(注0−1)方便
 勝義(究極的真理)は、日常的(世俗的)論理・言語によっては説明できない。比喩を用いるなどして、相手や状況に応じて、勝義に導くための途中の仮の真実を述べるのが方便である。「方便に長ける」とは如来や菩薩にたいする最高の賞賛である。さまざまな経典・論書は、言葉で書かれている以上すべて方便であるといえる。つまり、すべての経典はその成立時に想定した読者にむけての方便をもって書かれている。よって現代の我々が過去の経典を言葉どおりに理解することは、危険である場合もある。たとえば輪廻などはその典型。(目次「輪廻の否定」から本文関連部分へ飛べます。)

(注0−2)般若経
 般若波羅蜜多経。般若=サンスクリット語プラジュニャー(知恵)・波羅蜜多=パーラミター(完成)・経=スートラ。(知恵の完成の教え)。(般若波羅蜜多は、菩薩の実践道である六波羅蜜のひとつにして最も重要なもの。)
 大乗経典のなかの空を説く一群の経典。よく知られる般若心経もそのうちのひとつ。他の経典が成立後加筆・修正されながらも一つの経典であり続けたのに対して、般若経は紀元前後から数世紀の間にタントラ系も含め長短さまざまな般若経が次々と生み出された。私のこの「偽経」は、この伝統に甘えて、現代の常識を方便として仏教(無我・縁起・空)を説こうとする新たな般若経の試みです。

(注1)帰敬偈
 多くの経典は冒頭にこのような帰敬偈を持つ。
 ここでの帰敬偈は、龍樹(注1−1)作「中論」のそれをもとに、かなり大胆に言葉を追加し、私なりの読み方に意味を限定し明確にした。
 梶山雄一博士による「中論」帰敬偈の和訳は以下のとおり。人文書院「空の思想」P57。
 「滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来りもせず、去りもしない依存性(縁起)は、言葉の虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝する。」
 ここでの重要な語は、「言葉の虚構」と訳されている「戯論」(サンスクリット語プラパンチャ)という語である。この語の意味は、中国語訳が想像させるような「くだらない議論」というようなものではない。プラパンチャの原意は、広がり、多様性である。つまり、我々の日常の意識は、最も単純な場合でも、意識する自己と意識される個物とそれがそこから切り出される場としての対象世界という三つの分裂した要素の上に成り立っており、通常の場合は、それを更に何重にも組み合わせ、ねずみ算的に細分化・多様化し広げた挙げ句のものとなっている。さらに言葉も日常意識のプラパンチャを共有し、さらに単一の事物を単語によって細分するというプラパンチャをも有している。(目の前のりんごを「赤く」「丸く」「匂いの・いい」という風に細切れにしか説明できない。また、どれだけ説明をつくしても完全には尽くせない。)
 戯論寂滅とは、意識の主体・意識の対象・世界の三つが分裂する前の段階であり、いわゆる「主客未分」と同意である。
 (1999、5、26、加筆。池田政信さんからのメールによって、「分裂する前の段階」とか、主客未分の「未」という言い方の裏に、かつての幼児期とか進化初期の動物のあり方こそ理想であるかのような無批判な思い込みがあったことを発見した。戯論寂滅=「意識の主体が吹き消され、自分が周囲の現象とともに等しく縁起する現象である事を体得する言葉の届かない体験」は、過去に戻ることではなく、目指すべき未知の体験であると思う。しかし、そのような決定的体験をしていないので、今の私はこの問題に関して歯切れの悪いことしか言えない。意見交換のページ、99年3月25日池田政信さん参照)
 中論帰敬偈の「滅しもせず」から「去りもしない」までは、八不といわれる。八不は、言葉による形容ができないことをいっており、戯論寂滅と同値であると私は解釈する。すなわち「戯論寂滅の縁起」とは、「対論者の間違った論理を打ち破る正しい理論である縁起」などという意味ではなく、「日常的(=世俗的)意識や言葉によっては本来理解・到達できない縁起」という意味である。だからこそ、その絶対不可能なことを慈悲心によって方便を用いて教え可能にしてくれる世尊を、最高の説法者として礼拝するのである。
 中論は、言語の(=世俗の)論理(=プラパンチャ)によって、勝義である無我・縁起・空にどこまで迫れるか、その限界に挑戦した書と見ることもできる。
参照文献:三枝充悳 中論(上) レグルス文庫 P82
     梶山雄一 空入門 春秋社 P8、P92
     立川武蔵 「空」の構造 レグルス文庫 P45
     中央公論社 大乗仏典14 龍樹論集 P349 大乗二十頌論 第一頌
  *参照文献は、必ずしも私と同様の主張であることを意味しない。

