんど取り上げられていない。何故? "エージェント"を分かりやすく言い換えれば、"飼い犬"という事ではないか? 岸がしたことのすべて、例えば60年安保なども、米国の意向に従うものだったということになるのではないか。当時の政治の動きのひとつひとつをCIAとの関連において吟味し直さねばならないはずだ。そこから今に至る展開ともども。でも、その気配はない。何故だ? 追求すべき様々な立場の者も、多かれ少なかれCIAの餌をもらっており人の追求などできない身、ということだろうか?

2007年10月6日1078795
 舛添要一厚生労働大臣が、先週末「社保庁より市町村はもっと信用できない」旨発言したことには、市町村をスケープゴートにしてずっと巨大な問題から国民の目をそらさせようとする計算があるのではないか、と勘ぐってしまう。
 厚労省関連の問題は数多あるが、市町村住民にとって最大の問題は、産科医をはじめとする医師不足だ。この問題に対し、厚労省から抜本的対策を聞いた記憶がないし、マスコミもあまりつっこまない。舛添要一オフィシャル・サイトにこの点を質すメールを送った。返事の来ないまま、村ホームページに掲載。

 10月3日、明治大学を会場に行われた「ミャンマー(ビルマ)情勢緊急集会〜これまで何が起きてきたのか」(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会主催)を聞いてきた。村で"Little birds"を上映した際、講演いただいた綿井健陽さんも主催者側の一人としてかいがいしく働いておられた。
 1988年の民主化運動が弾圧され、多くの学生が国外へ逃れ、今も国外からビルマ民主化運動に取り組んでいること。大学は地方へ移転され、学生と市民が分断されたこと。1990年総選挙でアウンサンスーチーさんの国民民主連盟が圧勝したが、軍政はそれを無視して居座っていること。5人以上集まることが禁じられるなど、市民からの運動は始められないこと。少数民族が弾圧され続けていること。日本政府は毅然とした外交姿勢を示さず、結果的に人権侵害を助長していること (これについては「暗いニュースリンク」も参照)。などが報告された。
 集会でも発言があったが、長井さんの死の真相解明といった問題だけに矮小化させず、ビルマ軍政の全体を問題にしていくべきだろう。長井さんの志にも適うことだ。

2007年9月30日1078408
 ビルマの軍政がどういうものか、アウンサンスーチーさんの自宅軟禁くらいしか知らなかったが、今回のデモへの対応でその実態の一部が見えてきた。サンガは、政治的なことには係わってはならないとしている筈だが、にも拘らず多くの僧が立ち上がったということは、それくらい軍政がひどいということであろう。
 Pannyadhikaさんは、今もモールメインで修行をしておられるのだろうか? 何事もなければよいが、、
 たまたま『化城の昭和史』(寺内大吉、毎日新聞社)を読んでいる。昭和の日本では、「仏教」が軍人の我執の自己陶酔に火をつけ、ビルマではその反対に軍政に対抗しようとしている。どちらにせよ、力を持つと軍は必ず銃口を国民に向けるのだ。それは、思い上がった善意、思い上がった犠牲的精神、思い上がった慈悲心による。勿論本当のところは我執なのだが、でっちあげた善意・犠牲的精神・慈悲心に本人は自己陶酔し、犠牲を恐れなくなる。犠牲にしたことに興奮さえする。貧困な想像力に基づいて、「俺が犠牲的に頑張っているのだ」と思い上がって人を犠牲にしていく自己陶酔はおそろしい。
 すべての凡夫が宿している傾向だ。それが武力を手にしたことによって暴走する。だから武力はいけない。相手に不信感・恐怖心を植え付け、苦を生む反応を起こさせるのみならず、それを手にする本人にも極めて悪い影響を及ぼす。
 今のビルマの現状に対して、私はなにをなすべきか? 非難の声を上げる。その他には・・・?

2007年9月23日1077919
 軍政下のビルマ(ミャンマー)で、若いお坊さんたちが政治的動きを始めている。どういう状況か? 心配。

2007年9月12日1077092
 選挙で示された国民の意向は無視しておきながら、洋上給油という米国の意向に副えそうもないから辞任する、というのは、おかしな話だと思う。日本国首相という身分は、日本国の首相である以上に米国の出先機関である、ということを示しているのか。
 考えてみれば、彼の祖父がA級戦犯から首相になったのも、米国の出先機関として、だったのかもしれない。「戦後レジームからの脱却」と米国追従が、どうして矛盾しないのか、その機微は、ここにあるのだろう。
 なぜ私は米国政府を問題とするのか。それは、現代世界において、米国政府こそが最大の「執着による苦の生産工場」だと思うからだ。

2007年8月28日10759**
 信濃毎日新聞8月21日朝刊2面コラム「同盟の戦慄旋律」から。
 『62年12月、(米軍の)統合参謀本部は、在日米軍基地について「極東での核戦略・抑止力の維持、ソ連による核攻撃の標的選定かく乱」のために重要との報告をまとめ、現状維持が決まった。』
 え、ちょ、ちょっとタイム。
 事務的なさらっとした文章だけれど、一体何を言っているのか。
 まず、在日米軍基地は極東での核戦略・抑止力の維持に役立っている、つまり、在日米軍基地は核戦略の機能を持つということ。これは、この連載コラムのテーマだし、もともと多くの人が感づいていることだろう。
 注目すべきは、太字にした部分だ。在日米軍基地は、ソ連の核攻撃を散らばらせるために重要なのだ。核攻撃の的になることによって―。
 MD(ミサイル・ディフェンス)に関して、2004年4月10日の更新情報で危惧したことは、やはり当たっているのではないか。これが安保条約・在日米軍の本当の意味だ。

2007年8月12日1074844
 この時期、NHK BS Digital Hi-Vision など、戦争のドキュメンタリー番組が多い。戦争の個々の局面で、いかに愚かなことが行われ、子供や年寄りが巻き添えにされて死んでいったか。戦争は、核物質のように、いつまでも癒されぬ苦を発散し続ける。戦争の愚劣さ・悲惨さを知らない「平和ボケ」になってしまわぬよう、できる限りの番組を見たい。

2007年8月4日1074397
 『骨太の方針』に違和感を感じて、『経済成長神話からの脱却』という本を読んだ。仏教とは直接関連しないが、私の中では、水脈がつながっている。感想を小論に掲載。

2007年7月16日1073081
 「骨太の方針2007」(経済財政改革の基本方針2007)が、<「美しい国」へのシナリオ>という副題のもとに発表されている。人口減少下での経済成長が、なんの検証も説明もなく根本課題に置かれており、そのためのがむしゃらさは、まるで強迫観念のようだ。違和感を覚えたので、ネットで検索して『経済成長神話からの脱却』という本を見つけ、読み始めた。おもしろい。最近、村の理想イメージをお金ではなく拡大したQOLの概念で考えたいと思っているので、そのこととも通底しそうだ。

2007年6月2日1070521
 中川村ホームページに公務殉職者慰霊祭の「慰霊のことば」を掲載。
 先日、傷痍軍人の方や奥様方のお話を伺う機会がありました。戦争中は勿論、戦後もたいへんな苦労をしてこられました。戦没者の皆さんも、島影もない海原やジャングルや極寒の地で、銃弾や病や餓えや疲労や寒さに、あえぎ苦しみ、引き離された家族を思いながら息を引き取られました。家族との時間も若者らしい夢や希望も奪われ、命までも奪われて、どんなにか悔しかったことでしょう。もしも戦争がなく、皆さんが思うままに活躍をされていたら、どれほどの功績を残されたことでしょうか。それを思うと、残念でなりません。残された遺族の皆さんも、大変な辛酸をなめてなんとか暮らしを継いでこられました。空襲や原爆の罹災者の方々も同様です。普通の人々にとって、戦争は苦しみ以外の何ものももたしません。

 しかし、戦後62年が過ぎようとする今、私自身もそうですが、戦争の悲惨さ、愚かさを実感できない、平和ボケともいえる世代が大半になりました。一部で「戦後レジームからの脱却」が叫ばれており、「戦後レジーム」というのは、「戦後体制」のことだそうですが、「戦後体制」として捨て去られようとしているのは、「二度と戦争をしない」という誓いだけのように思われます。その一方で、「戦後体制」の一番の根本である筈の、米国への隷属・盲従は、ますます強まっているように思えます。戦争が終わった時、平和のありがたさを皆で痛感したはずなのに、今また軍隊を保持し、軍事力を使う普通の国、凡庸で志のない国に日本はされようとしています。そして「集団的自衛権」という耳障りのいい言葉で推し進められようとしているのは、日本の若者に米軍の隊列と足並みをそろえて、軍事行動をさせることではないでしょうか。

 軍事力によって物事が解決されないことは、もはや明白だと思います。米軍のイラク侵攻以来、イラクの人たちの生活は、徹底的に破壊されました。犠牲者は、数万人とも数十万人とも言われ、誰にも正確な数は分かりません。昨年はここ文化センター大ホールで子供たちを含むたくさんの犠牲者の悲惨な映像を見て、胸が傷みました。世界最強を誇る米軍の側でも死者は三千数百人にのぼります。命は落とさなくても、恐ろしい体験や罪のない市民を殺してしまった罪悪感から深刻なPTSDを患う兵士も多いと聞いています。さらにまた、「テロとの戦い」は憎しみを喚起し、かえってテロリストを増殖させています。アメリカ本国でもテロにおびえ、疑心暗鬼で市民の監視を強め、生活が息苦しいものになっています。

 軍事力が役に立たないことが最早明白である以上、それ以外の方法を模索せねばなりません。そういう誓いを、日本はすでに60年も前に立てたのに、これまで一度も真剣にその努力をしたことがなかったのではないでしょうか。

 戦争という過ちが、再び現実となる可能性が高まりつつある今、戦争の犠牲となった皆様方の痛み、苦しみ、無念さ、悔しさを思い起こし、二度と過ちは繰り返さないという誓いを申し上げて、慰霊の言葉と致します。

2007年05月28日 曽我逸郎

本来最も嫌戦的であるべき戦争犠牲者の多くが、しばしば逆の勢力に取り込まれてきたのは、不戦勢力の不手際ではなかろうか?
 松岡農水大臣死亡の報には驚いた。いろいろあるけれども、ともあれご冥福を祈りたい。たくさんの執着が渦巻きあい苦を生み出している。執着のまま縁に反応する凡夫は、時として非常に哀れで悲しい。今は狡猾に処しているつもりの人も、実は苦を引き寄せている。

