曽我逸郎

あたりまえのことを方便とする般若経 注0

1997年11月

帰敬偈

滅することも生ずることもなく、断絶も常住もなく、ひとつのことでも異なったことでもなく、来ることも去ることもない縁起、本質的に分節的である言葉によっては、かくのごとくけして表現され得ない吉祥なる縁起を、慈悲と方便によって説かれた仏陀、最も勝れた説法者に礼拝いたします。 注1

初夏の集まり

 このように私は聞いた。 注2

 ある時、大きな谷を見下ろす山腹の村から、沢にかかる石橋を渡り、ブナの林をしばらく登った先の南向きの台地で、「あたりまえのことを説く」と呼ばれる如来が禅定に入っておられた。
 朝露のおりた背に新緑の木漏れ日が射して、湿り気を含んだ土の匂いの中、肩にのぼる蒸気が白く光っていた。

 あるものは噂に聞き、あるいは夢に見て、また不思議な偶然に導かれ、近くの村から、遠くの町から、さらには山脈のかなたから、途切れることなく人々が集まってきた。二人、一人、また一人と台地に着くと、三拝し合掌して如来のまわりを右回りに廻り注3、そこここに腰を下ろした。太陽が昇るにつれてその数は増え、南中を過ぎる頃には、台地はすっかり人で埋め尽くされていた。初夏の日差しは強かったが、乾いた風が梢を揺らし、誰も不快だとは感じなかった。

 その日集まった人々は、あるものは人の悩みを聞いてその苦しみを減じることに長け、あるものは経典の知識が豊富で、あるものは自分の幸福より他人の幸せを優先し、あるものは貧しい人々に多くの援助をしてきた。このように、この日集まった人々はみなよき人々で、悪行によって心を濁すことを注意深く避けてきたが、長らく今の状態にあり、さらに一歩解脱に向けて踏み出すことができずにいた。

 木漏れ日の中で、人々は静かに待っていた。
 かたわらでは、牛がくっきりとした影を落として草を食み、きちきちと鳴きながらバッタが飛び立つ。
 風に導かれて、枝の下を透かせば、緑もえたつ谷が広がり、そのむこうの森の傾斜が緩むあたりを、赤い電車がゆっくりと横切り、さらにかなたの雪を残した山脈の上には、乾きかけた刷毛でなでたような雲が、青空高く広がっていた。

 やがて、かすかに蜂の羽音が近づき、むきだしの肩にそれがとまると、あたりまえのことを説く如来は合掌し、ゆっくりと半眼注4から視線を上げて人々を見渡し、静かに語りはじめられた。

 善男子、善女人よ。
 私の話すことに、新しいものは何もない。なにもかもあなたたちの誰もが分かっていることばかりだ。しかし、あなたたちはそれを忘れている。我執によって強固な幻を作りだし、その幻によってさらに我執を強くする。幻と我執は、蘆の束のように互いに支えあって立ち上がり、ますます太く強くなる。
注5あたりまえのことは、ますます深く隠される。そして、あなたたちは、汚れが染みつき、重く固く脆くなって、暗い濁りに沈んでいく。
 幻に惑わされてはいけない。目を開き、見えるとおりに世界を見なさい。そうすれば、いつも新しい光の雫として、世界の中で世界とともに歌い踊ることができる。その時あなたたちは、けして苦に転じることのない喜び、すきとおった悲しみの混じった大いなる喜びを知るだろう。

 傍らに黄色いヘルメットを置いた男が、右膝を地面につけ合掌して、如来におたずねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 私たちは目を開けています。私たちが見ているのとは違う別の見方があるのでしょうか? 私たちが忘れている別の見方とは何でしょうか? けして苦に転じることのない、すきとおった悲しみの混じった大いなる喜びとは何でしょうか?
 あたりまえのことを説く如来よ。どうぞお教えください。

 傍らにヘルメットを置いた男は頭をたれた。深いしわの刻まれた赤黒く日焼けした首が見えた。

 見なさい。

 あたりまえのことを説く如来は、太い腕を伸ばし、眩しく日に照らされた一隅をさした。するとそこに砂が舞い、つむじ風が起こり、瞬く間に強くなった風は、大きく梢をゆるがせて台地を一巡りした。人々は、首をすくめ、持ち物や髪を押さえたが、風は起こったときと同様、すぐにおさまった。

 善男子、善女人よ。
 風が現われ、そして消えた。しかし、なにも増えたものはなく、減ったものもない。空気が動いただけで、その量に変わりはない。はたして風という「もの」が存在したのだろうか?

 傍らにヘルメットを置いた男がお答えした。

 いいえ。そうではありません。風は起こっただけで、「もの」として存在したのではありません。

 よろしい、よろしい。まさにそのとおりだ。
 しかし、風がまったくの幻だったという訳でもない。これだけの枝を折ったのだから。

 あたりまえのことを説く如来は、かたわらに落ちた大きな枝を拾い上げられた。

 あなたたちも同じだ。あなたたちが生まれた時も、増えたものはなにもなく、あなたたちが死んでも、減るものはなにもない。あなたたちは、起こっているだけで、存在しているわけではない。

 人々は、あたりまえのことを説く如来のおっしゃる意味が分からなかった。しかし誰もなにも言わなかった。
 如来は人々の疑念を察知して、再び比喩をもって説明された。

 あなたたちは、どこそこに泉があるという。しかし、泉という「もの」は存在しない。溢れでる泉の水は、流れさって留まることはない。あなたたちも、泉と同様に、ものが通り抜けていく場所なのだ。
 あなたたちが生きている間、多くのものがあなたたちを通り抜けていく。その間ずっとあなたたちの中に留まるものはなにひとつない。
 あなたたちの体を通ったものは世界へ散っていく。あるものはある時土となり、あるものはある時別の動物となり、あるものはある時草になり、あるものはある時鳥となる。今あなたとなっているものも、かつては風であり、土であり、草であり、魚であり、別の人であり、虫であった。そのようにして今のあなたたちは今のようにあるのだ。

 鍬を横に置いた男が、合掌して申し上げた。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 わたしたちはただの場所ではありません。体ばかりではありません。こうして尊い教えを聞き、考え、良い行いをすることができます。
 あたりまえのことを説く如来よ。どうか、わたしたちを良きもの、良き魂を持つものとおっしゃってください。

 あたりまえのことを説く如来は、ゆっくりと答えられた。

 あなたたちは「もの」ではない。あなたたちは存在ではない。

 風のないところで燃えるろうそくの炎を考えてみなさい。炎はじっと同じ姿でそこにあるように見える。では炎という「もの」が存在しているのだろうか?