(注1−1)龍樹
 AC150から250頃。八宗の祖ともよばれ、大乗仏教の最も重要な思想家。「空」を説く中観派の開祖。語り出したらきりがないほど重要な人。
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(注2)このように私は聞いた。
 ほとんどの経典は、この言葉で始まる。
 この背景には、釈迦牟尼世尊の状況と相手に応じた説法が、弟子のグループごとに口承で伝えられ、世尊の死後、何度かの結集(けつじゅう)での編纂を経た後、時を置いて文字による経となったという事情がある。よって本来、この言葉は、その経典が釈迦牟尼世尊御自身(またはかわるべきふさわしい如来・菩薩)の言葉であることを主張している。(勿論わたしのこの「偽経」は、世尊のお言葉ではありません。あたりまえ)
 余談ながら、偉大なる文献学者・ニーチェの主著のタイトル「ツァラトストラはかく語りき」は、ひょっとするとこの仏教経典の始まりの言葉を踏まえているのかも、と思います。
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(注3)右回りに廻る
 尊者、聖者に対する敬意の表し方。右繞(うにょう)
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(注4)半眼
 瞑想の際、膝の先1、2メートルのところに、見るでもなく視線を落とすこと。瞑想・座禅の時、目をつぶるのは誤り。仏像を見ても、「薄目」をあけて半眼にしている。
(98年2月1日加筆)「坐禅儀」では、目を閉じて座るのを「黒山鬼窟」と戒めている。(筑摩書房 禅の語録16 P153)
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(注5)蘆の束のように
 一本では立たない蘆(あし)の穂がいくつか束ねられると立つように、本来単体では確固とした根拠をもたない不安定なものが、ふたつ以上集まって互いに支えあい、強固なものになることの比喩。縁起説が十二支縁起に整備される前の十支縁起における第一支「識」と第二支「名色」(識の対象となる個物)の関係がその典型的な例。われわれの煩悩や執着や苦がいかに抜き難く奥深いものに見えようと、突き詰めれば根拠のないものであり、克服可能であることもいいあらわしている。
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(注6)現象・現象の場における反応
 世の中にあるすべてのものを現象と捉え、我々の心や意識を現象の場における反応と説明することは、勿論経典に書かれてはいない。しかし、この説明の仕方は、自己や外界のすべてを、縁起として世俗のレベルでは「ある」とし、勝義としては、無自性にして空であるする中観派の見解を、今の我々にわかりやすく説明できる方便であると考える。この「偽経」全体を支える重要な主張の一つであるので、この方便が有効か、誤りか、是非御批判をお願いしたい。
(1999、5、26加筆。今更という感じがするが、三枝充悳・中論(レグルス文庫)では、「色」を「現象する物質」と訳している(たとえば上巻p171)。また、ずいぶん前に見つけながらどこかにまぎれてしまって再発見できずにいるが、何かの本の注に、確かヨーロッパの女性?仏教研究者の主張として「仏教は世界を現象として説いた」という主旨を読んだ。この記憶が正しければ、「仏教=現象として世界を捉える教え」と見る視点は、ユニークでもない替わりに、的外れでもないことになる。
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(注7)輪廻と霊魂の否定
 この部分に関しては、拒絶や感情的な攻撃を受けるかと恐れているが、幸いなことに、あるいは、がっかりすることに、未だ何ひとつ反応がもらえない。(97年12月21日現在)
 それは仕方がないとして、私は、無我・縁起・空こそが仏教だと「信じて」いるので、輪廻や霊魂の存在は否定する。無我・縁起・空の教えに反するからである。さまざまな経典でしばしば輪廻が説かれるが、それらはすべて輪廻そのものを説くものではなく、なにか別のこと、たとえば非常に長期間の修行を言うための比喩であったり、あるいは方便であると思う。
 しかしながら、経典・論書の中に輪廻・霊魂を否定するものもまだ見つけ出すことができていない。仏教学者の方々ですら、輪廻や霊魂を明確に否定されているのに出会うことは少ない。(或る仏教学者の方から、私のぶしつけな質問に丁寧な御回答を頂き、その中で「釈尊が輪廻を説いたとは考えない」と書いておられたが、私信であるので、お名前の公表は控える。私の読んだ本で唯一例外的に、秋月龍a老師は(仏教学者というより哲学から臨済禅に進まれた方であるが)、明快に輪廻・霊魂を否定されている。(柏樹社「誤解だらけの仏教」))
 (98年12月30日加筆/大谷大学の小川一乗先生は、輪廻を生命誕生以来の遺伝子の受け渡しの全体とし、個々の個体の死後生は明確に否定しておられる。「大乗仏教の根本思想」(法蔵館))
 うろ覚えであるが、オウム事件で捕まった一人が証言で「死後生がなくなって無になるのがこわかった」と言ったという記事を読んだ覚えがある。これは奇妙な話で、伝統的な仏教理解でさえ煩悩・執着を吹き消して、輪廻しないことを目指すのが仏教の筈である。輪廻や霊魂を説くことには、我執を強めるばかりで、何一つ人に益することはないと思う。
 とはいうものの、輪廻・霊魂は、私にとって喉にささった刺である。万一、輪廻や霊魂の存在が証明されたり、世尊が勝義として輪廻を説いておられたりすれば、私は私の仏教理解を根底から覆さねばならない。現代における中観派の最も正統的な継承者と考えるチベット仏教でさえ、活仏相続という生まれ変わりを前提とする制度を採っている。輪廻・霊魂を否定するものであれ、肯定するものであれ、ご意見なり読むべき本の紹介なり頂けるとありがたい。
(98年2月1日加筆)輪廻に関する基本的説明をつけたす。
 輪廻説は、もともとはバラモン教のウパニシャッド哲学に基づくもので、あらゆる有情(人間・動物)は、その行為によって来世のあり方が決まり(六道輪廻説の場合、天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)、それら生存のあり方を次々永遠に繰り返すというもの。たとえ天上に生まれてもそれで上がりではなく、そこでまた死んで、そこでの業(行為)によって、次の生が決まり、いつまでも果てることはない。このように生の苦を無意味に永久に繰り返すことにおののいた当時の人達は、輪廻から離脱する方法を求めた。釈迦牟尼世尊もしかり、その結果見出されたことは、輪廻離脱の方法ではなく、無我・縁起であり、つまり我々はもともと輪廻していない、という事であったと私は考える。単純すぎるだろうか?
(98年1月30日加筆)松本史朗著大蔵出版「チベット仏教哲学」によれば、輪廻転生のしくみを説く有名な「死者の書」は、チベットで異端とされるニンマ派による偽作埋蔵書(偽書を土中に埋め、掘り返して由緒ある書と偽る)であり、チベットでは権威がなく、また、正統派ゲルク派への転生者による活仏相続制の採用も1500年代なかばと意外に新しく、それもカギュ派への対抗上という政治的理由によるものらしい。同書 P19、20、26、403以降参照。
 しかし、それにしても、正統派ゲルク派も、少なくとも表向き活仏相続制を採用しているわけで、無我・縁起・空にそれが反するなら、きっぱりと否定して欲しいところである。
 ところで、この本が私に与えた宿題は、論理か宗教的体験か、という問題である。無我・縁起・空を知るには、あくまで言葉・論理によるべきか、言葉・論理を超えた(言葉・論理を否定する)体験が必要であるのか? 後半の注で現時点の判断を書こう。