2007年5月20日1069726
 昨日の信濃毎日新聞、2面。集団的自衛権有識者会議に関する報道。
 「集団的自衛権を行使できるようにすることを"悲願"とする安倍信三首相の陰で、会議設置を主導したのは日米同盟強化を最優先する外務省だった。」
 Shame!
 戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を放棄し、戦力を保持せず、交戦権を認めないと憲法に定めたのだから、それらに代わるものは、外交努力しかないはずだ。集団的自衛権だ、軍隊だ、と騒がれるのは、外務省が責務を果たしていない証拠だ。軍事力に頼らずに国の安全を守り、国際平和を希求する努力に、外務省は一度でも取り組んだことがあるのだろうか。
 自分達は仕事をせず、自衛隊の若者を戦場に立たせようとしている。そして、晩餐会でワイングラスを片手に「日本も boots on the ground しております」と胸を張ることが仕事だと思っているのか。人の命で格好つけるな。
 外務省の職員はすべからくPKOの最前線で1年間パトロールすると定めてはどうか。

2007年4月17日1067824
 長崎市の伊藤一長市長が撃たれた。直接お目にかかったことはないが、長崎市は、日本非核宣言自治体協議会の中心として非核平和運動を牽引して下さっていた。
 国民保護計画の策定を各自治体は義務付けられていたのだが、長崎市は、被爆自治体という歴史にこだわって計画を制定し、それをそれぞれの非核平和宣言自治体に送って下さった。中川村も宣言自治体のひとつとして参考にさせて頂いた。その冒頭部分は、つい昨日、村のホームページに掲出したばかりだ。
 今回の事件の背景はまだ分からないし、どういう背景であれ決して許されないことだが、特にもし非核平和運動を封殺しようとする意図であるならば、絶対に負けるわけにはいかない。
 なんとか回復なさることを祈る。

2007年4月12日1067526
 民主主義は、民(=凡夫)に判断を委ねるものである以上、その判断は執着に引き摺られがちだ。執着を操って世論を特定の方向に導こうとするプロパガンダは後を絶たない。権力は、民の執着につけ入り、民主主義を手続きだけを整えた形式的なものにしようとする。それでも民主主義に勝るシステムはない。民主主義を実効あるものとして維持するためには、我々民が不断に学び考える必要がある。加えて、勇気付けあうことも必要だ。今更言うまでもない。しかし、今日以降このことはますます重要になる。

2007年3月18日1064677
 慰安所で毎日何人もの相手をさせられた女性は、「日本の特攻隊員達は、痩せていてかわいそうだった」と言っていた。翌日、少年兵達は死ぬために出撃し、それが連日繰り返されたのだ。なんと愚かで、なんと悲惨なことか。一昨日は、村の中学の卒業式だった。さほど年の変らない少年・少女にそんなことをさせていた。少年兵を慰安所に連れて行き、少女達をあてがい、出撃させた上官たちは、それで慈愛深いつもりだったのだろうか? 私達は、何を思い、何を言うべきか?

2006年12月16日1060282
 世界と連携しつつ地域医療を実践しておられる南相木村のドクター色平先先から、メールを頂戴した。人材不足を補うため、フィリピン他から看護士・医師を日本へ呼び寄せようとすることに対して…
 「ただでさえ現地の人たちは、医療サービスを受けられない状況にある。日本の比ではない。そこからさらに、金の力で医師や看護士を剥ぎ取ってくるのは如何なものか。現地の人々が苦労して育てた医療スタッフであるのに。」

 「更新情報」や「時事的なコメント」で"プルトニウム・ビット"と書いてきたのは、正しくは"プルトニウム・ピット"(pit) でした。原文も訂正しました。すみません。

 よく考えることをせず、執着に引き摺られるまま、人は大きな苦を作る準備を積み重ねていく。時節柄いろいろと書きたいことはあるが、今回の更新はこれのみです。

2006年12月9日1059845
 【 ミサイル防衛 米、憲法解釈変更迫る
   国防副次官 日本側へ強い不満 】(信濃毎日新聞、12/7)
 「米国のローレンス国防副次官が、政府の憲法解釈で禁じられている集団的自衛権の行使とミサイル防衛(MD)をめぐり、「ミサイルが米国に向かうことが明らかで、日本がそれを撃ち落せるのに落とさないのはクレージーだ。そんなものは日米同盟ではない」と日本側に強い不満を伝え、暗に憲法解釈の変更を迫っていたことが六日、分かった。
 先に日米審議官級協議のため来日したローレンス副次官と会談した自民党防衛政策検討小委員会の石破茂委員長(元防衛庁長官)が六日の同委員会で明らかにした。
 米国向けのミサイル防衛をめぐっては、シーファー駐日米大使も十月下旬に「解決されなければならない重要な課題だ」として日本での議論の進展を促している。
 日本政府は、ミサイル防衛導入を閣議決定した2003年十二月、当時の福田康夫官房長官が「第三国の防衛に用いることはない」との談話を発表。しかし、安倍晋三首相は「米国に向かうかもしれないミサイルを撃ち落すことができないのかどうかも研究しなければならない」と同談話の見直しを検討することを示唆している。
 これに対し、久間章生防衛庁長官が技術的に迎撃は不可能と指摘するなど、政府内でも足並みが乱れている。」
 ・・・やっぱり撃ち落せるのか? どちらにせよ悪い想像が当たっていないことを祈りたい。

 バグダッドの現況をレポートしてくれているブログ"Baghdad Burning"の更新が、長らく停止している。オーナーのriverbendさんの身に何も起こってなければいいのだが…。

2006年11月26日1059084
 自然さんと意見交換。
 現状のミサイル防衛構想では、米国へのミサイルは撃ち落せないそうだ。では、安心していいのだろうか? いや、それでも猜疑心の強い私としては、今回の一連の発言はMDをそういうレベルまで強化するための布石ではないか、と疑ってしまうのだが・・。

2006年11月15日1058346
 今朝の朝刊(信毎)、一面トップの見出し。
 「米へのミサイル 迎撃も。首相、研究必要と主張。米紙インタビュー」。
 2004,4,10,のコメント。

2006年10月22日1056805
 10月14日、高遠菜穂子さんのイラク報告会が、中川村文化センター大ホールで開催された。(「九条の会中川」主催。中川村教育委員会後援)
 人はここまで残虐になれるものかという、目を覆いたくなるようなイラクの惨状がほとんどだったが、一方で、生活のリズムを再構築することが良き縁となって子どもたちが立ち直っていく姿など、希望のかすかな芽生えも報告された。
 私としては、イラクの現状もさることながら、日本でのバッシングについても話を聞きたかった。自分達の色に染まらぬ者を暴力的に排除しようとする動きであり、日本で迫る危険だと感じるからだ。残念ながら、高遠さんはひどくお疲れで、質問をする機会がなかったのだが、考えてみれば、バッシングの後、イラク支援を再開し、日本でもこうして精力的にイラクの現状の報告会を開いておられることが、バッシングに対する高遠さんの回答なのだろうと思う。
 米軍やイラク内務省筋によるというむごたらしい遺体の映像を見せながら(同様の映像は、http://www6.ocn.ne.jp/%7Eboogie/RAI_TV.htmで提供されているテレビ番組の9′から11′あたりで見ることができる。)、高遠さんは「これはイラクの日常であるにもかかわらず、マスメディアは報じようとしない」と憤っておられた。
 先日NHKのニュースで、「アメリカ軍へのテロ攻撃の続くイラクで」と、内容とは関係のない形容をつけているのに気づいた。配信された元々のニュースにあった形容か? それとも日本で誰かが加えたのか? 誰かが意図を持って差し挟んだのか? ライターに染み付いた意識が自然に表出したのか? いずれにせよ、こういうさりげない言葉で、我々の印象は導かれていく。気をつけなければならない。
 夜、風呂の中で考えた。高遠さんは、「テレビを中心とするマスメディアはイラクの日常的実態を伝えない」と批判しておられる。一方、先日講演してくださった綿井さんは、「ほとんどのメディアが同じ考えの人たちだけの蛸壺と化している中、唯一テレビだけに壁を越えて広がれる可能性がある」と言っておられた。一見対立する主張のようだが、二人とも、思いをどう伝えられるか、最前線で苦闘しておられるのだと思う。多様な考えを深く伝えるようなテレビにすること。あるいは、他の蛸壺メディアで壁を越えて広く読まれる工夫をすること。そのためには、情報の受け手である我々が学習し、よく考えること。これらは鶏と卵だけれど、ともかく、そういう努力の継続が必要なのだと思う。当たり前のことだが・・・。

 中川村のホームページに、北朝鮮の核実験に対する短いコメントを掲出。我々は、怯えと怒りの自動的反応で苦を作ってしまうのが常だが、その反応をうまく利用して得をしようとする連中がいる。はめられないように冷静に気をつけねばならない。

2006年8月12日1052013
 ヒズボラもイスラエルもどうか冷静になって欲しい。皆凡夫なのだから、憎しみの拡大再生産に陥るのは分かる。しかし、幼稚園児でも、不良中学生でも、暴力団でもないではないか。特にイスラエル。力のあるものには、その分だけ責任は重い。どういう責任か。自分が凡夫であり、気をつけないと執着の反応となって、苦を作ってしまうという自覚だ。力のあるものは、その影響力の大きさゆえに、力に比例して、凡夫であることを肝に銘ずる責務がある。今、最も力があるのは米国か。ジョージ・ブッシュの顔を思い浮かべると、暗澹たる思いになる。
 今月、村で、映画「Little Birds〜イラク戦火の家族たち」の上映会が開かれる。監督というよりフリージャーナリストの綿井健陽氏も来て下さるのだが、現在レバノン南部を取材中との事で、無事の帰国を祈りたい。帰ってこれる状況なのだろうか?http://blog.so-net.ne.jp/watai/

2006年8月5日1051610
 先日、松本市の護国神社で催されたとある戦没者慰霊祭に出席した。

 式典が始まって、君が代斉唱があり、殊更に熱を込めて歌う声があり、その時は「場違いなところに来てしまったかな」と思ったが、要らぬ心配だった。4人ほどの方の祭文や挨拶があったが、その内3人の方は平和や不戦の誓いを述べられたし、どんな形であれ戦争を肯定する発言は4人の言葉のどこにもなかった。

 これまで私は、遺族の方々の集まりというと、先の戦争に対して「しかたがなかった、国を守る戦争だった、立派に戦った」と妥協的であり、また同じような状況になれば、再び戦争をすべき、と考えているのだろうと、あさはかにも単純に想像していた。
 しかし、勿論事はそう単純ではない。それぞれの人に、微妙な思いがある。
 反戦護憲派の単純乱暴な主張は、本来最も嫌戦的である筈の遺族の方々を屈折した立場に追い込んできたのではないだろうか。

 先の戦争は、今でも化膿したまま塞がっていない傷のようだ。へばりついたガーゼをピンセットで一枚一枚そっと剥がし、砂粒を取り除き、慎重に丁寧に処置しなければならない。乱暴な対応はかえって傷を長引かせる。

