ゆかりさん ひばりさんのメール掲載を 2004,4,6,

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初めて、お邪魔します。

私はこのホームページを拝見するようになってから、半年くらいになります。でも意見らしいものを申し上げようにも、浅はかな私ですので何もありませんでした。しかし最近になって登場なさいました「ひばり様」のご意見に、目を洗われ心洗われる心地が致しまして、次のご意見を心待ちにいたしておりましたが、「空について」を述べられ、次に「修行について」を述べられるとおっしゃられながら、半月経っても拝見できませんので、どうなされたのでしょうかと心配しております。
まだご意見が送られてまいられないのでしょうか?。それともホームページに載せられないような、内容なのでしょうか?。
お受け取りになられておいでなら、内容如何にかかわらずにご紹介していただけないでしょうか。まさか曽我様は、ご自分にそぐわないからと言って没になされはしないことと存じます。

それから「ひばり様」の「空について」に対して、曽我様のご意見の中でたょっと気になりますことがあります。それは

>。「あるがままでおれ、はからいをするな」、「あるがままでいようとか、は  からいをやめようとか考えるのもはからいだ、なにも考えるな」、「なにも考えずにいようと考えてもダメだ」、「無念無想でおれ」・・・・空回りにしかならないと思います。

とおっしゃっておられますことをひばり様は、「桜の花びらが風に舞う」ようにと、また「枯葉が水の流れのままに流れていく」ようにということをおっしゃっておらるのではないでしょうか。

また

>無我に気づくためには、自分というそのつど反応をよく観察し、検分する。理論的説明だけではなく、戒定慧をはじめ、さまざまな具体的な方法を、釈尊は残してくださったと思っています。

このことにつきましてもひばり様は、「無我に気づくも気づかないもない」とおっしゃっていられますように、そしてそれが「お釈迦様のご本意ではないか」とおっしゃっておられるように思います。
それはこれまでに拝見させていただきましたひばり様のご意見から、ひばり様は大変「言葉の限界」を感じられ、何かを言葉に表そうとすると、それを

「そのままには(これを「如実」とか言いましたかしら)一つの言葉で表わしきれない、幾つかの言葉を必要としますけれども、私どもはその内の一つに執着してしまう」

とお考えのように思いますが。

何も意見がましいことを述べたりしないで、「影のファン」でいたいと思っておりましたけれども、ひばり様の次のご意見が待ち遠しく、このようなメールをお送りしまして  ごめんなさい。

                      ゆかり


ゆかりさんへの返事 2004,4,8,

拝啓

 メール頂戴致しました。

 ひばりさんからの「修行について」のメールは頂戴しております。実は掲載すべきか随分悩んでおります。

  これまで、頂いたメールをすべて掲載してきたわけではありませんが、掲載不可と仰らない限り、原則的には公開してきました。そして、頂いたメールへの返事という形で私の考えを書いてきました。おそらくその結果だと思うのですが、どこでどのテーマが扱われているのか、大変分かりにくいサイトになってきていると感じます。そのせいか、最近は、既に取り上げられたテーマに、それを踏まえた形ではなく、再度同様の視点から御意見をいただくことがよくあり、それが特に顕著になってきました。
 このような状況で、今後も引き続き同様に掲載していくと、サイトがさらに収拾のつかない、わかりづらいものになってしまい、益々混乱させてしまうのではないかと危惧しております。
 新しい視点や問題提起、発見の契機になったものについては、今後もどしどし紹介していきますが、そうでないものは、サイトの構成を複雑にしないために、掲載を控えようかと考え始めております。まだ検討中で最終決定ではありませんが、、。
 頂いたメールには、掲載しない場合でも、これまでどおりなるべく返事を書かせていただくつもりです。そして、なにか思うことがあれば、メールへの返事としてではなく小論集のページなどで、細切れのかたちではなくなるべく大きくテーマを捉えてまとまった形で、考えを書こうと思います。そのようにすれば、それまでの経緯が多少は分かりやすくなり、それに対する批判を頂くとか、過去を踏まえた形でより建設的な議論ができるのではと期待しております。

