曽我逸郎 様
             from谷 真一郎
 そちらで泊めていただいてからもう二十日以上たってしまいました。お元気ですか。私、このごろは少々仕事のストレスもあってか、帰宅後もあまり本を読まないので、あの時の討論のテーマについては、あれから進んでおりません。しかしとりあえず、曽我さんから質問いただいたところの、高崎直道氏が龍樹の『中論』について触れているくだりを、その少し前から抜粋いたします。後半の( )の中も高崎氏の文章です。

 「虚妄分別はかたちを変えてではあれ、さとりにおいてなおのこることになります。これが唯識説の「ただ識のみ有り」というゆえんのもので、中観派とまったくちがう考え方に立っていることをよく示しております。それはつねに瑜伽行者の主体的立場からのもの言いをしているということです。中観派は主体のことを一切表面に出しません。(般若波羅蜜が主体のはたらき、そのあるべきありかたなのですが、記述はあくまで、その般若波羅蜜によって観られた世界、つまり、いかに法を見るか、ということに限られております。)」(『唯識入門』春秋社p124)

 このように書き出してみると、私はこれをずいぶん敷衍して喋ったことになるなあ、と思いますが、私としてはこの箇所を読んだ時、我が意を得たりという気がしたのです。
 高崎氏の文章は時間性の問題については触れておりません。その部分は私は木村敏氏の、「現在=てんかん的」な時間性が禅における悟りのありかたに通じる、という議論に学んでいるわけです。
 以上、まとめて言えば、以下のようになります。
1.悟りは瞬間のものであり、以後はその悟りの経験をかみしめつつも何らかのかたちで日常の時間を生きていくのであろう。
2.その瞬間は「永遠の現在」であり、過去から未来への時間の流れがないから、因果関係・主体客体・連続的変化・等がすべて否定される。「世界」から切り出されて「世界」と区別されるところの「おのれ」も存在しない。『中論』があらわそうとしているのは、このような世界である。
3.そのような「悟りの瞬間=永遠の現在」のありようは、日常の時間性の中では了解不可能である。従って、形式論理、それも帰謬法という、心理的了解とは最も遠い方法でそれは描かれる。
4.アビダルマの諸概念(三世実有の諸ダルマ)は、悟りの瞬間に至るまでの修道のよすが(彼岸に渡るための「筏」)にすぎないにもかかわらず、アビダルマはその限定を自覚していない。従って『中論』は、「悟りの世界においては」アビダルマの諸概念はもはや通用しない、と述べることでアビダルマへの批判ともなっている。
5.しかし、それは修道のよすが(「筏」)としてのアビダルマ諸概念の意義までも否定したわけではない。つまりアビダルマの全否定ではなく部分否定である。そのことを確認するために、『中論』の最終章では、すでに穏当な限定を付された後の姿としての十二因縁を、従来の形どおりに語っている。

 話は全く変わりますけれど、今週の日曜・月曜、先月と同様中央高速を、今度は家族一同で、八ケ岳山麓まで行きました。尖石(とがりいし)という縄文遺跡があって、そこの博物館の主催で縄文土器作り実習とその土器の「野焼き」という行事があって、私の妻と長女(小4)が参加したのです。その行事があった日曜日は八ケ岳山麓に泊まり、翌日は南アルプスの東側(山梨県側)にまわりこんで、長い間行きたかった「夜叉神峠」に登りました。妻は膝を痛めているので、妻と長男(小1)を麓に置いて、私と長女とで1時間かけて登ったのです。これはほんと、すごかったですよ。北岳・間ノ岳・農鳥岳の3000M峰三峰が目の前。農鳥岳の左の肩には、遠く塩見岳が見えました。曽我さんのお宅から見える塩見岳が反対側から見えたわけです。さらに遠くには赤石岳も見えました。
 観光案内みたいですが、南アルプスの展望台は西にしらびそ峠、東に夜叉神峠。しらびそ峠は二回行ったことがあります。曽我さんのお宅からはかんたんに日帰りできそうで、うらやましい限りです。でも、迫力から言うと夜叉神峠の方が……。
 帰りは松川までやってきますと、飯田から先がなんと渋滞60キロという表示が出ておりましたので、思い切って飯田から高速を降りて、先月曽我さんのお宅から帰った時と同じく一般国道153号線で名古屋へ帰りました。153号に合流するまでが渋滞でなんと30分かかってしまいましたが、その後は順調で2時間で名古屋に着きました。しかし眼が疲れました。
 では、また読んだり考えたりしたことがまとまっらたメール送ります。草々


谷 真一郎さんへの返事

 やっと返事をお出しすることができました。ぐずぐずしている間に、3通もメールを頂いてしまいました。

 実は、谷さんがいらした時読みかけだった中井久夫「最終講義」の後半で、ひらめきを得て、なんとかそれを形にしようと試行錯誤していたのです。言い訳がましいですが。

 一泊して頂いた翌朝、自我のモデル化を検討しました。(その場その場のノエシス的働きを小さな矢印で表し、平面状にプロットしていくと、家庭とか職場とか特定の対象に向かって密な場所ができる。その「場所」をペルソナ的ノエマ自己と呼ぶことができるだろう。そうすると自己を問う自己は、その平面の上方からそれらペルソナを見下ろす矢印の群の場所として表すことができるのではないか、云々)