 慎重丁寧とは言えないが、今の私の考えを書いてみる。批判を頂いて慎重丁寧なものにしていきたいと思う。

・・・
 私は、A級戦犯分祀には反対である。
 A級戦犯分祀論の背景には、「A級戦犯にだけ戦争責任があり、その他の一般庶民は被害者だ」という考えがある。首相の靖国神社参拝に反対する中国も、「A級戦犯を神として参拝するのはけしからん」と言っているのであり、同じ考えであろう。
 しかし、庶民だって万歳万歳と提灯行列をして戦争を推進したのだ。そうでない人でも、戦争に反対しなかったという罪がある。そのことを正しく自覚しなければ、今後また再びどこかの国に対して「あの国はけしからん。やっつけろ」「そうだ、そうだ」という集団的短絡的憎悪反応が沸き起こる恐れがある。
 勿論、戦争責任において、庶民も指導者も等しいといっているわけではない。そのときの立場役職、行動によって、責任の軽重と被害者である度合いは大きく異なる。例えば、原爆や空襲で亡くなった幼子には、なんの責任もない。100%被害者だ。ただし、これは例外的だと思う。一方、国や軍の責任ある立場にいた者には重い罪がある。しかし、A級戦犯とて、なにがしかは被害者的要素もあろう。つまり、戦争においては、誰もが被害者であり、罪人だということである。
 A級戦犯分祀は、罪人でもある我々自身の反省を消失させる。A級戦犯を攻撃することよりも、我々の内から時として沸き起こる戦争志向の傾向、それは執着による自動的反応であるのだが、それを警戒することを我々は学習せねばならない。

 「東京裁判は、戦勝国が好き勝手に裁いたにすぎず、無効だ」という主張がある。もっともな主張だ。しかし、そう主張するなら、戦争の責任と罪の要は本当は誰にあるのか、真の戦争犯罪者は誰か、なぜあのような事態に至ったのか、記録・文書などを詳細に分析し明らかにしなければならない。自らそれをなしえず、「やむにやまれず始めた仕方のない戦争だった」などといつまでも責任をあいまい化し、自己正当化の言い訳を続けるなら、また再び「やむにやまれぬ戦争」に若者を「詮方なく」「愛すべき国と郷土」を守るため送り出すことになる。

 一部には、日本を敗戦国にした責任を問題にする人もいる。では、勝てばよかったのか? そうではない。勝っても負けても、戦争をしたことに責任と罪がある。
 「では、なぜ日本だけが罪を問われねばならないのか?」 そう反論する人がいるだろう。そのとおり、戦勝国にも罪と責任がある。広島・長崎が無差別殺戮の犯罪でなくてなんであろうか。
 戦争は悪であり犯罪である。いかなる美名のスローガンの下であれ…。「大東亜新秩序建設」であれ、「植民地支配の打倒」であれ、「テロとの戦い」であれ、そのことは変わらない。
 すべての戦争のすべての罪を指弾しなければならない。しかし、そのためにはまず自らの罪をきちんと追及する必要がある。その上ですべての戦争のすべての罪を等しく指弾できる国が現れたら、その国は世界史に大きな足跡を残すだろう。

 靖国神社の問題に戻ろう。

 思考実験的な提案がある。分祀ではなく、いっそ逆にもっと合祀すべきではないか? 誰を? 新撰組も彰義隊も。東京大空襲や広島・長崎の原爆の非戦闘員犠牲者も。連合軍兵士も。731部隊に実験台にされた中国人犠牲者も。日本へ強制連行されて強制労働の犠牲になった朝鮮人犠牲者も。9.11ニューヨークテロの犠牲者も、突っ込んだハイジャック犯も。フセインにマスタードガスで殺された人々も。クラスター爆弾による空爆で殺された子供たちも。ザルカウィも。ダルフール紛争犠牲者も。

 誰もが戦争の犠牲者であり愚かな罪人でもある。愚かさゆえに罪を犯し犠牲となった人々を哀れみ、同時に我々自身が同じ間違いをしでかさないよう肝に銘ずる場所に、靖国神社はなることができないか。

 外国人が靖国神社に祀られることを望まないからあり得ない? しかし、現実に靖国神社は朝鮮の人や台湾の人を神にしているし、戦死者本人の意向など気にかけず、遺族の反対も無視して神として祀っている。つまり、靖国神社がその気になれば誰でも神にできる、ということではないか。

 また、遺族の方々には、いろいろな考えの方がおられようが、よく話し合えば理解し、賛成してくれる人も多いのではないかと思う。敵を憎んでおられるわけではない。戦死した親族が忘れられずに真心から追悼されることを望んでおられるだけであって、あらゆる戦争犠牲者を悼み平和を求めておられる点は共通だと思う。

 この思考実験の結果見えてくることは、結局、問題はやはり靖国神社自身だ。すべての戦争犠牲者ではなく、天皇のために死んだ兵士だけを祀り、天皇のために死ぬことを称える目的で造られ、見事にその機能を果てしてきた靖国神社が、一朝一夕にその目的を変えるとは思えない。
 それに、戦死者を神と位置づけるが故に、戦死者をすべてまったき善人とせざるを得ない。普通の人(執着の反応である弱い凡夫)が戦争という異常で苛烈な縁の中に放り込まれているのだから、美談も少しはあろうが、罪・悪行の反応もおびただしいのは当然だ。それは仕方のないことだ(だから戦争をしてはいけない)。にもかかわらず、戦死者を神とする靖国神社は、「天皇の兵士は完璧な紳士・善人ばかりだった」と主張せざるを得ない。その結果、「あの戦争は、止むに止まれず、仕方なく戦った戦争だった」と言い募ることになり、何一つ反省はなされない。そして、いつかまた「けしからん、やっつけろ」と戦争へ向かうことになる。

 靖国神社問題をどうするかよりも、今の我々自身の反省の方が重要だ。我々は執着の反応であり、いともたやすく怒りや憎しみの反応となる。時として、集団的反応となり、攻撃・破壊を志向する。そういう傾向を内に宿していることを自覚し、常に気をつけていなければならない。そういった自覚をミームとして日本に広げることができれば、天皇のために戦う兵士を徴集することを容易にするという靖国神社の機能も、意味を失っていくだろう。さらに、わずかでも世界に広げることができれば、その分だけ世界の苦は少なくすることができる。迂遠な道だが、地道に努力する他ないと思う。

2006年7月23日1050612
 今回の水害で何人かの方からご心配のメールを頂いた。お陰さまで、中川村内では人命や人家への被害は、今のところ出ていない。農地や道路など被害の詳細は、村のサイトにある。長野県内を初め、亡くなられた方々のご冥福を祈り、被害に遭われた皆さんにお悔やみを申し上げる。雨はまだ続くようだ。引き続き警戒せねばならない。

・・・・・
 靖国神社に昭和天皇が参拝しなくなった理由は、A級戦犯合祀であった、と報じられている。それに対して小泉首相はインタビューで、「それぞれの人の思いだ」と答えた。まさにそのとおり、この点に関しては小泉首相は正しい。昭和天皇であれ誰であれ、個人の考えは個人の考えだ。一個人の意見として、尊重して耳を傾けられるべきだが、そのことだけで事が決められるべきではない。
 私たちは、単純に自動的感情的反応をするのではなく、冷静に情報を集め、よく考えねばならない。ひとつ、あまり報道されていない情報がある。1年ほど前、確かNHKの衛星(デジタル?)チャンネルで深夜に放送されたドキュメンタリーだ。紹介し損ねていたのを思い出した。

 靖国神社A級戦犯合祀のロビー活動を強力に展開したのは、当時巣鴨プリズンに捕らえられ、公職を追放されていた戦犯たちだったという。どういうわけかかなり自由に巣鴨を出入りし、高級料亭に厚生省官僚を呼びつけ、圧力をかけた。その目的は、死刑となったA級戦犯が「神」とされて戦争犯罪がうやむやになれば、自分たちの公職復帰も実現できるというもの。彼らは見事に目的を達成し、その後国会議員になった者もいるという。
 この公職追放戦犯たちによるロビー活動だけでA級戦犯が合祀されたのではないのかもしれないが、こうした打算的活動も裏にあったのなら、広く認識されるべきだと思う。

 ただし、私は、A級戦犯合祀が靖国神社の問題点の本質ではないと思う。そう捉えると問題を矮小化する。靖国神社の一番の問題は、戦争と戦争で死ぬことを美化し、今後あるかもしれない戦争に国民が積極的に参加するように下ごしらえをしている点だ。そもそも靖国神社は、明治の近代化の中で国民皆兵の必要からそういう目的のために作られたし、歴史上もそういう役割を果たしてきた。遊就館の展示を見れば明らかだ。華々しく見事に散った英雄たち。見習うべき愛国の犠牲精神。一方、例えば、長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れると、亡くなった画学生たちが戦争の犠牲にならなかったら、どんな活躍をし、どんな作品を残しただろうかと、残念で悲しい思いになる。両者の方向はまったく異なる。遊就館の展示は、ステレオタイプで痛々しい。戦争で亡くなった方々には向いておらず、これから国のために死ぬことを期待されている今の世代に向けられている。

 A級戦犯合祀に話を戻せば、そのことに議論が集中すると、A級戦犯にだけ戦争責任がありその他の日本人は全員被害者だ、という発想に陥りかねない。既に何度もコメントした。TBSの「名作」ドラマ「私は貝になりたい」の問題点である。自分を被害者であると位置づけ、いつまでも自分の責任を認識せず、貝になって引きこもるなら、何も変わらない。村長やら学校の先生やら僧侶やら、近所のおじさんおばさん、みんなして日の丸を振り、万歳!万歳!と戦場へ送り出し、そういう価値観を共有できない人を「非国民」と非難したのだ。我々は、自動的反応を制し、よく目を配り、よく考え、おかしな兆候には初期の段階で "No!" と声を上げなければ、また再び、自分たちも、どこかの女性・子供・大衆も、ひどい目に遭わすことになる。

 額賀防衛庁長官、麻生外相、安倍官房長官らが、北朝鮮のテポドンはったり外交に慌てて、基地攻撃能力に言及、それへの中国・韓国の反応に更に慌てふためき、言い訳とトーンダウンに懸命になった。
 今極東で起こっていることについて、北朝鮮は脇役でしかない。日本もまたしかり。両方とも、米国と中国の今後の長期的対立という大きなうねりの中の小舟に過ぎない。北朝鮮は、その対立の構図の中で、なんとか有利に立ち回ろうと足掻いている。しかし、日本は、大きな盤面は見えておらず、近視眼的に本当に北朝鮮しか見ていないのかもしれない。
 米国のミサイル防衛構想に乗るということは、米国の対中国軍事戦略の最前線基地となることを決心した上のことであり、その中で北朝鮮のことばかり騒ぐのは、国民向けの世論操作だと思っていたが、今回の発言での慌てぶりを見ていると、大きな構図は本当に忘れていたように思える。(2004年4月10日の更新情報参照)
 我々のすべての行いは、身口意例外なく縁となり、さまざまな結果を引き起こす。責任ある立場の人は、あらゆる波及効果を計算して、慎重に行動・発言するよう努力してくれなければ困る。あらゆる言動がメッセージとなり、外国政府に、国民に、様々な反応を引き起こすのだから。