 村の教師がお答えした。

 いいえ、そうではありません。
 ろうそくの炎は、蝋が少しずつ融けて芯をのぼり、酸素と結びついて熱と光を出す酸化反応の場所です。反応を終えた蝋は次々水蒸気と炭酸ガスに変わって散っていき、炎の中に留まるものはなにもなく、まして炎という「もの」が存在するわけではありません。

 よろしい、よろしい。そのとおりだ。
 炎と同じように、あなたたちという場所であなたたちが現象している。あなたたちは現象なのだ。あなたたちが正しい教えを喜びよい行いをするのも、炎が光や熱を発するのと同じく現象であって、よい魂というような、なにか「もの」が存在するわけではない。
注6

 善男子、善女人よ。
 気をつけなさい。魂という言葉に。仏の名を語り、ことさらに輪廻転生を説くものに。彼らは、金品欲しさに、人を救うといいながら人を脅す。
 世尊は無我を説かれた。間違いがおきないようにはっきりと言おう。あなたたちがあなたたちの本体だと考えているもの、すなわち霊魂は、世尊によって否定されているのだ。

 人々の中にざわめきが広がった。

 本を持った学生が、右膝を地につけ、合掌してお尋ねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 けれども、経典には世尊御自身の輪廻転生が記されています。如来となられる前の何生にもわたるの修行、善行、功徳があって、世尊は如来になられたと。

 よろしい。経典を読むのはよいことだ。あなたたちはもっと経典を読むべきだ。自分自身で経典を読み、仏の教えとはなにか、自分自身で考えなくてはならない。今、実に多くの輩が、仏の名を語り人々を欺き惑わせている。みずから経典を読み、みずから考えることによって、誰が欺き惑わせているか、見分けることができるようになる。

 善男子、善女人よ。
 確かに経典には輪廻が記されている。しかし、輪廻を深刻に捉えてはならない。輪廻は方便だ。世尊は輪廻を説かれたのではなく、輪廻からの解脱を説かれた。世尊の時代、人々は輪廻を信じていた。だから世尊は、輪廻を方便として、正しい知恵を説かれた。

 町からきた娘がお尋ねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。どうぞお教えください。
 正しい知恵とはなんでしょうか? 輪廻を方便として、世尊はなにを説かれたのでしょうか?

 あたりまえのことを説く如来は、町からきた娘にお答えになった。

 世尊は、輪廻を方便として、輪廻からの解脱の方法というかたちで、正しい知恵を説かれた。すなわち、他でもない、無我と縁起である。この二つと、その正しい後の発展であるところの空は、ただ一つのことをそれぞれ違う視点から説明している。これこそが世尊の教えの核心であり、これと相容れない教えは仏教ではない。仏教だとしても、方便にすぎない。

 さて、では本を持つ学生よ。

 不意に声をかけられて、得心していなかった学生は、驚いて顔を上げた。

 仮に輪廻するとしても、解脱によっていつかそれが終わるなら、なんの意味があるだろう? また死に、また生まれ変わるとしても、いつかそれが終わるなら、また眠りまた目覚める日々の生活とどれほどの違いがあるのか?

 学生は、しばらく考えてお答えした。

 いいえ、あたりまえのことを説く如来よ。
 何度輪廻を繰り返そうとも、魂が永遠のものでなくいつか終わるなら、眠り目覚める毎日の生活と本質においてなんら変わるところはありません。

 よろしい、よろしい。そのとおりだ。
 ではさらに尋ねよう。この中に前世のことを覚えているものはいるか?

 誰も答えなかった。
 あたりまえのことを説く如来の肩で、蜂が首をかしげながら前足で触覚をなでていた。

 前世があるにしても、覚えていないなら何程の意味があろう?
 あなたたちは、無我を恐れ自分がいつまでも存在しつづけると思いたいのだ。そのために前世と来世を創り出した。輪廻もまた、あなたたちの創った幻だ。あなたたちの我執の産物だ。
 我々には今しかない。今の我々には、過去も未来もない。前世も来世もない。前世を思い巡らし来世を心配する暇はない。ただひたすら一刻も早く我執を離れ正しい見解を得るよう、常にこの今、一心に努力するだけだ。過去生がどうであったか、来世がどうなるか、昨日はどうだったか、明日はどうなるか。このような問いは、問う意味がない。今どうあるか、どうあるべきか、それだけを気にかければよい。
注7

 まだ納得のいかない人も多いようだ。しかし、無我を正しく理解して我執を晴らせば、わだかまりも消える。今日はじっくりと考えてみよう。

 善男子、善女人よ。
 先ほどわたしは、あなたたちを「もの」ではない、現象だといった。では、「もの」と現象はどう違うのか?

 村の教師がお答えした。

 「もの」という時、私たちは、それを変わることなくいつまでも存在し続けると考えており、現象は不安定でしばらくの間のことで、やがて終わると思っています。

 よろしい、よろしい。そのとおりだ。
 「もの」という時、人は、それを変わることなくそれだけで存在し続けるものと思っている。だから人は「もの」に執着する。
 しかし真実は、どのような「もの」にも、始まりがあり、変化があり、終わりがある。独立自存して、いつまでも自分自身であり続けるものなどなにひとつない。自分自身を原因として生まれるものは、なにひとつない。誰もが知っているあたりまえのことだ。このあたりまえのことこそが、世尊の説かれた無我である。

 あたりまえのことを説く如来は、小石を拾い上げられた。

 この石も、このような石と呼ばれる形で今現象しているのであって、「この石」という永遠の「もの」が存在するわけではない。「もの」という概念は、執着心が言葉によってつくりだした幻だ。執着心が、執着する対象を求めて現象を固定してとらえ、「もの」という概念を捏造する。我々が普段「もの」としてとらえているあり方も、現象の持つ多くの形態の一つにすぎない。

 あなたたちも例外ではない。あなたたちという場所で、あなたたちという姿で現象している現象、それがあなたたちだ。自分を固定して「もの」と考えてはならない。それが我執だ。

 赤ん坊を抱いた女がお尋ねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 あなたのおっしゃることは、私にはあまりにもつらいことです。私たちには前世も来世もない、死んでしまえばその後はなにもない、そのように考えれば解脱できると、言っておられるのでしょうか?

 あたりまえのことを説く如来は、目を細くして赤ん坊に微笑みかけた。赤ん坊は、声を上げて笑った。

 わたしは、死のみを説くものではない。 わたしは誕生も説く。わたしは変化を説くものだ。
 世尊は、すべては無我だといわれた。なぜなら、すべては、縁によって他から生じたもの、縁起の現象だから。あらゆる現象は、縁起により、他の現象により条件づけられ、生み出され、変わり、いつか終息する。あなたたちだけでなく、私も、この蜂も、牛も、雲も、石も、山も、あの町並みも、この子も、すべてが縁によって生じ、縁によって変化し、縁によって世界を変え、いつか縁によって解消される。一切は重なり合い、互いに縁起しあって、変化する世界をつくっている。世界の一切が今あるものすべてを変え、今あるものすべてがそれぞれの仕方で世界を変え、世界の一切が今あるものすべてを消散させ、世界の一切が新しいものを生み出す。
 すべては無我であり、縁起する。なぜなら、すべては縁起し、無我であるから。

 あなたたちも、世界の内にあり、世界の変化に応じて縁によって生じ、世界の変化に応じて縁によって変化し、縁によって世界を変え、世界の変化に応じて縁によって散る。あなたたちという現象の場所は、世界の中に広がり、世界はあなたたちという場所を満たしている。あなたたちは、世界とともに縁起する現象だ。

 町からきた商人が、合掌して申し上げた。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 わたしには変化は恐ろしい。わたしは、変化ではなく、いつまでも変わらないものにすがりたいのです。
 あたりまえのことを説く如来よ。
 どうか、仏様や知恵の完成の教えは永遠不変の存在で、いつか必ずわたしたちを無我と縁起の変化の世界から永遠不変の世界へ救い出してくださると、おっしゃってください。

 町からきた商人よ。
 先程わたしは、経典を読めと薦めた。しかし、一部の経典の中には、世尊の教えと相容れない考えが忍び込み、仏説だと偽ってはびこっている。今あなたの言った永遠不変の法身仏の考えや、たとえば、一切有情に如来の胎児が宿っているといった考えがそうだ。これらは、永遠を求める心の願望だ。縁起と無我に反する。これらは、仏説ではない。
注8