【2004、4、13、加筆】
 ずいぶん悩んだが、結局「意見交換」のページの運営方針について、当面大幅な変更はしないことにした。とはいえ、必ずしもなんでもすべて掲載するという訳ではない。その点もこれまでどおりだ。様々な事情(私の個人的事情を含む)で掲載できない場合もある。御容赦を。
 3月にはひばりさん以外の方からもたくさんメールを頂戴しました。同様の理由でホームページに掲載していないメールもありますし、逆に掲載の許可を頂けなかった方もいらっしゃいます。それらの多くには、根底に合い通じる傾向があるように感じました。それについては、上のような仕方で小論集で取り上げるつもりでおります。

 御期待を裏切ってすみません。御心配をおかけして申し訳ありませんでした。根本の原因は、私のホームページがどこでなにを扱ったか分かりづらいためだと思います。抜本的改善は難しいかもしれませんが、上記の方法などなるべくの努力をいたしますので御了承下さい。

 もし差し支えなければ、ゆかりさんのメールアドレスを、頂いたメール共々ひばりさんに転送し、「修行について」のメールをゆかりさん宛再送して頂くようお願いしますが、如何でしょうか?
 ひばりさんの御意見をもっと読みたいとお望みなら、ホームページを開くようひばりさんにお願いされれば宜しいのではないかと思います。

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 最後に御質問について簡単に御返答致します。

 私の申し上げたかったことは、「どのようにして桜の花びら・枯葉になれるのか」という疑問です。「桜の花びら・枯葉でいよう」としても、それだけでは、例えば満員電車で突き飛ばされたりしたら、相変らずむっとするのではないでしょうか? 人の執着は実に根深く、「執着をなくそう」と思うだけではなくせません。そのための理論と修行方法の想像を超えた精緻な体系が釈尊の教えだと思っております。我々は、もっと釈尊に学ぶべきだと思います。
 また、桜の花びら・枯葉(流れに身を任す受動的あり方)では、ホームで転んだ人を助け起こす(働きかける)こともできません。釈尊の教えは、執着に導かれたものの見方・反応を止めるが故に、状況への正しい(自他の苦を抜く)冷静で合理的な対応を可能にするものだと思っています。

 言葉につきましては、その限界は重々承知しているつもりです。ですが、それでもなお、言葉は非常に強力な道具でもあります。うまく使いこなせば大きな働きをしてくれます。まして、我々は今メールという手段で、言葉だけでコミュニケートしているのです。苟しくも言葉を発するのであれば、言葉の限界を意識しつつ、なんとか誤解を生まず思うところが伝えられるように努力し、相手から頂いた言葉をおろそかにせずできるかぎり正しく受け止めるよう努めるべきだと思います。

 今後とも宜しくお願い致します。
                             敬具
ゆかり様
     2004、3、8、(4月の間違いです)
                          曽我逸郎


ゆかりさんから再び 「どこかおかしい !!」 2004,4,8,

ゆかりです。
メール拝見させていただきました。そして貴方様は、少々おかしいと感じてしまいます。
それは「目的と手段」を、曽我様は取り違えていられるみたいです。
曽我様は、何を目的にHPを開かれたのですか。私の感じでは、「お釈迦様」のように大悟したいのが目的ではなかったでしょうか。しかし貴方様はそのことに一生懸命になっておらず、むしろ「お釈迦様の言動の分析」をなさっておられるばかりではないでしょうか。そしてお釈迦様の残されたお言葉を細分化し、それを弄り回して学問化しておられるみたいです。
このように目的を頬って置いて、良いものでしょうか。学門化したものは学問的「知識」でしかありえないと思います。
大切なのは「実践」ではないでしょうか。
私には、お釈迦様は「悟り」によって「智慧」が生まれ、それを言葉で述べたものが「説法」でしょうと思います。曽我様はこれを逆に辿ろうとしているみたいです。
その為に寄せられたメールに対して「学問的」なご意見を述べられますために、貴方様自身が迷路に嵌ったみたいになっているみたいにも思います。