 国連安保理の非難決議を北朝鮮国連大使は、「決議は(北)朝鮮を孤立させ圧力をかけるという見下げ果てた目的がある」とただちに拒否、北朝鮮外務省も、「米国の対朝鮮敵視政策の産物である『決議』を強く糾弾して全面的に排撃し、いささかも拘束されない。米国の極端な敵対行為によって最悪の情勢が到来している状況のもとで、あらゆる手段と方法を尽くして自衛的戦争抑止力を強化していく」と主張した。
 北朝鮮のこの反応を聞いたとき、戦争を始めた頃の日本とそっくりだと感じた。遊就館でも「大東亜戦争は、欧米列強の干渉・経済封鎖によって追い詰められた日本が、自衛のためにしかたなくやむにやまれず始めさせられた戦争です」と主張していた。当時の日本と今の北朝鮮は、よく似ていると思う。

 北朝鮮が、ハッタリのかけひきのつもりであげた手を、追い込まれて面子上おろせなくなって、「やむにやまれず」自暴自棄の暴走をするようなことにならないよう、十分な情報収集と分析に基づく、慎重で明快なメッセージの発信を望む。

・・・・・
 中川文化センター・中川村図書館は、平和企画として 8月26日(土) ドキュメンタリー映画「Little Birds −イラク戦火の家族たち」上映会を開催します。現在レバノン取材中の綿井健陽監督も来て下さる予定です。詳細は、http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/events/little_birds/
 開場準備の都合上、また当日満席の可能性もありますので、事前に中川村図書館 TEL 0265-88-1005に電話予約ください。

2006年7月6日1049328
 北朝鮮のミサイル発射で、たくさんの専門家がメディアで実に様々な深読みをしている。それを見ていて、ミサイルとは、武器というよりも、メッセージ・ツールだとあらためて思った。数発のミサイルで、どれだけ多くのことを世界中に発信できたか。広告費に換算すると一体いくらになるのか。
 北朝鮮が、宣伝効果ではなく、もし本気で攻撃・破壊を目指すなら、もっとダイレクトで確実な方法があるだろう。そちらを恐れて騒ぎ立てないのなら、ミサイルばかりを恐れても意味がない。
 今回の発射が、対外的なメッセージか、国内向けの宣伝か、それとも他に理由があるのか、まさかこのミサイル発射で利益を得る連中と裏取引があるのではないだろうし、手持ちのカードではこういうブラフしか手がないのは分かるが、ともかく武力をちらつかせるハッタリはいい加減にやめて欲しい。おかげで、日本の国民に反射的感情的自己防衛という執着の反応が拡大し、それに便乗して馬鹿げた税金の使い方がされるのではないだろうか。一方では「尊重されるべき伝統と文化をはぐくんできた愛されるべき郷土」を保持するための予算は削られようとし、福祉の領域でも本人負担が増やされているというのに。

2006年6月26日1048651
 北朝鮮のテポドンはったり外交は、ミサイル防衛構想にかかわる人々を喜ばせていることだろうと想像する。

2006年6月4日1044801
 一昨日の新聞によると、日本国政府は、インドネシアに巡視船艇3隻を供与することを決め、その巡視船艇は、防弾ガラスを装着し厚い装甲であるから「武器」に当たる、と認定した。ODAにより外国に武器を供与する初のケースとなるそうだ。
 巡視船を供与すること自体はさて置き、問題は、それを敢えて「武器」と認定したことだ。MDに続いて、さりげなく前例を作り、武器輸出三原則をなし崩しにして人を殺すための道具を売れるようにしていこうとする姑息な布石ではないのか。
 「愛せよ」と命ずる前に、尊敬され愛される国になる努力が先だ。

2006年4月27日1042379
 最近、特に外交に関して、憎しみや怒り(執着の自動的反応)をあおるようなマスコミ報道が目立っていると感じる。誰かの、あるいはどこかの団体の意を受けているのか、それとも報道にかかわる人の憎しみや怒りが発露しているのだろうか。それは分からないが、しかし、少なくとも、表面的な政治の動きより、マスコミのほうが先走っていると感じる。ひょっとすると、憎しみや怒りを煽り立てたほうが大衆受けすると計算して、迎合しているのだろうか。
 お願いだから、マスコミは、かつての反省を忘れず、扇動ではなく、冷静な分析を伝えて欲しい。
 憎しみや怒りを煽っている点については、確かにどの国も五十歩百歩、お互い様の面はある。どちらが先に大衆扇動を止め、冷静に合理的な合意点を模索する態度に変われるか、そこに国の、すなわち国民の品格が問われていると思う。
 「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し、またさらに、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思い、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」した日本国の国民の一人として、日本国が先であることを切に願う。

2006年4月1日1040454
 このところ「愛国」的な傾向が強まっているように感じる。それがピュアなものならいいことだが、大抵その裏に他国への反感・蔑視を含んでいるように感じてならない。相手となる国は、場合ごとに入れ替わっているようだが、ともあれ「愛国心」と他国への反感・蔑視とが、蘆の束のように支え合い強め合って、いつか思いがけない方向へ暴走することはないか心配になる。今の「愛国心」は執着心の変形した発露だと思う。

 それとは関係ないが、前回の更新情報に若干の追記をしたい。
 ブッシュ政権とそこに群れ集う人々の欲望・執着が、殊更に大きいと思っている訳ではない。彼らとて凡夫、世の凡夫は皆、大差のない欲望・執着を持っている。しかし、権力を持ち、巨大な影響力を持つ者には、その自覚が必要だ。権力と影響力を反省なく欲望・執着のままに使う者は、批判されねばならない。

2006年3月5日1037765
 核拡散問題について、イランとインドに対する米国のご都合主義的な対応に抗議する。

 【ワシントン2日共同】米国の核兵器開発・管理を所管する核安全保障局(NNSA)のブルックス局長は一日、下院軍事小委員会で証言し、核爆発を引き起こす核兵器の中枢部分「プルトニウム・ピット(塊)」の生産について、今後6年間で年間30〜40個の生産体制を確立する方針を示した。
 また証言後、記者団に対し、NNSAが現在進める新型核研究「信頼性のある代替核弾頭(RRW)計画」の結果次第では、新型ピットを量産する生産工場の新設を再検討する考えも表明した。
 米国は1990年代末、89年から行っていなかったピット生産の再開に乗りだし、ブッシュ政権下の2002年に試作品が完成した。今回の証言で中長期的なピットの増産方針が明らかになった。
 #プルトニウム・ピット 核融合や核分裂を利用する核兵器の核爆発を引き起こす球状の塊(ピット)で、最も重要な部品のひとつ。… 米エネルギー省は、環境汚染が問題化したため1989年にピット製造を中止。ブッシュ政権は2002年、ピット生産再開のための新工場建設計画を発表、試作品となるピットを製造した。同省の建設計画草案は20年までに年間450個の生産体制を目指すとしており、核増産につながるとの批判を受け、議会も予算計上に抵抗。同省は07会計年度予算案での関連予算請求を見送っていた。

 今、世界を覆う苦のかなりの部分が、米国ブッシュ政権とそこに群れ集う人々の欲望・執着によって生み出されていると思う。

2006年2月5日1034378
 プライベートやら仕事やらでこのところ少し立て込んでいる。掲載した以外にもいくつかメールを頂戴しているのだけれど、返事をお出しできていない方もおられる。申し訳ありません。
 仕事のひとつは来年度予算の編成で、中川村の予算規模はおよそ30億円なのだけれど、予想される支出を積み上げると2億円以上の赤字になる。各課の物品購入などをひとつひとつ見直し、千円、二千円を削り、建物の補修を先延ばししたりして、現時点ようやく1億円強の差にまで縮小してきた。良い村づくりのために、例えば、少子化対策として子供の医療費無料化の拡大など、前向きなことにももっと取り組みたいのだけれど、国からの交付税がいくらになるのか不透明で、リスクのある予算組みはできない。交付税の見込みがもっと正確に読めるようになれば、無駄なく計画的に進められるのだが、、。

2005年11月5日 「私は貝になりたくない」1025138
 原子力空母の母港だとか、自衛軍の保持だとか、日米共同交戦だとか、そんなニュースが急に増えた。

 自民党新憲法草案前文では、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」と謳われ、第九条の二は、「わが国の平和と独立ならびに国及び国民の安全を確保するため・・・自衛軍を保持する。」とある。

 しかし、本当のところ、「支え守られ、確保されようとしているもの」(以下Xとする)は何なのだろうか? 国民であろうか? そう思いたいが、本当にそうか?

 かつての日本においては、Xは「国体」であって、民ではなかった。民は一億玉砕しても「国体」は護持されるべきものであった。現実に、兵士は命を抛ち、満州でも沖縄でも、「臣民」は見捨てられてきた。

 では、今の日本では、何がXか?

 防衛庁作成のミサイル防衛運用構想では、防衛上の「最重要対象」として首相官邸、皇居、国会、中央省庁などを定め、「重要対象」に七大都市圏、原発、在日米軍司令部、自衛隊司令部などを指定しているそうだ。だとすれば、とりあえずは、これらがXということになろう。そして、そうでない地域に住む人々は、必然的にそれらほど重要ではないということになる。それらを守る「責務」はあるのだが、、。

 「いや違う。これらは国民全体を守るために必要なのであって、これらによって国民全体が守られるのだ。」そんな反論が聞こえてくる。つまり「国民全体」がXであるという主張だ。

 飛躍していると言われるかもしれないが、米国を考えてみよう。先のハリケーン災害の対応を見ると、米国政府にとって、貧しい市民は、イラクの人々と同じように、実はどうでもよい存在なのではないか? そして、イラク戦争最前線で2000人を超える戦死者を出している米軍兵士も、貧しい人たちだ。つまり米国政府にとって、市民、少なくとも貧しい市民(=「負け組」)は、Xではない。

 では、日本でもし現実にことが起こったら、ことの火中に残された国民はどうなるのだろう? 必要となれば、上記の重要防衛対象を守るために、戦略的判断によって見捨てられるのではないだろうか? かつての満蒙開拓団や沖縄のように。

 「国民全体」を守るために、火中の国民を、「一部に過ぎない」と切り捨てる。部分を切り捨てて守るべき全体とは何か? それは、空疎な惹句、あるいは幻想に過ぎないのではないか?

