安部さんより 無我を主張することは論理的な矛盾 2003,3,1,

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曽我様へ

無我についてのご説明ありがとうございます。

一部納得、一部未納得です。(私も結構しつこいです。ご容赦ください。)

>・・・現代の我々も、自分があると考えています。無意識の内に、自分は変わることのない一貫した独立自存の存在だと考えています。
>我々には、アートマンなどない。しかし、・・・時間の中で現象しているのです。<までについて

私たちが、日常的に、「自分」という概念で考えているのは、恒常的な、独立自存の存在ではないと思います。
小学校の時の自分と今の自分は違うし、昨日の自分と今日の自分も多少は変化している。日々変化はしているけれども、(いつかは、死んで消滅することも知っています)昨日の自分と今日の自分には、変化を貫いた、ある種の一貫性が感じられます。記憶に支えられたこの一貫性によって、「自分」を存在として捉えているのだと思います。
そして、変化はするけれども、同一の自分である、という意識がなければ、社会生活も侭ならないでしょう。自己の同一性が確保されることによって、昨日の世界と今日の世界の同一性も確保されるのです。そうでなければ、毎朝目が覚める度に、見知らぬ人(家族)に出会うことになってしまいます。
変化しつつも同一である「自己」は、社会生活上、どうしても確保されなければならないのです。
自我は、恒常不変でもなく、独立自存でもないけれど、変化を貫く一貫性として存在している、と考えるのが日常的な態度ではないでしょうか。そして、このことを否定してしまったら、社会生活も営めなくなり、動物のようになってしまうのではないか。

>この「そのつどの対応」こそが私であり、それ以外にはいかなる「私」もありません。

おっしゃりたいことも分かるような気もするのですが・・・
「私」と言うからには、短くてもいいから、ある程度の記憶に支えられた、意識の同一性が必要なのではないでしょうか。記憶に支えられた一貫性のない、「そのつどの対応」をする意識は、もはや「私」と呼ぶこともできない、「何か」、でしかないのでは?

無我は確かに事実かもしれません。自我は、思考が作り出した、または、生命体が自己保存と増殖のために作り出した、幻想かもしれません。しかし、だからと言って、自我を否定してしまったら、いったい何が残るのか。それはある種、生きることの否定ではないのか。

いやいや。無我になるのではなく、無我を知ることが大切なのだ。と言うかもしれません。
しかし、その場合、無我を知るのは誰なのでしょうか。
無我を知るのは、ある程度の記憶と、同一性を持った、「私」=「自我」でなければならないのではないでしょうか。
『「無我」を知る「自我」』=「もう一人の自分」、を否定してしまったら、「無我」を知ることもできなくなるでしょう。
無我を知ることが重要である、とするならば、その無我を知るのは誰なのか、「私」なのか、それとも「私」ともいえない「何か」なのか、ということも明らかにされなければならないと思うのですが。

曽我さんは、今回の小論文の後半の方で、「自覚的」という言葉を何回か使っておられます。
私の読む限りでは、この「自覚的」という言葉は、かなり重要なキーワードとして使われているように思います。
「自覚的」という言葉には、「観察者としての自己」、私的に言えば「もう一人の自分」という意味合いが含まれているように感じるのですが。いかがでしょうか。
自覚的になる、ということは、前自覚的なノエシスの働きを、ノエマ化することであり、そのノエマ化された事象を認識するのは、認識主体としての「自我」でなければならない。

まとめとして
私たちは無我になることはできない。(もしそうなったら、生命の維持すらむずかしい)
私たちは無我を知ることはできる。(しかしその場合は、無我を知る「自我」が必要となる)
無我を認識するためには、何らかの意味での自我(ある程度の記憶の働きによって自己同一性を確保している自我)が必要である。自我なしに、私たちは、何事も認識することはできない。
無我を主張する人は、必然的に、自己矛盾に陥る。なぜなら、無我を認識し、「無我である」と主張するのは、何らかの意味での「自我」でなければならないからだ。

よって、無我を主張することは、論理的な矛盾である。

無我を主張する者は、そのように主張する、自らの基盤を、自ら否定していることになる。
例えて言うなら、砂山の上に立っている人が、自らの足元の砂を掘り崩しながら、これは砂山に過ぎない、と主張しているようなものである。そのように主張しながら彼は、砂の中に沈んでいくのである。