 善男子、善女人よ。
変化する世界、無我と縁起のこの世界のほかに世界はない。
 あなたたちは、大変な考え違いをしている。ありもしない永遠を求めることが執着なのだ。執着するから永遠を望む。そこから苦は始まる。正しいあり方は正反対だ。無我と縁起こそがわたしたちの喜びなのだ。どうしてここから逃げ出すのか?
 変化を恐れてはならない。変化は恐ろしいものではない。変化を恐れ、永遠を見つけようとするから、あなたたちは楽しむことができない。

 見なさい。なにもかもが変化している。雲も、鳥も、山も、町も、木も、風も、台地も、太陽も、あなたたちも。すべてが歌い、踊っている。あなたたちは、どうしてこれを止めようとするのか? なぜともに歌い、踊らないのか? 注9

 人々は、顔を見合わせるばかりで、誰も答えられなかった。

 あなたたちに空を教えよう。

 あたりまえのことを説く如来は、天を仰ぎ、腕を広げられた。

 ここ、あなたたちの目の前で、空はなに隠さず歌い、踊り、弾んでいる。それなのに、あなたたちは、それを見ず、永遠不変という幻に心を奪われ、人から聞いた空の話を頭の中で解釈しようとしている。
 見えるままに見なさい。聞こえるままに聞きなさい。
 空は、世界が歌う歌、世界が踊る踊りのリズム、世界の脈動だ。空は力だ。存在の要素を吐き出し、呑み込み、結びつけ、引き離す。世界を生み出し、世界を変える。世界として凝結し、さらにみずから変化する。あなたたちも、わたしも、あの山も、風も、木も、虫も、太陽も、町も、星も、すべて空がそのように現象した姿だ。あなたたちが見るすべてのもの、そしてそれを見るあなたたちも、すべて空の脈動から生まれた。あなたたちも、空のリズムを打っている。空は、沸騰し、逆巻き、ねじれ、のぼりつめ、崩れ落ち、爆発する。宇宙を生み出し、無数の星となり、大きなもの、小さなものに凝結し、常に変化し、壊れ、また新たな現象として現れる。空は、変化と多様性だけを喜ぶ。

 村の教師がお尋ねした。

 空がそのような力であるなら、争いも犯罪もあらゆる悪徳も、すべて空から生まれたのでしょうか? わたしたちの心に芽生える欲望や怒りや妬みや思い上がりも、空が生み出すのでしょうか? 空は、善なるものではないのでしょうか?
 もし善でないなら、わたしたちが日々悪行を避け善行を積もうとすることに、なんの意味があるのでしょうか?

 そのとおりだ。すべての現象が、空の力から生まれる。争いも犯罪もあらゆる悪徳も例外ではない。空は変化と多様性だけを喜ぶ。善悪や美醜など、そんな世俗の尺度で空を計ることはできない。善悪、美醜、正邪も、変化を恐れる人間の臆病さが生み出した幻影だ。

 あなたたちは、これまで善行を積み悪行を避けてきた。今限りそれはやめなさい。善悪にとらわれている限り、悪行のみならず、善行も悪果をもたらす。慈悲に基づかない善行は慢心を起こすから。あなたたちは、自分が善行をなし、自分が功徳を受けると考える。あなたたちの善行は、あなたたちの我執を更に強くする。慢心は、あなたたちに染みつき、あなたたちを重く固く脆くする。世界とともに踊る日は、ますます遠ざかる。

 世俗の悪ばかりではない。わたしたちが解消すべき我執さえも空から生まれる。我執にとらわれ、欲に走り、幻を追うことも、また一つの空の歌であり、空の踊りなのだ。

 わたしたちにとって、二つのあり方、つまり、我執にとらわれて凝り固まり重く濁っているのと、我執を離れてはつらつと透明に弾んでいるのとでは、まったく違う。しかし空の側からすれば、どちらも空の力の現われであることに変わりはない。 注10

 町からきた娘が、お尋ねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 それでは、わたしたちは、なにを目的に生きればよいのでしょうか? すべてが空の力の現われで、善悪も正邪もなく、すべてが平等であるなら、わたしたちは、なにを指針に生きればよいのでしょうか?

 あたりまえのことを説く如来は、ゆっくりと町からきた娘の方へむき直られた。

 我々には、菩薩として努力すべきことがある。注11 しかし、勝義としては、人生に目的はない。人生ばかりではない。世界にはそもそも目的などないのだ。
 町からきた娘よ。
 もともと無いものを探して苦しむことはもうやめなさい。いくら悩んでみたところで、ないものはない。ないものにすがろうとする気持ちが、弱さの現われであると知るべきだ。

 しばしば人は自問する。わたしは何をすべきか、何になるべきか、なるべきだったかと。これもまた、我執の産物だ。自分という「存在」を世界から切り出して妄想し、そこに意味を与えようとする。しかし、もともとないところには、なにも載せられない。「何」の問いは不毛だ。世界とともに踊り変化するあなたたちという現象を、できあいの言葉で手軽に価値づけられるはずがない。未来や過去の「何」ではなく、今の「如何に」を問いなさい。逃げることなく、ごまかすことなく、無我・縁起の現象として誠実に生きなさい。それだけが、あなたたちの生を尊いものにする。どこまで誠実に生きられるかを突き詰めてみなさい。その結果、聖者と呼ばれようが、罪人といわれようが、無名のまま終わろうが、それはまったく重要ではない。 注12
 無我を知り、縁起を知り、空を知れば、目的や意味などにわずらわされることはない。

 手に数珠をかけた老婆がお尋ねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 あなたの教えは、わたしには恐ろしい。あなたは、来世はないといわれた。おすがりできる永遠の仏様はおられないといわれた。善行は悪果をもたらすといわれた。わたしたちが解脱しようと、迷いの中をさまよおうと、空は気にかけないといわれた。人生にも世界にも目的はなく、わたしたちが罪人になってもかまわないといわれた。あなたはわたしの希望のすべてを絶やしてしまわれた。どうしてあなたの教えが喜びをもたらすのでしょう? 空に慈悲はないのでしょうか?

 手に数珠をかけた老婆よ。
 慈悲は外に求めるものではない。内に見いだすものだ。あなたたちの内から湧きあがるのだ。
 あなたたちの望むような慈悲は、空にはない。あなたたちは、永遠を望んでいる。空は変化を喜ぶ。空の慈悲とは、世界とともにあなたたちを生みだし、世界とともにあなたたちを変え、世界の中であなたたちを壊す、そのような慈悲だ。この慈悲が、あなたたちに悲しみの混じった大いなる喜びをもたらす。

 あなたたち、どうしてわたしの教えを恐れるのか? どうして絶望の教えというのか? それは、あなたたちが、まだ変化を恐れ、変化を見ようとしないからだ。

 世界に向けて目を開けなさい。目だけではない、胸も開きなさい。風をはらむ帆のように胸を広げて、体を貫く風と光、空の流れを感じなさい。

 あたりまえのことを説く如来は、立ち上がり腕を広げられた。

 さあ、あなたたち、なにが見えるか? 世界で今、なにが起こっているか?
 さあ、答えてくれ。

 沈黙の後、村の教師がお答えした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 いつもと同じです。特になにも変わったことはありません。

 善男子、善女人よ。
 わたしは、「いつも」を聞きたい。あなたたちは「いつも」を見ないから。さあ、あなたたち、立ち上がり、見渡して、今の「いつも」を語ってくれ。

 人々は立ち上がった。しかし、顔を見合わせるばかりで、誰も答えられない。

 さあ、どうした。誰か、今なにが起こっているか、教えてくれ。

 後ろのほうから、おずおずと声が上がった。

 梢が風に揺れています。

 あたりまえのことを説く如来は、手をたたいて喜ばれた。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。

 左から声が聞こえた。

 牛が草を食べています。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。

 娘の声がした。

 川の瀬がきらきら光っています。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。

 女性の声がした。

 わたしたちがここに集まっています。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。

 若者の声がした。

 西の国で戦争をしています。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。

 男の子が空を指差した。

 飛行機雲がまっすぐ伸びていきます。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。さあ、もっと言ってくれ。