 冒頭に引いたとおり、自民党新憲法草案前文には「日本国民にはXを守る責務がある」と主張されている。踏み込んで言い換えれば、「Xのために国民は犠牲を厭うな」ということだ。そして現実に、沖縄の米軍基地問題では、Xのために、住民は我慢を強要されようとしている。
 「Xのためだから、沖縄の人は我慢すればいいじゃないの・・」
 無邪気にそう言う人も、いつかXのための犠牲になる時がくるかもしれない。その時になって後悔しても遅い。

 アブグレイブ刑務所虐待拷問事件で罪を問われている女性兵士も、軽率ではあったが、犠牲者だと思う。彼女がドラマ「私は貝になりたい」を見たら、おそらく共感するのではないか。

 彼女の誤りは、おだてられて、弱い立場の人を攻め、自分が「勝ち組の側にいる」とはしゃいだことだ。
 そして、近頃の日本には、同じように軽率に、攻められている人を尻馬に乗って苛め、「勝ち組」の快感を味わおうとする風潮があるように感じる。しかし、本人は「勝ち組」の気分でも、より「勝ち組」から見れば、実はどうでもよい存在なのだ。自分では「勝ち組」のつもりでも、守られるべきXの側ではなく、Xのために犠牲にされる側の存在かもしれない。日本国とて、グローバル・ゲームの「勝ち組」にとっては、利用価値がなくなれば、どうでもよい存在であろう。

 「では現実にことが起こったらどうするのか。お前の言うことは平和ボケだ!」
 しかし、「いつ攻められるか分からないから、しっかりと軍(武器)を備えておく」というのは、やくざの組事務所の論理ではないか。武器を用意して身構えているのは、結局のところ、安全を高めるどころか、疑心暗鬼を募らせ、かえってことが起こる危険性を高めていると思う。
 そしてことが起こって、やくざの「鉄砲玉」のように捨て駒にされるのは誰か? 美化された言葉に騙されず、冷静に観察してみよう。イラクの米軍を見れば分かる。戦争とは、「負け組」を戦わせて「勝ち組」の利権を守ろうとすることだ。

 前にも書いたように、筋の通った正しい論理、情報を収集し分析する力、それらに裏打ちされた現実の行動、外交力、国際世論を味方にする広報力、それらによって日本は、世界の枠組みに新たな力を持ち込み、富の偏在の少ない世界の実現を目指し、自らと「全世界の国民がひとしく有する、恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存する権利」を守り、世界に貢献すべきだと思う。他に道はない。
 簡単なことでないことは分かっている。知恵と工夫を総動員して、必死で取り組まねば実現できない。だが、その理想にむけて努力をすると誓ったのではないのか?
 それなのに、なにもしないまま、「どーせ無理さ」と理想を捨てて、最強とおぼしき組事務所の盃をもらおうとしている。そして、いつまでも戦争を続ける「現実論者」の仲間入りをするのだ。

 突き詰めていけば、Xに実体はない。Xは、現実の国民ではなく、シンボル化され妄想され実体視された日本国のアートマンだ。しかし、諸法は無我であり、日本国とて例外ではない。無我である。

 自民党新憲法草案は、ありもしないアートマンに執着する我執の反応だ。アートマンを守ろうとして、人は執着の反応を繰り返し、自分と人とに苦を振り撒きつづける。これが釈尊の教えて下さったことだ。
 軽率に自動的反応のままに執着の反応を続けていれば、いずれ我々もまた「私は貝になりたい」と悔やむ破目に陥る。
 それを避けるためには、よく観察し、よく考え、発言すべきときに発言すべきことを恐れずに発言し、批判しあい、耳を傾けあっていかねばならないと思う。

2005年1月30日
 テレビでイラクにおける米兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)のドキュメンタリーを見た。自分がやられる恐怖ではなく、子供や武器を持たない一般市民を殺害してしまったことに深く傷ついている兵士も多い。痛ましいことだが、人として当然の反応だと思う。
 驚いたのは、米軍のPTSD対策チームのことだ。PTSDの兵士をなるべく後方に戻さず、前線ですばやくカウンセリングするという。なぜか? 前線にできる限り多くの兵隊を確保しておくためだ。
 「あなたが一般市民を射殺したことは、仕方のないことだ。一般市民にまぎれる武装勢力に対処するには、そうする他はない。あなたのしたことは正しいことだ。」
 前線をよく知っているようには見えないPTSD対策チームの兵士がなだめる。彼 or 彼女にしてみれば、前線の兵士数を確保するという任務に忠実なだけなのだろう。
 しかし、これは、人としての良心を押しつぶす行いだ。ストレスにストレスを塗り重ね、目的のためには人を殺すのも正しいことだと考える人間が造られていくのではないか? 戦争は、実に様々なねじくれた苦を作りだす。

2005年1月27日
 東京都の外国籍管理職昇任拒否が合憲だそうだ。
 少子化だ、高齢化だと騒いでいるのだから、ちゃんとした人で日本に来たいという人がいるなら、頑張りがきちんと報われる形で、どんどん入ってきてもらえばいいと思う。今、日本の伝統文化となっているものも、もとはといえば、ほとんどが外からもたらされたもなのだから。
 まして、今回の鄭さんは、在日韓国人・特別永住者で、仕事の実績もある。一層の処遇が当然だ。
 日本という国は、つくづく人の意欲を削ぐ国だ。能力ある人は海外に逃げ出し、あらゆる夢を摩滅させられた若者は、死を選ぶ。この閉塞感は、皆つながっていると思う。

2005年1月10日
 赤十字はイスラム圏では赤新月だ。ではその並びで「赤日輪」も可能ではないだろうか? 半分冗談で半分本気だ。努力次第で、日の丸のイメージを、赤十字、赤新月につながるポジティブなものにすることもできるのではないかと思う。
 津波の救済活動を見ていると、人を殺し町を破壊する軍隊を持つことは、愚かで恥ずかしいことだと思えてくる。この感覚が、広く共有されていくといいのだけれど、、。
 今朝の新聞によると、アフガニスタンで日本政府が中心となって後押しする「武装・動員解除、元兵士の社会復帰」(DDR)プロジェクトによって、地雷除去と職業訓練を続けてきた異なる軍閥の元兵士たちが、お互いに打ち解けているそうだ。小さな記事なので実態までは分からないけれど、日本政府も素敵なことをしている。

2005年1月8日539267
 津波被害への救援は、各国思った以上に迅速だ。それぞれにいろいろ思惑があってのことだろうが、それでも構わない。どんな思惑であれ、すばやく苦を抜く対応がされるように祈る。
 犠牲になった方には申し訳ないが、今回の津波がせめてよい機会となって、人の苦を助けることの方が、自国の利益にもなるという考えが世界に広がって欲しい。欲を出しても、疑心暗鬼で脅えて戦争の準備をしても、得をするのはそこにつけこんで税金を掠め取って行く連中だけで、国民の利益にはならない。へたをすれば、とてつもない悲惨な苦が待っている。
 パウエル国務長官は「貧困がテロの温床」と言っている。まさにそのとおりだと思う。貧困対策が最善のテロ対策だ。しかし、4日の新聞(信毎)によれば、米国のODAは、GNP比0.13%ほどに過ぎず、先進22カ国中最下位だ。国連総会採択の目標0.7%を達成しているのは、約0.9%のノルウェーを筆頭に、デンマーク、オランダ、ルクセンブルグ、スウェーデンの五カ国のみ。(オックスファムによるまとめ。数字は、紙面の棒グラフを読んだだけなので、誤差があるかも)
 では、日本はどうか? 金を出しているつもりかもしれないが、0.2%程度で、22カ国中19位でしかない。

2004年12月28日
 この度の津波、たいへんな事態だ。伝染病などで、今後犠牲者がもっと拡大するのではないかと心配する。私が個人として出来るのは、僅かなお金を出すくらいのことしかない。今後、同じような事態に効果的救援を迅速に十分な規模で実施できる組織はないか、つくれないか。
 自衛隊ならどうだろう。ワシントンに顔を向けながら、ただブーツをイラクの地面に付けている場合ではない。2003年七夕の更新情報で書いたように、姑息な迷彩色はやめて蛍光オレンジかともかく目立つ色にする。ステルスではなく、緊急活動信号を発しながら活動する。要するに、人を殺す軍ではなく、人を救うレスキュー部隊としてはっきりと見える活動をするのだ。自衛隊ではなく、自他を問わぬ「人」衛隊だ。そして、外務省は、しっかりした広報力を身につける。そのようにして世界の苦を減らし、ファンを作ることのほうが、近隣を仮想敵にして戦争の準備をするよりも、よっぽど安全保障にもなると思うがどうだろう。

2004年12月24日
 今朝の新聞(信濃毎日)に、経済同友会終身幹事の品川正治という方へのインタビューが載っていた。(おそらく共同通信配信)
 経団連などが武器輸出三原則の緩和を目指しているのに対して、こう言っておられる。(順番は少し入れ替えた。)
 「軍需産業と組むところが技術の先進地帯ということになると、独立法人となった国立大学も含めてあらゆる研究機関は、そちらに近づいていく。それは、軍産複合体の流れに乗ることだ」「日本は軍産複合体の発想を受け入れないとはっきり発言すべきだ」「リアルポリティックスから言っても、憲法九条は世界の世論の支持を受ける。死守したほうがよい」「経済開発と貧困対策を両輪とした日本型モデルの提示に常に努力」すべきだ。「(今)財界で声が大きな人は、情報技術(IT)や重機、輸送など軍産複合体の中心になるべき人が多」く、「それに属さない経済人は腹の中では、そういう連中に権力を委ねることに釈然としていない。なんのために、われわれは働いてきたのか、という感じがある。本当の意味では多数派だ」
 財界にもちゃんとした意見を持つ方がおられると知って、少しほっとした。そう、いつも様々な考えがあるのだ。しかし、時として、特定の考えのみが勢いを増し、対する意見は発言しにくくなる。だが、そのまま黙っていたら事態はどんどんそちらへ進みかねない。その流れに逆らえなくなって、やむなく荷担しておいて、後から「あの時は仕方がなかったんだ、私も被害者だ、私は貝になりたい」と言うようなことにはなってはならない。苦を増やさせないように、おかしいと思うことに対しては、芽の段階で「おかしいと思う」と発言せねばならないと思う。