だから、このように言い換えるべきではないか。つまり、
「今、あなたが、自分だと思っているものは、ある種の幻想である。そのことに気が付く(自覚する)ことによって、より高次元の自我に目覚めるべきだ。」と。

曽我さんの論旨には、かなり共感する部分もあるのですが、受け入れ難い面もあり、あえて挑戦的な意見を述べさせていただきました。
どうか、気を悪くなさらず、お返事頂ければ幸いです。
敬具
2003.3.1
安部


安部さんへの返事  2003,3,5,

拝啓

 メール頂戴致しました。

 私としましては、執着や苦の根拠を考えるために、「日常的な態度」に潜む問題点を探っているつもりなのですが、、。「日常的な態度」を問うのに「日常的な態度」を判定基準にしたのでは、物差しの目盛が正しいかどうかその物差しで測っているようなものではないでしょうか?

 今回は、謎かけのような形でお返事させて頂きます。上記の視点でもう一度考えてみて頂ければ幸甚です。

1) 「いつかは、死んで消滅することも知っている」と書いておられますが、最初に頂いた12月のメールでは、「子どもの死も自分の死も受け入れ難い」と書いておられました。今もそれは変わっておられないと思います。これは安部さんだけではなく、我々みんなに共通する「日常的な態度」です。では、我々は、「日常的なあり方」において自分が死ぬ事を《本当に》知っているのでしょうか?

2) 「そのつどの対応」には「変化しながらのある種の一貫性」があります。私は、一貫性のしくみについても触れているつもりですが、、。

3) 私たちが無我を知ろうが知るまいが、私たちは最初から最期までずっと無我です。

4) 無我の教えは、「自我というしくみを破壊せよ」という教えではありません。「自我という働きなどない」と主張するものでもありません。自我は、「私というそのつどの対応」の様々な対応の内のひとつです。「認識主体としての自我」を実体視して妄想する事は間違いであると、無我の教えは教えます。

5)「自我の否定は生きることの否定」と書いておられますが、例えば大腸菌は自我という働きがないけれど生きています。ですから、安部さんのおっしゃろうとした事は、「自我の否定は人間性の否定」ということではないでしょうか? だとすればこれは卓見です。自我があると考えるのは人間だけであり、それゆえに人間だけが執着します。無我=縁起の教えは、自我という対応を対応として残しつつ、自我を実体視する事を否定し、執着という対応をなくすのです。

 以上、敢えて少し不親切な書き方をしてみました。

 ご批判をお待ちしております。
                            敬具
安部様
            2003,3,5,        曽我逸郎


再び安部さんへ  2003,3,13,

拝啓

 前回は不親切なメールをお送りして失礼をいたしました。

 今回はもう少し丁寧な説明を試みます。

 ***

 「あたりまえ般若」で“ろうそくの比喩”を書きました。風のないところで燃えるろうそくの炎は、揺らぎもせず、じっと同じ姿で静かに燃えつづける。でも、それは、炎という実体があるわけではなくて、気化したろうが、瞬間瞬間次々と(そのつど)燃えている酸化反応(=現象)の姿です。無我なる縁起の「そのつどの」現象である炎が、外見上同じ姿で燃えつづけるという「一貫性」は、芯の太さや材質やろうの性質や部屋の酸素の量などに依存してしばらく維持されます。勿論、芯もろうそく本体も、無我なる縁起の現象ですから、常に様々な縁を受けており、なによりも燃えるという現象の縁によって、常に変化しています。
 別の比喩をあげるなら、季節はずれですが、台風もそうでしょう。台風**号と呼ばれる「一貫性」を保持しつつ、南の海からはるばるやってきますが、そこに台風自体というような実体があるわけでも、それが移動して来るわけでもありません。

 もうひとつ、やや異なる例を。嵐の夜、雷が落ちます。闇を切り裂いて、何度も稲妻が走ります。1回毎の雷は、一瞬で終わりますが、繰り返す雷は、同じパターンを持った同類の現象だと言えます。考えてみれば、ろうそくの炎にしても、よく見れば、ひとつひとつの気化したろうの分子(?)が燃えているわけで、炎は無数のちいさな現象の寄り集まりと見ることもできます。

 私は、ノエマ自己は、稲光のような現象だと思います。よく見ればそのつどそのつど起こっている別々の現象なのだけれど、同類の現象ではあり、そこ(自分)に注意を向ければそのつどそこに立ち現れる現象であるが故に、注意を向けていないときも一貫してそこにある実体であると妄想してしまう。