(98年4月25日加筆)早稲田大学でチベット仏教の研究をしておられる Shojiro NOMURA さんから先月、以下のご意見を頂いた。
『<前略> 次に、活仏相続の制度と輪廻の捉え方との二つはあまり関係ないものであると考えた方がいいと思います。活仏相続自体は今日のゲルク派の高僧のなかでも批判的な人も沢山います。
 輪廻についてはツォンカパもインドの中観派も同じように肯定します。つまり輪廻を否定して無きものにするのは仏教ではないと言われています。これはローカヤタ学派の考えと言われています。中観派にとって輪廻は「世俗の真実」です。これはツォンカパの考えによれば「真実であると把握する知(真実把握・真実執着)にとって真実として有ると把握されているのに過ぎないものであって、真実としては無いものであり、単に言説として有るに過ぎないもの、分別によって想定されたに過ぎないもの」です。とはいえ「全く無いもの」ではありません。ここがツォンカパの思想の最も重要な点です。菩薩などの偉い人が見ている「輪廻」とは「真実としては無いもの(空であるもの)」ですが、「単に有るもの」としては有りますので、「真実である」と思い込む思い込みの部分のみが否定されているのであって、「輪廻は有る」ということや「輪廻は世俗として有る」ということは全く否定されないものです。そして「輪廻は無い」と考えることは修行をする意味が無くなってしまうことになり、全くダメな考えだとされます。今日でも偉いゲルク派のお坊さんは何度も輪廻を繰り返していつか仏陀になれればいいと願っていますので、「輪廻が無い」と考える人は誰もいないでしょう。「輪廻は真実として無い」と「輪廻は無い」との二つを分けること、また「輪廻は真実として有るという考えを批判する」と「輪廻を批判する」という二つを分けることは非常に大切なことです。
 ツォンカパは次の四つの有る無しを言っています。
1.「真実として有る」
2.「真実として無い」
3.「単に有る」
4.「単に無い」
 このうち2=3(有)で1=4(無)です。「無」とは「ウサギの角」とか「昨日である今日」とか言葉としても実際の物質としても全くあり得ないものです。そして3が縁起で2が空性です。縁起は空の基体です。この話は『道次第大論』に書いてあります。
 <中略>論理か宗教的体験か、という問題ですが、ゲルク派では普通の人はまず空性を直接知覚で理解することが出来ないので、推理(論理的な手順をふんだ隠れた対象の理解)によって理解しなくてはなりません。しかし一旦「一切は空である」ということを既存の知として推理によって確定を導きだしたのならば、その確定によって誤った理解である「無明」などの煩悩を退ける必要があります。そしてそれを反復修習していくなくてはなりません。通常は輪廻を繰り返しているので、死んで次の世に生まれ変わります。善業を積んでおけば悪趣には生まれないので、また仏教の教えに出会える可能性があります。その時には前に練習していた習気が残っているので今度はすこし早いペースで修行が可能でもうちょっと進んだ段階にまで辿り付けます。通常仏陀になるまでには中観派では三阿僧祇劫かかると言われています。密教の修行はそれを加速するのに役立ちます。そうしてそのような修行を繰り返すとある時に空性を直接知覚で理解出来ます。これを「見道」といいます。大体このあたりからはや輪廻しなくなります。というのも輪廻の原因は「無明」であり無明から老死に至る縁起の生じていくプロセスを経ないことが解るからです。その後でもまだ「無明」は習気として残っているのでそれをすべて断じると毎刹那ごとに空性を直接知覚できるようになり、その段階でようやく仏陀になれます。
 基本的にチベット語で「論理と宗教的体験」という対比はありませんし、「宗教的体験」というような言葉はありません。こういう言葉使いは日本語や西洋の言葉でしょう。もちろん「さとり」という意味の言葉はありますが、チベット仏教ではどの宗派でも「さとり」とは「空性を理解すること」です。そしてそれは「体験」ではなくて「知」の一種です。』
NOMURA さんのHPへはリンクのページから飛べます。