 年寄りの声がした。

 下の畑のとうもろこしの実が張ってきています。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。
 今あなたたちが話してくれたことは、すべて空の歌う歌であり、空の踊る踊りであり、空の力の脈動だ。この広い宇宙で、今この時、実にさまざまなことが起こっている。

 見なさい。

 あたりまえのことを説く如来は、天を仰がれた。すると、眉間の白毫から光が放たれ、青空を貫き、光は輪になり、輪は広がって人々を頭上からすっぽりと包んだ。いつのまにか台地は大きな蓮華となり、人々を乗せて舞い上がった。ある時は毛の先ほどに小さくなって、谷をわたる蝶に従い、羽の一打ちごとに鱗片の光沢が茜から紫へ、また茜へと映し変わる様を見た。ある時は、雪渓を吹き上がる霧の風に運ばれながら、岩稜を乗り越える風が、うなりながら新しい雲の塊を次々に湧きあがらせる様を見た。ある時は、大きな町の上方から、多くの人や車がそれぞれ勝手に忙しく動き回りながら、町全体はゆったりとしたひとつのリズムで脈動しているのを見た。ある時は、太陽にいたり、その表面にほとばしる炎が、よじれ、そりかえり、逆巻く巨大な紅蓮の虹となって飛び跳ねる中をくぐり抜けた。ある時は、漆黒と静寂の空間に佇み、燃えつきて縮んだ星が、突然輝き、すべてを放出して宇宙をまぶしく照らす様を見た。ある時は、二つの銀河が、近づき、互いの内から黒い雲を紐のようにたぐりよせあいながら、重なりあい、すれ違い、また遠ざかっていく様を眺めた。そしてその他にも、大河の砂の数ほどのさまざまな現象の姿を。 注13

 百千億劫の間、人々は我を忘れて見入っていた。しかし、気がついてみると、皆もとの台地に座っており、ほんのしばらくしか時は過ぎていなかった。人々は、驚嘆して口々に声を上げた。

 驚くべきことです、あたりまえのことを説く如来よ。
 わたしたちは、今、実にさまざまなできごとを見ました。世界がどんなに多様で、どれほど激しく変化しているか、はっきりと見ました。毎日毎日同じことの繰り返しと思っていた世界が、どれほど激しく変化しているか、やっと知ることができました。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。
 しかし、あなたたちは、大きな激しい変化にばかり心を奪われたことだろう。あなたたちが変化を見ない「いつも」もまた無限の変化でできていることを、あなたたちは見なければならない。
 これまであなたたちは、善行に励み、永遠ばかりを探してきた。だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない。無我を、縁起を、空を見ることがうまくない。あなたたちは、練習が必要だ。

 あたりまえのことを説く如来は、再びゆったりと足を組み、人々にも腰を下ろすように促された。

 鍬を横に置いた男が、合掌してお尋ねした。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 どうか、お教えください。わたしたちは、どのように練習すればいいのでしょうか? どうすれば、世界の変化をありのままに見ることができるのでしょうか?

 よろしい。練習の仕方を教えよう。

 まず、日々できる限り悪を避け、欲望や怒りを鎮めなさい。練習をはじめる準備として、心を穏やかにしておく必要がある。完璧に、とは言わない。完璧を目指してままならず、心安らげないようでは逆効果だ。
 欲望や怒りや焦りは、あなたたちを荒々しく揺さぶる。静かな水面でなければ、世界の変化を映すことができない。激しい感情にのまれそうになったら、一歩離れてながめてみなさい。すっかり鎮められなくても、力を失いしぼんでいくだろう。

 はじめの、そして一番大切な練習は、座る練習だ。座る練習をきちんと続けていけば、自分と世界の境がなくなる経験をする。自分と世界がまるまるひとつになる。自分もなく、意識もなく、意識の対象もない。それがどのようなものだったか、後から思い返すことはできない。言葉が生まれる前の経験だから。この経験を繰り返すことによって、あなたたちは、こねられ、殻がとれ、柔軟になり、世界にむけて大きく開かれる準備ができる。

 では、誰か、もう一度みんなに座り方を教えてくれ。

 傍らにヘルメットを置いた男が、合掌し、足を組んで申し上げた。

 およそ、禅定に入ろうとする人は、まずゆったりとした服を着て、静かで心地よい場所を選びます。柔らかいものを敷いて、足は結跏に組み、もしそれがつらければ半跏でもいい。両膝が地面につくように尻には一段高く敷き物を敷きます。左手の親指を右手で包むように両手を組み、力まず自然に胸を張り、顎を引いて、そのまま体を前後、左右に揺らし、尻から頭の先までまっすぐ上に伸びたところで止めます。舌は上顎につけ、視線は一、二メートル先に見るでもなく落とし、鼻先に意識を集めて、腹の底からゆっくりと息を吐き、すべての息を吐き終えたら、静かに息を吸ってまたゆっくりと腹一杯にためます。この吐いて吸う大きな長い息を十数え、何度も繰り返し、なにも考えず、ただ息を数え続けます。

 傍らにヘルメットを置いた男は、自分で言ったとおりに座り、息を数えはじめた。砂色の作業服の日焼けした顔は、十を二回も数えないうちに禅定に入り、がっしりとした長身の座相は、石や木のごとくまるではじめからそこにあったかのように周囲に溶け込んだ。注14

 人々も、倣って足を組み直した。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。
そのようにして、三十分でも十分ずつでもいい、時間を見つけて何度も座りなさい。なにも考えずに。しかし、考えてはいけないと考えると、それがまた考えになる。さまざまな思いが起こっても、放っておけばよい。ゆっくりと息を数えていれば、荒波はおさまり、そのうちにさざ波になる。何度も座るうちに、やがてすっかり静まってしまう。そうすれば、澄んだ静かな水の底に光が射すように、世界があなたたちの底まで届き、あなたたちを透り抜けていく。その時、あなたたちにはなんの意識もない。ただ空のエネルギーがこんこんと湧き出す泉になっている。はじめは長く続かないかもしれない。焦ることはない。時間を見つけて少しずつでも座るうちに、だんだん長く、簡単に禅定に入れるようになる。何度も何度も繰り返しなさい。やがて禅定が心地よくなってくる。しかし、一人禅定を楽しんでいてはいけない。衆生があなたたちを待っている。禅定を楽しめるようになったら、二番目の練習を始めなさい。

 「もの」の無我を見る練習だ。これは、少しつらいかもしれない。
 いつも使っているもの、たとえば茶碗でもいい、あなたたちが慣れ親しんでいるものを、目を凝らしてじっと見つめなさい。かすかな汚れ、縁の歪み、釉薬のむら。ひび。細部をあくまで詳細に見つめ続けなさい。あなたたちの手でもいい。手の甲の網の目のような皺が、あるところでは荒くあるところでは細かくなっている様子、細い毛が網の交わりからはえる様子、爪の生え際の皮膚との境目。

 人々は、自分の手を見た。大きく分厚い手、細く白い手、日に焼けて皺の彫り込まれた手、さまざまな手があった。

 細部を見つめるあなたたちの目は、慣れ親しんだ「もの」に被せられた厚い皮をはがす。見つめるうちに、あなたたちは驚くだろう。あなたたちの見たことのない異様な姿が、突然現われる。もはやそれをなんと呼んでいいか分からない。茶碗が茶碗でなくなる。自分の手が、手ではなくなる。決まった使い道も、名前もない。これがむきだしの「もの」の姿だ。現象の一つの形としての、ありのままの姿だ。表情のない見知らぬ顔だ。あなたたちは恐ろしくなるだろう。だが、ひるまず繰り返し見つめ続けなければならない。

