曽我逸郎

<いつも化システム> 主客対消滅と分裂病


 谷 真一郎さんのメールが縁で、中井久夫「最終講義(分裂病私見)」(みすず書房)を読み、執着の由来と主客対消滅体験に関する仮説を得た。自分ではユニークだと思うし、あてはめることのできるテーマも広いと考えるので、まだ思い付きのレベルだがまとめてみたい。99年3月に池田政信さんから質問を受けてまだ十分に答えられないままの「主客が分かれるもとのものはなにか?」という議論にも、若干の進展が得られたと思う。皆さんのご意見・ご批判を頂いて、間違いを修正し、深めていくことができればうれしい。

 はじめにもう一度簡単に私の仏教理解と問題意識をまとめておこう。

 私は、無我・縁起こそが仏教の核心だと考えている。すなわち、我々が永続的な「存在」だと考えているあらゆるものは、実は、自性を持たず条件に依存して生まれ変化し終息する現象であるということ。石もそのまま永遠に変わらずにある訳ではなく、太陽でさえ変化しつつある。いわずもがな、あたりまえのことのようだが、実態は我々はものは永続的に変わらぬ価値を持って存在し続けると思うからこそ、それに執着しており、その執着によって苦を生み出している。執着の対象が実は無我なる縁起の現象である事を認識し、それによって執着を吹き消すことが、釈尊の教えであると考える。
 ところで、最も強固な執着は自己を対象とする我執である。したがって、自己が無我なる縁起の現象であると知ることが仏教徒の最大の課題となる。
 しかし、ここにアポリアがある。無我なる自己を知る自己とはなんなのか? 対象化された自己ではなく主体の自己こそが問われねばならないが、主体自己は、あくまで問う主体であり、問いの対象にはなりえず、どこまでも無限遡及的に逃げていく。そもそも「無我なる主体」など形容矛盾ではないのか? はたして、自己が自己を問うことは可能なのか? 現象である自己が現象である自己をどう問えるのか?

 論理的あるいは主体的に追求する限り、このアポリアは克服不可能であろう。このアポリアを突破するために、仏教は、主客対消滅の体験と、そこに至るための禅定の技術を重視してきた。(「主客対消滅」というのは、伝統的に「主客未分」と言われてきた体験のことであるが、「未分」が「かつて主客一体のなにかがあった」かのような誤解を招きかねないので、「対消滅」を使うようにしています。)
 子供は成長の過程で「主客対生成」によって世界と自我を持つにいたり、執着に捕われ、凡夫として苦を生み出し続けるが、正しく努力することのできた幸運な人は「主客対消滅」の宗教的体験によって自己の無我・縁起を知り、さらに「主客対再生」で日常世界にもどり、今度は執着に捕らわれない生を生きることができる。簡略化すればこれが仏教徒の宗教的人生のモデルであると思う。

 では、主客対生成・主客対消滅のしくみとはいかなるものか?

 このように考えてくると、精神分裂病という現象に注目せざるを得ない。
 分裂病で自他の区別の崩壊といわれる事態と仏教の主客対消滅は、共通点があるのか、どこが違うのか?
 自我の崩壊と言われる分裂病では、人間のどんな機能がどう変調しているのか? それを仏教のコンテクストに当てはめれば何かが見えてくるのか?
 宗教体験が大きな全的喜びとして表現されるのに、分裂病では世界が不気味な恐怖として体験されるのは何故か?
 多くの対比とともに多くの類似がある両者には、構造に何らかの共通性があるように思われる。もし構造の共通性はなく発現面だけの類似だったとしても、分裂病を見る視点で仏教を見れば、少なくとも新しい光の角度で仏教を照らしてくれるのではないか。

 そういう、患者さんに対しては申し訳ない不純な動機で「最終講義」を読み始め、あちこち思い付きを書き込みながら読み進んで、大きなひらめきを得たのは、84、85ページ、大脳皮質と対比して小脳新皮質について述べている部分だった。

 「小脳新皮質は、外界に直接触れることなく、大脳をモニター・コントロールしており、大脳のエネルギー消費を少なくし、安定させ、熟練に関与している。」

 これは、外界からの<そのつどの>(=現象としての)刺激を、既存のパターンに落とし込み類型化するシステムではないだろうか。さらには、パターン処理された刺激はある尺度でおおまかな重要度のランク付けを受け、ほとんどの情報(たとえばすれ違った他人の服の色など)は無用なものは捨て去られ、一部の重要なもののみが大脳へもどされる。