(98年12月28日 輪廻についてさらに加筆)
 津田眞一「アーラヤ的世界とその神」(大蔵出版)P102以下に次のような内容の経典の記述を見つけてしまった。怖駭経(南伝大蔵経第九巻、中部経典一)に、人気のない林の墓地でもののけをものともせず禅定に入り、四聖諦を知り、漏尽智を得て解脱した時のことを釈尊自身が語るという形で、このように記されているという。
 「−−−予は心を憶宿命智に向けぬ。かくて予は種々なる宿命を憶念せり。即、『一生、二生、三生、四生、五生、十生、二十生、三十生、四十生、五十生、百生、千生、百千生を、種々成劫、種々壊劫、種々成壊劫を。而して予は其処に是の如き名、是の如き姓、是の如き種族、是の如き食、是の如き苦楽の受、是の如き命終を以ってありき。其処に死し、彼処に生じぬ。彼処においては是の如き名、是の如き姓、是の如き種族、是の如き食、是の如き苦楽の受、是の如き命終を以ってありき。又彼処に死し、此処に生ぜり』と。是のごとく予は其の一々の相及詳細の状況と倶に種々なる宿命を憶念せり。−−−」
 「−−−予は心を有情生死智に向けぬ。即、予は清浄にして、超人的なる天眼を以って、有情の生死を見たり。卑賎なると、高貴なると、美なると、醜なると、幸福なると、不幸なるとを、それぞれその業に随って知りぬ。『実に此等の有情は身に悪行を為し、口に悪行を為し、意に悪行を為し、聖者を誹謗し、邪見を抱き、邪見業を持つ。彼等は身壊し命終して、悪生、悪趣、墜処、地獄に生ず。又他の此等の有情は、身に善行を為し、口に善行を為し、意に善行を為し、聖者を誹謗せず、正見を抱き、正見業を持つ。彼等は身壊し命終して、善趣天界に生ず』と。−−−」
 つまり、四聖諦・解脱とセットで、自分自身の過去生を知る智と、一切有情の善因善果の輪廻を知る智を得たとされている訳だ。

 さらに、三枝充悳「初期仏教の思想」(中)(レグルス文庫)P260によると、相応部経典(22/99)に以下のような記述もあるという。
 「輪廻のはじまりは無始であり、衆生は無明に覆われ渇愛に縛られ流転輪廻して、その前際はわからない。大海が枯渇して無に帰するときがあるかもしれない。しかも無明に覆われ渇愛に縛られ流転輪廻する衆生に、苦の尽きる辺際があるとは、わたくしは説かない。須弥山が崩れ落ちて無に帰するときがあるかもしれない。しかも無明に覆われ渇愛に縛られ流転輪廻する衆生に、苦の尽きる辺際があるとは、わたくしは説かない。大地が崩壊して無に帰するときがあるかもしれない。しかも無明に覆われ渇愛に縛られ流転輪廻する衆生に、苦の尽きる辺際があるとは、わたくしは説かない。」

 困った。輪廻に関するこれらの記述は、方便として別の意味にすりかえてしまうのは難しい。釈尊は、輪廻説を受け入れておられたのか? あるいは主張しておられたのか?
 やはり、それでも、わたしは、無我・縁起こそ釈尊の教えの核心であると思う。輪廻はこれと相容れない。誰か「これらの経典は学問的に疑問の多い経典で無視してもかまわない」と言ってくれないだろうか? いや、たとえ重要な経典とされていたとしても、「多くの経典は釈尊の言葉に忠実でない」と強弁して(注8、12月12日加筆部分を参照)、私は、今しばらくは輪廻否定の立場を取り続けたいと思う。(以上98,12,28)

(03年6月11日 輪廻について加筆)
 先月末、日本テーラワーダ仏教協会の宿泊実践会に参加した。指導のアルボムッレ・スマナサーラ長老に「輪廻は無我と矛盾するのではないか?」と尋ねたら、「輪廻は、それまで知られていなかった事を釈尊が発見されたのである。プラスしか見えない科学や世間的見方では、輪廻は見えない。マイナスも分かるようにならないと、輪廻は見えない。」と言われた。詳細は、小論集を参照。(03,6,11,)