 すぐにあなたたちは知る。あなたたちのそれまでの見方が、どれほど自分勝手だったか。茶碗と呼び、手と呼ぶことが、なにをもたらしてきたか。自分勝手に名前をつけ、自分勝手に用途を決め、「もの」が自分のためにいつもあると思っていた。わたしの茶碗、わたしの手。こうして執着が始まったと。

 しばらく苦しい日々が続くだろう。人間の作ったあらゆる物、そして、あなたたち自身の体が、あなたたちを拒絶し、世界のどこに逃げても、むきだしの「もの」があなたたちを追いたてる。あなたたちは、世界の中で居場所を失う。それまでの生活の身勝手さに気づいたために、身勝手だが安楽な生活から追われる。

 習慣的なあり方を超えて、前とは違う仕方で世界と和解しなくてはならない。そのための練習が、その次の見ない練習だ。むずかしくはない。あぜ道でもいい、土手でもいい、危険のないところを、なにも見ず、目は開けて、ゆっくりと息を数えながら歩いてみなさい。なにものにも焦点を合わせず、ずっと遠くの人の背よりやや高い中空に視線を浮かべて。
 あらゆる方向から沸き上がってくるさまざまな音が、あなたたちをとらえるだろう。聞こえていたのに聞いていなかった音だ。足が草を踏む音、遠くのクラクション、鳥の声、水の音、枝を抜ける風。さまざまな音が混ざりあい、一つにとけあって、あなたたちを包む。草の匂い、煙、土。さまざまな匂いにも気づくだろう。
 焦点を合わさずに見る世界は、輪郭線を失う。ひとつひとつの「もの」が、もはや形のある独立した存在ではなく、形のない色と光の踊りになる。ある部分は明るく、ある部分は暗い。ある部分は流れ、ある部分はざわめき、ある部分は動かない。この練習は、世界を全体として感じるための第一歩でもある。 注15

 さて、善男子、善女人よ。
 虹の色はいくつあるか?

 七つです。

 元気よく少年がお答えした。

 本を手にした学生がお答えした。

 いいえ。そうではありません。あたりまえのことを説く如来よ。
 虹は、赤から紫まで少しずつ色を変え、その間に区切りはなく、色を数えることはできません。

 よろしい、よろしい、そのとおりだ。
 しかし、わたしは、七つという答えも欲しかった。

 あたりまえのことを説く如来は、少年にむけて手を伸ばされた。間違いに顔を赤くした少年は、額に如来の大きな手を感じた。

 そのとおり、実際の虹の色は、段階なく変化し、数えることはできない。色鮮やかなときもあれば、ぼんやりしたときもある。しかし、あなたたちは、虹と聞けば七色で美しいと思う。虹は七色で美しいと教えられて育ったからだ。五色と教えられた人は五色と思い、八色と教えられれば、八色に見る。あなたたちは、このように教えられ、このように学んできた。あなたたちは、言葉によってあらかじめ決められた仕方で世界を分類し整理する方法を学び、そのようにして世界を見ている。無限に変化している一回限りの現象が、言葉によって退屈な「いつも」にされる。言葉にまとわりついた好悪、善悪、美醜といった価値のレッテルが、多様な現象をひとからげに処理する。言葉が「もの」の用途を決める。そのようして分類され整理され価値づけられた世界は、防腐剤処理された剥製のように、艶を失いひからびて、もはや走ることも、歌うことも、飛ぶこともない。これが永遠の世界だ。あなたたちは、生きて変化する世界から目をそむけ、言葉というピンで留められた永遠というひからびた世界ばかりを見てきた。 注16

 見つめることを学び、「もの」の無我を見たあなたたちは、言葉が世界のありのままの姿を歪め、自分たちのものの見方を支配していることを発見し、ひとつ深くなる。しかし、言葉の力を過大評価しすぎても、間違った解釈に陥る。言葉を操る心や意識にだけ注目するという過ちだ。
 経典と呼ばれていても、すべてが世尊の教えに添うものでないことは、既に話した。これもそのひとつだ。つまり、世界は夢幻に過ぎず、ただ心だけがあり、言葉によって心が世界を創り出しているという考えだ。日常的なあり方の虚構性を知ったあなたたちは、このように説く経典や論書に魅せられるかもしれない。しかし、このような考えは、世界を内と外に分けて外界を否定し、心のしくみばかりを分析する。心が世界を妄想するといいながら、本当に妄想されているのは、いたずらに複雑化された心のしくみの方だ。
 確かに世界は、存在としては存在しない。しかし、現象としては現象している。けして単なる夢幻ではない。もし、あなたたちの誰かが、世界は妄想にすぎないと思うなら、針で自分を突いてみればいい。幻の針で幻の体を突いたのなら、その痛みも幻にすぎないはずだ。
 心や意識を分析するよりも、ありのままに世界を見なさい。内に目をむけるより、外に自分を開く方がずっと大切だ。
 あなたたちは、世界の中でなんら特別な存在ではない。あなたたちも、岩や、虫や、雲や、風や、星と同じように、世界の中に世界と共に生まれた現象なのだ。あらゆる現象と対等に互いに縁起しあう現象だ。この認識が、あなたたちに大いなる喜びをもたらす。 注17

 さあ、あなたたちは、座ることを学び、見つめることを学び、見ないことも学んだ。これらの練習に磨きをかけるために、時々でかまわない、山に入りなさい。高い山である必要はない。何日も篭る必要もない。一日でも半日でもいい。人のいない山に一人で登りなさい。かつて多くの聖者が人里を離れ山に入ったのは、まったく意味のないことではなかった。あなたたちも、静かな山に入って、座る練習、見つめる練習、見ない練習をしなさい。
 ここでの目的は、空の世界を全体として感じることだ。ただ大きいだけではない。重要なことは、あなたたち自身を含んだ関連の全体として世界を経験することだ。外から対象化した世界ではなく、あなたたち自身が世界のすべてとともに歌い踊り、互いに縁起しあって世界となる、そのような世界だ。世界とともにあなたたちを生みだし、あなたたちを動かすエネルギーとして空を感じて欲しい。世界を縁起の世界として外からみることは、まだたやすい。しかし、自分もその一部だと知ることは、ずっと難しい。

 あたりまえのことを説く如来は、空を仰がれた。太陽は、すでに西の山脈にかかっていた。

 わたしは多くを語った。ここからは、あなたたちは、自分で考えなければならない。そして、座る練習と見つめる練習、さらに見ない練習も積まなければならない。そしてある日、なにかがあなたたちに起こるだろう。
 今日はこれで終わろう。またわたしは帰ってくる。その時に、なにがあなたたちに起こったか聞かせて欲しい。

 あたりまえのことを説く如来は、合掌して立ち上がられた。人々も立ち上がり、合掌して低頭した。あたりまえのことを説く如来も、人々に頭を垂れ、手を胸の前に組みかえると、素足で力強く木の根を踏み、尾根道を登っていかれた。
 その姿が木々の間に見え隠れしながら遠ざかり、やがてすっかり見えなくなると、人々はまた腰を下ろし、それぞれに足を組んで、姿勢を整え、あたりが暗くなるまでそこで息を数えていた。