 少し先走りました。また、別の比喩を。
 北アフリカなどの乾燥地帯には、ワジと呼ばれる涸川があり、雨の降ったときだけ水が流れるのだそうです。脳は、ある面だけ取り出せば、無数のワジの走る大地のようであると思います。東に降った雨は北に流れ、南に降った雨は西に流れる。北に降った雨は、南に流れて西へ向きを変える。
 水が流れる度に岸や底の砂が運ばれ、ワジは、少しずつ形を変えます。時には土手が決壊して流れが大きく変わることもあります。水が長らく流れないために砂に埋まるワジもあります。そうした変化をしながらも、大まかに見れば、ワジは、「そのつどの」水の流れにある種の「一貫性」を与えているのです。
 脳のある部分をあるパターンで信号が走れば、腹が減り、別の部分に別のパターンで流れれば慌てふためき、あるいはまたはしゃいだり、自分を見つめたりするのです。ノエマ自己も、広大な脳の荒野のある場所の特定のワジ群に特定のパターンで水(信号)が走った時に起こる現象だと考えます。確固たる主体の自分が実在すると考えたり、我執を起こすのも、特定のワジ群に特定のパターンで信号が流れた時に起こるのです。

 勿論、脳の神経回路が砂漠のワジほど単純なわけではありません。信号の流れは、無数に枝分かれし、幾重にもループ構造を形成し、小論に書いたような沢山の「内部の縁のしくみ」が入れ子状態で畳み込まれています。そのあたりは小論で述べましたので、今回は、「内部の縁のしくみによる外部の縁へのそのつどの対応」である我々が、一定の一貫性を持つしくみに焦点をおいて、私見を述べました。

 ***

 そのつど性と一貫性については以上のとおりですが、ついでに記憶についても触れておきます。記憶には過去の事実の保存といいたくなる面もありますが、厳密に言うと、記憶もやはり、そのつど・この今における対応ではないでしょうか?
 ある高校生が、小学生時代の自分を振り返ったとします。「ゲームも買ってくれないケチな親に、あーしろ、こーしろといつも口うるさく言われていた可哀相な子どもだったよ。」 その高校生が大人になって、こんなふうに思い出すこともあるでしょう。「私の親は、いろいろといつも私を心配してくれていたのに、私は我侭ばかり言う悪い子どもだったなぁ。」
 深く愛し合っていた恋人が、やがて憎しみ合うようになったら、二人の過去がすっかり違う物語になってしまった、という事も世間ではしばしばあることのようです。
 つまり、記憶は、過去の事実の「一貫した」保存ではなく、この今において「そのつど」紡ぎ出される、整合性と「一貫性」のある物語なのです。
 「そんな事を言い出すと、裁判の証言も信用できなくなってしまう」 まさにそのとおり。裁判官の方々は記憶のこの性質に配慮していただく必要があると思います。わざと嘘をついているのでなくても、その人の今の記憶は、今のその人にとって整合性があり一貫性がある<新しい>記憶なのです。
 オウムの信者が証言しても、オウムの信者であるうちはオウムの信者としての記憶を証言し、オウムの信者でなくなれば、違う過去を証言するのです。

【ホームページ掲出にあたって追加説明 2003,3,17,】
 大きな病気・怪我をしたとか、引っ越したというような、無視しがたい重大な過去は、勿論記憶に保持される。しかし、記憶は、単なる過去の事実の保存ではなく、思い出す時点でのその人のものの見方・価値観を色濃く反映している。人は、そのつど、その時の価値観にかなった事だけを思い出し、反する事は無視して忘れ、無視しがたい重大な事実とは矛盾しない過去の物語を整合性ある形で創り上げる。記憶は、過去からやってくるのではなく、そのつど、この今から、過去へとさかのぼって紡ぎ出されるのである。そのつどの記憶においては、整合性があり、そこに登場する自己には一貫性があるが、別の時点の記憶と対照すれば、整合性や一貫性は、必ずしもない。(極端な例は、多重人格)
 そのつど一貫性のある自己を紡ぎ出すという記憶の性質が、自存的自己主宰者(アートマン)を妄想することに与っていると考えられる。

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                             敬具
安部様
                 2003,3,13,     曽我逸郎

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