(03年11月30日 輪廻についてさらに加筆)
 タイのブッダダーサ比丘は、「生まれ変わるべき「我」は無い」として、輪廻を否定している。詳細は、小論集の2003,10,28, 「タイ上座部の「異端」 ブッダダーサ比丘 "Handbook for Mankind"を読んで」を参照。
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(注8)経典のなかには世尊の教えに反するものがある
 伝統的に仏教と言われてきたものをすべて仏教としてみとめ、妥協的に折り合いをつけていくのではなく、仏教の名の下に潜む反仏教を厳しく排除せねばならないという姿勢は、松本史朗先生をはじめとする駒沢大学批判仏教グループから学んだ。
  参照図書(すべて大蔵出版) 袴谷憲昭 「批判仏教」
                松本史朗 「縁起と空」
                伊藤隆寿 「中国仏教の批判的研究」
(98年12月12日加筆)ジョアキン・モンテイロ「天皇制仏教批判」(三一書房)で、如来蔵思想に対立する浄土教の<選択>の思想を教えられた。中国・日本の仏教を私はほとんど知らないので、いつか学ばねばならない。

(98年4月26日加筆)これも Shojiro NOMURA さんからのご意見。私の本文の「如来蔵思想は仏教に反する」という趣旨に対する反対意見です。
『それからひとつヒントになるかも知れませんが、ツォンカパにとって如来蔵とは空性のことです。ツォンカパの本にはっきり書いてあります。<中略> 如来蔵思想と空思想との対立というのはツォンカパには全く関係ありません。<中略> ツォンカパにとって「一切の人が如来蔵を持っている」ということは「一切の人が如来の本質(de bzhin gshegs pa'isnying po)をもっている」ということであり、「如来の本質」とは如来の法身のこと、つまり空性のことであり、「一切の人は生まれながらにして空である」という意味ですので、如来蔵と空性とは全く異ならないものなのです。』
ありがとうございます。もう少し勉強させてください。

(98年12月12日加筆)小川一乗「大乗仏教の根本思想」(法蔵館)から以下のような私なりの視点を得た。
 「釈尊の仏教とは、無我・縁起であり、自己を含むすべてを実在ではなく変化する現象として捉えるものであった。しかし、釈尊以降の仏教は常に世俗化の波にさらされ、次第に現象を超越する永遠不変の実在を想定する方向へと堕落していった。説一切有部などの部派仏教がその極みである。それに逆らって、釈尊の仏教に帰ろうとした1回目の試みが、龍樹ら大乗仏教最初期の中観派の<空>であったが、またすぐ仏教は実在論への堕落を再開し、密教となり、ついにインドではヒンズー教に呑み込まれてしまった。鎌倉仏教は無我・縁起へもどろうとする2回目の試みであり、密教から再度大乗の<空>に立ち返ろうとした。しかし、結局それも今では現世利益か葬式仏教に堕している。」
 では、だからといってアーガマやニカーヤといった最も古い経典が正しく釈尊の仏教を伝えているかというと、それも怪しい。すべての経典は釈尊の自書ではなく、「このように私は聞いた」という弟子達の理解の記録である。中国の仏教理解が格義仏教(老荘思想の枠組みで解釈した仏教=仏教を僭称する老荘思想)であったように、アーガマやニカーヤの仏教理解も、バラモン教など当時主流であった実在論の枠組みによるものだったのではないだろうか?
 つまり、ありがたく受け継がれてきた経典・論書も、ほとんどすべてが反仏教的=実在論的要素を含み、反仏教そのものの経典・論書すらめずらしくない。経典はありがたがって読むべきではなく、批判的に吟味しつつ読まねばならないのである。
 しかしそうなると、絶対的基準がなくなるわけで、いくらでも恣意的な解釈が可能になる。その状況で、正しく仏教を理解するには、やはり自分の仏教理解を仮説と捉え、異なる仏教解釈にぶつけ、戦わせ、鍛え上げるしかないと思う。まるでポケットモンスターみたいだが。