      *   *   *


晩秋の集まり

 三年がすぎ、夏が去り、秋になった。

 その秋も深まり、西の山脈が新しい雪に包まれたある朝、人々は、再び導かれて集まってきた。しっとりと露を含んだ落ち葉と木の実を踏んで台地まで登ってくると、大きな影が、三年前の初夏と同じ姿勢で背に日を受けて座っておられるのを見つけた。人々は、合掌し低頭し、あたりまえのことを説く如来の周りを右回りに回ると、枯れ葉の上で足を組み、息を数えはじめた。
 穏やかな日差しが、葉を落とした枝に分けられながら、ゆっくりと登っていった。夏の集まりよりさらに多くの人が座っていたが、それぞれ深く静かに息を整えていたので、風に揺れる枯れ草の音と虫の声しか聞こえなかった。

 太陽が一番高いところを過ぎたころ、あたりまえのことを説く如来は、鈴(りん)を打たれた。高く鋭い音が空気を貫き、木の実を集めていたリスが驚いて草むらに飛び込む。透きとおった長い余韻の中で、人々は、それぞれ静かに合掌して禅定を解き、あたりまえのことを説く如来に顔を向けた。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。
 よく練習してくれた。ずいぶんたくさんの人が、座ることは、もう完璧にできている。この中には、見つめる練習でむきだしの「もの」を見た人もいる。さらに見ない練習にも励んだ人の中には、なにかが起こった人もいるようだ。

 さあ、話してくれ。なにが起こったのか。

 あたりまえのことを説く如来は、かたわらに座っていた娘を促された。

 人々は、町からきた娘に注目した。娘は、予期していたように落ち着いて話しはじめた。

 あたりまえのことを説く如来よ。最初に、告白せねばなりません。
 一昨昨年、ここにきた時、わたしは世の中のあらゆる人々を憎みさげすんでいました。中学の頃からずっとそうでした。人々のしていることが、なにもかもつまらないことに思えたのです。勿論自分が立派なことをしているからではありません。反対に、自分がなにひとつ有意義なことをしていないからこそ、そのいらだちを、周囲の人にむけていたのです。
 毎日毎日いらいらと動きまわりながら、どこに向かっても進んでいない毎日。むなしく同じ問いばかりを自問していました。
「なにをすればいいのか? なにをすべきなのか? 真に価値ある目的とは何なのか?」

 自分を捧げられる対象が欲しかったのです。しかし、どんな立派な仕事もやるに値するとは思えず、どんな遊びにも夢中になることはできませんでした。
 不思議な縁で大乗の教えに触れ、尊敬すべき方々のお話を聞き、座禅もしてきましたが、それでもやはりまわりの人々を見れば、つまらないことで一喜一憂し、そうすることによって目的のないむなしさをごまかそうとしているのだとしか思えず、さげすみ、さげすむばかりで本質は変わらない自分に腹を立てていました。

 夏の説法の時、あたりまえのことを説く如来は、ありもしない目的を探して悩むことは止めよとおっしゃいました。「何」ではなく、「如何に」を問えとおっしゃいました。我執を解けば目的や意味にわずらわされることはないとおっしゃいました。その言葉が気にかかって、もう一度きちんと練習をやり直そうと思いました。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 なにもかも教えていただいたとおりのことが起きました。座る練習を繰り返すうちに、ほんのしばらくですが、自分が空っぽになる時があり、何度も何度も座っていると、それが少しずつ長くなって、二年がたったころには、座っている間気づかないうちにただ時間がすぎているようになりました。禅定が解けてしばらくの間は、心がしんと落ち着いて、静かないい気持ちでした。見るもの聞くもの、何もかも心に染み入って、見慣れた町の景色も、音も、人々の暮らしも、自分が旅人になってはじめて訪れた土地のように新鮮なものに感じました。

 そしてある日、見つめる練習を試してみました。すると一時間もしないうちに、おっしゃっていたことが起こりました。いつも使っている手帳が、突然得体の知れない、不気味なものになったのです。いいえ、ものというより、映像といったほうがふさわしいかもしれません。皮表紙の油の染み、すりきれた縁の縫い取り、折り癖がついて浮き上がったページの重なり。なにもかも細かなところまでくっきりと見えるのに、どこかあやふやでうさんくさい。頭では、これはわたしの手帳だと分かるのに、気持ちは一体なにの道具かといぶかっている。つかもうとしてもそこに実体のない三次元の幻影のようで手を出すのが恐い。どこか遠くの別世界のものを見ているようで、手に持っていても、触覚と映像が結びつかないのです。
 それ以来、目を凝らしてみると、何もかもそのように見えるようになりました。それまで慣れ親しんでいたはずのものばかりだのに、まるでわたしが目だけで体がなくなったかのような、遠くから秘密の鏡でこっそり知らない世界を覗いているような、不安で気味の悪い感覚です。なにひとつそれまでと変わっていないのに、世界がそっくりすりかえられてしまったようで、どこかがおかしいのです。町並みの建物も、見えている表面だけで、その向こうの質量が感じられず、馴染みのお客さんの話を聞いていても、皺やほくろに気を取られてしまい、いったんそうなると、声が遠くなり、意味のないただの音になってしまいました。目や口や鼻がばらばらになり、顔が顔でなくなるのです。無理に話を合わせていても、違う、違う、ごまかすな、おまえは嘘をついている、芝居をしていると、別の自分がわたしを責めるのです。つらい毎日でした。

 でも、不思議なことに、山や木といった自然は、見つめても姿を変えません。どっしりとあるがままにそこにあったのです。泰然とそびえる大木を仰いでいると、自分の小ささが情けなく思われ、同時にまた勇気づけられるような気もしました。ともかく山に行けば追い立てられずにすみました。それで自然に山へ行き、座る練習、見る練習に加えて、見ない練習もするようになりました。谷を登る風に、寄せる波のようにゆれる草の斜面で、自分も風に吹かれているのは、自分の中にたまった悪いものが吹き飛ばされていくようで、追いつめられたわたしにとって、ほとんど救いでした。
 やがてわたしは、あたりまえのことを説く如来のおっしゃっていたことの意味が少しずつ分かるようになりました。たとえば、どのように言えばいいでしょう、山には実にたくさんの草が茂っています。丸い葉、長い葉、切れ込みの入った葉、大きな葉、小さな葉、艶のある厚い葉、毛の生えた柔らかな葉。色も違えば、葉脈の走り方もさまざまで、どうしてこんなにたくさんの種類が同じところにあるのか、見つめれば見つめるほど不思議さは募り、その時、あたりまえのことを説く如来の「空は変化と多様性を喜ぶ」という言葉を思い出しました。草木も虫も鳥も大地も、助け合い、利用しあい、せめぎあって、一つの世界をつくっていました。これが縁起の世界だろうかと思いました。