 この自我モデル化が伏線として残っていたのかもしれません。もうひとつ仮説を思い付いたのです。「あたりまえ、、」HPに小論文のコーナーを新設し、やっつけで文章化したものを掲出しましたが、その後読んだ脳の本で知ったことも含めて再度まとめると以下のような内容です。

 脳の中の反省したり思考したり計画したりする部分(前頭連合野?)と感覚器官との間のどこかに、一定の基準に基づいて無用な刺激・情報を間引き、残された情報もできあいのパターンに落とし込んで処理するシステムがあるのではないか? それによって、脳は、処理すべき情報量を大幅に減らすことができるし、過去・現在から未来を予測する事が可能になり、危険回避や生存・遺伝子存続に有利な状況を選ぶことが可能になった。しかし、一方では、そのシステムが、一度きりの現象にあふれためくるめく世界を退屈な<いつも>に変え、現象を永遠の存在であるかのように捉えさせ、それに執着するようにさせている。
 主客対消滅の宗教体験や分裂病急性期は、その<いつも化>システムの一時停止ではないか。その時、無我なるノエシス的働きは、沸騰するスープのような縁起の世界と直接まじわり無数の現象とともに乱舞しているのではないか?  一定の対象・場における刺激・情報の処理・対応の形式をペルソナ的自己と呼ぶとすれば、世界からの刺激・情報の処理・対応のこの根本のパターンこそ、執着を問うべき問題の自我ではないか?
 私がこれまで問題にしてきた「けして対象化できない本当の主体の自分」とは、「今」にしかないそのつどのノエシス的働きであって、もともと無我である。本来執着とは無縁の、そのつどの働きであり、あらためて問題にすべきものではない。問題にすべきは、そのつどのノエシス的働きを執着に向かわせている構造・システムの方であろう。<いつも化>システムが、ノエシス的働きを執着の対象に向かわせている。(今読んでいる「私は脳のどこにいるのか」(澤口俊之、ちくまプリマーブックスP168あたり)にならっていうと、ワーキングメモリの情報バッファに保持される情報の偏向が執着の源なのかもしれません。「あたりまえ、、」の小論集の文章は、ほとんど「最終講義」だけからの拡大解釈なので、脳研究についての無知をさらけだしています。その後、「脳と人間」(計見一雄、三五館)と上記「私は脳の、、」を読み、いくつか立ち読みもしたところ、様々な仮説が百花繚乱で、なかなか手強そうですが、人無我説明の方弁として脳科学を勉強してみようと思っています。)

 まとめている時は、すごく面白いことを思い付いた気でいたのですが、数日しかたっていないのに、今では、脳研究についての知識の不足のみならず、いくつも欠陥が眼につきます。
 1)情報処理から意思決定に至るプロセスにあてはめると、刺激・情報の間引きという低位のものと、価値観による順位付け(執着)というかなり高位のものをごっちゃにしており、両者を一つのシステムの一体の作用のように考えている。
 2)今の仮説のままでは、システムから一方的に規定されるばかりで、決定論になってしまっている。主体的に求め行う菩薩の努力が生まれない理論になっている。
 3)脳科学の研究によると、分裂病では、前頭連合野(反省・計画・意欲などの座といわれているところ)におけるドーパミン受容体の減少がみられるという(「私は脳の、、」P162)。もし前頭連合野自身の変化が分裂病の原因だとすると、分裂病は、反省・計画・意欲などの作用そのものの病気かもしれず、だとすると私の仮説(前頭連合野の手前での情報の間引き<いつも化>の停止が原因とする思いつき)は、誤りとなります。(ただ、ドーパミンを出す側のニューロンは、中脳に集まっていて、そこから前頭連合野や大脳辺縁系に軸策が伸びているらしいので(「私は脳の、、」P16)、分裂病はやはり大脳だけの異常ではなく、大脳と中脳の関係の異常として考えるべきかも知れません。中井先生の本では大脳と小脳の関係のように読めましたが、、、)

 かくのごとく綻びだらけの仮説ですが、それでも「本当の主体の自己、ノエシス的働きは、もともと無我で罪はなく、意思決定の座の前に意思決定のしかたを方向付けるなにかがあって、そちらが執着や煩悩のでどころだ」という思いつきには可能性があるのではないかと思っています。というのは、脳研究者の本を読むと、意識とか意図とかをつかさどる部位が最高管理者ですべてを統括しているかのような印象があり、無明とか執着とか、努力してもなかなか克服しがたい深淵があることが軽視されているように感じるからです。意思決定する自己よりも、煩悩や執着や無明といった主体自己を束縛しているものの方を考えねばならないと思いはじめています。(しかし、気づいてみれば、こんなこと、十二支縁起をもちだすまでもなく仏教を学ぶスタートラインですよね。自己について、脳については、私自身の脳がまさに brain storming の状態です。)
 いずれにせよほとんどの脳研究が、自我を魂のような実体的な存在ではなく、脳内の反応(「あたりまえ、、」でいう現象)として解明しようとしているのは喜ばしいことです。近々脳の研究が、人無我を説く方便のひとつになるだろうと期待しています。