2004年12月20日
 国家単位で対象化して捉え、それに対して執着による自動的反応をする傾向が、このところ顕著になっていると思う。勢いのある声と異なる見方を表明すれば、白い目で見られかねない雰囲気を感じる。
 確かに、国の単位で捉えることは、分かりやすい。一部の人々が望んでいることでもある。それは、その人たちにとって好都合だからだ。
 しかし、人々を分ける方法は、それだけではない。例えば、影響力を行使している人と、影響力を被っている人という座標軸も可能だろう。
 P国とQ国の境あたりになにかみんなの役に立つものがあるとすれば、それを利用できるようにするのに一番いいのは、P国とQ国両方の貢献できる点・能力を総合的に検討し、ベストな方法を立案することだ。そして貢献度に応じて利益を配分すればいい。どちらの国民にとっても、それ以外の人にとっても、それが最良の方法だ。
 にもかかわらず、なかなかそうは行かない。何故?
 「我が国の権益」などという言葉に操られ、「我が」の部分に過剰反応して、人々が自動的な「我」執の反応をするからではないだろうか。しかし、実のところ、そこでいう権益とは、国民の、というより、一部のグループ、一部の組織の利権だ。P国の一グループとQ国の一グループの利権争いに、国民は巻き込まれていく。我執の反応を利用されて。
 そして、P国国民とQ国国民は、そこにあるものを争うことに留まらず、さらに互いに憎しみをエスカレートさせ、そこにあるものをはるかに超えたものを犠牲にする。馬鹿げた軍事力への投資だけで終わるならまだいい。それを実際に行使すれば、どれほどの損失か、どれほどの苦の生産か。
 にもかかわらず、それを期待している者達がいる。人々が疑い合い、憎しみ合い、殺し合うほどに利益を得るグループだ。疑い合い憎しみ合い殺し合うことによって苦しみ合う人々が出し合ったお金を、彼らは吸い上げて行く。
 疑い、恐怖、憎悪を煽って、利益を得ようとするグループは、人々の執着心につけ込み、苦を増やすことで、自分の執着心を満たそうとする。
 釈尊の教えを広げねばならないと思う。

2004年11月26日
 24日の更新情報で、ファルージャでの捕虜射殺についていい加減なことを書いてしまった責任上、事の発端になったNBCの報道カメラマン Kevin Sites 氏の Blog(http://www.kevinsites.net/)を読んだ。
 捕虜達の傷の処置は、されていたようだ。氏自身が包帯を見た、とある。ただ、捕虜たちは手錠やロープで繋がれていた訳ではないようで、にもかかわらず前日と同じ状態でいたということは、自分では動けないほどの重傷だったはずだ。それほどの重傷と一目で分かるほどの処置はされていなかったと思われる。また、調査した Lieutenant Colonel(中佐?)によると、捕虜たちは後方へ移送される予定だったが、その地域は、still hot で、先に移されるべきアメリカ人死傷者達もいた、のだそうだ。
 Kevin Sites 氏は、捕虜が射殺されたことについて「極めて明瞭に、何か間違っていると感じた」と言うが、報道の波紋の大きさのせいか、酌量すべき状況についても多くを語っている。それは確かにそうだろう。密度の高い都市ゲリラ戦であろうから、だれもが極限状況にあると思う。
 別の中佐(?)は、今回のファルージャの戦闘の前に「米軍は、gentleman's war を戦っている、しかし、それはとてもむずかしい」といった主旨を語ったそうだ。
 gentleman's war なんて、あり得るのだろうか? 空疎なスローガンだ。それが守れないからといって前線の現場だけが悪いのではない。元々の罪は戦争を決めた連中とその後ろで儲けている連中にある。戦争で人々に甚大な苦を与えて自分の執着を叶えようとすることは、いかにそれが合法であれ、最大の悪である。

2004年11月24日
 アブグレイブ刑務所でひどい虐待をした看守役のアメリカ兵士が、世界中の非難を浴びた。
 今度は、ファルージャで無抵抗の傷ついた捕虜を殺害した兵士がいて、彼も裁判にかけられると聞く。
 (この捕虜たちは、前日の戦闘で負傷し、戦闘不能となり、そのまま放置されていたらしい。「死んだふりをしている!」と射殺した兵士のとっさの行動よりも、傷ついた捕虜達をしかるべき処置もせず置き去りにした前日の部隊の行動の方が、組織的かつ残酷だと私は思う。)
【11、25、訂正】 今朝の新聞に、捕虜たちは手当てを受けていたとも取れる記事があった。前日の部隊が処置をしたか、しなかったか、実のところ私は知らない。上記は憶測に基づくので、取り消します。すみません。

 非難されるべきは、彼等個人だけなのだろうか?
 アメリカの田舎町から思いがけず出征して、やったこともない看取を命ぜられ、「いいぞ、もっとやれ」とはやし立てられ、つい羽目をはずしてしまった。
 見下ろすたくさんの窓のひとつひとつが憎しみの目に思え、ドアを開けるたびにトラップ爆弾に脅えながら、建て込んだ建物をひとつひとつ抜けて行く。
 彼らとて普通の人間、異様な状況に置かれれば、異様な反応をする。

 では、誰が悪いのか。愚かなアメリカ政府が悪い。そのことは何度も書いた。別の罪人に触れたい。それは、アメリカ政府中枢と回転ドアでつながった企業群の幹部たちである。
 アメリカ国民から集めた税金が、戦争遂行のために、彼らに流れる。しかし、実際にアブグレイブやファルージャに彼らが行くことはない。徴兵制のない米国で兵士になるのは、ほとんどが仕事にあぶれた低所得層だ。回転ドア企業のイラクの現場で働いているのも、同様の人たちだろう。(徴兵制のあった頃でさえ、有力者の息子は、形式的に州兵になって、ベトナム行きを逃れたのだから。)
 貧しい人たちは兵隊になって命を危険に晒す。そして、なにかへまをやらかせば、世界中から非難され、国内からもアメリカの恥と攻撃される。一方で、別種の人々は、米兵の命を危険に晒し、イラク人を死なせることによって、国民の税金を我がものにし、さらに戦後の利権をも手に入れる。税金を払って命を危険に晒す人と、快適なオフィスで税金を浴びて暮らす人がいるのだ。

 これは、ひとり米国の話だろうか? 恐怖と憎しみ(執着の自動的反応)を煽り立て、例えばミサイル迎撃システムが必要だと言うが、日本の税金が狙われているだけではないか? 経団連をはじめ日本の財界も、武器輸出を緩和せよと言い始めている。昔から税金を掠め取ろうとする悪人は絶えることがないが、戦争、あるいは戦争の可能性を高めることによって儲けようとする輩は、許してはならないと思う。

2004年10月10日532581
 戦争のできる国、武器を輸出する国。我執に導かれるままに、さらにつまらない国になっていこうとしている。

2004年7月24日
 奥田碩会長の経団連は、武器輸出を禁じている「武器輸出3原則」の見直しを求める提言をしたそうだ。武器を輸出したい、ということなのだろう。
 米国のアーミテージ国務副長官が、憲法9条は日米同盟の妨げだ、と言ったそうだ。戦争によらずに物事を決められる世界を模索することと日米同盟がどうしても両立し得ないというのなら、後者を捨てるしかない。
 日本が国連安保理常任理事国になれない理由も、軍事力を展開しないからではない。そんなことをすれば、米国に2票渡すのと同じだからだ。独自の視点、独自の考えで、あるべき世界の実現に貢献しようとするのでなければ、常任理事国などおこがましい。
 ところで、意外と言っては失礼だが、イスラエルの「壁」の撤去を求める国連決議に、日本は賛成したそうだ。まだ自分で判断できる国だと知って、ほっとした。国に間違った判断をさせないのは、有権者の力だと思う。知ろうとし、考え、発言し、批判に学ぶこと。

2004年5月6日515717
 イラク戦争についてある方と数往復の意見交換をした(非公開)。その方の御意見は、不戦平和を主張して自己満足に終わる「絶対善」では、フセイン政権下をはじめ、世界各地で繰り返される大量虐殺を拱手傍観し黙認することになるというもの。大量虐殺を阻止するためには、外交努力は当然として、最後の手段として武力も保持すべきだとおっしゃる。
 確かに、不戦平和を主張する我々も、例えばグルメを気取って輸入食材に舌鼓を打つ時、グローバル経済の勝組の地位に安住し、搾取と環境破壊に荷担しているのだろうし、絶対善ではあり得ない。快適な空間で快適な生活を送るのも、大量のエネルギーを消費しているお陰であり、石油のために人を殺すなという非難は、結局は自分にも戻ってくる。
 世界で何が起こっているのか、何が行なわれているのか、知ろうとしてよく学習し、よく考え、できることを行ない、意見を表明していく。そして、批判し、批判されることで、自分も他の人達もより正しい考え、行動ができるようになると思いたい。
 武力に関しては、やはり反対だ。しかし、今回のやりとりの過程で、大量虐殺を阻止するために国連の指揮により介入する軍隊であるならば、資金・兵力を提供することに賛成してもいいと考えるようになった。しかし、日本政府が自分の判断で動かせる軍を持つことには反対である。(つまり、日本人の兵士は国連軍にしかいないということ。)口先でなんでもごまかす政府も、深く考えずに感情的な過剰反応をしがちな「世論」も、信用することができない。武力を持たせれば、何が引き起こされるか分からない。武器を持つ手はあらかじめ縛っておいて、世界に掲げる理念・思想と、その実現に向けての武力以外のあらゆる現実的努力と外交、そしてそれらを正しく強力に伝える広報に、命を(まさに日本の命運を)懸ける他ないと思う。
 (2006,5,28,加筆:国連も本当は信頼できない。まず国連をきちんと正しく機能するように改革・強化する必要がある。少なくとも間違った判断が、自浄的に正される組織に。)

2004年4月23日
 タイミングを逸した話であるが、確か今週か先週の「TVタックル」で、森永卓郎さんがこのような発言をしておられた。(日がたっているので、私の色が入って、発言そのままではないかもしれない。)
 「今回のイラク攻撃は間違っている。日本はそのことをアメリカ政府にはっきりと伝え、間違った戦争に荷担することはやめるべきだ。そのことによって、アメリカ政府から必ずや経済的な制裁を受けるだろうが、日本はみんなで貧乏になればいい。もしもう一度原爆を落とすというなら、竹やりで戦うのだ。間違った戦争に荷担するより、そのほうがずっとマシである。」
 他の出演者の嘲笑をかっておられたが、私は大変共感した。目先の損得でしかない「国益」を持ち出せば、なんでも通るような風潮はおかしい。正しいか正しくないかを基準にすべきだ。何が正しいか、それは勿論簡単ではない。(仏教的には、人に苦を与えず、人の苦を抜くことが正しいことだと考えるが、それは議論すればいい。)何が得か、ではなく、何が正しいか、真剣に考え議論して判断を下す。それがかえって、長期的な真の国益につながると思う。森永さんは、「国益」より正しさを優先すべきだと主張されたのである。

2004年4月19日
 イラクで人質になっていた人達を非難する声が一部にあるそうだ。お門違いである。中傷のメールを送ったりした人は、よく考えて欲しい。
 彼らは、身の危険を顧みず、イラクの子供達をサポートし、イラクで起こっていることを調べに行った。世界をよくするために頑張ったのだ。おそらく彼らにその意図はなかっただろうが、結果的に、イラクにおける日本人の評価を高めてくれた。日本には自分で批判的に状況を考えしかも行動する人がいると、世界が認識したことだろう。我々は、彼らに感謝し、その労をねぎらうべきだ。
 政府関係者は「仕事を増やされた」と不機嫌かもしれない。しかし、それは彼らの仕事なのだ。文句を言える筋合いではない。また、イラクの実態を知られるのも嫌なのだろう。だからこそ、彼らのような、危険を認識しつつ現場に身を置き、状況を知らせてくれる人は大切なのだ。状況が知らされなければ、巨大な悪が巨大な災いをもたらすことになる。大衆の影にまぎれた愚かな声で心ある人々の意思が挫かれないようにと祈る。