 半年ほど前でした。いつものように尾根に登って、座る練習、見る練習の後、見ない練習をしていました。谷の向こうの潅木の斜面で裏返された葉が白い波紋のように広がり、風が通っているのが分かりました。足元の草がさわさわと震えていました。虫の声が低く重なりあい、そこかしこの草むらでとぎれとぎれに鳥が鳴き、その声がかすかに木霊していました。青々した匂いに、朽ちた木の匂いが混じっていました。光が溢れ、常緑樹の固い深緑の葉も、一年草の柔らかな黄緑も、それぞれの仕方で光を反射し透かしていました。山肌を雲の影が形を変えながら同じ速さで滑り、あらゆる木が、草が、生き物が、日の光と風を楽しんでいました。
 うまく説明できません。こうして言葉にするとばらばらになってしまいます。その時は、これらのことや、そのほか言葉にできないすべてのことが、ひとつのかたまりになって、大きな繭のようにしっかりとわたしを包み込みました。そして、ふいにそれが小さく縮んで、ぎゅっと締めつけられたように感じた瞬間、逆にはじけとび、大きな大きな喜びがこみ上げて、体中に溢れ、溢れだし、沸き上がり、谷も山も空も満たしました。あるいは世界に溢れていた喜びが、わたしの中にどっと流れ込んできたのかもしれません。その瞬間、まったく新しいわたしが、まったく新しい世界とともに生み出されたのです。雲や木や風や鳥や虫たちといっしょに今ここに生まれた、世界のすべてとつながっている、世界とひとつなのだという喜び。大きな力が、今、世界といっしょにわたしを生み出したという喜び。無数のものを吹き上げて沸き上がる大いなる空の力。この空の力が、一瞬一瞬世界となってほとばしり、世界とともに新しいわたしが生み出されている。
 言葉は、なんてまどろっこしいのでしょう。今言ったすべてのことがひとつの意識されない大きな感情となって、わたしは言い様のない幸せに満たされました。

 それ以来、町にいることが苦痛でなくなりました。目的や意味の疑問が失せて、車の往来、商店街の飾り付け、買い物客と店主のやり取り、なにもかもはつらつと映り、空の現われとして楽しめるようになりました。

 町からきた娘は口をつぐんだ。

 感嘆して娘の話に聞き入っていた人々は、あたりまえのことを説く如来の言葉を期待した。しかし、あたりまえのことを説く如来はなにも言わず、ただ手で続けるように促された。

 町からきた娘は、しばらくためらった後、心を決めたようにゆっくりと話しはじめた。

 八月の末の午後でした。その日も朝から山に入り、いつもの尾根にしばらくいた後、帰る途中でした。沢筋まで降りて、池のほとりにさしかかった時、道の先に動くものがありました。近づいてみると大きなミミズです。ひび割れた黄色い土の上で炎天の日にさらされ、砂粒をまとって捩じれていました。思わず足を止めて見つめていました。半分干上がって細くなった体に何匹も蟻をたからせたままじっと動かないので、もう死んでしまったのかと思っていると、突然激しくもがき、またすぐ動かなくなるのです。長い間隔をおいてそれが何度も繰り返されました。ちりちりと煎るような太陽の下、蟻の群れに責められながら、このミミズの死はゆっくりと時間をかけて進んでいきました。
 それまでもわたしは、何度も死に接しています。自分でもたくさんの虫や魚を殺しました。友人や家族の死にも巡り会いました。でも、これまでは、何度死に接しても、いつものありふれた毎日が変わることなく続いてきました。息を引き取る瞬間に立ち会った祖母の場合も、口も目もすぐに閉じられ、化粧まで施され、儀式で整えられた死になってしまい、焼き場で骨を拾う時ですら、祖母の死を実感できませんでした。そんな自分は棚に上げて、家族や親戚が妙に生き生きと食事や車の段取りをつけるのをさめた目で観察していました。死でさえもありふれた日常の中に塗り込めてしまうほど、「いつも」は、わたしを深く支配していたのです。
 あたりまえのことを説く如来のお教えに従い、練習を続け、ようやくありのままに見ることを学んだ後で、刻々と進む死を赤裸々に見るのは、これが初めての経験でした。
 苦しくなって、わたしは目を上げました。すると、いつのまにそれほど時がたっていたのか、太陽が池の向こうにまわり、さざ波に日が照って、たくさんの小魚がひとつところで跳ねるように、水面にぴちぴちとミルク色の光が踊っていました。蜩がかなかなと鳴き、鳶が谷の上の高いところに弧を描いていました。やがて東の山際から、空は薄墨を流したように光を失っていき、西をふりむけば、捩じれた紐のようなあずき色の雲が茜の空を上下に分けて、その縁は金色に輝いていました、杉の木立は、夜にむけてもう眠る準備をしているように静かで、明星が、捩じれた雲の上のみどりがかった空にまたたき始めました。

 町からきた娘は、いったん口をつぐんだ。人々は耳を傾けていた。

 世界は実に美しかったのです。干上がったミミズの死をそこに残したまま。
 わたしは考えざるを得ませんでした、空の現われの世界はこんなに美しいけれど、このミミズの死も含んでいる、ミミズだけではない。今この瞬間、沸き上がる空の世界の中で、大河の砂の数を大河の砂の数だけ掛け合わせたほどの有情が、苦しみながら死んでいく。変化する世界の喜びは、滅び逝く無数の有情の苦しみとひとつだったのです。わたしは、改めて闇に呑み込まれようとする山の景色を眺めました。
 有情たちのこの苦しみに対して、わたしはなにもできません。もがきながら死んでいくミミズにも、見つめることしかできなかったように。生まれ、生きて、死んでいく、喜びと悲しみ。一切の有情のこの喜びと悲しみを思い、わたしは涙を流していました。

 いずれわたしも、ミミズのように死ぬでしょう。わたしは、この苦しみを受け入れる強さを持ちたいと思います。
 すでに世尊は、生老病死の苦を説かれています。これらの苦は、私たちが縁起の現象である以上、避けられないものです。空の大きな喜びと同様、現象としての私たちの本質に根差しているからです。言うなれば、空の苦です。それでもあえてこれを避けようとすれば、それはもはや我執であり、かえって別の濁った苦までもたらし、さらには空の喜びをも見えなくします。
 わたしたちの苦には、二種類あるのです。避けられない苦、大いなる縁起の喜びとひとつの苦と、私たち自身が我執によってつくる無用の苦しみ、縁起の喜びを見えなくする苦が。

 影になって連なる稜線を眺めながら、わたしは身の回りの人たちを思いました。
 彼らは日々、小さな喜びを喜び、小さな悲しみを悲しみ、小さな怒りを怒り、小さな妬みを妬みながら暮らしています。立派ではないかもしれませんが、いい人たちです。しかし、空の力がほとばしる中に生まれながら、それを知らず、我執に捕らわれ、身の回りの小さなことに一喜一憂し、自分と他人を引き比べ、目先の損得で走り回り、苦しめあい、疲れ果てています。怒りや妬みや欲が澱となってたまり、重くなり、濁って、溌剌さを失っています。
 あたりまえのことを説く如来よ。どうして彼らは、苦しまなくていい苦しみを創り出すのでしょうか? どうして自分を縛り、お互いに重しを結び合うのでしょうか? 我々は縁起の現象であり、いつか縁によって解消される現象であるのに、なぜ空の喜びを見ることもなく、いらぬ苦しみを創り出し、互いに苦しめあわなければならないのでしょうか?