 毎朝、光も色も違う刻一刻変化するその時限りの朝日を、<いつもの>見飽きた朝日にしてしまう作用。傍らの雲の輝きは見向きもされない。
 これによって、確かに大脳の処理すべき情報量は大幅に減らすことができる。しかし、同時にこの作用は、一回きりの<そのつどの現象>を、<いつものありふれた存在>にしてしまい、私たちは、世界に目を向けることなく、退屈な毎日を執着に明け暮れて生きることになる。
 (これは、冒険的飛躍であるが、この<いつも化システム>こそが、執着を引き起こし無明の源泉となっている無自覚的な自我ではないだろうか? 我々がその無我を知るべき自我ではないだろうか? 決まった場、決まった相手に対するパターン化された一貫性のある対応のスタイルをペルソナというなら、それらの底にあって、世界に対して一貫性ある対応をしている<いつも化システム>こそ問題とされるべき自我ではないかと思える。少なくとも、反省し躊躇し後悔する一貫性のない自覚的自己よりも。)

 逆にいえば、主客対消滅の体験とは、<いつも化>類型化の作用が停止して、処理されない生のままのvividな刺激が世界のあらゆる方向から押し寄せてくる経験ではないだろうか。一度きりの活発発地の現象に満ちた世界体験。大きな喜びであるし、パターン処理という抽象化作用がない故に言語化不能な戯論寂滅の体験でもある。<いつも化>がないから、すべての現象は並列・平等で、非連続、持続性を持たず、執着も自我意識もなくなるだろう。無我なるノエシス的働き(これも谷さんが思い出させてくれた言葉)が、むきだしの世界のあらゆる現象とともに踊っている状態とも言えるだろう。

 分裂病の急性期でも非常に似た事が起こっているのではないだろうか? P61にある<「ついに実在に触れた」「ついに自己を実現した」という感覚>、あるいは、P58「世界がいっせいにしかも一つのものも多くの言葉で叫び出した」というのも、P57の「急性期の種々相」も、主客対消滅の宗教的体験の記述として読んでもまったく違和感がない。P61にフォビア症候群の特徴として書かれている「自己と世界の全面を覆う・慣れが生じない・予見できない・対象化できない」ということも、<いつも化・パターン化・重要情報の選択・無用情報の廃棄>という慣れのシステムそのものの停止によって、世界が一度きりの雑多な現象の乱舞となり、主客対消滅の状況でノエシス的働きがそれら現象とともに踊っている、と考えれば、一応の説明がつくのではないだろうか?

 しかし、宗教的体験と分裂病急性期とが、このようにもしほとんど同じ内容の経験だとすれば、なぜ両者の違いが生じるのか? どちらも、それまでの日常的(=世俗的)自我(=いつも化システム)が破壊される点では共通だろう。宗教的体験の場合は、無我・縁起を喜び、執着とは無縁ななんらかの新しい刺激処理システムが再生され、「主客対再生」がうまくいくのに対して、分裂病の場合は、破壊されたままであるようだ。宗教的体験の場合は、体験の深度がまだ浅いため主客システム(=いつも化・パターン化システム)が比較的たやすく修正・再構築されるが、分裂病の場合ははるかにインパクトが深いため、システムがもっと深刻なダメージを被るのだろうか。あるいは、これが一番可能性が高いような気がするが、分裂病では、前頭葉の準備ができていないうちに<いつも化システム>が停止し、いきなり世界を満たす一切の生の現象が津波のごとく一気に押し寄せてきて、とり残された前頭葉の自己意識が、溺れもがいているのかもしれない。