【03年11月30日加筆】他ならぬ空(述語としての空、「Xは空であり自性がない」という述語表現の本来の空)が、「空性」として名詞化され、あらゆる現象を貫通する「永遠不変の超越的実在」として対象化されるようになった。「修行者は、はからいを捨て、個別の対象を対象化することをやめ、意識の指向性を停止し(無分別)、無念無想になれば、生得的な無分別知が本来の働きをを回復し、空性(名詞化され対象化された空、即ち世界全体=「真如・諸法実相・法界」)を一挙に知ることができる」、そのような間違った仏教解釈が主張されるようになった。本当は、自分が執着している対象(その核心は我執の対象である私という現象)のひとつひとつが、無常にして無我なる(自性に欠ける空なる<述語の空>)縁起の現象であるとつぶさに観察し納得することによって執着を解消し、執着によって生み出される苦を滅することが仏教であったのに。
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(注9)すべてが歌い、踊っている
 告白すると、TVアニメ、「チビまるこちゃん」のエンディング・テーマ・ソングからヒントを得た。
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(注10)空
 自性のないこと。あらゆるものに自性はない。すなわち、私の説明でいえば、すべては常に変化し、必ずいつか終わる現象であるということ。
 しかし、それだけではネガティブな世界観であると誤解されかねないので、あえて思い切って、世界を生みだし、変えるエネルギーとして空を説明した。アインシュタインの《E=m×c2乗》と空即是色との類似、ビッグバン理論をはじめとする宇宙生成論、物は波として表現できるとする量子論、生成・変化・消滅する粒子、沸騰する空間など、現代物理学の概説書の読みかじりがヒントとなっている。独善的な解釈なので、御批判を仰ぎたい。
 ところで、今私に最も刺激的を与えてくれているのは「注8」で触れた駒沢大学の批判仏教のグループであるが、同グループからすると、私の空・縁起は、発生論的一元論であり、老荘思想の「道」が袈裟を纏った華厳の無時間的重々無尽法界縁起、天台本覚思想のまがい物にすぎず、無批判で現実肯定的な反仏教であると批判されることは間違いない。
 松本史朗先生は、縁起を一二支縁起に限定し一因一果の時間的(実存的)解釈をしておられる。批判仏教は、私にとって確かに刺激的ではあるが、違和感を覚える部分があることも事実であり、継続的に勉強していきたい。その結果、私の無我・縁起・空の理解を根底から改めることになるのか、我ながら楽しみである。

 (98年12月13日加筆)立川武蔵「ブッダの哲学」(法蔵館)を読んでいて、こんな突拍子もないことを思い付いた。学問から程遠い思い付きなので、真に受けないでください。
 この本の第7章「縁起と時間」を読んでいて、空=時間と考えられないかと思い付いた。仏教の核心である縁起は時間のことだ。無常とは時間のことだ。時間のない変化はなく、変化のない時間はない。神を持たない仏教は、神の代わりに時間を崇める宗教ではないのか? 仏教の全体を時間という視点から解釈してみるときっと面白い。
 もうひとつ馬鹿馬鹿しい思い付き。「あたりまえ般若」で私は、空をエネルギーとして解釈した。空=エネルギーであり、空=時間とするなら、時間=エネルギーとならないか? あらゆる粒子が或る確率で壊れ(陽子も壊れると信ずる)、空間から粒子が或る確率で生まれるというのは、一定の時間で壊れ生まれるということであり、つまりは、時間が壊し、生み出しているのではないか? 時間こそがエネルギーではないか? 現代物理学では、時間とエネルギーが等号でつながれる公式はないのだろうか?  ビッグバン以前(以前というのも変だが)エネルギーだけがあって時間もなく、それが質量と時間に展開したのがビッグバンであるとか、、、

 (99年1月24日加筆)「問いに答えて」を主催されている池田政信さんから、「あたりまえ」の(空=エネルギー)の方便は、実体的に空という何かがあるような印象を受ける、とのご指摘を受けました。痛いところを突かれました。確かにそのとおりで、実は私もそのような危険性を感じています。
 空とは、その本来の意味を厳密に(狭く)言えば、自己を含むあらゆる「存在」が、自己であり続け得るような本質=自性を欠き、縁起による「現象」にすぎない、ということです。空は、常に述語であるべきで(「*は空なり」という形)、けして名詞にしてはなりません。にもかかわらず、「空とは、、、」と考えたくなってしまうのは言葉の危険な罠であり、十二分に気をつけねばならないところです。
 しかしながら、空をエネルギーとして説明したことには、以下のような思いがありました。
 無我・縁起・(狭い意味の)空は、あたりまえの事実である。その事実の指摘だけが、釈尊の教えだったのか? 客体化した自己の無我・縁起ではなく、主客未分に自己の無我・縁起を悟った時、何が起こるのか? それは、「あたりまえ」の本文で、娘が話す「世界のすべてとともに一瞬一瞬新しい現象として生み出される大きな喜び」だと考えます。イメージで言えば、巨大な間欠泉のように、一瞬一瞬天高く吹き上げられ、虹色にきらめく無数の光の粒のひとつひとつが私たちであり、宇宙のすべての事物なのだ、という感じでしょうか。
 そんな喜びを伝えるための方便として、空をエネルギーとして説明したのですが、空を上で言う間欠泉と捉えるなら、それは確かに、駒沢大批判仏教グループの批判する発生論的一元論となってしまいます。世界の根っこではなく、生々変化する現象世界そのものが空であると表現したつもりでしたが、私自身の考えがまだ発生論的一元論を多分に引きずっているため、実体論的傾向が強くなってしまいました。
 ところで、空の問題は、以上に止まりません。まだ自分の頭の中が十分に整理されていないのできちんと説明できないのですが、自然と世界のすべてを肯定するか、という問題にもつながっているように感じます。
 私の無我・縁起・空の理解は、自然によって教えられたものです。目的や意義を求めて悩んでいた時期、内ばかり向いていた自分を、行く雲や、梢に鳴る風の音や、水面に反射する太陽が外に開いてくれました。目的や意義などとは無関係に生々変化する自然の美しさを知ったことから、私の無我・縁起・空の理解はスタートしています。(ということはそもそもの始めから、天台本覚思想的だったということでしょうか。)
 かつて目的や意義に悩んでいた頃、私は自分を見下すのと同じように周囲の人々を見下していたのですが、最近は、普通の人々、損得に走ったり、暇つぶしをしたり、人助けもしたり、そういう周囲にいる普通の人々を美しい自然と同じように肯定している人間になりたいと感じています。
 しかし、そうすると戦争や犯罪や差別、山に廃棄物を投棄することなども肯定するのか、という問題が生じます。それもまた一つの現象、善悪をあげつらうは人のさかしら、すべてよし、と泰然自若でいるべきなのか?
 空を述語に限り、狭く限定し、反自然かつ批判的でいるべきか? 空をエネルギーだと拡大解釈し、無批判にすべてを肯定するのか? 極論すれば二つの立場があるわけです。
 朝からああでもないこうでもないと考えながらこの文章を書いてきて、実はついさっき一つの言葉に思い当たりました。「慈悲」です。
 愛しつつ(仏教用語の愛ではなく、現代日常語の愛)、肯定しない。愛しつつ批判するというのが「慈悲」ということかもしれません。以前から気にかかっていた「空なる有情になぜ、いかに慈悲を発するのか?」という疑問を考えていくとっかかりになるかもしれません。
 津田眞一氏の、釈尊に慈悲の発想はなく、また釈尊の仏教は反自然であり、釈尊の仏教と大乗仏教は、クリティカル(両立不能でどちらか片方しか選べない)であるという主張(大蔵出版「アーラヤ的世界とその神」)がもし正しいのなら、私は、釈尊の仏教ではなく、大乗を採ろうとしているのかもしれません。
 すみません。まだ頭の中が整理できていません。もう少し時間をください。