ここで私みたいなものが失礼ですが、頂いたメールは、すべて公開してはどうでしょうか。そして幾つかのテーマ別にディレクトリーリンクを構成し、投稿希望者は、とのディレクトリに書き込むかを曽我様あてのメールで通知して書き込んでもらい、討論すると良いのではないでしょうか。もちろん曽我様も参加して。また他のテーマに自由に出入りしたりして多くの方の意見を聞くのも、楽しいのではないでしょうか。
もっとも「言葉の暴力」の混じったメールは、曽我様の手で止めていただきたいものでございます。

役に立ちますかしら・・・・              ゆかり


ゆかりさんへの返事 2004,4,9,

拝啓

 手厳しい御意見を頂戴致しました。

 若干言い訳させてください。

 「実践」は、実は私なりに細々とではありますが、やっております。

 ゆかりさんは、ともかく実践してまず悟れと仰っているように感じます。でも、私は、お釈迦様の教えに学ぶことなしに(つまり、自分だけで)、苦を滅する自信はありません。ですから、お釈迦様の残してくださった方法はおそらくこうであろうというものを、自分の身において試しています。

 「月と指」の比喩で説明します。「月」とは言葉で説明するのが難しい重要ななにかで、「指」はそれをなんとか教えようとする説明です。「指を見るな、指が示す先、すなわち月を見よ」 この教訓が言わんとすることは、「言葉の説明にばかりに拘泥せず実践修行をせよ」ということでありましょう。まさにゆかりさんのおっしゃっていることだと思います。

 「月と指」の比喩は、一瞬ナルホドと思わせますが、実は危険が潜んでいます。今の時代、実にたくさんの指が立っていて、ばらばらの方向を指している。月を指しているのもあるでしょうが、いかがわしいネオンを指しているのも、危ない紫外線の殺虫燈を指しているのもあります。まずどの指が正しい指か確かめないと、無益な努力をすることになります。それで済めばまだしも、安易に修行に走った結果、人と自分に災いを創る場合さえめずらしくありません。ゆかりさんも御存知のとおりです。

 私のホームページは、言ってみれば、指を検証する場です。指、すなわち、言葉の説明が間違っていないか、矛盾がないか、苦の滅に実効性がありそうか。
 釈尊の教えは、言葉だけで分かることはけしてあり得ないけれど、かといって言葉・論理に矛盾するものでもない。言葉・論理の検証にも耐えないものが、釈尊の教えであるはずはありません。

 そのようにして指を篩にかけて、おそらくこれが正しい指だ、となれば、そこから先はホームページの守備範囲の外側です。「月」は言葉の届かぬ先、ひとりひとりが<黙って>修行実践する他ありません。

 私の仏教理解の仮説、無常=無我=縁起に整合する修行実践は、定における自己観察、ヴィパッサナーが最も可能性が高いと思い、自分なりに研究を始めています。そこで起こったことは公開するような性質のものでもありませんし、第一まだこれというほどの成果はありません。ホームページではあまり触れるべきではないと思っています。要は、守備範囲外ということです。

 テーマ別ディレクトリーリンクは、ゆかりさんが立ち上げてくだされば嬉しいです。私も時々覗かせて頂きます。

 ところで、ゆかりさんのメールアドレスをひばりさんにお知らせして、修行についてのメールを再送してもらう件、どう致しましょうか。プライバシーにかかわることですので、御指示を待って動きたいと存じます。

                                  敬具
ゆかり様
      2004、4、9、                    曽我逸郎

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 (ひばりさんからの御意見は、結局このメールの次に掲載しています。)

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