 <いつも化システム>は、外界からの刺激感受と前頭葉の思考作用の間で、前頭葉をむき出しの現象の洪水から守るという役割も持つのだろう。動物進化の過程を想像すれば、無限に変化する世界の中で、本来一度きりの現象をパターン化して処理することは、次の瞬間・近い将来を予見することを可能にし、動物が危険を察知し、有利に生きていくために必要な能力でもあったと考えられる。
 <いつも化システム>は、前頭葉に供給する情報をできあいのパターンによって絞ることにより、前頭葉が意識したり意図したりする内容に一定の制限を加えていることになる。しかし、前頭葉の側からは、いつでも恣意的に<いつも化>のパターンを変更することはできない。通常は、<いつも化システム>から前頭葉へという一方通行の回路しか働いていない。(したがって、当面世俗を問題なく生きている人に対しては、いくら無我・縁起を説いても、なかなか届かない。)
 しかし<いつも化システム>が対応しきれない事態に直面した時、システムは力を失い、変更される。
 改心といわれるのもそのひとつのあり方であろう。例えば、欲のみで生きてきた人が、人の善意に助けられて生き方を改める。仏教における発心でもシステムの機能不全が起こっていると考えられる。もっと日常のことでも、我々がむなしさや倦怠から一時逃れるためにパチンコ屋に入り浸ったり、ワーカホリックになったりするのも、システムのほつれをごまかそうとしているのではないだろうか。千変万化する世界に、固定したパターン化システムが完璧に対応できる筈はないのだから。
 釈尊にあてはめて考えれば、釈尊が四門出遊して老人・病人・死人・出家者を見た時、釈尊のそれまでの<いつも化システム>にひびが入ったのだと想像する。もはや釈尊はそれまでどおりの生活を悩みなく過ごすことができなくなった。そのため、釈尊は、なんとかひびを修復しようと瞑想や苦行を繰り返しながら、ひびを見つめ、ひびの原因を探ったが、そのことによってひびはますます大きく深くなり、遂に菩提樹の下で古い<いつも化システム>は砕け散り、釈尊は主客対消滅の体験をする。おそらく苦行中の自己観察によって戯論のレベル(=前頭葉のレベル)では既に無我・縁起を発見していた釈尊は、無我・縁起にもとづいて正しく主客を対再生し、執着とは無縁の世界対応のシステムを再構築されたのだろうと想像する。(小論集の「釈尊成道の過程」も参照下さい。)

 とりとめがなくなってきた。箇条書きでまとめてみる。

1)世界は、沸騰するスープのように様々な無数の無我なる縁起の現象がはじけ合う場所である。
2)我々は、はじめ、そのつどの無我なるノエシス的働きとして、無数の現象とともに世界で踊っていたが、進化・成長の過程で、危険を察知し、また有利に生きるために、一度きりの現象をパターン化して処理し間引くことを学んだ。<いつも化システム>
3)それによって前頭葉は安全に効率よく働くようになったが、世界は退屈な<いつも>になり、我々は執着を覚え、苦を拡大再生産し始めた。
4)<いつも化システム>が支障なく働いている間は、前頭葉の側から(=恣意的に)システムを書き換えることはほとんどできない。前頭葉は、システムによって前処理された情報を受け取るだけである。
5)しかし千変万化する世界を固定したシステムですべて処理することは元々無理があり、システムは常に無効化の危険にさらされている。
6)システムのほつれが軽微な内は、気晴らしや何かに没頭することで目をそらしごまかしていくことができるが、システムが対応しきれない事態に直面した時は、道徳的改心、さらには、宗教的な発心にいたり、システムの変革がなされる。
7)特に宗教的発心からシステムが正しく徹底的に検討された場合は、システムが完全に崩壊し、無我なるノエシス的働きだけが無数の現象と踊っている状態になる。これが主客対消滅の宗教的体験である。
8)その後の主客対再生では、自他のすべてが無我なる縁起の現象である事に基づき、執着とは無縁の新しい世界対応のシステムが再構築される。この段階が解脱である。
9)分裂病の急性期は、前頭葉がなんの準備も心積もりもしていない時に、いきなり<いつも化システム>が機能停止したために、前頭葉が突然リオのカーニバル的世界に投げ込まれ無理矢理躍らされ続けているような状況であろうと推察する。

 以上、「最終講義」から一部分のみ切り出してインフレーション的に拡大解釈した結果であるが、この「<いつも化システム>の仮説」は、これまでわたしの考えてきた仏教理解と多くの点で重なるので、しばらく検討してみたい。

 皆さんのご意見・ご批判を期待しています。

(<いつも>に関しては、「あたりまえ、、」本文の「初夏の集まり」も御一読下さい。)

(1999,10,28,加筆:私自身の脳が brain storming 状態で、訳の分からんまとまりのない文章になっています。すみません。一旦消そうかとも思いましたが、誰かが私の脳をもっとかき回してくれるメールを下さるかもしれないと期待して、残すことにします。意見交換のページの10/15の谷さんのメールへの返事の中でも、この思い付きをまとめています。)

曽我逸郎

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