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(注11)菩薩
 菩提薩タ(ツチヘンに垂)(サンスクリット:ボーディ・サットヴァ)の略。「悟りに向かう人」もしくは「悟りが決定している人」の意。成道前の釈迦牟尼世尊や、観世音菩薩など衆生済度のためあえて仏とならず人間世界に留まる救済者をさすこともあるが、ここでは、ひろく大乗仏教の徒をさす。
 大乗仏教以前の部派仏教の修行者は、声聞と独覚の2タイプがあるが、どちらも、釈尊に対する尊敬のあまり、いくら修行しても人は仏にはなれず、すべての欲望を吹き消して阿羅漢になるのが精一杯だと考えた。これに対し大乗仏教では、自分以外の衆生の済度も目指し、自分たちも仏になること宣言した。
 これを読んでいただいているあなたも、今発心すれば、その瞬間から菩薩なのだ。
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(注12)
 このあたり、高校生の時読んだヘッセの「デミアン」の影響が残っている。
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(注13)
 いわゆる超能力めいたものをここに書いているが、話の展開上使っているだけで、決して積極的に超能力を認めているわけではない。正直に言うと、超能力と言われるものはうさんくさいと思っている。しかし、あってもかまわない。なくてもいい。霊魂・輪廻はあったら困るが、超能力はどっちでもいい。
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(注14)座り方
 学生時代とぎれとぎれに参加した京都の某臨済宗寺院の居士の会で習った方法による。より詳しくは、筑摩書房「禅の語録16」の中の「坐禅儀」参照。
 この注を書くにあたって、もう一度「坐禅儀」を読み返してみて、うろ覚えで書いた座り方が案外きちんと書けているのに驚いた。同会の先輩諸氏、参禅させて頂いた老師(私のようなものが弟子だったのかとその名誉を傷付けるのでお名前は伏す)には大変お世話になりながら、なんの義理も果たさないまま遠ざかり、面目ない。
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(注15)見つめる練習と見ない練習
 これらふたつは、学生時代の個人的経験によるもので、経典などの権威に基づくものではない。しかしながら、雲水が托鉢で外を歩く時などは、実質的にここでいう見ない練習をしているのではないかと思う。托鉢の経験はないが。