2004年4月10日
 イラクの状況はますますひどくなっていく。戦争がもたらす状況がどういうものであるのか、何度も何度も明らかになっているのに、日本は戦争をする「普通の」志のない国になろうとするのか?
 イラク戦争も米国お追従(ツイジュウではなくオツイショウ)の自衛隊派兵も、おかしなものであることがみるみる明白になってきているのだから、もっと早い時点で「ごめんなさい、間違っていました」と宣言すべきだったのだ。それをしなかったから「テロには屈しない」などと、人の命をリスクにかけて意地を張らねばならなくなる。今からでも遅くはない。間違いは間違いと認めよ。
 小泉は、早々に「撤退はない」と言いきった。3人の命を本気で守ろうという気はあるのだろうか? 国益のためには仕方がない? 国体の為に住民を犠牲にした沖縄戦・満蒙開拓と同じ論理だ。「国民の生命と財産を守る」有事法制「国民保護」法も、この手の指揮者が采配する限り、「大多数の国民(or 自分)」を守るために、火中の人を見捨てることを正当化する法律になるのではないかと恐れる。

 冷戦期、米国の核戦略は、まず最初にソビエトの弾道弾迎撃ミサイル施設を大量の核ミサイルで徹底的に叩くというものだったそうだ。(4/9朝刊、共同)
 テポドンを恐れて日本が米国から購入するミサイル迎撃システムは、本当は米国を中国のミサイルから守るためのものではないかと私は疑っている。そして、もし中国が冷戦期の米国と同じ戦略を取るなら、まず日本の迎撃基地に大量の核を撃ち込むだろう。そのように中国の攻撃を分散させれば、アメリカ本土の被害は軽微となり、米国はゆとりをもって反撃ができる。アメリカ政府にとっては万万歳だ。売上も増えるし。
 荒唐無稽な被害妄想だろうか? 小泉の米国全面お追従政策は、「国民の生命と財産」をそのような重大な危険に向かわせるものではないかと案ずる。血税を使って。

2004年3月5日
 ひばりさんへの返事の中で、民主主義(多様な意見が批判しあってより正しい判断を見つける仕組みの意)は、無我=縁起、慈悲という仏教の教えによっても基礎づけられることを見つけた。民主主義は、キリスト教を背景に生まれたのだろうと思うが、正しい仏教も民主主義を支えると思う。御批判下さい。

2004年桃の節句
 今回のイラクにおけるテロはひどい。義憤の域を超えている。人の血を道具にしてはならない。何が正しいのか追求する言葉によって、アメリカ政府を追い詰めるべきだ。

2003年12月27日
 自衛隊は人道支援隊として、イラクではなくイランへ行ってもらう訳には行かないだろうか?

2003年12月21日
 北朝鮮の弾道ミサイルを打ち落とすシステムを構築するそうだ。そんなことをしてもしなくても、あの国の体制は遠からず崩壊するだろうし、それを早めることだってできるだろうに。それに、北朝鮮がやる気になれば、別の方法がいくらだってある。そのうちのひとつだけ莫大なお金をかけて封じ込めても、意味があるのか? 結局は、アメリカへの上納金か?
 いや、おそらく事はもっと巧妙で、アメリカへ向かう中国のミサイルを日本上空で打ち落とさせるためではないか? それを日本の税金で作るのだ。アメリカに発注して。
 かんぐり過ぎか? しかし、様々な国が大量破壊兵器だ、テロ支援だと次々糾弾される中、ひとりアメリカだけが、突出した武力を持ち、気軽に使える小型核兵器まで開発しようとしている。アメリカ政府を操る利権集団に着々と地球は牛耳られようとしているように感じられてならない。
 念の為言っておこう。自分でも最近は混同してしまいそうになるが、私は反米主義者ではない。今のブッシュ政権が嫌いなだけだ。
 先日、ブッシュ大統領のインタビュー番組をみていて、この人は本当にただの「善意の愚か者」ではないかと感じた。利害や計算ではなく、本気で神の御心に適う、と思っているのかもしれない。狭い世界しか知らず、想像力がない。広がりも厚みもない。そこにつけこんで、うまく操る連中が後ろにいる。
 こんな人を菩薩になぞらえるのも菩薩に申し訳ないが、安直な思いこみ菩薩道の危険を感じる。自戒せねば。
 このような合州国政府批判が、いつか「自由と民主主義の敵」「テロ扇動」として、しょっ引かれる事になるのでは、と心配し始めている。

2003年12月15日
 サダム・フセインが拘束されたという。これを機に、イラクの人達とイラクに派遣された兵隊たちの苦しみが、少しでも早く、少しでも多く、解消されることを願う。

2003年12月11日
 どんどんひどい事になって行く。理念なく「国益」と保身しかない政府の、その場しのぎの対応で、しわ寄せがすべて最前線に集まり、外交官二人がなくなった。日本政府が殺したようなものだ。
 そこに今度は自衛隊を派兵すると言う。せめて、以下のことを宣言にしてからにしてくれないか?
1)アメリカ政府の先制攻撃論は誤りであり、アメリカ政府のイラク攻撃は間違いであった。それを支持した日本政府も過ちを犯した。
2)日本は、理念として平和憲法を掲げており、そこで「達成することを誓」った「崇高な理想と目的」を世界で実現するとあらためてここに誓う。
3)イラクの惨状は座視できない。アメリカ政府のためではなく、イラクの人々のために、日本国憲法の理念の為に「人道支援隊」を派遣する。
 以上3点をフルページ広告にして、イラク、合州国、日本の有力な新聞にそれぞれの言語で日本国政府の名で掲載する。自衛隊は恒久的に「人道支援隊」に改組し、内実もその名にふさわしいものにする。(丸腰で行けとは言わない。七夕の更新情報に書いたとおり)
 憲法の理念を恣意的に曲解する小泉首相がこんな事をしてくれるとは思えないが、これ以外に正しい道はないのではないだろうか? 一歩ずつでいいからこの方向に進んで欲しい。

 戦争中の中国人強制連行の記録を、敗戦後の日本政府が組織的に隠蔽していたという。(12/8 新聞報道)理念を掲げるには、まず自分で自分を正さねばならない点が、日本には沢山ある。先は長い。

2003年11月20日
 治安悪化で自衛隊のイラク派兵のめどが立たないとアメリカのニュース番組が報道しているそうだ。缶ビールを手に、テレビに向かって「腰抜け!チキン!」と罵るアメリカ大衆(の或るタイプの人達)の姿が目に浮かぶ。
 アメリカだけではない。中東でも日本のイメージは大いに傷ついた。この国の指導者達のやることは、自分の国の足を引っ張る事にしかなっていない。
 しかし、チキンといわれてもあたっている。日本は、本当に根性無しの腰抜け、ビビリアン・コントロールの国だ。「戦争ではなにも解決できない、夥しい苦をもたらすだけだ。」骨身に沁みてそう分かった筈だのに、北朝鮮のはったりひとつでおびえうろたえ、もっと武器を軍をと慌てふためき、なんでもしますと、ブッシュ親分の元に走る。イラクの状況がこうなることは初めから分かっているのに、震えてばかり、その場しのぎの対応しかしないからこうなった。
 軍事力を放棄したのだから、それに代わるものは、外交力しかないだろう。アメリカ政府に回転ドアで癒着した企業に流れる金を、はじめから餌にして、北朝鮮と徹底的な外交戦をした方が良かった。知力の限りを尽くして駆け引きする。北朝鮮だって、手元にあるのは碌でもないわずかなカードだけなのに、はったりだけでここまで延命している。なぜ日本はできないのか?
 イラク復興にしても、「ブッシュ親分、見て、ブーツを地面につけたよ」というためだけの(その割には自衛隊員のリスクがきわめて高い)アリバイ的「支援」ではなく、日本になにができ、なにができないか、その理由はなにか、きちんとイラクの大衆に説明し、なにが本当に必要かをちゃんと聞いて、軍隊(自衛隊)ではなく、誰が見ても軍隊ではないと分かる復興援助隊を送るべきだ。(七夕の更新情報参照)
 胸を張って語れる事だけを考え、行ない、そのことを胸を張って世界に語る。要は、道義あり徳のある国になること。そして広報力と外交力を身につける。軍備拡張に走るより、用心棒代を払うより、それが一番安価で効果があり、世界にとってもよい方法だと思うが、どうだろうか?
 夢物語? 本気になれば、日本だってできると思うのだけれど。絶対無理・・・? ナイーブ?

2003年七夕の願い事 <自衛隊を菩薩隊に改編しよう>
 どうも最近、世間の風潮が少しおかしい。非戦平和論は、世間知らずの阿呆の考えだという。北朝鮮のはったりひとつで恐れおののき、冷静な判断力と長期的視点を失っているのではないだろうか。
 侵略されても構わないと言っているのではない。
 軍事力による抑止で、本当に戦争を防止できるのだろうか? 過去の戦争は、軍事力がなかったから防止できなかったのか? どこまでの軍備があれば、どれほどの抑止力になるのだろう? 北朝鮮は核があるといっている。それに対して、何を持てば抑止できるのか? 軍備を叫ぶ人は言う、「北朝鮮には常識が通用しない。何をするか分からない国だ」と。しかし、抑止力とは、相手が損得勘定のできる常識を有することを前提にした論理ではないのか? 自家撞着している。常識を超えた、自暴自棄の「死なばもろとも」「窮鼠ネコを噛む」攻撃には、抑止力は役に立たない。
 それに、もし、別の「予想を超えた行動をする国」が、例えば「仏教などという訳の分からん宗教を、それも本気で信じているのでもないらしい黄色い猿どもが、金儲けに目を眩ませて、世界に(自国に)災いをもたらしている」などと言い出したら、どうするのだろう? あながちあり得ないとはいえない。例えば、伊豆沖の深海深く、画期的な新エネルギー源が発見されたとしよう。石油も原子力も存在意義のなくなるような、、。そして日本は正しく世界の人々が等しくその恩恵に与かれるようにしようとしたら、、。旧エネルギーに立脚する現超大国はどうするだろうか? この場合、どれだけの軍事力があれば十分なのか? そのために、どれほどの税金をつぎ込むのか? まあ、その新資源をその国に丸投げしてしまえば、さしあたり大丈夫なのかもしれない。でも、それでいいのか?
 そもそも、軍事力を競い合う事で国家間の問題を解決しようとする事は誤りであり悪であると骨身に沁みて分かったから、平和憲法があるのではないのか? それとも「いや、あの憲法は、GHQのやっつけ仕事だ。我々は、軍事力によって問題を解決せんとする愚かさなど、まったく理解した事もない」と言うのだろうか?
 では、なにが軍事力に代わって抑止効果を持つのか・・・? 国際世論しかないのではないだろうか? 米国も国際世論をまったく無視する事はできなかった。フセイン政権も、北朝鮮も、どれほどの説得力かは別にして、それぞれが自国の立場の正当性を国際世論に訴えた・ている。国際世論を全面的に敵に回す行為は、いかなる国もなし得ない。
 だとすれば、日本は、軍事力ではなく、国際世論を抑止力にすべきだ。その為にはどうすべきか? 簡単だ。やましさのない正しい主張をし、それに恥じない行いをするのである。どうすればそれが実現されるか? なにもかも包み隠さず開示しなければならないと自らを縛るのである。
 戦争を放棄し、核兵器を持たず、武器輸出もしていない日本は、大量破壊兵器の危険をでっちあげ劣化ウラン弾を使いつづける米国政府よりも、南太平洋で核実験をしたフランス政府よりも、国際世論に恥ずる点は少なく、支持を取り付けるポテンシャルは高い筈だ。

 自衛隊のイラク派遣の是非が問われている。しかし、例えば、以下のようにすれば、すべて単純明解になり、矛盾の取り繕いに汲々とする必要はなくなるのではなかろうか?