 長々と現況報告してしまいました。

 頂いたメールについて感じたことを。

 唯識と中観を対比すると、中観には現在という時間しかなく、修道論も持たないが、唯識は、凡夫が修行して菩薩・仏になる過程を明らめようとした、と述べておられます。(9月15日のメール)
 確かに唯識は、識が刹那滅しつつ連綿とつながっていくと説き、時間的視点が明白に感じられます。しかし、一方の中観が、悟り体験における「永遠の今」を語っているというのは、私の感じ方とは、少し受け止め方が異なります。我々が悟ろうが悟るまいが、世界は自性のない無我なる現象が縁起して生まれ変化し終息する場である、というのが中観の見方だと思います。当然ながら凡夫も凡夫のままにともに縁起している。しかし、我々凡夫は、執着のせいで世界をそういう風に見ることができない。中観の修道とは、瞑想しつつ、中観の教える世界を考察し検討し突き詰めていき、ついに執着を破ってその世界観を得ることだと思います。自分自身の無我を見るという難関はありますが。
 でも、確かにおっしゃるとおり、唯識は凡夫から菩薩・仏への変化の過程を中観より明確に対象化して問題にしているのは間違いありません。

 拙宅に来て頂いた折りに、この辺のお話をしていて、中論についてのお互いの重大な解釈の違いに気づいたのでした。
 現代の常識からすれば、強弁、屁理屈、矛盾に見える中論の主張を、私は「自性があると考えると」を補って読み、「自性があると考えると矛盾に陥る、よって自性はない」という主張だと解釈していたのに対し、谷さんはそのまま読んでおられたのでした。「日常論理からすると破綻しているかのように見える中論は、悟りの只中、イントラフェストゥム、永遠の今における世界の記述である」と。
 確かに勝手な言葉(自性)を挿入して、その言葉が否定されていると解釈するのは、恣意的な読みかも知れません。変な言葉を補わずに読めたら、その方が正しいでしょう。それで、レグルス文庫をもう一度おさらいしかけていますが、やっぱり中論の文章、というより文体は、永遠の今(私の言葉では、主客対消滅の宗教的体験)の記述としては、理屈っぽ過ぎるというか、分析的すぎる気がします。宗教的経験から日常に戻ってから、戯論寂滅の体験を何とか戯論で記述しようとして、あのような文体になったのでしょうか? それともあれがインドのスタイルなのでしょうか?
 それにしても、論理の形式をなぞりすぎのように思えます。よく言われるように、有部の土俵で、有部の論理で、有部を攻撃しているのだとすれば、有部の論理や主張を再確認し、龍樹がそれをどうひねっているのか考える必要があるのかもしれません。中論の読み方については、もう少し時間をかけさせて下さい。

 長らく唯識は遠ざけてきましたが、谷さんからこれだけプレッシャーを受けると、そろそろ年貢の納め時、勉強してみなければいかんのかなあ、とも思います。最後のあがきに、唯識を食わず嫌いする理由を述べさせて下さい。
1)変化と持続という矛盾する側面を両立させるためであろうとは推察するが、阿頼耶識とかマナスとか種子とか煩雑な要素が<捏造>され、しかもそれらの要素には、実体的な響きがある。唯識派は、それらが実体としてあるとはけして言わないだろうが、中観ほどには実体否定の純度は高くない。実際歴史的には。唯識は、駒大批判仏教グループの言うように、唯識は如来蔵思想のような実体化の思想につながっていったのだろうと思います。
2)もう一点は、谷さんも指摘しておられるとおり、外境を否定している点です。三界唯心。外境よりも自己の方に目をむけている。世界の中で自分だけを特別扱いしている。
 個人的経験で恐縮ですが、しんどい(よくない)状態の時、外界に目をむけることで助けられてきました。朝、駅に向かう途中で電線の雀を見上げるとか、風にゆれて光る笹薮だとか、ありふれた事に目をむけることで、なんというか、気持ちがストレッチする。Bob Marleyの"Three Little Birds" という曲をご存知ですか? 朝目覚めたら、玄関先に三羽の小鳥がいて、「くよくよしないで、そんなちっぽけな問題はみんなうまくいくから」と唄っている、という歌です。自分の内側を突き詰めるより、自分を外に開くことのほうがずっといい。世界を満たす様々な現象とともに縁起していることを知ることが我々の救いなのですから。

1999、10、24、 曽我逸郎
頂いたお酒「波動 超然」をやりながら。(ちょっと飲みすぎ、、)

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