(03年6月11日 修行実践方法について加筆)
 先月末、日本テーラワーダ仏教協会の宿泊実践会に参加した。初日、指導のアルボムッレ・スマナサーラ長老に、「ここで指導されるヴィパッサナー瞑想は、自分の無我=縁起を知る修行ですか」と問うたら、明解に「そうだ」と答えられた。わずか数日ではあるが実際やって見て、そうであるのかもしれないと感じている。詳細は、小論集を参照。(03,6,11,)
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(注16)言葉
 言葉の恣意性・虚構性・社会性、言葉によってわれわれがどれほど、どのように支配されているか、に関しては、丸山圭三郎、井筒俊彦両氏の著作など多くの本がある。
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(注17)唯識批判
 ここに記した唯識批判は、見てのとおり乱暴この上ないものであるが、大筋間違っていないと思う。唯識はまず唯心により外境を否定し、しかる後、主体の側である自己(我)も否定するとなにかで読んだ。中観派であるチベット仏教では、中観を了義とし、唯識を未了義(その意味を書かれているとおりに理解すべきではなく、別の意味に導かれるべき教え)としている。
 中央公論社の「大乗仏典 中国日本篇 15 ツォンカパ」より曾孫引きになるのをおそれず引用すれば、チベット仏教最大の思想家ツォンカパは「般若灯論」から、
「最初(この世界は心の)表象のみ(であるという唯識派の理論)を採用し、後にそれを棄却しようとする(人がいる)けれども、(最初)泥にまみれて(後に)洗うよりは、最初から触れずに遠ざかっている方がよい。外界の対象が無自性であると理解するのと同様、知識も無我であり生起することはないと理解するのが正しい」
と引用している。

早稲田大学 Shojiro NOMURA さんから頂いたご意見(98年3月)
『了義・未了義とは釈尊の空の教えや唯識の教えやタントラの教えや四諦の教えなどのすべての教えについての了義・未了義ですので、「中観が了義であり唯識は未了義」というような言い方はしません。<中略> 中観は唯識よりも優れているとチベット仏教ではしますが、唯識はいきなり中観の空性が解らない人のために釈迦が説いた方便としての教えです。この方便としてのという意味は決してだめなものという意味ではありません。そしてこうしたすべてのものを矛盾無く悟りに至るための過程として順序よく位置づけることにツォンカパの努力はあります。
 随分長くなりましたが、別に批判しようと思ったわけではありません。どうかお気に障ったのでしたらお許しください。何かのヒントになればと思います。ぼく自身はもしも日本にツォンカパの思想をきちんと理解できる環境があるのならば、チベット語の本を読んだりしなかったと思いますが、残念ながら日本では日本の仏教しかありません。ただし最近はいくつかはいい本が出ています。てっとり早いのは今のダライラマの本を読まれるといいと思います。ダライラマの講義というのは実はツォンカパやゲルク派の本のダイジェスト版で別段何か新しいことがあるわけではないので、けっこう便利だと思います。おすすめは「ダライラマの仏教哲学講義」です。これを読めば大体解ると思います。ぼくのツォンカパページも今月末くらいには大幅にアップデートしますのでどうか読んでみてください。』
 私(曽我)の言葉の使い方は、「了義・未了義」に関わらず厳密さに欠けるところが多々あると思います。どんなことでもどしどしご指摘・ご意見・御批判をお待ちしています。NOMURAさんのホームページは http://www.asahi-net.or.jp/~bc4s-nmr/です。リンクのページからも飛べます。
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(注18)目的地・目指すところ(98年6月16日追加)
 こんなご指摘を頂いた。ここでいう「目的地」と、初夏の説法において村からきた娘に説かれた「勝義として目的はない、目的にわずらわされるな」という教えは矛盾するのではないか?
 確かに言葉足らずで混乱を生む余地があるので、補充説明(言訳?)をしたい。
 初夏の説法で「本来ない」と説かれる目的は、我執に基づく目的、それによって自分に価値を与えようともくろむ目的であり、一方、晩秋の説法の終わりに「それ目指して励め」と説かれる目的は、世界と自己の無我・縁起・空を知って自己と自己に関わるものへの執着を断ち、苦を滅し、世界と和解し世界を肯定し安らぎ、同時にすべて有情を同じように安らげるようにしようとするものである。執着に支配された目的意識は克服されるべきであるが、執着の克服という目的は目指されねばならないと言ってもいい。
 この点が明確に伝わらなかった理由のひとつは、わたしが「苦」をいわば自明の前提として、きちんと書いていないためだと思う。「苦」は、町からきた娘の振り返りの中にしか現れていない。
 仏教の出発点は、われわれの本質的矛盾・有限性の自覚=苦にある。苦の原因は無我であるところの縁起の現象に執着するためである、と捕えた点に仏教の偉大さはある。
 「苦」については次回の更新で釈尊の成道の道筋を想像してみる際に再度触れよう。(98年6月追加の「追記」で不十分ながら触れた。)
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(注19)手から手、口から口へと伝わり(99年2月21日追加)
 「あたりまえ、、」は、大乗経典にならった偽経です。したがって、本当の大乗経典のように加筆、改作され、引用され、一人歩きして発展していくなら、この上もない、願ってもない喜びです。私の能力を超えた展開がどんどんあれば、どんなに素敵でしょう。しかし、同時に、間違った方向に歪められ、人を誤らせる可能性もあります(本物の大乗経典でさえ起こったように)。では、正しい発展と間違った方向は、どのように見分けるべきか? 広く意見を求めながら皆で議論する他はないと思います。
 というわけで、もし発展の種があると考えて頂けたなら、「あたりまえ、、」をどしどし引用、批判、加筆・改作して下さい。ただ、議論を可能にするために、どうか私にもお知らせください。わたしの見解ともども当HPのリンク集などで紹介します。
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曽我逸郎