  1. 自衛隊を「人道救急隊」的な名に改める。自分たちを守るために他人を殺す軍隊ではなく、自他を問わず艱難にあっている人を救う組織として位置付ける。いわば、一切有情を隔てなく救うために苦を厭わない菩薩の部隊である。(ただ菩薩隊というと他宗教の地域に入れなくなるといけないので「人道救急隊」みたいな名前にしておく。自衛隊の実際の活動は既にこれに近いのではないだろうか。)
  2. 人を殺す訓練はやめて、救命・衛生・土木建築、また語学や異文化の中で現地の人達と協働するスキルなどを磨く。
  3. 制服・車両・航空機・船舶、すべて迷彩色をやめ、蛍光オレンジなど目立つ色にする。ステルスとは反対にレーダー電波を反射する塗装を施し、救急車のサイレン・赤色燈のごとく、自ら電波を発信し所在を知らしめて活動する。
  4. 自衛のために必要な武器は装備する。上記活動に不要な武器は廃棄する。
  5. 海外展開に必要な装備(長距離輸送機とか)は持つ。災害が頻発する地域があって、必要であり、かつ現地の了承があれば海外基地も可能とする。
  6. 出動する場合は、必ず事前に、理由・目的・プランの詳細を公表する。
  7. 活動中のチームの展開状況は、常にネット上に公開する。交信に暗号は使わない。出動中の車両等には、カメラ・マイクを固定し、ライブ映像をネットに配信しつづける。プレスの同行・取材はけして拒否しない。
  8. 上記に違反した場合は、侵略軍として攻撃されても文句を言わない。

 「人道救急隊」は、以上のように boots on the ground として、(アリバイ作りに止まらぬ)実効あり賞賛される活動をする。でも、それだけでは充分ではない。外務省はじめ政府が、自ら恥じるところなく正しいと信ずる主張を、世界に訴え、世界と議論し、世界を説得していく必要がある。両方が働いてこそ、国際世論を味方にする事ができる。

 ・・・・やっぱりおめでたい空想だろうか? 「人道救急隊」にはともかく、日本政府にこんなことを期待するのは阿呆だろうか?
 しかし、武力で脅しをかけて、下手をすると本当に有情の上に爆弾を落とすことになりかねない準備にお金をかけるより、世界に正しい貢献をし、正しい主張をし、世界の世論を味方につける事の方が、はるかにチャレンジしがいのある事だと私には思えるのであるが、どうだろうか?
 軍事大国ではなく、人気大国に。世界のスター、世界のアイドル、世界の良心、世界の賢者を、目指せ、ニッポン。

2003年5月7日
 「白装束の集団」への対応は、地元も警察もマスコミも行き過ぎだと思う。重大な犯罪や大きな実害が見つからないうちにあのような扱いをすれば、先鋭化させているようなものだ。それに、これが先例となれば、まとまな団体、まともな個人に対しても、法律の過剰適用による、又は法律を超えた、同様な干渉が恣意的に可能になるのではないかと危惧する。

2003年4月24日
 4/19信濃毎日新聞で、アメリカ政府に、小型の「使いやすい」核兵器の開発を画策する動きがあるとの記事を読んだ。日本政府は、どういう姿勢でアメリカ政府と付き合うのか、もうそろそろはっきりさせねばならないのではないか。平和憲法を持つ唯一の被爆国としての理念を第一義にして突き詰めていくのか、あるいは、イラク戦争の時のように、自国の「国益」のためには他所の国に(小型核)爆弾を落としても良いとするのか。

2003年3月23日
 しつこく時事問題を。
 第二次大戦で、日本は、「欧米列強からの亜細亜の解放」といったスローガンを唱えた。それは理念としては素晴らしいものだったかもしれない。しかし、結果を見れば、東アジア、東南アジアの人々から賞賛されたとは言い難い。なぜか。口で理想を唱えながら、本心のところでアジアの人々に対する尊敬の気持ちを持っていなかったからである。勿論一部の例外はあろう。しかし、総体で言えば、アジアの人々を見下し思い上がっていた。
 戦後生まれの私が何故そう思うのか? 戦後40年程経た時点で私が会った日本企業のアジア駐在員のかなりが多少なりともそうだったからである。戦争中に銃を肩にしていれば、もっと多くの割合が思いあがっていたに違いない。中国戦線に一兵卒として従軍したとある老人が晩年にもらした言葉が忘れられない。
 アメリカ政府は、アラブ世界、イスラム世界に民主主義をもたらすのだと公言している。しかし、ブッシュ大統領をはじめとするアメリカ政府関係者の発言に、アラブ世界・イスラム世界の歴史・文化に対する敬意があるとはとても感じられない。残念ではあるが、彼等は、八紘一宇を唱えた日本と同じ轍を踏んでいる。
 イラクの民衆にとって、現状は、赤鬼をやっつけに青鬼がやって来た、という感じではないだろうか。

2003年3月22日
 アメリカ政府は正当な手続きを経ることなく遂にイラクに攻め込んだ。現在のアメリカ政府は、近視眼的であり、視野が狭く、自らの思いこみに酔っている。自分では、正義の使徒のつもりかもしれないが、短絡的であり、野蛮である。多様性を見る目を持たない。カオス的世界において自らの行いが何をもたらすか、注意深さに欠ける。
 サダム・フセインがクルド人にマスタードガスを使ったことは忘れてはならない。しかし、サダム・フセインとアメリカ政府を同列に扱うのはアメリカ政府に失礼であろう。力のある者には、その力にふさわしいだけ、紳士的に振舞う責任があるはずだ。自分の理屈だけで突き進むアメリカ政府をどう統御するか、それが今後の国際世界の課題になろう。
 北朝鮮問題があるから、アメリカ政府に盲従するしかない、それが日本の国益だという。自分では何の対応もできないから、「強い」アメリカに丸投げするのだと。しかし、洗練からほど遠い今のアメリカ政府に下駄を預ければ、b烽ナきないから、「強い」アメリカに丸投げするのだと。しかし、洗練からほど遠い今のアメリカ政府に下駄を預ければ、かえって余計な災い・混乱を招くことになりはしないか。
 アメリカ政府の一部には、躍進する中国を牽制する為、日本の核軍備に言及する輩がいるそうだ。もしそれが本当なら、日本にはそれに呼応してはしゃぎまわる輩が必ず出てくる。その構図は、かつてイランのイスラム革命の拡大を恐れたアメリカ政府がサダム・フセインを支援した時と同じではないか?
 力による駆け引きのリングに、日本は登ってはならない。力ではなく、正しさによってものごとを決める、そういうルール・仕組み作りに努力すべきだ。残念ながら現在は力が物事を決めているのかもしれない。しかし、いつまでもこのままでいい筈はない。望ましい未来に向けて懸命に努力をする。ぎりぎりのところまで万策を尽くしたのなら納得もしよう。しかし、とてもそうは見えない。靴紐も結ぼうとしない甘やかされた子どものように、最初から親(分)に丸投げだ。
 今回のアメリカ政府の一連の行動によって、世界の反米感情は高まった。アメリカ政府の意図とは反対に、アメリカとその支持国へのテロの可能性は高まってしまった。この文章を、テロリストが読んでくれるとは思わないが、テロリストには、アメリカ政府とアメリカ国民は異なると言いたい。アメリカ国民のかなりが、この度の攻撃に反対している。一般市民に害を及ぼしてはならない。それは、憎しみの拡大再生産のサイクルを加速する。
 今後、いかなる政府より強くなり得るものがひとつある。世論だ。世論に支持された者が勝利する。勿論浅薄なプロパガンダであれば、ばれた時の傷は余計に深いことは胆に銘じて頂かねばならない。我々も、一人一人が責任を持ち、感情的にならず注意深く見る必要がある。そして意見を表明すべきだと思う時は、堂々と声を上げよう。これもまた、衆生から少しでも苦を抜く行いである。

 今回の更新は、この一文だけである。

2003年2月26日
 間違った風潮にはひとりひとりが声を上げねば大勢の有情が苦しむ事になるので、自分には不向きだとは重々知りつつ時事問題に口を挟む。
 アメリカ政府は、フセイン政権が国連決議に違反していると糾弾している。一方で、自らは、国連が反対してもイラク攻撃を辞さないという。国連を無視する点では、同じではないか?
 アメリカは、冷戦終結後、ただ一人突出した軍事力を持ち、経済的なパワーも他を圧倒している。であれば、アメリカ政府には、それにふさわしい義務と責任があろう。しかるに、アメリカ政府は国連分担金を出し渋っていたし、温暖化など環境問題についても、自国の利益のみを考えて地球全体に対する自国の影響を省みようとしない。
 犯罪者とおぼしき者であれ、適切な手続きを踏んで対処するのが筋であろう。怪しいから問題を起こす前にぶっつぶすなんて、まるで開拓時代のリンチような「古い西部」だ。
 パシリ(死語か? 不良の取り巻きでタバコを買いに行かされたりしている下っ端)のような日本政府も情けない。国益のためならよその国で戦争を起こす事に賛成するのか? そこでは沢山の人が暮しているのに。尻馬に乗れば国際貢献になるのか? 違った視点を提起する事こそ世界への貢献になる。青臭い理想論と笑われてもいい。日本くらいしか理想を主張できる国はないと思う。戦争には反対、それを絶対の前提とすれば、どういう方策があるのか、必死に探すべきだ。外交はそんな甘いものじゃない、とプロの方はおっしゃるかもしれない。しかし、金を出せといわれれば金を出し、賛成しろといわれれば賛成する、そんな言われるままなら外交のプロなんてとても呼べない。

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曽我逸郎