 あたりまえのことを説く如来よ。
 わたしは、彼らに濁った苦しみを創り出すことを止めさせたい、我執の自縛から、溢れ出す空の喜びへ解き放ってやりたい。

 あたりまえのことを説く如来よ。どうすればこの人たちに空を知らせることができるでしょうか? どうすれば、組み上げた苦の牢獄を解き崩させることができるでしょうか? それなくしては、もはやわたし一人、空を楽しむことができません。
 あたりまえのことを説く如来よ。
 お願いします。どうかお教えください。人々を世界から隔てる我執という幻幕を断ち落とすには、どうすればよいのでしょうか? どう話せば分かってもらえるのでしょうか? お願いいたします。どうかお教えください。

 町からきた娘は、合掌し、低頭し、地に額をつけた。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。
 あなたはすきとおった悲しみを知った。大きな慈悲の心を動かした。あなたは菩薩大士になった。

 あたりまえのことを説く如来も、町からきた娘に合掌し、低頭した。人々もならって娘に合掌し、低頭した。

 善男子、善女人よ。
 一切の有情には仏性があるといわれる。本当はもっと単純だ。一切の有情は、もともと仏なのだ。なぜなら、縁起によって空から生まれた無我なる現象であるから。では、有情とはなにか? 悲しみ、怒り、喜び、妬み、執着するものたちだ。それこそが仏なのだ。解脱すれば仏だという。解脱の前と後でなにが違うのか? 解脱してみたら仏だった。もともと仏であったことに気づくこと、それが解脱だ。解脱してあなたたちは思う。変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆。そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく。わたしはなにを苦しんでいたのか、悩んでいたのか。悲しむ必要もなかった。苦しむ必要もなかった。気づいてみればたやすいことだ。しかし、気づくまでは、気づくことは難しい。悩み怒り悲しむことのできるもの、迷うものだけが、気づくことができる。悩み怒り悲しむ心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを理解することができる。悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、慈悲の心を持つことができる。悩み怒り悲しみ妬む心を持つものだけが、悩み怒り悲しみ妬むものを解脱に導くことができる。

 確かに人を導くのは容易ではない。人は、自分で見つけた知恵しか身につけられない。教えるのではなく、自分で気づくように導かねばならない。そのためには方便の巧みさを身につける必要がある。

 言葉は、実に難しいものだ。我々が我執に縛られ、ありのままの空を見ることができないのは、言葉に捕らわれているからだ。しかし、言葉による方便の助けがなければ、発心も正しい努力を続けることもむずかしい。またしかし、空や我執という教えを聞いたからといって、それらを「もの」として対象化するなら、それもまた言葉の罠である。言葉に縛られず、同時に言葉を方便として使う知恵が、如来には必要だ。

 しかし、今はまず自分の修行に打ち込むことだ。あなたたちの修行は、あなたたち自身のためであると同時に、一切衆生のためでもある。単に、あなたたちが遠くない将来解脱し方便の力をつけ衆生を救うから、という理由だけではない。あなたたちの今の励む姿、真摯なあり方が、人々になにかを感じさせ、知るともなく人々を導く。そのようにして、我執を離れようと発心する人が増えてくる。あなたたちの日々の生活こそが、もっとも雄弁な説法なのだ。

 町からきた娘、菩薩大士よ。
 現に今、あなたは、ここに座っている人たちを導いている。あなたの真摯でゆるぎのない生き方が、あなたの周囲に暮らす人々に日々の生活を振り返らせていないはずはない。

 そして、もし、あなたが何事か説くべきだと思う時があれば、恐れず思うとおりに説きなさい。これまで練習に励み、これからも励んでいくあなたにそのような時がくれば、それはそうすることが必要とされているからだ。ためらって救われるべき人を見捨ててはならない。

 善男子、善女人よ。
 わたしたちは、縁起により、空の力で、一方的に変えられるばかりではない。私たちにも空のエネルギーは流れている。わたしたちも、縁起によって世界を変えている。今のほんの些細なことが、未来に大きな結果となって現れる。蟻巣の奥の砂を一粒動かすことがきっかけとなって、大河の流れも変わるのだ。未来は無限に多様な可能性を持つ。どれほど不可能に見えることでも、実現の可能性はある。
 あなたたち、縁を得てこの教えに触れ得たことを大切にして欲しい。きわめて希なことなのだから。自分を無力だと考えてはいけない。たとえば、あなたたちの誰かがこの教えをたった一人の友人に伝えたとしても、その友人がまた友人に伝え、そのうちに教えに触れる人が増え、その中から方便に長けた偉大な如来が現れ、多くの人を救うかもしれない。あなたたち自身がその如来かもしれない。あなたたちの発心によって救われる衆生がおり、あなたたちの発心がなければ救われない衆生がいることを忘れてはならない。

 手に数珠をかけた老婆が、地に額をつけて言った。

 あたりまえのことを説く如来よ。
 あなたは、実に方便に長けたお方です。
 かつてあなたは、慈悲は外に求めるものではなく、うちに沸き上がるものだと教えて下さいました。その意味が、今やっと分かりました。
 告白します。これまでわたしは、あなたの説かれることを、独覚的で、大乗ではないのではないかと疑っておりました。しかし、やっと間違いに気づきました。
 この教えを聞けるという得難い縁に恵まれたことを感謝します。わたし自身は年老いた身で解脱できるかどうか分かりませんが、残された日々、衆生のためにさらに励むことを誓います。

 よろしい、よろしい。大変よろしい。
 どうか是非お願いする。修行に時間は関係ない。あなた自身と衆生のために必ず如来になると誓願をたてて欲しい。発心が深ければ、必ずそれは成就する。

 善男子善女人よ。
 実りの多い一日だった。
 今日もわたしは、多くを話した。しかし、その言葉に捕らわれないで欲しい。手に数珠をかけた老婆が誉めてくれたように、わたしの話したことは、すべて方便だ。わたしは、無我を説き、縁起を説き、空を説き、慈悲を説いた。すべて間違ってはいない。しかし、仮の説明にすぎない。わたしの話したことは、道しるべだ。方向を示すだけで、目的地ではない。道しるべにしがみついていても、目的地は近づかない。あなたたちは、自分自身の練習でみずから正しい道を見出して歩まねばならない。後で方便の真意を理解し、自分が正しい道を歩んできたことを知るだろう。方便は、それが意図したところまで人を運べば、川を渡り終えた筏のように無用になる。どうかあなたたち、練習に励み、わたしの方便の意図をつかみ、わたしの言葉を捨てて、さらに先へ自分の体験で進んで欲しい。
注18

 もう一度お願いしよう。大切なのは、毎日の練習だ。節度を守って心を騒がせないように。座ることが心地よくなるまで座る練習を積みなさい。そして、見つめる練習と、見ない練習。経典を読み、わたしの言葉を思い出し、自分で考えなさい。瞑想だけでも、また考察だけでも、十分ではない。両方が補いあって、あなたたちは自分自身の力で新しい知恵を見つける。野生の馬のように跳ね回る力強い知恵だ。

 善男子、善女人よ。
 この縁を大切にして、練習を続けて欲しい。あなたたちが助けを必要とする時、必ずそれはやってくる。ゆっくりとでもあきらめることなく正しく歩き続けていれば、目指すところは確実に近づく。だから、苦しくとも、歩き続けて欲しい。あなたたち自身と、あなたたちが縁となって救われる多くの衆生のために。

 あたりまえのことを説く如来は、合掌して低頭すると、手を胸の前に組みかえ、素足で石を踏み倒木をまたぎ、軽々とした足取りで林の奥へ歩いていかれた。

 人々は、立ち上がり、その後ろ姿に合掌しながら、この教えに触れることのできた縁に感謝し、発心を新たにした。
 あたりまえのことを説く如来の姿が木々の間に遠ざかり、やがて影の中に見えなくなると、人々は、それぞれの生活の場所で練習に励むべく、山を下りていった。


    *   *   *


  衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断
  法門無量誓願学 仏道無上誓願成


    *   *   *


 以上で「あたりまえのことを方便とする知恵の完成」は終わる。



 願わくは、この教えが、手から手、口から口へと伝わり、一人でも多くの衆生を発心せしめ、永遠という執着から解放し、空の喜びを知らしめんことを。注19



 もしこの教えを聞き記したことに少しでも功徳があるなら、一切衆生の解脱の糧となるよう、回向いたします。

 十方世界の過去、現在、未来の諸仏、諸菩薩、そして大いなる知恵の完成よ、
願わくは、この功徳をもって遍く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。



【2005,1,17,時点の若干のコメント】

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曽我逸郎